☭7」─1─幕末動乱の原因は徳川幕府と倒幕派の対露防衛戦略体制選択の内戦であった。~No.17No.18No.19 * ⑥ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 開国と幕末の動乱の始まりは、アヘン戦争やペリー黒船艦隊来航ではない。
 庶民の間に尊王攘夷神の国意識・愛国心が沸き起こったのは、北で起きているロシアの侵略に対する恐怖からである。
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 日本の防衛体制論には二派があり、幕末・戊辰戦争とは何れを採用してロシアの侵略から日本を守るかという選択戦争であった。
 つまり、明治維新・近代化とは対外戦争をするためであった。
 当時の日本人には、「平和的対話外交でロシアと戦争をしない」という選択肢はなかった。
 そもそも、ロシアとキリスト教勢力はそんな「生っちょろく、バカバカしく、愚かな」事を考えず、上から目線から、白旗をあげて降伏し領土になり自国民なるか、従属し植民地となり奴隷になるか、抵抗して滅亡して死滅するか、の三択を強要した。
 歴史的事実として、自国領になるキリスト教ポーランド三分割解体、植民地になるヒンズー教ムガル帝国消滅、死滅する仏教国ビルマ王国滅亡。
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 ・佐幕派の徳川家を盟主とした和合的諸大名連合体制。
 戦略は先例主義で、専守防衛=消極的自衛戦として、中国の元寇や朝鮮の応永の外寇の様に上陸してきた侵略軍を国内に引き込んで撃滅し、国内戦を仕掛ける為に自国民が多少殺されても「やむなし」と甘受する。
 外交は、中国と朝鮮に親日政権を樹立させて対等関係での三国攻守同盟を結び、三国共同戦線でロシアの侵略からアジアを守る。
 ・倒幕派の近代天皇を中心とした強権的中央集権体制。
 戦略は先手必勝で、海外に討って出る積極的自衛戦として、国内戦で自国民に犠牲者を出さない為に、日本国外のロシア、朝鮮、中国に侵略軍を派遣し他国を巻き込んで敵軍を撃破する。
 外交は、吉田松陰ら長州過激派の国防戦略を採用し、中国や朝鮮が反日・敵日を止めずロシアの味方するのであれば武力を用いて暴力的に傀儡政権を樹立させ、日本を盟主とする三国軍事同盟を結び、日本軍の指揮下で中国軍・朝鮮軍の三ヵ国連合軍が一致協力してロシアの侵略からアジアを守る。
 清国(中国)と朝鮮が日本の敵となってロシアに味方したから、日本は両国を攻撃し、清国(中国)を日清戦争で撃退して弱体化させ親日派知日派の育成に取り組み、朝鮮を韓国併合で日本領に組み込んで朝鮮人日本国籍を押しつけ監視下に置いた。
 中国と朝鮮は、古代から変わる事のない仮想敵国ではなく明らかな敵国で、徳川幕府は両国からの侵略を警戒し、決して公式な国交を求めず、モノの管理交易を認めてもヒトの自由な往来を拒否していた。
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 当時の日本人は、現代の日本人のように命大事として反戦平和憲法を堅持し「人を殺すのはいや!」として非暴力無抵抗に徹して、侵略者に座して喜んで殺される気は更々なかった。
 「堂々と戦って死ぬ」が、日本民族の唯一の選択肢、現代日本人が悪として捨てた「潔いを求めた生き様」であった。
 全滅覚悟で無駄な抵抗を最後の最後まで、一億総玉砕として往生際が悪く戦い抜いて桜の花びらのように散って死ぬ、それが日本民族の「死の美学」である。
 その象徴的戦い方が、追い詰められ「肉を切らせて骨を断つ」的なカミカゼ特攻であり万歳突撃である。
 カミカゼ特攻や万歳突撃は、九死に一生を得る為の捨て身の戦法であって、自暴自棄的な自殺や自爆ではないく、目的があっての捨て身戦法であった。
 ただ、それを命じた当時の日本軍首脳部は無能で愚かだった、というだけである。
