🛳18」─20─台湾は皇族が訪問すべき土地。昭和天皇の台湾行啓。朝鮮人の台中不敬事件。~No.166No.167No.168 * 

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 キリスト教朝鮮人テロリストは、台湾行啓や欧州訪問に向かう皇太子裕仁親王昭和天皇)を惨殺しようとつけ狙っていた。
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 2019年10月16日06:52 産経新聞「台湾、即位の礼祝う 昭和天皇ゆかりの植物里帰りへ 途絶えている皇族訪台再開に期待
 裕仁親王が植樹された国立成功大学のガジュマル。立派に成長し、観光スポットとなっている=台南市(「桜里帰りの会」提供)
 22日に行われる天皇陛下即位の礼を祝うため、台湾政財界の知日派が、昭和天皇が皇太子時代に行った台湾行啓(ぎょうけい)の際に植えられた桜や竹、ガジュマルの苗木を日本に寄贈する計画を進めていることが分かった。複数の関係者が明らかにした。受け入れる日本側の賛同者とともに「桜里帰りの会」をつくり、19日に東京・港区の明治記念館で目録の贈呈式を行う予定だ。(矢板明夫)
 台湾側の「桜里帰りの会」では、李登輝元総統夫人の曽文恵氏が名誉会長、李登輝時代に政務委員(閣僚)などの要職を歴任した黄石城氏が会長を務める。許世楷・元台北駐日経済文化代表処代表(駐日大使に相当)、趙中正・全日本台湾連合会会長などが発起人として名前を連ねる。
 受け入れる日本側では、安倍晋三首相の母親で書家としても知られる安倍洋子氏が名誉会長、外交評論家の加瀬英明氏が会長を務める。目録贈呈式には、謝長廷台北駐日経済文化代表処代表も出席する。
 里帰りするのは、1923(大正12)年4月、当時の摂政宮皇太子裕仁親王の台湾行啓にちなむ植物。桜は台湾民衆が親王を歓迎するため、宿泊先である台北・草山賓館までの道路両側に植えたもの。竹とガジュマルは、親王が屏東と台南で自ら植樹されたものだという。関係者は、それぞれの苗木数株を日本に寄贈し、皇室ゆかりの各地に植えたいとしている。
 苗木を日本に入れる際には植物検疫などの手続きに長時間を要するため、台湾側の関係者は即位の礼の前に来日し、まずは目録を日本側に渡すことにしている。
 台湾側の黄石城会長は産経新聞の取材に対し、「今回の『植物里帰り』を通じて台湾と日本の太い絆を改めて確認し、双方の関係をさらに発展させたい」と話した。
 日本側の会長、加瀬氏は「大変ありがたい話であり、うれしく思います。これからは、全国各地の昭和天皇と皇室ゆかりの地に声をかけ、台湾の皆さんのご厚意を広げていきたい」と話している。
 ■良好な対日感情反映
 昭和天皇は皇太子時代の大正12年、台湾を訪れて計12日間滞在され、台北、台中、台南、高雄など北から南へ各地を回られた。皇太子裕仁親王を歓迎するために民衆が植えた桜や、親王が手植えされた竹やガジュマルは大事に育てられ、今では観光スポットになっている。特に台南の国立成功大学構内にあるガジュマルは、大手保険会社の商標に選ばれるほど立派な姿となり、地元では、結婚記念撮影の背景としても人気を博しているという。
 同じく日本による統治を経験した韓国では、日本時代に植えられた樹木を「日帝時代の残滓(ざんし)」とし、伐採を推進している。これとは対照的に、台湾では民衆の対日感情の良さを改めて実感させられる。
 今回の「桜里帰り」計画は、即位の礼の日程が決まる数カ月前から準備が進められた。台湾の政財界など多くの著名人の賛同を得ている。関係者によれば、事務局が植物を管轄する台湾の当局者と交渉する際も協力的で「日本の新天皇即位を祝うためなら」とわがことのように喜んでいた。
 しかし、22日に行われる即位の礼で、日本政府は約200の国や機関に招待状を送ったが、台湾は含まれていないという。反日政策を推進してきた中国の王岐山国家副主席や、韓国の李洛淵(イ・ナギョン)首相も出席するが、日本皇室に最も好意を抱く台湾の政治家は立ち会えず、多くの日台関係者を落胆させている。
 台湾での研究によれば、戦前、裕仁親王をはじめ日本の皇族27人が台湾を訪問された。しかし、その後、中国への配慮などから、日本の皇室関係者と台湾の交流は途絶えている。
 今回の「桜里帰り」で日台の太い絆が再確認され、皇族の台湾訪問実現につながることを多くの台湾人が期待している。
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 台湾行啓 1923(大正12)年の摂政宮皇太子裕仁親王による台湾ご訪問。軍艦「金剛」で4月12日に横須賀港を出港し、16日から27日まで台湾に滞在された。台北駅に到着された際には、同市の当時の人口約17万人の半分を超える10万人の出迎えがあった。台北、台中、高雄、台南といった主要都市をはじめ60カ所以上を視察され、200以上の祝賀行事が催されたとの記録がある。帰路の29日、洋上で22回目の誕生日を迎えられた。
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 親日派台湾は、昭和天皇の皇后(皇族)がキリスト教朝鮮人テロリストに惨殺されかかった因縁の地である。
 台中事件。
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 韓国を含む朝鮮半島は、中国共産党政府と同様に天皇皇后、皇太子同妃、皇族の誰一人として足を踏み入れてはならない皇室にとって忌まわしい土地である。
