☭5」─1─田沼意次と蝦夷地・北方領土探索隊。立原翠軒の国難警告。米英露による北太平洋航路探検競争。1738年~No.11No.12No.13 * ④ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つを立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 1738年夏 ベーリング第2次探検隊のシュパンベルクとウォルトンの別働隊は、千島列島を南下して日本に向かった。
 探検隊は、海岸に生息するラッコの毛皮が交易品として利用できる事に着目した。
   ・   ・   ・   
 1739年 元文の黒船。シュパンベルク隊(船3隻)は、宮城県牡鹿半島沖に停泊し、応対に出た日本側役人と船上で会見した。
 ウォルトン隊は、千葉沖に辿り着き、乗務員を上陸させて水や食料などを購入した。 漁民は、突然の来訪者に興味を抱き、求められた物を売り、言葉が分からなくとも一緒に煙草を吸い茶を飲んで交わった。
 幕府は、役人を派遣し、購入代金として支払った銀貨を受け取り、どこの国の貨幣か調べるべく長崎奉行所に送った。
 長崎奉行所は、オランダ商館に見せロシアの貨幣である事を確認した。
   ・   ・   ・   
 1741年 ベーリング探検隊は、アリューシャン列島沿いにベーリング海を越えてカナダ寄りのアラスカに上陸した。
 ベーリングは、冬が近いためにアメリカ大陸に約6時間上陸して直ぐに帰路についた。
 途中で冬となって海が荒れ始めた為にアリューシャン列島で越冬したが、志半ばで死亡した。
   ・   ・   ・   
 1745年 ロシアの日本語学校は、ペテルブルグからイルクーツクの航海学校内に移された。
 日本語学校の日本人教師は、遭難して漂着した漁民達で、話す言葉が方言でバラバラで統一性がなかった。
 元々、日本には、数多くのローカル言語としての方言が存在し、グローバル言語としての日本国語という統一された標準語がなかった。
 つまり、東北の人間と九州の人間がお国自慢の方言で話しても、相手の言葉が理解できなかった。
 鹿児島弁と津軽弁は通じず、外国語を聞く思いであった。
 町人言葉もサムライ言葉も、微妙に異なっていた。
 だが日本人は、恥ずかしがり屋と引っ込み思案であっても、好奇心と人懐っこさがあった。
 旅行好きで、旅先で見ず知らず同士でドンチャン騒ぎをしながら楽しんでいた。
 徳川幕府は、中央集権ではなかった為に、経済の為の度量衡を統一できても、教育としての言語は統一できなかった。
 徳川家康は、文字だけは徳川家の「お家流」で統一し、その為に武士はおろか百姓町人まで身分や貧富に関係なく本を読む事を奨励した。
 ただ、家庭的事情で文字が読めない者はいた。
 ロシアに流された身分低い日本人船乗りは、話し言葉は方言でバラバラであったが、文字(漢字・平仮名・片仮名)は読めた。
   ・   ・   ・   
 1749年 オランダは、ジャワのマタラム王国を屈服し主権を奪い、インドネシアを植民地化していった。
   ・   ・   ・   
 徳川幕府は、オランダからの報告書で、ロシア帝国が東に領土を拡大し、そして南下しようとしている事を知っていた。
   ・   ・   ・   
 1762年 イギリスは、スペイン領のマニラを占領した。
   ・   ・   ・   
 1763年 フランスは、イギリスとパリ条約を結び植民地のカナダとインドを失った。
   ・   ・   ・   
 1765年 ワット蒸気機関を発見。
   ・   ・   ・   
 1768(〜71)年 イギリス人ジェームズ・クック(別名、キャプテン・クック)は、第1回探検航海に出発した。
   ・   ・   ・   
 1772年 田沼意次は、和歌山藩足軽の子から老中に異例の出世をして大名になり、そして老中に登り詰めた。