 カミカゼ特攻や万歳突撃を強いて例えれば、関ヶ原の戦いにおける島津軍の正面突破と主君を逃がす為の家臣に捨て身戦法である。
 徳川幕府が、敵であった薩摩藩・島津氏を滅ぼさなかったのは、島津軍の正面突破と主君を逃がす為の家臣に捨て身戦法で手痛い被害を出したからである。
 その中途半端な戦後処理の結果、徳川幕府関ヶ原の戦いで敵であった薩摩藩・島津氏と長州藩・毛利氏によって滅ぼされた。
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 百獣の王・ライオンは、例え小さなネズミでも全力で襲い、手加減せず確実に命を奪った。
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 産経iRONNA
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 まやかしの霧が覆う樺太の歴史
 ロシアの武力威嚇によって掠め盗られた樺太日露戦争で回復した南半は大東亜戦争後にロシアが不法占拠し続けるが、左翼勢力はこれを是とし、侵略された歴史を何が何でも隠そうとする。改めて日本の北方領域・樺太の歴史を振り返る。
 樺太はこうして掠め盗られた!日本が受けた列強の領土侵奪
 『別冊正論』 第25号『「樺太-カラフト」を知る』
 別冊正論25号『「樺太-カラフト」を知る』より
 淺川道夫(軍事史学会理事・日本大学教授)
 通商を要求する初のロシア遣日使節として根室に来航したラクスマン一行。左から3人目が光太夫、右端がラクスマン天理大学附属天理図書館所蔵)
 安政6年に久春古丹に赴いた秋田藩蝦夷地御警衛目付の道中記にある「クシュンコタン湊ノ図」(写本、北大北方資料室所蔵)
 樺太・千島の日本帰属は明白
 歴史用語として知られる「蝦夷地(えぞち)」とは、現在の北海道だけではなく、その北方に位置する樺太や、択捉島国後島などの千島を含む、日本の領土の総称である。その帰属はすでに江戸時代には明らかになっており、徳川家康から慶長九(一六〇四)年に「渡島(おしま)一帯の地及び唐太」の直轄を命ぜられた松前氏が、幌泉(ほろいずみ)を境に以南を「口(くち)蝦夷」、以北を「奥蝦夷」と称し、藩領として支配していた。
 松前藩では、樺太の調査を数回にわたって実施し、元禄十三(一七〇〇)年には同地域の地名二十二カ所を挙げた「松前島郷帳」を幕府に提出しているが、当時まだ樺太の開発・経営にはほとんど手が着けられておらず、実効ある支配には至っていなかった。また千島については、享保年間(一七一〇年代)から松前藩の領地となっていたが、択捉・国後両島は少数の島民が原住民と雑居して平穏に漁業を営む辺境の地域であったことから、藩の強固な支配が及ぶことなく、なかば放置されている状態だった。なお、今日「北方四島」に含めて議論される色丹島歯舞諸島は、もともと北海道の本島に属する地域であり、歴史的にも千島に含まれるものではない。
 本稿では、現在も我国外交にとっての懸案事項となっている北方領土問題に関連して、ロシアの南下以前に日本が「蝦夷地」をどのように管理していたのか、また日露両国間での国境画定がどのようになされたのかを、歴史的に振り返ってみたい。
 ロシア南下に江戸幕府が防衛体制
 ロシア人が「奥蝦夷」地域に進出しはじめたのは、十八世紀半ば以降のことである。ロシア人の同方面への進出は、ベーリング海軍中佐の率いる探検隊がカムチャッカを基地として享保十七(一七三二)年におこなった東方調査を皮切りに、元文四(一七三九)年のスパルベング海軍中佐を隊長とする調査隊の活動を経て、次第に活発化して行った。
 そして明和年間(一七六〇年代後半)を迎える頃には、ロシアは得撫島(うるつぷとう)以北の千島諸島を征服して「クリル諸島」と命名し、各島に酋長を置いて「一男一狐貢納の制」を定め、原住民に毛皮の貢納を命じた。また樺太については、安永九(一七八〇)年にラペルーズの率いるロシア探検隊の船二隻が沿岸調査に訪れたのを手始めに、寛政元(一七八九)年にも沿岸測量のためのロシア船来航があり、ロシアの領土的野心は十九世紀に入って顕在化することとなった。
