☭8」─1─バルチック艦隊を撃滅した海洋戦略思想は水戸学の『新論』にあった。幕府海軍。本土決戦思想。~No.20No.21No.22 * ⑦ 

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 攘夷の主敵はロシアであった。
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 2018年2月号 新潮45「水戸学の世界地図 片山杜秀
 31 天皇と船大工
 ロシア皇帝が船大工に身をやつす。オペラの元ネタは史実だった。『文明開化』の悲喜劇。
 『ドイツ語の職人』のオペラ
 『ロシア皇帝と船大工』という名のオペラがある。1837年にライプツィヒで初演された。とても楽しいものである。喜歌劇に分類される。作曲したのはアルベルト・ロルツィング。1801年にベルリンで生まれた。シューベルトより4つ年下、ベルリオーズより2つ年上になる、ナポレオン戦争の終わりが少年期に当たる世代だ。
 ……
 このフリーメイソンの組織は、時代が下がるにつれて変質した。ヨーロッパで、封建諸侯の領土の境界・国境・言語圏の壁を越えて活躍するが、特殊かつ高度な技能をもった職人だけではなく、経済や学問や文化芸術に関わる人々にとっても当たり前になってくると、彼らにも国の枠組みとは別のセーフティー・ネットが必要になってくる。その役割を担ったひとつがフリーメイソンだったと考えることができる。あちこちを渡り歩く俳優で演出家で歌手で作曲家のロルツィングは、フリーメイソンのメンバーになることで何らかの安心を物心両面で得ていたに違いない。
 フリーメイソンの起源は、繰り返せば石工である。職人のメソッドやスキルに象徴される、科学技術や文化芸術の国境を越えて共有されてゆくわざ。それに自分たちが支えられ、そのわざを人類愛的な理想を持って広めるのが自分たちの使命だと考えることに、フリーメイソンの思想の根幹があるだろう。それを確認しようと思ったら、職人讃美という主題に行き着く。そこにロルツィングの思想がある。
 だが『ロシア皇帝が船大工』に関していうと、それだけではない。職人讃美のための作り話だとしたら、あまりにも不自然すぎる。なぜロシア皇帝ともあろう人物が遠い異国で一介の労働者になっているのか。
 ロシア史に明るい方には改めて申すまでもない。物語の土台には実話がある。ロシアの脱走兵と市長の娘の恋物語は作り話にしても、ロシア皇帝がザールダムならぬオランダのアムステルダムで船の建造を自ら手掛けたことは本当にあった。ロシア皇帝が船大工だった。しかも帝位に就く前の下積み時代とかの話ではない。豊臣秀吉のように草履取りが太閤殿下になった話ではない。皇帝が身分を隠して船大工をしていた。史実とされている。
 その皇帝とは、ロマノフ王朝ピョートル大帝ことピョートル1世(1672〜1725年)である。ローマ帝国カエサルを語源とするツァーを16世紀にイワン雷帝が名乗って以来、ロシアはヨーロッパ東方の強国として躍進を続けていた。しかし、西欧・中欧諸国に比べれば、政治の仕組みも経済の程度も科学技術も、まだまだ遙かに劣っていた。ピョートル1世は遅れを一気に挽回したかった。ロシア帝国を西方と肩を並べる大国へと促成したかった。そのために大胆な開明路線をとった。
 まさにロシア帝国の『文明開化』である。その象徴が大使節団の派遣だった。ピョートル1世は1697年3月から翌8月までの1年半ものあいだ、約250名に及ぶ使節団を西欧・中欧に派遣した。オランダ、イギリス、プロイセンザクセンハプスブルク帝国などを歴訪させた。種々の外交交渉のためでもあるが、何よりまずは西方諸国の制度や科学技術を学ばせることに主眼があった。一行がいちばん長く居たのはオランダである。4ヵ月以上も滞在していた。
 岩倉使節団と『文明開化』
 日本人ならこの話を聞いて思い出すことがあろう。いわゆる岩倉使節団である。1871(明治4)年の暮れから翌々年の秋までの2年近くものあいだ、岩倉具視を正使とする100名以上の大使節団が欧米を回った。メンバーは岩倉のほか、木戸孝允大久保利通由利公正山田顕義田中光顕、佐佐木高行、金子堅太郎、牧野伸顕中江兆民等々。当時の新政府の指導者や後世の要人ばかりと称しても過言ではない。