 江戸時代は、身分、家柄、出身に関係なく才能があれば社会に出て活躍し出世できる革新的時代と、身分、家柄、出身に雁字搦めにされ才能があっても活躍できない儒教的時代の二つが存在していた。
 田沼時代は、前者で、文化芸術が花開き、可能性がある明るい時代であった。
 田沼意次は、将軍徳川家治の信任を得て老中となるや、重商主義政策を断行して、重農主義の保守派と対立した。
 ロシア帝国プロイセン王国オーストリア帝国が、弱体化したポーランド王国の一部を分割して自国領とした。
   ・   ・   ・   
 1773年 松前藩は、飛騨屋にクナシリ場所での交易の請負を許した。
 飛騨屋ら和人商人は、商売に不慣れなアイヌ人を騙して暴利を得る為に、松前藩の管理を誤魔化す為に賄賂を送って役人を買収した。
 和人は、アイヌ人を野蛮人として扱い、差別し、同化しないように隔離した。
 ロシア人が、ラッコなどの毛皮を獲りながら北千島まで南進して来ているとの情報がもたらされていた。
 イエズス会解散。イエズス会は、日本のキリスト教化に失敗した。
 戦国時代。キリスト教会は、「隣人愛信仰」で日本人を奴隷として人身売買交易に関与していた。
 日本は、日本人を奴隷として中国や東南アジアに売り飛ばす事に協力していたキリスト教を拒絶し、宣教師を捕らえ日本人キリシタンを弾圧していた。
 イギリス人ヘイスティングスは、インドをイギリスの完全なる植民地にすりべく反英派を虐殺する「死」の恐怖統治を始めた。
 インド人の人口が多い為に、キリスト教化は断念した。
 イギリス東インド会社は、インドでの阿片専売権を独占した。
   ・   ・   ・   
 1776(〜80)年 ジェームズ・クックによる第3回探検航海。
 イギリスは、北大西洋から北極海を越えて北太平洋への航路を探したが発見できなかった為に、北太平洋から北極海を越える航路の開拓をクックに依頼した。
 アメリカ独立宣言。
   ・   ・   ・   
 1778年 ジェームズ・クックは、ハワイに到着し、北上してアラスカ海岸を探検し大量のラッコの群れを発見した。 
 イギリスへ向かう航路を探す為にベーリング海峡を抜けて北極海にはい入ったが、東にも西にも行けず断念してハワイに引き返した。
   ・   ・   ・   
 1779年 ジェームズ・クックは、ハワイ人の誤解で殺害された。
 クックの部下は、クックの遺志とイギリスの依頼を果たすべく、北太平洋探検の為に出発し、アラスカ・日本近海を経由してイギリスに帰国した。
   ・   ・   ・   
 1783年 ロシアは、アラスカのコディアック島を占拠して北太平洋沿岸でのラッコ猟を本格化させた。
 仙台藩医工藤平助(和歌山藩医の子から工藤家に養子に入った)は、ロシアの南下を警告し、ロシア人商人との密貿易の実情を訴える『赤蝦夷風説考』(2巻)を書き上げ、老中・田沼意次に献上した。
 ロシアの脅威に備える為に、幕府が主体となってロシアとの交易を行い利益を共有して懐柔する事、蝦夷地の防衛に開拓は欠かせず松前藩に委せず幕府が直接行う、などを進言した。
 田沼意次は、長崎貿易での金流出による貿易赤字を食い止める事と、ロシア帝国との北方貿易を行う為の蝦夷地開発を決断した。
 内政としては、年貢を増やし食糧を確保する為に下総印旛沼手賀沼の開拓と、商品流通の為の河川工事を行った。
 だが。天明の大飢饉浅間山大噴火、関東及び江戸の大洪水などの天災が相次ぎ、全国で百姓一揆や江戸・大阪などでの打ち壊しが頻発した。
 江戸城中で、若年寄田沼意知が旗本・佐野政言に殺害された。
 町人達は、賄賂政治で私腹を肥やしている田沼意次を憎み、田沼意次の嫡男・田沼意知を殺害した佐野政言を「佐野大明神」ともて囃して喜んだ。
 権力者・田沼意次は、町人の間で広がる反田沼の風潮を暴力で封じ込める事はしなかった。
 ロシア帝国の南下は、ラッコの毛皮を獲るロシア人商人や冒険家によるもので、ロシア帝国による領土拡大でない事が判明した。