 こうしたロシアの南下政策に対して、仙台藩医の工藤平助は『赤蝦夷風説考』を天明三(一七八三)年に著し、蝦夷地の開発と対露貿易の促進を説いて、老中田沼意次(おきつぐ)に献上した。またこれに先立つ明和八(一七七一)年、長崎のオランダ商館長がベニョウスキー伯(カムチャッカから亡命したポーランド貴族)から受け取った書簡の中で、ロシアが蝦夷松前を攻撃するための陰謀を企てている旨の警告がなされたこともあり、幕府としても蝦夷地の現状を把握する必要に迫られていた。
 田沼は、天明五(一七八五)年に普請役山口高品らを巡検使として蝦夷地に派遣し、実情調査をおこなわせた。しかし翌天明六年に田沼が失脚すると、田沼を中心とした蝦夷地開発計画は中止のやむなきに至った。ただし巡検使の一員であった最上徳内はその後も単身で千島の調査を続け、大石逸平も樺太の調査を続行して情報収集に努めるなど、ロシアの蝦夷地進出に対する警戒は続いた。
 田沼失脚後、老中首座となった松平定信は、寛政の改革を通じて田沼政治の粛正を図って行くが、蝦夷地の防衛についても、その開拓と防備を幕府主導で推進しようとしていた田沼の方針を大きく転換した。すなわち松平定信の打ち出した方針は、蝦夷地の防衛は藩領を持つ松前藩に任せ、幕府は津軽海峡以南を固めて有事に備えるというもので、これは当時の幕府の財力や軍事力から見て現実的な施策であった。
 こうした折柄、ロシアの女帝エカチェリーナ二世によって最初の遣日使節に任命されたラクスマン(陸軍中尉)が、寛政四(一七九二)年に日本人漂流民大黒屋幸(光)太夫・磯吉らを伴って根室へ来航し、漂流民送還と引き換えに通商を要求した。
 幕府は松前に目付石川忠房・村上義礼を宣諭使として派遣し、ラクスマンとの交渉にあたらせた。石川ら宣諭使は、漂流民を受け取る一方で、ロシア使節に信牌(長崎入港許可証)と諭告書を与え、通商を求めるならば長崎に行くよう指示した。結果的にラクスマンは、日本との通商を開くという目的を果たせぬまま、寛政五(一七九三)年に退帆した。
 幕府はラクスマンの来航をうけ、海防掛を新設して松平定信をその職に任じ、鎖国以来初めてといえる海防政策に着手した。松平定信は寛政五年一月、蝦夷地関について次のように建議し、将軍徳川家斉の決裁を得た(渋沢栄一『楽翁公伝』)。
蝦夷地の支配は、従来通り松前藩に任せる。
蝦夷地に渡航するための陸奥沿岸の要衝を天領とし、そこに「北国郡代」を設置する。
・有事の際は、南部・久保田両藩に出兵を命じて対処する。
・洋式軍艦を四、五隻建造し、その半数を北海警備に充てる。
 このような基本方針を踏まえ、幕府は、南部藩から三百七十九人、津軽藩から二百八十一人の兵力を動員し、松前警備を担当させた。しかし松平定信が同年七月に老中の職を退くと、こうした蝦夷地防衛の基本政策は中止の余儀なきに至った。ただし幕府としても、蝦夷地の防衛を具体化するための代案が必要であり、寛政十年には目付渡辺久蔵らに蝦夷地調査を命じて、新たな政策を立案するための情報収集に乗り出した。
 これにより総勢百八十人に及ぶ調査隊が編成され、東西蝦夷地のほか択捉島国後島への巡検が行われた。この時、択捉島に渡った近藤重蔵は「大日本恵登呂府(えとろふ)」の標柱を建て、同島が日本の領土であることを示した。翌寛政十一年、幕府は東蝦夷を上知して天領とし、南部・津軽両藩の兵力を駐屯させて外圧に備えるという施策に踏み切った。
 次いで享和二(一八〇二)年、幕府は蝦夷地奉行(程なく箱館奉行と改称)を設置すると共に、東蝦夷地を「永久上知(あげち)」として、南部・津軽両藩に「永々駐兵」を命じた。こうして蝦夷地防衛の態勢を日本側が逐次整えつつある時、ロシア使節レザノフの来航を迎えることになった。
 ロシアは武力攻撃で日本を威圧