 いちばん長く滞在したのはアメリカで8ヵ月。イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、オーストリア、スイス、ロシアなどにも行っている。この岩倉使節団は身も蓋もない言い方をすると『174年遅れのピョートル大帝使節団』であろう。これほどの大物たちが国を留守にして大丈夫かと心配になるくらいの、大胆な規模と期間に及ぶ洋行。それを以て『文明開化』の礎にする。ロシアの真似としか言いようがあるまい。
 だが、日本がロシアほど大胆でなかったところがある。『ロシア皇帝と船大工』は実話を基にしていると述べた。ピョートル・ミハイロフという偽名を使って。『ロシア皇帝と船大工』でロシア皇帝の変名がペーター・ミヒャエロフなのは、この史実に由来する。なぜ皇帝が偽名を使ったかといえば、皇帝本人は本国にとどまっていると敵対勢力に対して偽装しようとしたからである。方便であり策略である。岩倉使節団明治天皇が公家か士族を名乗って紛れ込んでいたようなものだ。維新政府がそこまでやったことにすれば、小説や漫画やオペラが幾らでもできそうだが、ピョートル1世は実際にそれをした。大国の皇帝が18世紀目前に。やはり驚くべき出来事である。
 ピョートル1世の喫緊の課題。それは海軍建設であった。ロシア帝国にはそれなりの軍事力がある。ユーラシア大陸で騎馬を中心とした陸戦の伝統は西方の教えも受けながら築かれている。だが、近代国家として脱皮を遂げるには国富の増進が必要で、そのためには海上貿易が欠かせない。陸路だけでは限界がある。海が必要だ。
 しかるに、バトル海はスウェーデンに、黒海オスマン帝国に押さえられている。そもそもロシアにはまともな海軍が無かった。建軍から始めねばならなかった。ピョートル1世は造船所を作り、軍艦の建造に取り組んだ。でも当然ながら技術がない。イギリスやオランダにも負けない軍艦はどうしたらできるのか。ピョートル1世の大使節団の目標は造船技術の習得だった。だからピョートル1世はピョートル・ミハイロフを名乗ってアムステルダムで船大工をした。現場で働きながら皇帝自ら学んだ。こうしてスウェーデンオスマン帝国に対抗するロシア海軍が促成された。その海軍がそれから1世紀を経ずして極東に出没するようになった。今日の北方領土を巡って悶着が絶えなくなった。
 このロシアの近代軍艦事始をめぐる秘話は、19世紀のはじめには日本で知られていた。会沢正志斎の『新論』にも出てくる。『新論』は1825(文政8)年に仕上げられているから、オペラ『ロシア皇帝と船大工』の初演よりも12年前。ほぼ同時代である。偶然でもあるまい。ロシアの海軍力への関心が、ロシアの西でも東でも高まっていたということであろ。正志斎は次のようにしたためている。
 『鄂羅(ロシア)の汗(君主)、伯得勤(ペトル=ピョートル)なる者、かつて徴服して船匠となり、間行して荷蘭(オランダ)に到り、大船を造ることを習ふ。鄂羅のよく大舶を用ひ、航海術に精しきは、蓋しこれを始めとなす。実に元禄年間のことなりと云う。虜情の心を用ふることなほかくのごとし。況や中国にして返つて自ら捨ててなさざらんや』
 『徴服して船匠となり』とは『身分を隠して造船技術者となり』の意。『間行して』とは『伴も連れずに平民を装って』の意。ピョートル大帝の大使節団は元禄10年把握も正確である。元は建艦技術をもったく持たなかったロシアが、そう長い時間をかけずに優れた海軍を建設し、中国=皇国=日本を脅かしている。夷狄ですらそこまでやっている。日本も諦めずに粉骨砕身すれば、ロシアに出来ていることがやれないはずはない。ロシア皇帝がやったように、たとえスパイ行為をしてでも異国の科学技術を取り入れれば、短期間に強力な海軍を建設可能と説いている。
 尊皇攘夷の方策として、まずは天皇中心で神道の力により士農工商の人心をまとめ、日本の特別な国体を自覚させて、ナショナリズムを呼び覚まし、贅沢慣れした武士には、愛国心に基づく耐乏生活を求め、それによって武家の経済を切り詰めて、浮いた富で武士階級を増員し、ひいては国民総動員で海岸線防御をはかるべきという。つまりこれは陸軍の話である。海からの侵略を水際で防ぐ話である。
