☭6」─1─文化露寇事件。徳川幕府はロシアの侵略からアイヌの島を守る為に東北諸藩に出兵を命じた。1807年~No.14No.15No.16 * ⑤ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つを立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 ロシアの日本侵略を取り上げない日本の歴史書は、信ずるに値しない悪意に充ちた偽物である。
   ・   ・   ・   
 択捉島国後島色丹島歯舞諸島北方領土4島は、島を守る為に命を捨てた日本人がいた以上、紛れもなき日本の固有領土である。
 そして、アイヌ人は日本に味方してロシアと戦った。
 二島返還や面積二分返還などロシアの「引き分け論」を支持する日本人は、母国愛の日本民族日本人ではない。
 それは、歴史に対する許されざる、万死に値する冒涜である。
 日本人の仮面をかぶて日本人らしく振る舞っていても、日本の心・志・精神・気概を一切持っていない、薄情、冷淡で、空虚な人間である。
   ・   ・   ・   
 日本人は、外圧に弱い、外圧がなければ何も変えられない、それは真っ赤な嘘である。
 外圧に弱い、外圧がないと何も変えられない、それは現代の日本人であって、昔の日本民族日本人はそんな惨めな人間、ダメ人間ではなかった。
   ・   ・   ・   
 日本の真の脅威は、ロシアであった。
 ロシアの日本侵略という恐怖が、日本を暴走させた。  
   ・   ・   ・   
 ロシア海軍は、日本領北方領土で海賊行為を働き、日本人を連行して虐殺した。
   ・   ・   ・   
 日本は、外圧に弱いのか?あるいは、外圧に強いのか?
 日本は、外交能力がないのか?あるいは、外交能力があるのか?
 昔の日本人と現代の日本人は、同一の日本人か?あるいは、異質な日本人か?
   ・   ・   ・   
 崔基鎬「エリートが武─軍事力を軽視する国は、強国のいうことは聞くほかなく、独立を維持することができない」(『日韓併合の真実』)
   ・   ・   ・   
 文化露寇事件。(シャナ事件・北辺紛争・フヴォストフ事件)。 
 日本の陰暦……文化4年4月23日〜文化4年5月1日。
 西洋の太陽暦…1807年5月30日〜1807年6月6日。
   ・   ・   ・   
 明治維新の序章。
 吉田松陰ら心ある民族主義者は、国家存亡の危機として行動した。
   ・   ・   ・  
 佐久間象山「失敗するからこそ成功がある」
 「陸奥のそとなる蝦夷のそとを漕ぐ 船よりとほく物をこそ思へ
   ・   ・   ・   
 日本軍国主義の胎動。
 ロシアの侵略から祖国日本を守る為に、軍国主義の道を歩み始めた。
   ・   ・   ・    
 江戸幕府は、ロシア帝国との戦争覚悟で、武力を用いて北方領土を死守した。
 日本領北方領土を守る為の、尊い犠牲であった。
 北方四島は、日本の領土である。
   ・   ・   ・   
 その時、アイヌ人達は、日本の味方か?それとも敵か?