 田沼意次は、ロシア帝国と国境紛争を起こさない為に国境の画定を見送り、当面は蝦夷地を無主地として放置する事とした。
 幕府は、日本から大量の金銀が海外に流失している事に危機感を持ち、海外の物産や西洋の書籍の代金として金銀ではなく蝦夷地の海産物・俵物を当てる事にした。
 船頭大黒屋光太夫の商船は、伊勢白子浦から江戸へ向かう航海の途上で漂流してアリューシャン列島に漂着し、ロシア人によって保護された。
   ・   ・   ・   
 1784年 田沼意次は、身分に関係なく、優れた在野の意見であれば採用し御政道に役立てた。
 そして、献策に従い蝦夷地探索隊を派遣する事を決定した。
 松前藩は、物産豊かな蝦夷地交易が幕府の調査で暴かれる事に警戒した。
   ・   ・   ・   
 1785年 林子平は、地理書『三国通覧図説』で「小笠原島」と紹介した。
 最上徳内は、身分の低い出羽村山の百姓の子であったが、異常な探究心で本多利明から金儲けに役に立たない天文・測量・航海術などを学び、見知らぬ北方・蝦夷地を知りたいという飽くなき好奇心から、雑用人夫として探索隊に潜り込んだ。
 最上徳内は、この後の蝦夷地・北方領土探索隊に参加し、語学力の才でアイヌ語やロシア語を覚え、蝦夷地・北方領土問題の第一人者となり、後に直参旗本に登用され松前藩を指導した。
 日本の強みは、最上徳内のような身分は低いが優れた人材が、中央(グローバル)・江戸ではなく地方(ローカル)に数多く埋もれて存在していた事である。
 日本の底力は、中央(グローバル)の裕福な上流階層ではなく、地方(ローカル)の貧しい中流階層以下であった。
 イギリスでクック航海記が出版されるや、ラッコ毛皮が高級品として交易が可能である事が知れ渡り、毛皮商人達は船団を以前未開のままにある北太平洋沿岸へと派遣し始めた。
 オランダの没落は、国際市場に於ける高価な主力製品となり始めたラッコの毛皮交易に出遅れたからである。
 もし、日本が、ラッコ猟を本格化してラッコの毛皮を輸出商品とすれば、日本の未来も変わったかも知れない。
 イギリスは、ラッコ猟ではなく、蒸気機関の動かす為の潤滑油を得るための捕鯨に力を入れた。
 各国も機械化による産業革命を本格化させ始めるや、捕鯨に切り替えていった。
 ロシアのみが北太平洋沿岸でのラッコ猟を行い、ラッコの毛皮を清国に輸出していたが、交易が認められていたのは1727年のキャフタ条約で認められていた内陸・シベリア東部のキャフタであった。
 清朝の支配階級で遊牧民族満州族モンゴル族、彼らに媚びを売って金儲けする漢族富裕層は、ラッコの毛皮を高額で購入していた。
 ロシアはより市場の広い広東に毛皮を直接運び込む為に、カムチャツカ半島からの航路を開拓するべく探検隊を派遣していた。
 その途中にあったのが、鎖国をしていた日本であった。
 ロシアは、広東への物資補給地としての日本、新たな市場としての日本を目指して、開国を求め始めた。
 1785年 フランスは、郄利益が得られるラッコ猟に参入する為に、フランソワ・ド・ラペルーズを北太平洋に派遣し、日本に開国を求めるために幾つかの港に上陸するように命じた。
 ラペルーズ探検隊は、台湾・琉球済州島海上から測量し、日本海に入り、日本の西岸を海上から測量しながら北上して宗谷海峡を通り抜けた。海峡を、ラペルーズ海峡と名付けた。
 樺太が島である事を確かめ、どこの国もまだ領有を宣言していない千島列島の幾つかの島に上陸していた。
 北方領土は、すでに日本領であった。
 各国の探検隊が行った沿岸測量、現地調査、航路、海図、航海日記などは、国益に関係なく全て公開されていた。
 日本海という名称は、国際的に認知されていた。
 フランスは、フランス革命と内戦、周辺諸国とのナポレオン戦争で大陸帝国の道を選び、海洋帝国の一員として北太平洋進出が不可能となった。
 4月27日 田沼意次の命を受け蝦夷地探検隊が、品川沖を出帆した。
   ・   ・   ・   