 明治維新後もしばらくのあいだ国防思想の根幹は、日本本土での水際撃滅であった。海沿いに砲台を築き、要塞を建設し、敵を近付けない。明治前期の日本は、もしも清やロシアとの戦争になったら、陸軍を朝鮮半島や中国大陸に送り出して敵地でばかり戦えるとは、必ずしも思っていなかった。国力に劣る日本としては、向こうからやってくる敵を自国で退けるしか手はあるまい。近代初期の日本の国防は、江戸時代の鎖国海防論の延長線上に構築された。要するに本土決戦の思想である。その名残りとして、東京湾舞鶴対馬をはじめとする全国各地の要塞は第二次世界大戦の終わりまで機能し、敗戦間際まで米軍上陸に備えていた。
 だが正志斎は、1820年代の段階で既に、陸上戦力に頼った海防を上策とは考えていなかった。西洋の軍艦の能力が向上した今となっては、いざというとき敵は日本の至るところを砲撃し、至るところから上陸してくると思わねばならない。1820年代まで、いや、その後も幕府や諸藩の海防論の主流は砲台建設や水際撃滅だったが、正志斎はそれでは無理があると考える。日本中の海岸線に屯田兵を張り付けての国防が現時点で可能な策には違いない。が、やはり海防には大砲が必要であり、大砲の移動は容易でない。日本沿海を自由に動き回る西洋の巨艦に対し、幾ら大砲を並べても追いつかない。
 したがって陸上から海岸防備は当座の策であり、可及的速やかに、国家何十年かの計をもってロシアやイギリスに負けない海軍を有さねばならない。そして先手を打つ。日本に近付いてくる敵海軍をなるたけ遠方で捕捉して撃滅する。これがいちばん効率的であり安全である。専守防衛は突き詰めると長躯しての予防攻撃になる。先制攻撃が必要なのだ。それを可能にするのは海軍力である。そこで『新論』はピョートル大帝のエピソードを強調する。
 大帝はロシア海軍建設に必要な技術をどこから導入したか。オランダではないか。鎖国日本が長崎で交際している唯一の西洋国である。鎖国を守りながら西洋の技術を学び、強力な艦隊を揃えるというのは決して夢物語ではあるまい。ロシア皇帝が船匠になったのなら、日本の天皇や将軍が同様の覚悟をもてば必ず海国日本に相応しい海軍を有しうる。
 そこまで行けば、日本は、世界に冠たる天皇の国、真の中国としての性質を発揮して、日本に邪心を持つすべての国を屈服させられるだろう。真の尊皇攘夷鎖国海防ではない。皇国に無断で近付く敵艦を一隻も出さないために、強力な皇国海軍によって先手必勝で世界の制海権を獲得することである。かくして尊皇攘夷の目標は、海上決戦の勝利による世界制覇へと一挙に飛躍する」
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 イスラム教のムガル帝国がなぜいとも簡単に滅亡し、ムガル帝室がどうしてインド人らから見捨てられて悲惨な末路を辿って消滅したのか。
 日本が研究すべきは、清国衰退ではなくムガル帝国滅亡の方である。
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 ロシアの日本侵略という脅威は、1700年代後半の田沼意次時代からすでに存在していた。
 林子平や工藤平助ら西洋事情・ロシア事情に詳しかった知識人達は、母国の危機を訴え、海防強化を幕府に求めていた。
 愛国心と尊皇の志を持った市井の臣らは、ロシア人を「赤蝦夷」と読んでいた。
 市井の臣とは、武士・サムライだけではなく、百姓や町人などの庶民や非人・エタ・散所などの賤民や山の民・川の民・海の民達にも数多く存在していた。
 勤皇や尊皇の志が強かったのは、武士や庶民(百姓や町人)ではなく、差別され虐げられていた非人・エタ・散所などの賤民や山の民・川の民・海の民などの極貧の部落民であった。
 賤民・部落民は、江戸時代、明治後期から昭和初期、昭和中期以降では全く異なる日本人である。
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 田沼意次は、「禍転じて福となす」として、幕府財政赤字を解消する為に開国してロシアとの交易を始めるべく蝦夷地・樺太北方領土探索の調査団を派遣した。
 その中に、出羽国村山郡楯岡村(現在の山形県村山市楯岡)の貧しい百姓の子・最上徳内が下人扱いの小者として参加していた。