 中立の立場として、日本の味方もしなければ、ロシア帝国の味方もしない、は通用しなかった。
 ロシア帝国の保護下にいた千島列島アイヌ人は、歴史から消滅した。
   ・   ・   ・   
 アイヌ人とは、南方系縄文人揚子江弥生人が混血した日本人・和人とは異なり、北方系草原の民と南方系縄文人が混血した子孫である。
 アイヌ語は日本語とは異なり、アイヌ文化は原始縄文文化につながっていた。
 文化は複雑から単純に流れる事から、アイヌ人は日本人と交易するに従って日本化していった。
 アイヌ人は、狩猟収穫した物を、日本とだけではなくシベリア、樺太、千島列島、カムチャッカ半島に運んで地元民と広く交易していた。
 ただし、文字を持たず、記録を残さなかった為に、アイヌ人交易は沈黙貿易と言われている。
 瀬川拓朗「交易を通してみえてくる複雑なアイヌの姿は、かれらを歴史をもたない民、閉じた世界に安住する狩猟採集民、政治的結合もない低位レベルの社会などとみなす、あらゆる言説が誤りであることを示しているのです」(『アイヌ学入門』) 
   ・   ・   ・   
 ウルップ島。地元のアイヌ人達は、日本に交易を求めて訪れたロシア人一行を皆殺しにし、全ての持ち物を強奪した。
   ・   ・   ・    
 1644年 幕府は、松前藩が北方4島を自藩領として申告したので、日本地図『正保御国絵図』に「クナシリ(国後)」「エトホロ(択捉)」などの島名を明記した。
   ・   ・   ・   
 1803年 アレクサンドル1世は、レザノフを特派全権大使に任命して、日本に派遣した。
 1804年 ナポレオンは、フランス皇帝となり、ヨーロッパ制覇の戦争を本格化した。
 レザノフは、日本との通商を求めて長崎に来航した。
 幕府は、西洋諸国との交易はオランダ以外とはしないという祖法に従って通商要求を拒絶し、万国公法を無視して親書を突き返した。
 9月 ニコライ・レザノフは、日本人漂流者・津太夫らを伴って長崎に来航し、日本との交易交渉を始める為の国書(ロシア語による正文と日本語・満州語による訳文)を提出した。
 長崎奉行は、時間を稼ぐ為に、日本語の訳文は不完全で意味を取る事が難しいと難癖を付け、事態を江戸に知らせた。
 レザノフは、同伴してきたドイツ人の博物学教授ラングスドルフにロシア語の国書をオランダ語に翻訳し、それを重訳する形で日本語に直された。
   ・   ・   ・   
 1805年 レザノフは、大国ロシア帝国の特使としての名誉を傷付けられ、激怒して帰国の途についた。幕府に通商を開かせるには軍事的圧力しかないとして、部下に日本への海賊行為を命じた。
   ・   ・   
 1806年 ロシア軍艦は、9ヶ月間、択捉島樺太の各地を襲撃し、日本人を連行し食料や水などを強奪した。蝦夷沖では、日本船を発見しだい攻撃した。
 海賊行為を行ったロシア人は、その残忍性を存分に発揮し、拉致した日本人を陰惨な方法で虐殺して海に遺棄した。
 人種差別主義のロシア人にとって日本人は、文明なき野蛮な「サル」にすぎなかった。よって、どれだけの日本人を惨殺しても罪悪感はなかった。
 むしろ。酒を飲み、笑い、楽しんで、日本人をいたぶりながら殺した。
 択捉島などを守備していたサムライは、ロシア人の攻撃に脅え狼狽え、命欲しさに持ち場を捨てて逃げ惑った。
 1月26日 江戸幕府は、異国船打払令を廃止し薪水給与令(文化の撫恤令)を発布した。
 2月 仙台藩は、津太夫から聞き出したロシア事情を『環海異聞』としてまとめた。
 9月 フヴォストフ事件。レザノフの部下ニコライ・フヴォストフは、樺太松前藩番所を襲撃した。
   ・   ・   ・   
 *文化露寇事件(北辺紛争・フヴォストフ事件)の勃発である。
 世界は、日本を7大帝国の一つとして恐れていた。
 レザノフは、日本の海防力が弱い事を確認し、日本を脅すには砲艦外交が有効であると報告した。
 日本の陰暦……文化4年4月23日〜文化4年5月1日。