 1786年 最上徳内は、上司の命を受けて択捉島に渡り、3名のロシア人と会った。
 最上徳内は、ロシア人は領土拡大ではなくラッコの毛皮目的で訪れ、冬になるとカムチャッカに戻り春になるとまた来訪すると報告した。
 
 林子平は、長崎に遊学してオランダ商館長フェイトからロシアなどの諸外国が日本を侵略しようとしている海外事情を聞いて、『海国兵談』を書き上げた。
 5月5日 最上徳内は、日本領択捉島アイヌ人とロシア人シメオン・ドロヘイーチ・イジュヨ等と会って情報を交換した。 
 7月 白河藩松平定信が、老中に就任した。
  ・   ・   ・    
 1787年 松平定信は、田沼意次の改革に反対する重農主義の保守派と密議を重ねた。
 イギリスは、オーストラリアに囚人を送り込んで、キリスト教における「絶対神の御名」により、「絶対神の恩寵」として先住民の大量虐殺を始めた。
   ・   ・   ・   
 1787年 立原翠軒は、水戸藩徳川治保の藩政にも参与し、天下の三大患について老中の松平定信に上書して、蝦夷地侵略等を警告した。
 1793年 門人の木村謙次を松前に派遣し、実情を探らせた。
   ・   ・   ・   
 1788年  田沼意次は、後ろ盾の徳川家治将軍が没し、印旛沼干拓の失敗などで失脚した。
 そして、減俸によって領地は没収され、一旗本家として家名を残した。
 築城した相良城は打ち壊され、田沼時代の物は全て破棄された。
 町人達は、賄賂の田沼が処罰を受け清廉潔白の松平定信が政(まつりごと)を行う事を喚起して喜んだ。
 松平定信は、寛政の改革として鎖国政策厳守と異学の禁を断行し、田沼意次が推し進めていた蝦夷地・北方領土探索隊を中止させ、関わった者を嘘の罪状を作って処罰した。
 それ以外の田沼派も、全て役職を解かれ無役に追いやられた。
 身分低き者から登用された成り上がり者も、お役を解かれて追放された。
 儒教的価値観で、身分・分限を越える事を認めず社会全般を厳格な上下関係で縛った。
 硬直した朱子学政治が始まり、華やかに娯楽を楽しむ生活が規制され窮屈となり、町民の自由は急速に失われた。
 江戸時代の暗さは、松平定信儒教朱子学政治による。
 儒教朱子学は、中国や朝鮮とは違って、日本に衰退のみをもたらす不幸であった。
   ・   ・   ・   
 1789年 クナシリ・メナシのアイヌ人蜂起。クナシリのアイヌは、あくどい商売をして暴利を得る和人に激怒して商船を襲い和人を殺害した。
 メナシのアイヌも、和人の横暴への不満から蜂起に参加して和人を襲った。
 松前藩は、鎮圧部隊を派遣した。
 中立派のアイヌ人首長達は、蜂起したアイヌ人達を説得して投降させた。
 松前藩も、71人の和人が殺害した責任をとらせる為に首謀者を処刑し、飛騨屋とその仲間の商人から場所請負人の権利を剥奪して、阿部屋村山伝兵衛に場所請負人の権利を与えて健全な交易を命じた。
   ・   ・   ・   
 1789年 ヌートカ湾事件。
 フランス革命(〜1794年)。第三身分(平民)によるブルジョア革命。絶対王制が打倒され平民の共和制が成立した。
 ジャコバン派は共和制の主導権を握って独裁党となり、元国王・元王妃は処刑され、保守派・王党派・キリスト教会を女子供に関係なく大虐殺し、反対派を大粛清した。
 内戦や派閥抗争で約200万人が犠牲となり、恐怖政治が出現した。
 周辺諸国は、平民革命が波及する事を恐れて介入戦争を始めたが、自国の平民の不穏な動きで本格軍事介入ができなかった。
 1794年7月27日 テルミドールの反動で、ジャコバン派独裁体制が打倒された。
   ・   ・   ・   
 1791〜92年 幕府は、アイヌ人が和人への不満からロシア人になびくのを恐れて、蝦夷地を直轄領としてアイヌ人保護政策とクナシリやソウヤで御救交易を行った。
 ロシア帝国の侵略に備えて、排他的隔離策をやめ積極的な同化策を推し進めた。
 アイヌ人に対する差別や偏見を解消するべく、日本語の読み書きを教え、生活の向上の為に農耕を指導した。