 ロシア皇帝アレクサンドル一世により遣日全権使節に任命されたレザノフが、通商を求める国書を携えて日本に来航したのは、文化元(一八〇四)年のことである。レザノフは「露米会社」という、北太平洋において毛皮貿易や漁猟を行うための国策会社の支配人であり、かつて幕府がラクスマンに交付した信牌をもち、津太夫ら四人の漂流民を伴って長崎に入港した。
 幕府側では、目付遠山景晋や長崎奉行肥田頼常、成瀬正定らが交渉にあたったが、その対応は冷淡で、遣日使節を半年以上もの間長崎に留め置いたのち、レザノフから出された修好・通商の要求を全て拒否し、翌文化二年に退帆させた。
 こうした日本側の態度に憤慨したレザノフは、千島・樺太方面での武力的な威嚇行動を企図し、海軍士官のフォヴォストフならびにダヴィノフに対し、その実行を指令した。
 フォヴォストフは、文化三年九月に樺太の久春古丹を襲撃し、番人の拿捕や食糧の略奪を行った。続いて翌文化四年四月から五月にかけ、フォストヴォフとダヴィドフは択捉島の内保(ないぼ)や紗納(しやな)に対して同様の襲撃を行ったほか、樺太の於布伊泊(おふいとまり)や留多加(るうたか)でも襲撃を実行した。さらに礼文島沖における日本商船の拿捕・焼却や、利尻島への武力襲撃など、彼らの威嚇行動は「奥蝦夷」地域全体に及んだ。
 幕府は文化四年、こうした「露寇」に対し、従来の南部藩津軽藩久保田藩庄内藩を加えた三千人余の兵力を蝦夷地に派遣して警戒にあたらせ、「露船打払い令」を発して「オロシヤの不埒(ふらち)之(の)次第(しだい)に付、取締方きびしく致候条(いたしそうろうじよう)、油断なく可被申付(もうしつくべく)候」との姿勢を明らかにした。また松前藩に上知を命じ、その領地を陸(む)奥(つ)梁川に移して蝦夷地全域を幕府の直轄とする一方、箱館奉行松前奉行に改組して蝦夷地を管轄させ、ロシアに対する海防強化を図った。
 さらに文化五年には、仙台藩会津藩の兵力が蝦夷地警備に加わり、守備兵の数は四千人余に拡大した。この時、千島の警備を担当したのは仙台藩で、択捉島に七百人、国後島に五百人の藩兵を派遣した。樺太の警備は会津藩が担当し、七百人の藩兵が派遣された(『通航一覧』第七)。
 一方ロシア側では、日本との修好・通商を求める政府方針に反したものとして、千島・樺太方面で武力襲撃を敢行したフォヴォストフらを罰しており、その後「露寇」が発生することはなかった。こうした情勢を背景に幕府は蝦夷地の防衛体制を見直し、文化五年の末には、東蝦夷地の警備を担当する南部藩が択捉・国後の両島、西蝦夷地の警備を担当する津軽藩樺太にそれぞれ藩兵を配置し、有事の際には久保田藩・富山藩へ出兵を命ずるという形に縮小した。また同年、間宮林蔵の調査により「間宮海峡」が発見され、樺太が島であることが確認された。翌文化六年、幕府は樺太を「北蝦夷」と改称した。
 文化八年には、国後島に上陸したロシア軍艦の艦長ゴロ―ニンを逮捕するという事件が起こったが、国後島沖でロシア側に拉致された高田屋嘉兵衛との人質交換が文化十(一八一三)年に成立し、これ以後日露関係はしばらくの間平穏となった。
 かくて文政四(一八二一)年、幕府は蝦夷地を松前藩に還付することとし、それに伴って松前奉行を廃止、南部・津軽両藩にも蝦夷地から藩兵を撤収させた。旧領に復帰した松前藩は、蝦夷地の各地に十四基の台場と十一カ所の勤番所を設け、警備体制を整えて行った。
 寛政年間(一七九〇年代)以降、千島方面におけるロシアの南下政策は日本側に阻まれ、得撫島以北の島嶼征服というラインに留まっていた。ロシアの東方進出を企てる皇帝ニコライ一世は、その矛先を日本の施政下にあった樺太へと転じ、同地域の占拠を露米会社に命じた。
 東シベリア総督ムラヴィヨフを通じてこの指令を受けたバイカル号艦長ネヴェリスキーは、嘉永六(一八五三)年七月に樺太へ来航し、フスナイ河口に守備兵を駐屯させた。また陸軍少佐ブッセも、亜庭(あにわ)湾の久春古丹に上陸して駐兵を強行した。こうして樺太への足がかりを得たロシアは、従来からの要求であった通商の開始と、新たな要求となった樺太における国境画定という二つの課題を掲げて、日本に対する三度目のアプローチを試みることとなる。