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 身分が低い庶民でも、才能があり努力する者には武士になる道はあり、さらに滅私奉公で忠勤に励む者は成り上がり、勘定奉行町奉行遠国奉行などに昇進した。
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 武士の宮仕えは、極端最悪なブラック職場で、気力と体力がなければ務まらず、図太く・図々しく・強靭な精神力がないと生きられなかった。
 賄賂を拒否するような清廉潔白を貫く者は、空気を読まない協調性に欠ける偏屈者として武士社会から締め出された。
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 1772(安永元)年 田沼意次は軽輩の身分から成り上がって老中に就任した。
 1781(天明年)年 工藤平助は『赤蝦夷風説考』を刊行して警鐘を鳴らした。
 1791(寛政3)年 林子平は『海国兵談』を刊行して対ロシア兵備の急務を訴えた。
 松平定信は、国法の鎖国策を守るべく田沼意次蝦夷地開発及びロシアとの交易を潰し、林子平を御上・御公儀の政に口出す不届き者として罰し『海国兵談』を禁書として絶版させ、ロシアの脅威を世間から隠した。
 1807年5月30日(文化4年4月23日)〜1807年6月6日(文化4年5月1日) 文化露寇事件。(シャナ事件・北辺紛争・フヴォストフ事件)。
 幕府は、松前蝦夷地・樺太北方領土すべてを直轄する松前奉行所を新設し、南部・津軽・秋田など東北諸藩に警備の派兵を命じた。
 12月 幕府は、ロシア船打払令を発布して、幕府軍の増強を謀った。
 津軽藩士殉難事件。フヴォストフは、津軽藩士を殺害した。
 1808年 幕府は、蝦夷地・北方領土樺太防衛強化の為に奥羽諸藩に更なる兵隊の増派を命じた。合計兵力、約4,000人。
 皇帝アレクサンドル1世は、ロシア海軍の日本領北方領土への暴挙を聞くや全軍撤収命令を下し、フヴォストフは処罰された。 
 1839年 蛮社の獄水野忠邦は、ロシアの侵略ヘの防備強化より幕藩の権威を維持を最優先として洋学・蘭学を禁止する言論弾圧を行った。
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 水戸学は、皇室と神道邪教キリスト教から護り、神国日本を海軍力で夷敵・ロシアの侵略を守る為に、啓蒙書「新論」を発表した。
 後の、吉田松陰尊皇攘夷派・勤皇の志士に母国防衛・皇室守護の武力的献策を残した。
 吉田松陰が、「朝鮮や清国を攻めて領土とすべし」と高杉晋作山県有朋伊藤博文らに説いたのは、ロシアの侵略から母国日本と天皇家・皇室を守る積極的国防策であった。
 勝海舟西郷隆盛らが目指した、日本・清国・朝鮮の攻守軍事同盟も対ロシア戦略であった。
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 ロシアが、本気で日本を侵略しようとしていたかは分からない。
 だが、市井の知識人は、西洋勢力近代化(キリスト教化)の大義でアジアやアフリカを侵略し植民地を拡大し原住民を奴隷としている事を知っていた為に、ロシアの日本接近を侵略と認識した。
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 現代のグローバルな日本人と当時のローカルな日本人は、世界情勢に対する認識と母国存亡への覚悟からして別人の日本人である。
 現代日本人が、世界をよく知っていて賢く優れているわけではない。
 当時の日本人が、世界を知らず馬鹿で愚かであったわくではない。 
 当時の日本人は、世界の情勢から目を逸らした「井の中の蛙」ではなかった事だけは確かである。
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 幕府海軍は、江戸幕府が設置した、海上戦闘を任務とした西洋式軍備の海軍である。長州征討などで活動し、慶応3年(1867年)10月14日の大政奉還で幕府が消滅し、明治元年(1868年)4月11日の江戸開城後も戊辰戦争において榎本武揚に率いられ戦闘を続けた。