   ・   ・   ・   
 1790年 林子平は、ロシアの南下や諸外国船の近海出没などを老中・松平定信に説明し、海防の必要性を説いた。
 松平定信は、在野の文人が御政道に意見をする事に激怒し、林子平に対して蟄居を命じた。
 幕府は、オランダ商館から国際情勢について報告書を得ていた。
 オランダは、自分に都合の悪い事や交易に障害になりそうな事実を伏せ、不穏な空気が漂う国際情勢の真実を隠していた。
 幕府も、自分に都合の良いように国際情勢を解釈し、迫り来る国家存亡の危機から目をそらしていた。
 平和ボケ、平和馬鹿は、現代日本でも変わらず、むしろ現代日本の方が「平和を念じれば戦争は起きないという」国防意識の劣化で最悪の状況にあると言える。
   ・   ・   ・   
 1791年 林子平は、知人友人や支援者からの資金援助を得て『海国兵談』を刊行した。
 幕府は、『海国兵談』を禁書として、版木を没収し、印刷した書籍を全てを焼き払った。
 その他の禁書も版木もろともに燃やされた。
 徳川家康の遺訓に従って、武士や町人に対して中華の古典書籍を読む事を奨励した。
 西洋や国防に関する焚書が行われたのは江戸や大坂などであったが、幕府の威光が及ばない京や地方では禁書は密かに残され教養人の間で読まれていた。
 ロシア以外でもイギリス、フランス、スペイン、アメリカなどのラッコ猟船や毛皮交易船が、許可なく博多や小倉に来港するようになった。
 1月24日 最上徳内は、旗本になり蝦夷調査隊の指揮官として松前藩に入り、松前藩アイヌ人保護の命令を下した。
 2月11日 最上徳内は、調査隊を率いて蝦夷地探索に旅立った。
 6月28日 大黒屋光太夫は、エカテリーナ女帝に拝謁した。
 9月29日 大黒屋光太夫は、エカテリーナ女帝からの帰国許可を得た。
 10月20日 大黒屋光太夫は、エカテリーナ女帝との最後の会見をした。
   ・   ・   ・   
 1792年9月3日(太陽暦10月9日) ロシア人アダム・ラックスマンは、エカテリーナ女帝から遣日使節の任を受け、により大黒屋光太夫、小市、磯吉の3名の送還とシベリア総督の通商要望の信書を手渡す為に、エカテリーナ号で根室に到着した。
 松前藩は、ラクスマンが江戸に出向いて漂流民を引き渡し通商交渉を行う事を希望していると、直ちに幕府に報告した。
 老中松平定信は、国書の受理を拒否し、長崎以外では異国船と応接しない事とロシアは通商なき国だから「祖法」で関係樹立はできないと言い渡した。
 幕府は、宣諭使として目付の石川忠房、村上大学を松前に派遣した。
   ・   ・   ・   
 1793年2月 松平定信は、ロシアとの外交交渉から外され、伊豆や相模の沿岸視察に出掛け4月に江戸に戻った。 
 松平定信は、内政家でって外交家ではなく、地方の藩を運営する行政能力はあっても中央の幕府を切り盛りできる総合能力はなかった。
 才能がない者が「自分には能力がある」と自己過信するほど悲喜劇はない。
 それは、現代の日本でも同様である。
 3月 石川忠房は、松前に到着した。
 6月8日 エカテリーナ号は、交渉地として指定された箱館に入港した。
 漁民達は、物珍しくエカテリーナ号に群がり、役人の目を盗んでロシア人船員と交流した。
 石川忠房は、長崎以外では国書を受理できないため退去するよう伝えるとともに、光太夫と磯吉の2人を引き取った。
 6月21日 林子平は56歳で病死した。
 6月30日 石川忠房は、別れを告げに来たラクスマンに宣諭使両名の署名で「おろしや国の船壱艘長崎に至るためのしるしの事」と題する長崎への入港許可証(信牌)を交付した。
 7月16日 ラックスマンは、日本との交易開始交渉に失敗し、箱館を出港して長崎にオホーツクに帰港した。
 『ラクスマン日本渡航日記』が、1806年に出版された。
 幕府は、今回の通商交渉は拒絶するが、再度、通商交渉の為に来航を許す「長崎入港証」を与えた。