 西洋の太陽暦…1807年5月30日〜1807年6月6日。
 江戸幕府は、ロシアとの戦争覚悟で、武力を用いて北方領土を死守した。
 日本領北方領土を守る為の、尊い犠牲であった。
 北方四島は、日本の領土である。
   ・   ・   
 1807年 幕府は、松前領を含む全蝦夷地を直轄地とし、ロシア帝国から蝦夷地・択捉島樺太を防衛する為に奥羽諸藩に動員命令を出して、臨戦態勢を引いた。
 兵力、約3,000人。
 ロシア帝国は、日本の侵略を恐れてカムチャッカ半島の防備を固めた。
 千島列島にいたロシア人達は、戦争を避ける為に本土に避難した。
 ロシア帝国は、千島列島アイヌ人を強制移住させて地上から消し去った。
 幕府は、ロシア帝国の侵略に備えて、アイヌ人を味方に付けるべく出来うる限りの保護策をとった。
 4月 幕府は、松前蝦夷地・樺太北方領土すべてを直轄にして松前奉行を置き、南部・津軽・秋田など東北諸藩に警備を命じた。
 5月 文化露寇。フヴォストフは、択捉島駐留の幕府軍を攻撃した。
 江戸幕府は、薪水給与令を撤回した。
 12月 幕府は、ロシア船打払令を発布して、幕府軍の増強を謀った。
 津軽藩士殉難事件。フヴォストフは、津軽藩士を殺害した。
   ・   ・   ・   
 1808年 皇帝アレクサンドル1世は、ロシア軍の日本領への暴挙を聞くや全軍撤収命令を下し、フヴォストフは処罰された。
 イギリス軍艦フェートン号事件ナポレオン戦争の余波として起きた事件。
 間宮林蔵と杉田伝十郎は、間宮海峡シーボルト命名)を発見して樺太は日本領としたが、極寒の地の為に農耕には不向きであった。
 「日本海」という名は、サムライ達の苦難に満ちた活躍でその名前が世界に広められていった。
 日本人は、「日本海」という名を守らねばならない。
   ・   ・   ・   
 幕府は、蝦夷地・北方領土樺太防衛強化の為に奥羽諸藩に更なる派兵を命じた。
 兵力、約4,000人。
   ・   ・   ・   
 1809年 間宮林蔵は、間宮海峡沿海州へ渡って黒竜江下流を調査して『東韃地方紀行』という報告書をまとめられた。
   ・   ・   ・   
 1811年 淡路の廻船問屋高田屋嘉兵衛(最下層の水夫出身)の努力で、ゴローウニン事件は解決し、日露紛争は終焉した。
 死を覚悟した身分の低い日本人達の奔走により、国際交渉によって日本の名誉と領土が守られ、話し合いで両国の戦争が回避された。
 彼等は、現代日本人とは全く違う、別の日本人である。
   ・   ・   ・   
 1812年 ロシア帝国は、ナポレオンの大陸封鎖令を破ってイギリスと貿易を再開した。
 ナポレオン皇帝が率いるフランス軍は、ロシア帝国に侵入した。
 ナポレオンは、68万人の遠征軍を率いてモスクワを占領したが、退却途中でソ連軍の攻撃を受け、極寒の悪天候で犠牲者を出した。パリに帰り着いたのは、約3万人のみと云われている。
 ロシア帝国は、ヨーロッパの動乱に忙殺され、日本との話し合いに応じた。
 だが、アジアへの侵略を断念したわけでも、蝦夷地の自国領化を諦めたわけでもなかった。
 日本の危機は、去ったわけではなく、ロシア帝国の事情で一時沈静化したのみであった。
 ナポレオン戦争による被害者は、数百万人といわれている。
   ・   ・   ・   
 米英戦争。第二次独立戦争
 ロシア探検隊は、サンフランシスコに付近に到達した。
   ・   ・   ・   
 1817年 フランスの東洋学者は、『三国通覧図説』を元に「OBO−NIN諸島」と紹介した。
   ・   ・   ・   
 1823年 佐藤信淵は、神国日本を外敵から守る為には、海外に打って出るべきであると主張した。支那満州・台湾・フィリピンを征服し、南京を都として、世界を支配するべきであるとの侵略計画を説いた。アヘン戦争の顛末を知るや、清国との同盟を主張した。
   ・   ・   ・   
 1825年 幕府は、異国船打払令を発し、日本沿岸を領地とする大名に来航する外国船を撃退する様に命じた。
