☭4」─2─ロシアは親露派アジア人を使ってアジアに領土を拡大した。~No.8  

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 徳川幕府後期、幕末の外国からの侵略の脅威とは、ロシアの軍事侵略とキリスト教会の宗教侵略であって、アヘン戦争の結果による西洋の近代文明侵略ではなかった。
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 2022年6月17日 MicrosoftNews 現代ビジネス「アジア人を使ってアジア人を征服。ロシアの残忍さはシベリアでも発揮された 日本の国土防衛のために知るべきこと
宇山 卓栄
 ロシアが北海道周辺で気になる動きを見せている。もともとロシアの領土への野心はアジアにも向かっていた。シベリアを侵略し、清王朝の弱みにつけこんでハバロフスクウラジオストクを建設した。それは同時にアジア文明の消滅でもあった。アジア人はなぜそれを防げなかったのだろうか。民族・宗教・文明に着目して世界史を研究する宇山卓栄氏の新刊『民族と文明で読み解く大アジア史』(講談社+α新書)からご紹介する。今後の日本の国土防衛を考える上で欠かせない知見が満載だ。
 アジアはなぜロシアを撃退できなかったか
 ロシアの港湾都市ウラジオストクは東京から2時間の飛行時間で行くことができ、「日本から一番近いヨーロッパ」と言われます。コロナ問題やウクライナ問題が発生する以前は、日本人旅行者にとっても人気の観光地になっていました。
 ウラジオストクは1860年以降、ロシア帝国によって建設されました。それ以前は何もない荒れ地でした。中国は13世紀頃、この地に街を建設し「永明城」と名付けていたと主張していますが、その実態は不明です。ウラジオストクの現在の人口は約60万です。
 © 現代ビジネス ウラジオストク Photo by GettyImages
 ウラジオストクの「ウラジ(ヴラジ)」はロシア語で「支配」を意味し、「ヴォストーク」は「東」を意味します。つまり、「ウラジオストク」とは「東を支配する拠点」という意味になります。ヨーロッパ白人勢力が到達したアジアの最深域としてのウラジオストクを拠点に、ロシアはさらに1875年の樺太・千島交換条約で、樺太を領有します。1945年には日本の敗戦とともに国後・択捉・歯舞・色丹の4島を占領して今日に至ります。
 彼らはどのようにして、遠く離れた極東アジアにまで進出したのでしょうか。また、アジア勢力はどうして彼らを撃退することができず、このようにアジア深域への進出を許す結果となってしまったのでしょうか。
 15~16世紀、大航海時代がはじまり、ヨーロッパ勢力がアジアに本格的に進出しはじめます。大西洋から喜望峰を経てインド洋へと至るルートの他に、北極海を経てアジアに至る北東航路が開拓されます。16世紀後半にはイギリス船やオランダ船がバレンツ海沿岸に頻繁に現れるようになります。
 イギリスやオランダがバレンツ海からシベリアに進出するようなことがあれば、ロシアにとっては大きな脅威となります。ロシアは地政学上、シベリアを意識せざるを得ませんでした。
 ロシア最大の富豪ストロガノフ家の暗躍
 当時のロシアはモスクワ大公国と呼ばれており、有名なイヴァン4世(雷帝)が君臨していました。モスクワ大公国はすでにウラル山脈以西に進出していましたが、当時の主力交易品であった毛皮資源が過度な狩猟により枯渇していました。そのためウラル山脈以東のシベリアへの進出が図られます。
 © 現代ビジネス
 ウラル山脈以東には、アジア系のシビル・ハン国がありました。この国はキプチャク・ハン国が15世紀に分裂した時にできた4ハン国の一つでした。キプチャク・ハン国はモンゴル人が13世紀に建国しました。チンギス・ハンの長男ジュチがキプチャク・ハン国の始祖で、その次男が同国の実質的な建国者であるバトゥです。ジュチの第五男でバトゥの弟にシバン(Shiban)という人物がおり、このシバンの一族がシャイバーニー家と呼ばれます。「シャイバーニー」が「シビル」の語源となります。さらに「シビル・ハン国」の国名がもとになり、「シベリア」とロシア風に呼ばれるようになります。
 ロシアは16世紀末、シビル・ハン国を征服し、その版図は一気に倍以上に拡がりました。