 樺太全島領有の「前提」にスキ
 ニコライ一世はロシアの樺太進出を企てる一方で、アメリカが日本開国のため艦隊派遣を計画しているとの情報を得ると、海軍中将プチャーチンをロシア極東艦隊司令長官兼遣日大使に任命し、遣日艦隊の編成を急いだ。プチャーチンは、ロシアの首相ネッセリロ―デから老中に宛てた国書を携え、軍艦四隻を率いて嘉永六年七月に長崎へ来航した。
 長崎奉行大沢定宅は、老中阿部正弘の指示を仰いで穏便に国書を受け取り、ロシア艦隊の速やかな退去を促したが、プチャーチンは六十日以内の幕府からの返書と、幕閣との接見を要求し、長崎からの退帆に応じなかった。
 幕府は筒井政憲川路聖謨(としあきら)らを露使応接掛に任命し、プチャーチンと交渉させるべく長崎に派遣した。長崎における日露間の会談は、嘉永六年十二月に五回にわたって行われたが、通商や国境画定をめぐる双方の主張には大きな隔たりがあり、容易に決着を見なかった。
 日露談判に当たった一人、川路聖謨
 特に国境問題に関して、日本側は「択捉島ハ元来我所属タルコト分明ニシテ議論ノ余地ナク、樺太ハ各其所有ヲ糺シテ国境ヲ画定スヘク、『アニワ』湾駐屯ノ露国軍隊ハ我地ヲ奪ハントスルニ非スシテ外寇ニ備フルモノナリトノコトニ付境界確定アル上ハ之ヲ撤退セシムルヲ要ス」と主張したのに対し、ロシア側は「日本領ノ界ハ北ハ択捉島樺太南部『アニワ』湾トス、樺太島上ノ分界ハ遅滞ナク両国官員会同シテ其所在地分ヲ画定」するとの姿勢を示し、結論は先送りとなった(「ロシア使節プーチャーチンと幕府大目付筒井肥前守政憲・勘定奉行川路聖謨との長崎日露交渉に関する文書(要旨)」)。
 その要締は、千島における国境は択捉島と得撫島の間に画定することでほぼ合意したが、樺太については北緯五十度以南を自国領とする日本側の主張と、南端のアニワ湾を除く全島が自国領だとするロシア側の主張が対立したため、両国が官員を派遣して実地見分を行ったうえで画定する、ということになったのである。
 その後、日露交渉の場は伊豆の下田へと移され、安政元(一八五四)年十一月に九カ条から成る「日露和親条約」が締結されることとなった。この条約によって、日本はロシアに対し箱館・下田・長崎を開港する(第三条)こととなり、あわせて日露双方が領事裁判権をもつこと(第八条)も規定された。
 他方、領土問題(特に樺太における国境線画定)について、幕府は樺太全島が日本所領と認識しており、老中阿部正弘はその旨主張すべしとする訓令を川路らに発していた。そのため日露間での最終的な妥結に至らぬまま、次のような暫定的取り決めがなされることとなった。
 {第二条 今より後日本国と魯西亜国との境「エトロプ」島と「ウルップ」島との間に在るへし「エトロプ」全島は日本に属し「ウルップ」全島夫より北の方「クリル」諸島は露西亜に属す「カラフト」島に至りては日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす是迄仕来の通たるへし}
 こうした弥縫(びほう)的な対応の背景には、松前藩に任されていた広大な蝦夷地の防衛が不十分で、ロシアのパワー・ポリティクスに対抗できるだけの態勢が日本側に整っていなかった、という現実的問題が存在していたことは否めない。
 さらに長崎における日露会談に際し、ロシア側が示した「境界確定幷ニ露船ノ為二港ノ開港ヲ延期スルニ於テハ日本政府ニ容易ナラサルコト多カルヘシ」との外交的圧力もあいまって、結果的に日本側が一定の妥協を強いられたものともいえる。
 沿海州同様「雑居」で乗っ取り
 このように日露和親条約の締結に際して樺太に国境を画定せず、「是迄仕来の通」という名目で未決着のまま先送りしたことは、その後の日露両国人の雑居という曖昧な状況をつくり出し、ロシア側へ樺太進出の口実を与えるものとなった。