 ロシア帝国でデカブリスト(12月党員)の反乱が起きた。ナポレオン戦争に従軍した若い貴族達は、「自由」「平等」「博愛」のフランス革命思想に触れ、ロシア皇帝キリスト教会などの腐敗堕落した特権階級から人民や農奴を解放すべきであるとして反乱を起こした。
 農奴は、貧困と格差の中で悲惨の生活を強いられていたが、昇格できない下級貴族による反逆として参加しなかった。
 デカプリストの反乱は、人民が変革を嫌い伝統社会に固執した為に失敗した。
 反乱が鎮圧されるや、参加した者はもちろん、賛同し支持した者も容赦なく弾圧された。
 5月 皇帝ニコライ1世は、日本との交易を優先し、択捉島以南(北方領土)を日本領とする事を承認した。
 北方四島は、ロシアが正式に認めた日本の固有の領土である。
 一島も欠けてはならない、日本の領土である。
   ・   ・   ・   
 1828年 シーボルト事件。最上徳内高橋景保は、シーボルトに北方の地図や日本の地図を渡し、引き換えにクルーゼンシュテルンの『世界周航記』を手に入れた。
 日本海は、既に日本海と記載されていた。
 北方領土も、日本領土とされていた。
 間宮林蔵は、シーボルトの手紙を上司に提出して事件が発覚した。
   ・   ・   ・   
 1837年 アメリカ船モリソン号事件。
 蛮社の獄
 1840〜42年 アヘン戦争
 幕府は、アヘン戦争の顛末を知るや、戦争の危険がある異国船打払令を緩和し、来航した外国船に薪・水・食糧を与える薪水給与令を発した。
 サムライ日本は、清国の二の舞にならない様にオランダを通じて国際情勢を注意深く観察していた。
   ・   ・   ・   
 1844年 フランス船が、琉球に来航した。
   ・   ・   ・   
 1845年 イギリス船が、琉球に来航した。琉球王朝に対して、清国への寄港地として利用する為に開港と通商を求めた。
 1846年 フランス海軍提督は、琉球王朝に対して通商条約締結を求める書簡を送った。
 琉球王朝は、清朝冊封国であり、交易品の多くを鎖国の日本から購入している事を伝え、日本の鎖国令に違反して異国と交易を始めると当国は存続できなくなるとして断った。
 つまり、日本が開国して鎖国策を放棄すれば通商条約を受け入れると答えた。
   ・   ・   ・   
 1849年 幕府は、ロシア帝国の侵略に備えるべく、松前藩松前祟広に松前城の改築を命じた。
 高崎藩の市川一学は、津軽海峡を警戒する為に、海に向けて西洋式砲台37基を備えた実戦重視の和洋折衷型城郭とした。
 江戸幕府は、現代の日本とは違って国防意識が強く、蝦夷地はおろか北方領土を武力を用いても守ろうとした。
 サムライは、食料を生産し食べて生きる為の土地を後生大事にし、命を捨てても守ろうとした。
 現代の北方領土返還交渉で、ロシア側に譲歩して、二島返還論や面積二等分で3島と半島返還論を主張して喜んでいる日本人がいる。
 彼らは、サムライではない。
   ・   ・   ・   
 1851年 ペリー艦隊は、父島に上陸し、母島をヒルスボロー、母島群島をコフィン群島と名付け、アメリカ領であると宣言した。
 欧米列強は、日本近海の島々を自国領に為るべく活発に活動していた。
 白人キリスト教国は、日本の都合など一切考慮せず自国の国益のみを追求し、邪魔であれば日本そのものをも排除しようとしていた。
 太平天国の乱。
   ・   ・   ・   
 1852年5月 皇帝ニコライ一世は、日本との交易を優先し、択捉島以南を日本領とする事を承認した。
 現代の北方領土である。
 北方四島は、日本の固有の領土である。
 一島も欠けてはならない、日本の領土である。
   ・   ・   ・   
 1853年 イギリス政府は、アメリカに対して小笠原諸島はイギリス領土であるとして抗議した。ペリーは、上陸していたセボレーはアメリカ人であるとし、イギリスの先占権を否定して、アメリカ領を宣言した。