 沿革
 中近世的水軍と沿岸警備
 江戸幕府には、もともと、戦国大名時代に徳川氏の傘下に入った海賊衆を起源として、船手頭に率いられた水軍が設置されていた。しかし実戦参加は大坂の陣が最後であり、1635年(寛永12年)の武家諸法度の改正による大船建造の禁の発効によって外洋行動能力を喪失した。近世後期の段階では実効的な戦闘能力を失い、実質的には水上警察となっていた。中小の関船や小早が主力となっており、最大の軍船である関船「天地丸」(76挺艪)も、将軍の御座船として華麗な姿ではあったが、軍艦としての実用性は失っていた。
 寛政4年(1792年)のアダム・ラクスマンの来航を端緒として外国船の来航が頻繁になると、幕府も、同年にさっそく海岸防禦御用掛を設置したほか、天明5年(1785年)の蝦夷地調査や文化7年(1810年)の会津・白河両藩への江戸内海警備任命など、沿岸警備体制の強化に着手した。また海上戦力の整備も試みられ、嘉永2年(1849年)には、東京湾海上警備を担当する浦賀奉行所用としてスループ系統の和洋折衷船「蒼隼丸」が竣工、続いて同型船も建造された]。しかしこれらも沿岸警備の延長線上であり、近代海軍の創設というよりは、中近世的な水軍の強化というべき施策であった。
 このためもあり、嘉永6年(1853年)の黒船来航に際して、御船手や諸藩、浦賀奉行所の軍船の任務は偵察・伝令などに限定され、戦闘的な役割は付与されなかった。
 洋式船の導入と海軍伝習
 嘉永6年(1853年)の黒船来航直後より、急激な海軍力の整備が開始された。ペリー艦隊の浦賀退去からわずか1週間後の6月19日にはオランダからの艦船輸入が決定され、8月8日には西洋式軍備の導入に先進的だった水戸藩に旭日丸建造の内命を下し、9月5日には浦賀奉行鳳凰丸の建造を命じた。そして9月15日には「大船建造禁令」が解除され、諸藩でも軍艦建造への道が開かれた。
 オランダ商館長ヤン・ドンケル・クルティウス(後の初代駐日オランダ理事官)は、長崎奉行水野忠徳からの帆走フリゲートと蒸気コルベット各1隻の建造照会を受けて、オランダ領東インドに配備されていた蒸気機関搭載の植民地警備艦「スンビン」を日本に召致して展示することにより、建造注文と要員養成の教育委託をすることを提案した。「スンビン」は嘉永7年(1854年)8月に長崎に入港し、同地の警備を担当する佐賀藩鍋島直正の視察を受けた際に譲渡の希望を受けた。クルティウスは「将来の多数の受注のためにはまず1隻を献上するのが得策である」と本国政府に上申した。
 これを受けて、同艦はオランダ国王ウィレム3世から13代将軍徳川家定に贈呈されることになり、安政2年(1855年)6月、長崎に再入港した。「観光丸」と改称された同艦を練習艦とし、オランダ海軍から派遣されたライケン大尉以下22名を教官として、長崎海軍伝習所が開設された。オランダからは1857年にも37名の教官団が派遣されており、5年間にわたる伝習期間を通じて、幕府以外にも佐賀・福岡・熊本・薩摩・長州・土佐など諸藩からも伝習員が派遣され、計200名以上が入校した。これにより、幕府海軍の中核を担う士官が多く輩出された。
 また、長崎という遠隔地での伝習による不都合が指摘されたことから、これと並行して、江戸にも海軍教育機関を設置することになり、安政4年(1857年)、永井尚志や矢田堀鴻など第一次伝習生の一部が「観光丸」で江戸に移動し、講武所内に軍艦操練所が開設された。
 安政7年(1860年)、日米修好通商条約の批准書を交換するため、遣米使節団が派遣されることになった際、正使一行はアメリカ軍艦ポーハタン号に乗艦することになっていたが、同艦だけでは使節団の全員を収容できないことから、幕府海軍の練習航海も兼ねて、咸臨丸も派米された。往路の荒天下では、便乗していたジョン・ブルック大尉以下アメリカ海軍軍人が艦の運用のほとんどを代行する状況もあったとはいえ、往復83日間・合計10,775海里 (19,955km)の大航海を一人の死者もなく成功させたほか、アメリカ海軍の実情視察という成果もあった。しかし一方で、航海・運用の技量不足という重大な問題点が顕在化したものの、こちらは当時取り上げられることはなかった[11]。