 この条約を締結した後、幕府は蝦夷地警備を強化する必要から、安政二年に再び松前藩から松前江差の周辺を除いた東西蝦夷地の上知を行い、南部藩津軽藩久保田藩仙台藩蝦夷地警備のための派兵を命じた。このうち仙台藩択捉島国後島の警備を担当し、当時「北蝦夷」と呼ばれた樺太の警備は久保田藩が受け持つこととなった。
 択捉・国後両島に派遣された仙台藩士達は、同地で越冬するにあたり多大の辛苦を舐め、寒冷地の孤島に所定の兵力を常駐させて継続的な警備を行うことの難しさを、朝野に示した。また樺太については、同地の日本人の多くが出稼ぎ漁民だったことから、久保田藩の兵力派遣は島に出漁者が渡航する夏季のみとし、冬季は留守の番人を置いて引き上げるという、従来の遣り方を踏襲した。
 一方ロシア側は、安政四年に少数の兵力を樺太の久春内(くしゆんない)と真縫(まぬい)に送り込んで駐屯させ、日露両国人雑居の既成事実化に着手しはじめた。
 安政五(一八五八)年に「日露修好通商条約」が締結されると、幕府は蝦夷地警備のさらなる強化を図るため、それまでの五藩に会津藩庄内藩を加えて七藩体制とし、それぞれの藩に蝦夷地を分与して警衛地を区分した。プチャーチンはこの条約を締結する際にも来日して幕府の応接掛と交渉したが、席上日本側が樺太の国境画定について提起すると、プチャーチンはそれに関する全権を委任されていないという理由で、樺太問題の協議に応じなかった。
 北方領域をめぐり強引な要求を押しつけたエフィム・プチャーチン
 翌安政六年、東シベリア総督のムラヴィヨフは、樺太をロシアの領有とすべく、七隻の軍艦を率いて品川沖に来航した。幕府は若年寄の遠藤胤統(たねのり)以下、外国奉行堀利凞(としひろ)・村垣範正らを露使応接掛に任命し、対応にあたらせた。ロシア側は「条約既定(すでにさだむ)ル而(しかし)テ彊界(きようかい)(国境)ノ大事未タ決セス、頃日(けいじつ)我国支那ト約シ黒龍江ノ地ヲ割(さ)キ我ニ属ス(一八五八年璦琿(アイグン)条約)、薩哈連(さがれん)(サハリン)ハ則(すなわち)黒龍江ト同義ナリ宜(よろし)ク露国ニ属スヘシ、請(こ)フ宗谷海峡ヲ以テ両国の彊界ヲ為」すと樺太全島の領有を主張した。
 ロシアの強硬な態度に、日本側は「海峡ヲ以テ界ト為スハ我カ聞ク所ニ非ス…太賴加(たらいか)、幌古丹若(もし)クハ楠内以南ノ我属地タル事明ケシ請フ断然之ヲ以テ界ヲ定ン」と自らの領有を南部だけにすると譲歩しつつも「ロシアの全島領有」には反論して譲らなかった(『北海道志』巻之十七)。
 日露双方の主張はここでも平行線を辿ることとなり、結果的にムラヴィヨフは目的を達することなく退帆した。ここにおいて幕府は、樺太の警備を久保田藩だけに任せる従来のやり方を見直し、文久元(一八六一)年には仙台藩会津藩庄内藩をこれに加えて、四藩が二年毎に年番で警備に就く体制とした。
 仮規則を盾に武力で実効支配
 文久元(一八六一)年、老中安藤信正は、正使竹内保徳・副使松平康直・監察京極高明以下十八人から成る使節を、開市開港延期交渉のためヨーロッパに派遣した。一行は翌文久二年、ロシアの首都ペテルスブルクにおいて、ロシア外務省アジア局長のイグナチェフ樺太の国境問題解決に向けた交渉を行った。ここでも日本側は、樺太の北緯五十度ラインに国境を設定することを主張したが、全島領有を図るロシア側は、宗谷海峡に国境を設けることを提案してこれを受け入れず、結局「各吏ヲ遣(や)リ島ニ会シテ議決スルヲ約シテ」交渉は打ち切りとなった。
 続く文久三年には、ロシア側から樺太の国境画定問題について協議するための使節派遣を要請してきたが、「尊王攘夷」運動への対処という政治問題を抱える幕府側にその余裕がなく、「多事ヲ以テ遷延シテ果サス」という結果に終わった。
 こうして樺太問題が先送りされる中、箱館奉行小出秀実(ほずみ)は、「露人唐太(からふと)ニ在リ米人ト互(たがいに)市ス速ニ彊界ヲ定メスンハ我之ヲ詰ルニ由ナシ…仮令(たとい)数歩ヲ譲リ境ヲ縮ルモ速ニ之ヲ決スルノ弊ナキニ若(し)カサルナリ」との建議を幕府に提出した。