 日本の周辺海域は、欧米列強の草刈り場になっていた。
 キリスト教欧米列強は、日本を分割して植民地化する為に押し寄せてきた。
 ロシア帝国は、領土を拡大する為に、周辺諸国・地域に軍隊を派遣し、敵軍を撃破して、敵国人を虐殺し、金銀財宝を強奪していた。
 クリミア戦争(〜56年)。ロシア軍は、聖地管理権を求めてオスマントルコ領を侵略した。
 イギリス・フランスは、ロシア帝国が東アジアから中央アジアまでの間で南下して来る事に警戒した。
 イギリスは、植民地インドからペルシャの間でインド洋沿岸に姿を現す事を恐れていた。
 ロシア帝国は、東アジアでの優位性を確保する為に、西欧諸国より早く日本との国交を開くべく使節団を送った。
   ・   ・   ・   
 クリミア戦争後、ロシア人は日本領樺太に移住し始めた。
 幕府と松前藩は、少人数のロシア人移住者を警戒せず受け入れた。
 樺太は、アイヌ人、日本人、ロシア人、その他少数民族が混在する「雑居の地」となった。
 ロシア人は、領土拡大の野心が強いだけに、まず一部の土地を手に入れ、その後に武力を用いて全てを奪ってきた。
   ・   ・   ・   
 日本の民族主義者は、ロシア帝国の侵略から神国日本を武力で守る為に軍国主義者へと変容していった。
 軍国主義国歌日本・軍国日本の誕生である。
   ・   ・   ・   ・    
 ソ連は1945年8月9日に日ソ中立条約を破棄して日本と満州国に侵略し、ロシア人兵士は逃げ惑う日本人避難民(女性や子供)を虐殺して北方領土を強奪した。
   ・   ・    ・  
 2001年 日本の政治家は、北方領土を取り返す為に戦争をしない代わりの譲歩案として、二島返還論や領土半分分割案などを提案した。
 つまり、ソ連の中立条約違反を不問に付し固有領土の半分を諦めるから、半分だけでも返して欲しいと泣き付いたのである。
 靖国神社に祀られている英霊達の祖国への切ないほどの想いを裏切っり、先祖伝来の土地を命を犠牲にしても守ろうとしたサムライの不退転な志を踏みにじった。
 土地よりも平和を、土地の為に戦争をしない、それが現代日本人の歴史を捨てた覚悟である。
 現代日本人に、祖先達の苦難に満ちた歴史を語る資格はない。
   ・   ・    ・   
 2016年8月5日 産経ニュース「北方領土返還、ロシア世論56%が拒否 「1島も返すべきでない」25年前から大幅増 
 ロシアの独立系世論調査機関レバダ・センターが5日発表した世論調査によると、北方領土問題について日本には1島も返還すべきでないと回答したロシア国民が56%に達し、1991年の37%に比べて大幅に増えた。4島返還を容認する回答は8%と91年と変わらず、世論が軟化していないことを示した。
 歯舞、色丹の2島を引き渡す形で解決すべきだとの回答は9%へと増えたが、日ロ両国による4島共同統治への支持は8%に減った。
 プーチン大統領は、56年の日ソ共同宣言に基づき、平和条約締結後に2島を引き渡す形での解決を主張している。調査結果は2島返還論でさえ、世論に相当な抵抗があることをうかがわせる。
 日ロ両国が戦後、平和条約を結んでいない問題については、条約締結が重要だと考える国民が2005年は73%だったが、今回は48%に減少した。(共同)」
   ・   ・   ・   
 8月31日 産経ニュース「露、北方領土周辺で軍事力強化 返還交渉の障害に
 【モスクワ=黒川信雄】ロシアがクリール諸島(千島列島と北方領土)周辺の軍事力整備を急ピッチで進めている。露国防省はこのほど、千島列島の2つの島で新たに軍の配備を検討していると表明。ベーリング海峡沿岸にも新師団を置くと明らかにした。北極海での権益維持や米国を牽制(けんせい)する狙いがあるとみられる。2日に日露首脳会談が行われるが、ロシアの実効支配強化は、日本の北方領土返還交渉をさらに難航させる要因にもなりかねない。