 この優柔不断にして曖昧な先送りが、後に悲劇をもたらした。
 当時の世界は、支那=清国とオスマン帝国が豊かな大国であり、欧米は貧しい地域であった。
 桂川甫周は、光太夫からロシア事情を聞いて『北槎聞略』にまとめた。
 林子平は、海外事情を集めながらロシアが日本近海に侵出してきている事を説き、日本を外敵から守る為に海防に力を入れるように啓蒙活動を行っていた。
 幕府も、独自に、長崎出島でオランダ通詞を通じてロシア情報を集めた。
 オランダは、日本がロシアとの関係を深める事を恐れて嘘の情報を与え、ロシアへの警戒心を駆り立てた。
 欧米諸国は、富を求めて支那=清国やオスマン帝国との交易を行っていたが、欧米諸国から支那=清国やオスマン帝国に輸出する製品はなく、輸入する方が多かった。
 貿易赤字解消に利用されたのが、阿片であった。
 7月23日 松平定信は、老中の任を解かれた。
 9月18日 幕府は、ロシアから帰国した大黒屋光太夫と磯松を江戸城吹上御覧所に呼び出し、徳川家斉の御前で話を聞いた。
 松平定信は、失脚した。
 町人達は、松平定信の硬直した正義論の朱子学政策に辟易していたので大歓迎した。
 11月 仙台藩の津太夫や善六ら16人乗りの若宮丸は、石巻から江戸へ向かう航海の途上で難破し、漂流してアリューシャン列島東部のウナラシカ島に漂着した。
   ・   ・   ・   
 1793年 第二回ポーランド分割。大国の囲まれた小国は、自国を守る国力・軍事力がなければ幾ら正論を主張し哀願・懇願しても大国に呑みこまれて滅亡する。
 国を守るは、国民全員が虐殺される覚悟で武器を取って戦うしか術がない。
 平和や中立を叫んでも、現実社会では無意味どころか害にしかならない。
   ・   ・   ・   
 1795年 ポーランドコシューシコは、祖国を守る為に抵抗運動を行うが失敗した。
 弱体化したポーランドは、ロシア帝国プロイセン王国オーストリア帝国に分割されて消滅した。
 キリスト教国家は、地球上の異教徒国家を侵略して植民地とし、異教徒を奴隷として使役し搾取した。同じヨーロッパのキリスト教国家でも、弱体化したとみるや襲いかかり、容赦なくずたずたに引きさいた。
 白人キリスト教徒は、非白人非キリスト教徒を虫けらの様に扱い、そして殺害した。
 軍事力を強化して自国を守れない国は、地域の平和と発展を阻害する元凶になるとして、周辺諸国に侵略されて滅亡した。
 その宿命は、日本も免れない定めであった。
 日本の脅威は、北のロシア帝国であった。
 ロシア帝国は、領土を拡大する為に侵略戦争を繰り返していた。
 キリスト教会は、地球上の異教を滅ぼす事を絶対神に誓い、アジアや日本をキリスト教に生まれ変わらせるべく多くの宣教師を送り出していた。
   ・   ・   ・   
 1796年11月6日 エカチェリーナ2世が崩御して、親英派のパーヴェル1世が皇帝に即位した。
 ピョートル大帝以来続いていた日本政策は、一時中止された。
   ・   ・   ・   
 1798年 近藤重蔵(下級御家人)と最上徳内(最下層の下男出身)らは、択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を立てて、択捉島以南は日本固有の領土である事を宣言した。
 樺太探検も進み、ロシア帝国の手が及んでいなかった為に、樺太における支配権は日本が手に入れた。
 ロシア帝国は、千島列島の支配権を手に入れた。
 アイヌ人社会は、日本とロシア帝国の二つに分断された。
 ロシア人商人は、択捉島以南への移動を止めた。
 ロシア帝国は、日本との交易を臨んで使節団を送り始めた。
 正式な国境画定は、1854年の日露和親条約まで待たねばならなかった。
 マルサスの「人口論
   ・   ・   ・   
 1799年 露米会社が勅許を受けロシア領アメリカ(アラスカ)が成立した。