長崎伝習所は安政6年(1859年)に閉鎖されたが、同年に軍艦奉行の役職が新設され、永井尚志が任命された。
 文久の軍制改革と作戦行動
 文久元年(1861年)5月、軍制改革を推進するため10名の軍制掛が任命された。海軍に関しては軍制掛の1人である軍艦奉行の木村を中心に改革の計画立案が行われた。同年6月、軍艦組が設置され、軍艦頭取に矢田堀鴻、小野友五郎、伴鉄太郎が任命され、後に荒井郁之助、肥田浜五郎、木下謹吾(伊沢謹吾)らが軍艦頭取に加えられた。文久2年(1862年)7月に船手組が、同年8月には小普請組288名が軍艦組に編入された。同年、関船などの在来型軍船は全廃された。
 同年、国産蒸気船「千代田形」の建造を開始。さらに、留学生のオランダ派遣、軍艦の海外発注(アメリカ:「富士山」「東艦」、オランダ:「開陽丸」)を実施した。多数の中古船の輸入も進められた。また大阪湾の防備拠点として神戸に着目する勝の運用構想に伴って、新たな海軍教育機関として、元治元年(1864年)に神戸海軍操練所も開校されたが、これは翌慶応元年(1865年)には閉鎖されてしまった。
 また閏8月、軍艦奉行 木村摂津守により、海軍大拡張計画が提案された。これは日本を6つの警備管区に分けて艦隊を整備するもので、艦船370艘、乗員61,205人と見込まれていた。しかし政事総裁職 松平春嶽は幕府に海軍の権能を集中させる点に反発し、また軍艦奉行勝麟太郎も計画のコストの高さを批判したことから、この計画は採択されず、木村は文久3年(1863年)9月26日に軍艦奉行を辞職した。
 幕府海軍の艦船は、国内での部隊や物資、要人輸送などに活躍した。また水戸浪士による横浜居留地襲撃の噂があったことから、万延元年(1860年)閏3月より、神奈川港において、講武所の剣術・槍術修行人を乗艦させた軍艦2隻による常駐警備が開始されたが、可動艦に余裕がなく、また実際の襲撃が起きなかったこともあり、元治元年(1864年)4月に終了となった。
 その後、同年3月に勃発した天狗党の乱への鎮定に投入されることになり、沖合を偵察する筑波勢の小舟を撃沈したほか、艦砲射撃も実施している。これは日本の近代海軍として初の実戦投入であった。

 初期の掲揚法の「旭日丸」
 初期の幕府海軍艦船は、日本船の総印として日の丸の旗を掲げ、別に幕府所属であることを示すために白紺の吹流しや黒帯の入った旗を用い、さらに帆にも黒帯を染め入れていた。これは、「鳳凰丸」などの整備に伴い、嘉永7年(1854年)に制定された方式である。嘉永6年8月(1853年9月頃)の浦賀奉行からの献策に基づいている。日の丸(朱の丸)は、従来から幕府御用船の標識(海外では国籍旗とみなされる)として用いられてきたものである。他方、白地に黒帯は、徳川氏の祖先とされる新田氏の源氏中黒旗に由来する。
 その後、安政6年(1859年)に掲揚法は改正され、幕府艦船であることを示す標識は、中黒の長旗に変更された。中黒の帆は廃止され、以後は白帆を用いることとされた。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人をキリスト教徒に改宗させ奴隷として世界中で売買し、異教徒の皇室を滅ぼして日本をキリスト教国家・神の王国・地上の天国に生まれ変わらせようとした。
 それが、キリシタンの夢であり偉大な使命であった。
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 日本には、キリスト教マルクス主義特に共産主義も馴染まなかった。
 非人・エタ・散所などの賤民や山の民・川の民・海の民などの部落民は、キリスト教世界の奴隷ではなかったし、儒教世界の家奴でもなかった。つまり人民でも大衆・民衆もなく、庶民の一部であった。
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 明治新政府とは、下級武士や庶民、さらには賤民や部落民が、ロシアの侵略から天皇家と母国日本を守るべく、天皇の伝統的権威を利用して武士の徳川幕府を打倒して樹立した革命政権であった。