 ロシアのシベリア征服の最大の立て役者が遠征軍を率いたイェルマークですが、陰の立て役者として重要なのがストロガノフ家です。ストロガノフ家はロシアの大商人の家系で、バレンツ海の内海である白海沿岸に領地を持ち、16世紀の初めに製塩事業を起業して大成功します。イヴァン4世を財政面から支え、その功労で広大な荘園を与えられ、ロシア最大の富豪となります。「ビーフストロガノフ」という料理がありますが、ストロガノフ家の当主が老齢で歯が悪くなったので、食べやすいように牛肉を煮込んだことにはじまると言われています。
 地政学上の安定、毛皮交易の利権確保などの観点から、ロシアにとって、ウラル山脈以東のシベリア進出が不可避であることを、ストロガノフ家はイヴァン4世に進言します。イヴァン4世はこの話にあまり乗り気ではなく、正規軍を派遣することはありませんでしたが、ストロガノフ家に一任しました。
 ロシアがアジア征服に使った人々
 ストロガノフ家は豊富な資金力で軍団を編制します。その時に大量に傭い入れられたのが、イェルマークらコサックたちでした。コサックは元々、ウラル山脈以東にいたトルコ系アジア人で、7世紀から9世紀の間、彼らはウラル山脈を越えてロシアへやって来ました。「コサック」はトルコ語の「Qazaq(カザーク)」に由来し、「自由の人」や「冒険家」を意味します。騎馬を自在に操る戦闘集団としても知られています。
 彼らはシベリア遠征と引き換えに、モスクワ大公国によりウラル山脈の西側一帯に正式な居住地を与えられ、ストロガノフ家からは財政的な支援を与えられました。こうしてイェルマークらのコサック遠征隊が組織されたのです。
 他方、シベリアのシビル・ハン国はモンゴル帝国の後継国であり、その人々はモンゴル系を中心にトルコ系も混ざっていたアジア人でした。アジア人を討伐するためにアジア人を使う、いわば「毒を以て毒を制する」という戦略を、ストロガノフ家は用いたのです。ストロガノフ家などのロシア人たちは汗や血を流さず、利権や金銭をコサックたちに与えたのみで、アジア人の死闘を座視していただけでした。自分たちでは手を汚さず、他民族どうしを争わせて漁夫の利を得るというのが、ロシア人に限らず、ヨーロッパ白人の常套手段です。
 イェルマークは1578年に遠征を開始します。イェルマークらコサック軍団は遠征先で容赦のない略奪を繰り返しました。そのためイヴァン4世は怒り、遠征を中止させようとしたほどでした。イェルマークが1582年にシビル・ハン国の首都カシリクを占領し、イヴァン4世に多量の毛皮などの戦利品を献上して、何とか帝の機嫌を取り持つことができました。
 シベリア遠征の成功により、ストロガノフ家の名声も高まりました。ストロガノフ家は毛皮交易の利権や東方の土地領有権を獲得します。ストロガノフ家の栄華は東方植民によって支えられたものでした。
 イヴァン4世が1584年に死去すると、ロシアで動乱が頻発し、帝位の簒奪者や空位期の僭称者が続きます。約30年の動乱期を経て、1613年、ロマノフ家のミハイル・ロマノフが新たにツァー(皇帝)に選出され、ロマノフ朝を創始しました。ロマノフ家はストロガノフ家と密接な関係を持ち、同家の支援によって、ツァーの座に就くことができたのです。ストロガノフ家は歴代のロシア皇帝に仕え、ロシアの政治や経済を取り仕切ります。
 ロシアは南進でなく東進を選んだ
 イェルマークの軍団はシビル・ハン国の征服後も、さらに東進して、支配領域を拡げていきます。しかし、シビル・ハン国の残党勢力もイェルマークに激しく抵抗しました。奇襲攻撃を受けたイェルマークは1585年、戦死します。イェルマーク亡き後も10年以上、シビル・ハン国の残党勢力の掃討戦は続きました。
 コサック軍団はトルコ系やモンゴル系の小部族を従えながら、さらに東進します。シベリアのオビ川・エニセイ川・レナ川などの大河の支流は東西に網の目のように流れており、各水系を舟で渡り、迅速かつ容易に東進することができました。コサック軍団は1636年、ついにオホーツク海へ到達し、シベリアのほとんどの領域を支配することになります。
 コサック軍団がオホーツク海に到達したことは、アジア進出の可能性を開かせました。1640年代から、ロシアはようやく正規軍を派遣しはじめます。ロシア軍は中国へ向けて南進し、アルグン川からアムール川にかけての満州北東部に現れるようになります。そして、ロシアと清王朝は度々、軍事衝突することになります。
 清王朝康熙帝は中国南方の制圧戦(三藩の乱)や台湾制圧戦に兵力を割かねばならず、北方のロシア進出に対処する余裕がありませんでした。これらの制圧戦が片付いた後も、モンゴルのガルダン・ハンがモンゴル部族を統一し、覇権を握ったため、対応を迫られていました。