 ロシア帝国は、カムチャッカからカナダにかけて植民地を拡大する為に、オランダの連合東インド会社にならって軍事・司法の権限を持った国際貿易の露米会社を設立した。
 1月 幕府は、ロシア帝国の侵略に備える為に、東蝦夷松前藩を取り上げて直轄領とした。
 11月9日 ナポレオンは、クーデターを起こして総統政府を打倒し、総領(執政)政府を樹立して、自ら第一統領に就任して軍事独裁を始めた。
 フランス革命に介入する周辺諸国に対する自衛戦争に勝利すべく、国民皆兵として徴兵制を徹底させて強力な軍隊を組織した。
 国を守る為に戦う国民は愛国者とされ、戦わない国民は非国民・裏切り者の烙印を押され、国家・社会から制裁を受けた。
 それが、フランス革命の精神である「自由・平等・博愛」であった。
 自由の為に武器を取って外敵と戦う事が、国民の義務とされた。
 国家は、国民の義務を果たす者を国家の責任として保護し、義務を果たさない者は棄民とした。
 自由・平等・博愛は、国家に忠誠を誓い命を捧げる国民のみに保障された。
 人権も、国家の制限の中に存在していた。
 国民には、国家に背いて外敵に内通する自由は認められなかった。
 ナポレオンは、戦争によってフランスの英雄から世界の英雄となった。
   ・   ・   ・   
 江戸時代の日本には、国家意識も国民という自覚もなかった。
 もし、外国が侵略しても本気で日本を守ろうという日本人はいなかった。
 幕府は、日本を守る為ではなく、徳川家を中心とした幕藩体制を守る為に行動していた。
 大名は、自分の領地を守る為に戦っても、他の大名の領地を守る為に戦う気はなかった。
 百姓や町人などの庶民も、命大事として戦わず逃げた。
 武士・サムライ侍も、主君の命令があれば戦うが、命令もないのに日本を守る為に戦う義理はなかった。
 庶民にとって、自分の生活を壊して苦しめない限り、支配者が幕府であろうが大名であろうが、日本人であろうが外国人であろうが、一切気にしなかった。
 日本の庶民とは、恐ろしい存在であった。
 徳川幕府は、国外からの侵略という脅威の前では無力な為に、国を外国の侵略から守るという至上命令において打倒しなければならない存在であった。
 そして、庶民を国民に改造する必要があった。
   ・   ・   ・   
 1800年 隠密御用を命じられる普請役の間宮林蔵は、蝦夷地御用雇を命じられ、町人の伊能忠敬から西洋式測量を学んだ。
   ・   ・   ・   
 1801年 富山元十郎は、ウルップ島に「天地長久大日本属島」という碑を建て、島内のロシア人に退去を求めた。
 3月23日 パーヴェル1世は、イギリス東インド会社統治下のインドへの遠征を企て、イギリスと対立してフランスと手を組んだ。
 イギリスは、インドを守る為に、ロシア国内で反パーヴェル1世派の組織化に協力した。
 パーヴェル1世が暗殺され、アレクサンドル1世が皇帝に即位した。
 アレクサンドル1世は、フランスとの関係を解消してイギリスと同盟を結んだ。
 ニコライ・レザノフは、アラスカの維持に必要な食料を調達するべく、日本やスペイン領アルタ・カリフォルニアとの交渉を始めた。
   ・   ・   ・   
 1803年 間宮林蔵は、蝦夷地の測量を開始する。
   ・   ・   ・   
 1804年 ナポレオンは、フランス皇帝に即位し、大陸制覇の戦争を始めた。
   ・   ・   ・   
 1805年 イルクーツク日本語学校に、林子平の『三国通覧図説』が持ち込まれ、翻訳され世界中に広まった。
 イギリス王国は、第3回対仏同盟を結成した。
 10月 ナポレオンは、イギリス侵攻計画を立てて大艦隊を派遣した。
 トラファルガー沖海戦。
 12月 アウステルリッツの戦い
 ヨーロッパはナポレオン戦争に巻き込まれ、日本やアジアへの探検隊を派遣する余裕はなくなった。
   ・   ・   ・   
 日本は、西洋からの外圧がなくなり、国防に振り回される事のない平穏な時代が訪れた。





   ・   ・   ・