 露国防省は8月23日、千島列島での新たな海軍基地建設に向けて4〜6月に実施された現地調査で、すでに報じられた中部マトゥワ島に加え、北部パラムシル島でも調査が行われ、両島への軍配備が検討されていることを明らかにした。また2018年までに東シベリア・チュクチ半島で、湾岸防衛のため新師団が編成される計画も表明した。
 国防省は昨年7月、露極東の沿海地方から北極圏までをつなぐ沿岸防衛システムを構築する方針を決定。ベーリング海峡や露太平洋艦隊の航路防衛、海洋戦略核戦力の安定性向上などが狙いとされている。千島列島への軍配備なども、その方針を受けたものだ。
 ロシアが同海域の軍事力を強化するのは、北極海オホーツク海の海洋・地下資源、将来的な通商路として期待する北極海航路の維持・防衛が目的だ。
 ロシアは15年末に改訂された国家安全保障戦略で、極東、北極圏の開発や、北極海航路の発展を重視する方針を表明。ロシアは北極海沿岸諸国で最大の排他的経済水域EEZ)を有するなど、資源開発で優位な立場にあり、利用が伸び悩む北極海航路についても、将来の需要増を見込み、開発の手を緩めない姿勢だ。
 またクリール諸島周辺の軍備強化には対米牽制の狙いもある。ロシアの専門家は米国が近年、米西部沿岸部へのミサイル防衛(MD)システム配備や米艦船によるロシア沿岸への接近など「ロシアの軍事力弱体化を狙った政策」を強めているとし、これに対抗するためロシア側が極東の軍事力整備を進めていると指摘している。
 ロシアは北方領土の択捉、国後両島でも新駐屯地の建設を進めている。露メディアでは、クリール諸島の軍事化が完全に実施されれば、日本側が領土返還要求を行う余地はなくなるとの強硬な見方も浮上している。」
   ・   ・   ・    
 ウィキペディア
 日本側が記録したレザノフの船と部下
 文化露寇は、文化3年(1806年)と文化4年(1807年)にロシア帝国から日本へ派遣された外交使節だったニコライ・レザノフが部下に命じて日本側の北方の拠点を攻撃させた事件。事件名は日本の元号に由来し、ロシア側からはフヴォストフ事件(ロシア語: Инцидент Хвостова)とも呼ばれる。
 概要
 江戸時代後期の1804年、ロシア皇帝アレクサンドル1世から派遣されたニコライ・レザノフにより行われた通商要求行動の後にロシア側から行われた軍事行動である。それに先だってロシアはエカチェリーナ2世治下の1792年、アダム・ラクスマン根室に派遣し、日本との通商を要求したが、江戸幕府はシベリア総督の信書を受理せず、通商要求に対しては長崎への廻航を指示、ラクスマンには長崎への入港許可証(信牌)を交付した。
 文化元年(1804年)、これを受けて信牌を持参したレザノフが長崎に来航し、半年にわたって江戸幕府に交渉を求めたが、結局幕府は通商を拒絶し続けた。レザノフは幽閉に近い状態を余儀なくされた上、交渉そのものも全く進展しなかったことから、日本に対しては武力をもって開国を要求する以外に道はないという意見を持つに至り、また、日本への報復を計画し、樺太択捉島など北方における日本側の拠点を部下に攻撃させた。レザノフの部下ニコライ・フヴォストフは、
 文化3年(1906年)には樺太松前藩居留地を襲撃し、その後、択捉島駐留の幕府軍を攻撃した。幕府は新設された松前奉行を司令官に、津軽藩南部藩庄内藩久保田藩秋田藩)から約3,000名の武士が徴集され、宗谷や斜里など蝦夷地の要所の警護にあたった。こうした中、文化4年(1807年)には斜里に駐留していた津軽藩士70名が厳寒の越冬中に病死する事件が起こっている(津軽藩士殉難事件)。しかし、これらの軍事行動はロシア皇帝の許可を得ておらず、不快感を示したロシア皇帝は、1808年全軍に撤退を命令した。これに伴い、蝦夷地に配置された諸藩の警護藩士も撤収を開始した。なお、この一連の事件では、日本側に、利尻島で襲われた幕府の船から石火矢(大砲の一種)が奪われたという記録が残っている。
 樺太への襲撃