 強大化するモンゴル人勢力は清王朝にとって直接の脅威でした。これに加えて、清王朝がロシア軍と戦えば、二方面作戦を余儀なくされます。清はロシアとの関係を修復して、モンゴル制圧戦(清・ジュンガル戦争)に集中しなければなりませんでした。そして、清王朝ロシア帝国は1689年、ネルチンスク条約を締結し、国境線を外興安嶺(スタノヴォイ山脈)とアルグン川(アムール川上流)を結ぶ線に定めます。
 © 現代ビジネス
 この結果、ロシア軍はアムール川付近の外満州から撤退します。幸いなことに、清にとっては大きな領土的な損失にはなりませんでした。さらにキャフタ条約が1727年に締結され、モンゴルや中央アジア方面の国境も画定されます。
 中国がロシアに妥協した結果の領土損失
これらの条約は一見、ロシアが満州から撤退し、大幅に譲歩したように見えますが、実際にはロシアのシベリア侵略(アジア侵略と言ってよい)が中国によって承認・保証されたことを意味します。ロシアはアジアへの地盤を明確に築き上げ、さらなる侵略の足掛かりを得たのです。つまり、この時、清がロシアと妥協したことが、後の時代にウラジオストクを含む外満州の広範な清の領土損失となって返ってくることになります。
 康熙帝ネルチンスク条約の締結にあたり、イエズス会宣教師のフェルディナント・フェルビースト(中国名は南懐仁)の進言を入れますが、彼は康熙帝にロシアの危険性について、ほとんど伝えていなかったのです。ちなみに、イエズス会の宣教師たちがネルチンスク条約の交渉も担当しています。
 19世紀に入り、ロシアは「南下政策」と呼ばれる帝国主義拡張を本格化させます。東シベリア総督が設けられ、中国への露骨な侵略が開始されます。ロシアは、清がアロー戦争で追い込まれている隙を突き、アムール川流域に軍を進めます。
 ロシアは清に対し、イギリスやフランスの侵略から中国を守りたいなどと嘯きながら、清に接近し、武力による威嚇も行いつつ、1858年、アイグン条約の締結を半ば強要して、アムール川(中国名は黒竜江)以北の地を割譲させました。そして、アムール川ウスリー川の合流点にハバロフスクの街が建設されます。この街の名は17世紀にアムール川を探険したエロフェイ・ハバロフに因んでいます。ハバロフスクウラジオストクに次ぐ極東ロシアの都市です。
 © 現代ビジネス ウラジオストクのロシア軍艦 Photo by GettyImages
 アロー戦争でイギリス・フランスの連合軍は北京を占領します。そしてロシアが講和の斡旋に立ちます。その見返りとして、ロシアは1860年、清に北京条約の締結を強要し、ウスリー川以東の沿海州を獲得します。そして、沿海州の南端の地にウラジオストクを建設します。ウラジオストクは冬でも凍らない不凍港で、日本海から南下して太平洋へ進出することが可能となりました。1891年にはシベリア鉄道の工事も着工されます。これらの失われたアジアの領土は二度と戻ってくることはありませんでした。
 「白人の同化力」がアジアを消滅
 現在、これら極東地域やシベリア地域では、白人のロシア人に対する先住のアジア系民族の割合が少なく、1割にも達していません。かつてアジア系民族がロシア人に駆逐され、迫害されたことが主な原因です。「白人の同化力」ともいうべきパワーがアジアの民族や文化を消滅させていく強大さ(残忍さと言ってもよい)を持っていたことがわかります。
 ただし、アジア系民族が減少したと言っても、ロシア人に混血同化したアジア系も多く、何を基準にロシア人やアジア系と分類するかは難しいところもあります。また、ここで言うアジア系民族とは、極東にいた先住民のことです。今日では、新たに中国人の移住者が急増しています。中国人はロシア人の当局の幹部を買収し、ビザを取得し、土地やテナントの賃借を大規模に展開するなど、ウラジオストクの街中で進出が目立っています。
 © 現代ビジネス」
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 近代日本の主敵は、白人キリスト教のロシアとロシア人であった。
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 1689年 ネルチンスク条約ロシア帝国清王朝は、国境線を外興安嶺(スタノヴォイ山脈)とアルグン川(アムール川上流)を結ぶ線に定めます。
 1858年アイグン条約。ロシアは、アムール川(中国名は黒竜江)以北のシベリアの地を強引に割譲させロシア領とした。