 これを重く見た幕府は、小出秀実と目付石川謙三郎を慶応二(一八六六)年にロシアへ派遣し、樺太の国境画定問題に関する交渉を行わせた。同年十二月、ペテルスブルクに到着した遣露使節一行はロシア皇帝に謁見し、翌慶応三年一月~二月にかけて外務省アジア局長のスツレモウホフと八回にわたる会談を行った。
 この席上、日本側はそれまでの北緯五十度線に国境を定めるという主張から譲歩し、「山河ノ形勢ヲ点検シテ以テ議ヲ定(さだめ)ン」ことを提案したが、ロシア側は全島領有を主張してこれを拒否し、合意に達しなかった。
 結局この交渉においては、両国の間で調印された「樺太島仮規則」にもとづき、樺太を日露両国人の雑居地として再確認するにとどまった。その内容は、第一条で「『カラフト』全島を魯西亜の所領とすへ」きことが示されながらも、第四条で日本側が「承諾難致節は『カラフト』島は是迄の通り両国の所領と致し置く」ものとされ、「両国の所領たる上は魯西亜人日本人とも全島往来勝手たるへし且いまた建物並園庭なき所歟(か)総て産業の為に用ひさる場所へは移住建物勝手たるへし」との仮議定が付け加えられた。
 そしてロシアは、この仮規則を利用して樺太全島を実効支配するため、兵力の派遣と駐留を開始した。しかし日本側は、折からの明治維新に伴う政権交代の中で、こうしたロシア側の動きに対して有効な手立てを講ずる余裕がなかった。
 かくて樺太における国境画定問題は、日本国内の政治的混乱に乗じて実効支配を強めたロシア側が一歩リードした形となり、誕生したばかりの明治政府は苦しい対応を迫られることになった。
 北海道防衛で無念の樺太放棄
 新生の明治政府は樺太問題について、旧幕府がロシアとの間に締結した「樺太島仮規則」にもとづき、同地を日露両属とする立場を継承した。前記したようにロシア側は、「樺太島仮条約」を利用して兵力の駐留・罪人の流刑・開拓移民の奨励など、樺太の実効支配を強化する政策を進めており、明治初期には現地の日本人との間でさまざまな軋轢や衝突を生じるようになっていた(詳細は秋月俊幸「明治初年の樺太―日露雑居をめぐる諸問題―」参照)。
 樺太千島交換条約の締結交渉に当たった榎本武揚。幕末から欧州軍事事情などを見聞
しただけにロシアの脅威を身に染みて感じていたか…
 ロシアの南下を警戒する日本政府は、明治二(一八六九)年に「蝦夷地」の名称を「北海道」と改めたのに続き、翌明治三年には「樺太開拓使」を設置してこれに備える方針を示したが、十分な対策を実施できる状況になかった。そのため日本政府は、樺太に駐在する官吏から再三にわたって軍隊の出動を要請されたにもかかわらず、武力衝突回避の視点から出兵を見合わせていた。
 当時日本側は、樺太問題への対応を誤ればロシアの脅威が北海道にも及ぶとの懸念を有しており、「唐太ハ露人雑居ノ地須(すべか)ラク専(もつぱ)ラ礼節ヲ主トシ条理ヲ尽シテ事ニ従フヘシ卒爾(そつじ)軽挙シ以テ曲ヲ我ニ取ル可ラス或(あるいは)彼(かれの)非理(りあらざる)暴慢ヲ以テ加フル有ルモ必ス一人ノ意ヲ以テ挙動ス可カラス」という姿勢でこれに臨んでいたのである。
 樺太開拓使の開拓次官となった黒田清隆は、日本側による樺太経営の現実と限界を踏まえて、明治四年に「樺太に対する建白書」を政府に提出し、「彼地中外雑居ノ形勢ヲ見ルニ、永ク其親睦ヲ全スル能ハス」との観点から樺太放棄論を示すに至った。
 黒田はこの建白書で、明治初年から開始した樺太開拓の成果が挙がっていない現状を指摘し、「之ヲ棄ルヲ上策ト為ス、便利ヲ争ヒ、紛擾(ふんじよう)ヲ到サンヨリ一著を譲テ経界ヲ改定シ、以テ雑居ヲ止ムルヲ中策トス、雑居ノ約ヲ維持シ、百方之ヲ嘗試(しようし)シ、左(さ)支右吾(しゆうご)遂ニ為ス可ラサルニ至テ、之ヲ棄ルヲ下策ト為ス」とし、「樺太ノ如キハ姑(しばら)ク之ヲ棄テ、彼ニ用ル力ヲ移シテ遠ニ北海道を経理スル」ことを提案したのである。