 文化3年9月11日(1806年10月22日)、樺太の久春古丹に短艇で上陸したロシア兵20数名は、銃で威嚇して17、18歳のアイヌの住民の子供1人を拉致した。13日にも30数人の兵が再び上陸し運上屋の番人4名を捕えた後、米六百俵と雑貨を略奪し11箇所の家屋を焼き、魚網及び船にも火を放ち、前日拉致した子供を解放して帰船。ロシア側本船は17日に出帆しその地を去った。船を焼失した影響で連絡手段が絶たれたため、翌年4月になってこの事件が松前藩及び幕府に報告された。
 シャナ事件
 シャナ事件
 戦争:文化露寇
 年月日:文化4年4月23日(1807年5月30日)〜文化4年5月1日(1807年6月6日)
 場所:蝦夷択捉島
 結果:ロシア側の勝利
 交戦勢力
 露米会社武装集団
 江戸幕府箱館奉行津軽・南部軍
 指導者・指揮官
 ニコライ・フヴォストフ
 箱館奉行支配調役下役・戸田又太夫
 箱館奉行支配調役下役・関谷茂八郎
 戦力 不明
 200〜300
 損害
 不明
 日本側の全軍撤退、紗那幕府会所の喪失
 表示
 文化4年4月23日、ロシア船二隻が択捉島の西、内保湾に入港した。番人はこれを紗那の幕府会所に通報した。紗那は幕府会所のある同島の中心地であり津軽南部藩兵により警護されていた。箱館奉行配下の役人・関谷茂八郎はこの報に接し、兵を率いて内保まで海路で向かうがその途中、内保の南部藩の番屋が襲撃され、番人5名を捕え米塩什器衣服を略奪して火を放ち、本船に帰り既に出帆したとの報を受ける。関谷は内保行きを中止して紗那に戻り、その守りを固める。
 4月29日、ロシア船が紗那に向けて入港してくる。即時交戦を主張した津軽、南部の隊長の意見を退けた幕吏達は、まず対話の機会を探るため箱館奉行配下の通訳・川口陽介に白旗を振らせて短艇で上陸しようとするロシア兵を迎え入れようとするが、ロシア兵はこれを無視し上陸後即座に日本側に銃撃をしかけたため、川口は股部を銃が貫通し負傷する。幕吏もようやく対話の困難を認め津軽南部藩兵に応戦を命じるも、圧倒的な火力の差に日本側は苦戦する。夕刻となりロシア側は本船に帰船。艦砲射撃により陸上を威嚇する。このような圧倒的な戦力差により戦意を失った指揮官の戸田、関谷達は、紗那を捨て撤退することを決意する。幕吏の間宮林蔵や久保田見達はこの場での徹底抗戦を主張するも戸田らに退けられる。これにより敗戦の責任を痛感した戸田は、留別へ向けて撤退中の野営陣地にて自害している。一行は振別に到着後多少の人員を箱館に送還し、津軽南部藩兵は警備の都合上そのまま振別に駐屯させている。
 5月1日、日本側が引き揚げた紗那幕府会所にロシア兵が上陸。倉庫を破り米、酒、雑貨、武器、金屏風その他を略奪した後放火する。翌2日にも上陸し、この際に戦闘で負傷しその場に留まっていた南部藩の砲術師、大村治五平がロシア側の捕虜となっている。5月3日、ロシア船は出帆し紗那を去る。
 6月6日、捕虜となっていた大村治五平や番人達が解放され宗谷に帰還する。
 影響
 この事件は、爛熟した化政文化の華が開き、一見泰平にみえる日本であらためて国防の重要性を覚醒させる事件となった。江戸幕府の首脳はロシアの脅威を感じることとなり、以後、幕府は鎖国体制の維持と国防体制の強化に努めた。また、日露関係の緊張によって、幕府は自らの威信を保つためにも内外に対して強硬策を採らざるを得なくなった。このことは1811年のゴローニン事件の原因となった。さらに、この事件は平田篤胤国学を志すきっかけとなったともいわれている。
 2010年、文化露寇の際にロシア側が日本から分捕った品々の多くはロシア政府に渡り、現在サンクトペテルブルクの人類学・民俗学博物館(クンストカメラ)に収蔵されていることが東京大学史料編纂所の調査で明らかになった。内訳は南部兵の甲冑や刀、鑓、鉄砲といった武器を始め日用品も含まれているが、接収された大砲3門のうちのフランキ砲の1門には「FRCO」を重ね文字で表す印章が附されている。この印章は「フランシスコ」の洗礼名を表し、キリシタン大名大友宗麟が用いた「国崩」の1つだと考えられる。
   ・   ・   ・   



   ・   ・   ・