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 李氏朝鮮が、文明開化によって近代化した明治新政府を毛嫌いして国交を拒絶したのは、国書に中華皇帝しか使用しない「皇」や「勅」の文字が有ったからではなく、身分卑しい下層民・下郎が叛乱を起こして樹立した不道徳・不義・不忠な逆臣政権だったからである。
 もし、徳川将軍家明治新政府の首班となっていたら、日本と朝鮮と対立・反目は起きず、日本の朝鮮併合も起きなかった。
 李氏朝鮮が日本の正統な統治者として認めていたのは、中華皇帝と対等な位置に存在する日本天皇であり、儒教価値観では国王より下位の位の大君・太守(長官)を称する徳川幕府であった。
 君主の位に過ぎない朝鮮にとって、主君である中華皇帝と同格を主張する日本天皇など認めるわけにはいかなかった。
 朝鮮国王は、中華世界では最下位に近い国王で、琉球国王よりも下座に追いやられていた。
 それは、中華皇帝への貢ぎ物と中華帝国から下賜品を見れば一目瞭然である。
 つまり、貢ぎ物の中に妓生(宮中慰安婦)と宦官(宮中奴隷)が含まれていたかどうかである。
 建国以来中華世界で屈辱を強いられてきた朝鮮にとって、格下の日本、それも下層民が叛乱で樹立した謀反の明治新政府と対等関係の国交など結ぶ気はさらさらなかった。
 あまつさえ、天に唾を吐くような行為、世界で唯一の皇帝である中華皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の神聖な尊き文字を、下賤なお日本が使用する事など認めるわけにはゆかなかった。
 正統派儒教の徒として、朝鮮人の面子が許さなかったのである。
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 日本としては、清国(中国)と朝鮮が、ロシアの日本侵略に直接的間接的に協力するとあれば敵と断定し、正当防衛として自衛戦争を発動し両国を撃滅・粉砕するしかなかった。
 それが、日清戦争であり、日韓併合であった。
 日清戦争日露戦争日韓併合は、ロシアの侵略から日本を守る為の防衛戦争つまり自衛戦争であった。
 日本は、清国(中国)・ロシア帝国に比べれば芥子粒ほどの貧弱国家であり、国力・軍事力・経済力など総合力に於いても吹けば飛ぶような弱小国家で、世界の常識は日本の敗北で一致していた。
 日本の歴史・中華の歴史そして世界の歴史は、日本の自衛戦争を大陸侵略戦争として否定している。
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 日本では、身分・出自に関係なく優秀で努力家には武士身分が与えられ、能力以上の重要な任務が与えられていた。
 武士は、「死を覚悟」して主君・主家に奉仕する者の事である。
 ただし、その地位は不安定で、幕閣内の政権闘争に巻き込まれて左遷されるか分からなかったが、下層身分から成り上がった俄(にわか)武士の大半は公に対する使命感に燃え信じる任務を、腐る事なく忠実に果たしていた。
 最悪は、上意で切腹を命じられる事もあった。
 最上徳内も、そうした一人である。
 日本の武士・サムライとは、「命を捨てる」事を定められた過酷で厳しい身分であった。
 そうした武士・サムライは、日本にあって中国や朝鮮にはなかった。
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 現代の歴史教育は、ロシアの軍事侵略から母国日本を軍事力で守り、キリスト教の宗教侵略から民族宗教神道と皇室をキリシタン弾圧で護ろうとした事は、人類に対する犯罪とされている。
 歴史教育を日本否定・日本批判・皇室無視・天皇制度憎悪へと悪意的に改竄したのは、戦後のキリスト教史観・マルクス主義共産主義)史観・近隣諸国条項に基ずく日本人残虐非道の極悪人史観であった。
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 現代の歴史教育を受けた命大事の現代日本人は、ロシアの侵略から母国日本と天皇を死んでも守ろうとした昔の日本人とは別人である。
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