 1860年 北京条約。ロシアは、アロー戦争に介入し英仏連合軍が北京を占領した所で講和を斡旋し、その見返りとしてウスリー川以東の沿海州を獲得し沿海州の南端の地にウラジオストクを建設した。
 ロシアは、不当な手段で手に入れた領土は戦争に負けて奪われない限り返還する事はなかった。
 ウラジオストクは冬でも凍らない不凍港で、日本海を南下して中国、朝鮮、日本への侵出を手に入れたが、目障りなのはウラジオストクにある樺太が日本の勢力圏にある事であった。
 ロシアは、樺太を自国領にする為にロシア人の軍人や囚人を上陸させて、反日的先住民を味方につけ日本人や親日派アイヌ人に対する暴力事件を頻発させた。
 明治8(1875)年 樺太・千島交換条約明治新政府は、ロシアとの戦争を避ける為に樺太問題を解決すべくロシア領千島との交換条約を結んだ。
 日本側の戦略的利点は、ロシア海軍ウラジオストク樺太日本海内に封じ込め、宗谷海峡津軽海峡対馬海峡を抑えてしまえば太平洋への航路を遮断する事ができた。
 ロシアのアジア戦略を、太平洋に進出する西進から満州・天津・朝鮮・日本への南進に切り替えた。
 1891(明治24)年 ロシアは陸軍国家として、奪った領地を守り、さらなに領地を拡大する為に大軍を迅速に輸送できるようにするべくシベリア鉄道敷設工事を始めた。
 日本は、ロシアとの戦争に備えて軍国主義政策を採用し、強権を持って国民生活を犠牲にして軍拡を進めた。
 イギリスは、上海・香港の中国利権をロシアから守る為に日本に接近した。
 日露戦争は不可避となり、開戦のその時が刻々と迫っていた。
 日本の戦争は、領土拡大の帝国主義侵略戦争ではなく祖国防衛の民族主義自衛戦争であった。
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 徳川幕府は、アイヌ人が住む蝦夷地、北方領土を日本の固有領土として統治し守っていた。
 ロシアは、千島列島を南下していたが樺太には進出していなかった。
 1785年 老中・田沼意次は、ロシアの侵略を警戒して蝦夷地探索隊を派遣した。
 1789(寛政元)年 徳川幕府は、アイヌの蜂起クナシリ・メナシの戦いの背後にロシアが策謀していると疑い警戒した。
 1792年 老中・松平定信の寛政日露交渉。水戸学による攘夷運動の始まり。
 1806年 文化露寇。
 1807年 徳川幕府は、東北諸藩に対して蝦夷地防衛の派兵を命じた。
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 日本の近代化の目的は、対外戦争を戦う為の軍国主義化であった。
 日本の開国・幕末・明治維新戊辰戦争・近代化・軍国主義化の発端は、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略で、その歴史的事実が、中世キリスト教会の日本人奴隷交易、寛政日露交渉(1792年)と攘夷運動、文化露寇事件(1807年)と蝦夷地・北方領土派兵(約4,000人)、攘夷派が激怒した対馬事件(1854年)の弱腰交渉、などであった。
 日本をロシアから救ったのは、戦争も辞さずのイギリスの軍事力・海軍力であった。
 軍事を否定し信用しない国家・国民・民族には、現実世界で生きる資格はなかった。
 熱狂的天皇主義者(現代の右翼・右派・ネットウハ、一部の保守派とは無関係)である尊皇派・勤皇派による攘夷運動は、間違った愛国主義民族主義ではなく、正しい軍国主義国粋主義・好戦主義、正義の戦争・聖戦であった。
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 神国日本を守る為の攘夷対象は、軍事侵略を企むロシアと宗教侵略を繰り返すキリスト教であった。
 徳川幕府の経教分離の原則を受け入れて交易を行っていたオランダは、排除すべき攘夷の対象ではなかった。
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 ロシアの日本侵略は、ヨーロッパ戦争と連動していた。
 1729年~1796年 ロシア女帝エカテリーナ2世(ドイツ人将軍の娘)。
 ロシアの海外戦略は、1,ウクライナ黒海バルカン半島への領土拡大、2,西進。アラスカ・北米大陸の開拓、3,南進、日本との交易であった。
 1796年~1815年 ナポレオン戦争
 1812年 ナポレオンのモスクワ遠征。
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