 日本政府もこうした黒田の意見を容れ、明治八(一八七五)年にロシアとの間で「樺太千島交換条約」を締結した。これにより、「樺太全島ハ悉ク魯西亜帝国ニ属シ『ラペルーズ』(宗谷)海峡ヲ以テ両国ノ境界トス」ることと、十八島から成る「『クリル』全島ハ日本帝国ニ属シ柬察加(カムサッカ)地方『ラパツカ』岬と『シユムシユ』島ノ間ナル海峡ヲ以テ両国ノ境界トス」ることが定められた。
 この条約に関しては当時においても、得撫島(うるっぷとう)以北の千島諸島を代償に、広大な樺太南部を割譲することへの異議が存在していた。しかし明治初期の日本には、樺太の実効支配を「力」で推し進めるロシアを排除し得るだけの国力が備わっておらず、幕末以来の「北門鎖鑰(ほくもんさやく=北方の守り)」という課題に、一定の譲歩を伴いつつ外交的手段で決着をつけざるを得なかったことは、ある意味必然であったといえよう。
軍事圧力で領土侵奪した事実
 十八世紀にはじまるロシアの北方領域での南下政策は、当時すでに日本の施政下にあった千島列島・樺太に対する、武力を背景とした外交的侵食という形で進められた。こうしたロシアからの圧力に、徳川幕府はくり返し外交努力を以て対応したが、「日露和親条約」や「樺太島仮規則」の締結を経て、結果的に択捉島以北の千島列島を手放し、樺太についても著しい主権侵害を蒙ることとなった。
 さらにロシアは、成立したばかりで政権基盤の固まっていない明治政府に対し、北海道さえ呑み込む勢いで樺太の全島領有化を迫り、「日露和親条約」で自国領とした千島列島を、元々の主権者だった日本側に引き渡すという、強圧的な交換条件を以てその要求を貫徹した。
 アジアをめぐる近現代史のなかで、日本はシャム(タイ)と並ぶ、欧米列強からの侵略を受けなかった数少ない国の一つである、と言われることが多い。しかし北方領域における幕末・維新期の日露関係を仔細に見て行くと、この評価は必ずしも正鵠を射たものでないことが知られる。
 すなわち、国家としての変革期で財政力・軍事力とも不安定だった当時の日本が、強権的なロシアの領土要求に対して外交的譲歩を強いられるなか、千島・樺太における主権と領土をロシアに侵食されて行った事実を、看過することはできないのである。 
 このような北方領域における日露関係の歴史を振り返り、その帰属をめぐって両国間で繰り広げられた、外交的攻防の史実を発信することが何より重要である。
 主要参考文▽献鈴木良彦『日露領土問題総鑑』(平成十)▽開拓使編『北海道志 上・下』(昭和四十八年)▽鹿島守之助『日本外交史 第一巻 幕末外交』(四十五年)▽同『日本外交史 第三巻 近隣諸国及び領土問題』(同)▽原剛『幕末海防史の研究』(六十三年)▽大熊良一『幕末北方関係史攷』(四十七年)▽秋月俊幸「明治初年の樺太―日露雑居をめぐる諸問題」(平成五年)
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 あさかわ・みちお 昭和三十五年東京生まれ。五十九年日本大学国際関係学部卒業、平成二年同大学院法学研究科博士後期課程満期退学。十七年「江戸湾内海の防衛と品川台場」で軍事史学会「阿南・高橋学術研究奨励賞」受賞、二十年「品川台場にみる西洋築城術の影響」で博士号取得、同年軍事史学会理事、二十二年日本大学国際関係学部教授。幕末から明治維新までを中心とした政治・軍事・国際関係史が専門で、江戸の「海上の守り」であった品川台場も研究。著書に『お台場 品川台場の設計・構造・機能』(錦正社)、『江戸湾海防史』(同)、『明治維新と陸軍創設』(同)。共著に『日英交流史三 軍事』(東京大学出版会)、『ビジュアル・ワイド 明治時代館』(小学館)など。論文に「幕末の洋式調練と帯刀風俗」「辛未徴兵に関する一研究」「幕末・維新期における近代陸軍建設と英式兵学」など。
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