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 歴史を教訓とすれば、皇族・皇室は、韓国やロシアを絶対に訪問すべきではないが台湾は訪問すべきではない。
 そして、中国共産党が支配する国も訪問すべきではない。
 何故なら、キリスト教朝鮮人テロリストは、台湾で皇族を殺そうとして失敗し、東京で昭和天皇を爆殺しようとして失敗した。
 日本人共産主義者テロリストは、ソ連コミンテルンの指示で天皇や皇族を殺そうとして失敗した。
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 日本民族日本人の祖先である南方系海洋民や揚子江流域民は、台湾や沖縄から丸木舟に乗って日本列島に移住してきた。
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 10月16日16:42 産経新聞尖閣周辺に中国船 13日以来
 尖閣諸島。手前から南小島、北小島、魚釣島鈴木健児撮影)
 尖閣諸島沖縄県石垣市)周辺の領海外側にある接続水域で16日、中国海警局の船4隻が航行しているのを海上保安庁の巡視船が確認した。尖閣周辺で中国当局の船が確認されるのは13日以来。
 第11管区海上保安本部(那覇)によると、1隻は機関砲のようなものを搭載。領海に近づかないよう巡視船が警告した。」
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 10月19日 産経新聞昭和天皇ゆかりの桜、台湾から「里帰り」 即位の礼祝い贈呈式
 目録贈呈式で台湾側の黄石城氏(右)から目録を受け取る安倍洋子氏=19日に東京・明治記念館矢板明夫撮影)
 昭和天皇が皇太子時代に行った台湾行啓(ぎょうけい)の際に植えられた桜や竹、ガジュマルの苗木を日本に寄贈するとした目録の贈呈式が19日、東京都港区の明治記念館で行われ、日本と台湾の政財界関係者ら約50人が出席した。
 寄贈を推進する「桜里帰りの会」の台湾側会長、黄石城元行政院政務委員(元閣僚)は「台湾で大事に育てられた桜の里帰りを通じて、22日に行われる即位の礼を祝う私たちの気持ちを表したい」と述べた。
 台湾側から苗木の目録を受け取った日本側の名誉会長、安倍洋子氏(安倍晋三首相の母親)は「この桜が見事に成長し、日本と台湾の関係がますます発展することを祈念します」と応じた。謝長廷台北駐日経済文化代表処代表(駐日大使に相当)も会場に駆けつけ「台湾と日本は心で結ばれているパートナーだ」とあいさつした。
 里帰りするのは、1923年(大正12年)4月、当時の皇太子裕仁親王が台湾を訪問されたのにちなむ植物。桜は、台湾民衆が親王を歓迎するため、ご宿泊先の近くに植えた。竹とガジュマルは、親王が屏東と台南で自ら植樹されたものだという。
 天皇陛下のご即位を祝うため、台湾政財界の知日派が中心となって「桜里帰りの会」を今夏結成し、寄贈計画を推進していた。苗木は植物検疫の手続きを経て来年、日本に搬入される予定だ。日本各地の昭和天皇や皇室にゆかりの深い地に植えたいとしている。」
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 ウィキペディア
 台中不敬事件は、日本の久邇宮邦彦王が訪問先の台湾で拡大自殺を計画していた朝鮮人趙明河(チョ・ミンハ)に襲撃された暗殺未遂事件である。
 概要
 事件の発生地点、台中州立図書館(現在の合作金庫商業銀行台中支店)
 おりから台湾を訪問中の久邇宮邦彦王は1928年(昭和3年)5月14日、台中を巡視していたが、その沿道で趙明河が短刀を持って近づいてきた。警護の者が邦彦王とチョの間に入って庇う姿勢を取った。そのため、短刀を投げたが邦彦王には当たらず暗殺は失敗、趙はその場で取り押さえられた。同年7月18日、趙は台湾総督府の高等法院上告部において刑法75条(対皇族危害罪)および殺人未遂の罪により死刑の宣告を受け、不敬事件は一審制のため即日刑が確定、同年10月10日に死刑を執行された。この事件で台湾総督上山満之進、総務長官後藤文夫、警務局長本山文平、台中州知事佐藤続が6月から7月にかけて引責辞任した。チョは元々独立運動をしていた者ではなく、半島で日本が設立学校を卒業して結婚後に経済的成功のために単身で大阪で出稼ぎしながら夜学学校に通ったが、上手くいかず、更に台湾に移住して茶屋でアルバイトしていたがまたうまくいかず他人を殺す無差別殺人を起こした後に自殺する計画を建てていた。そこに、久邇宮邦彦王が訪台したので、邦彦王殺害した後に自殺する計画に変更したのであった。
 なお、韓国でチョを知る者は拡大自殺願望者ではなく「独立運動家」だったと認識している。『チョ・ミョンハ義士研究会』は、「邦彦王は短刀に塗られていた毒が回ったために翌年に死亡した」と主張し、このテロ事件を「朝鮮独立闘争の出発点」としている。
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 台湾行啓とは、1923年(大正12年)4月、日本統治下の台湾への摂政宮皇太子裕仁親王(当時。後の昭和天皇)による行啓(訪問)である。
 背景
 日本統治時代の台湾の台湾総督府に到着した摂政時の皇太子を出迎える騎兵隊(1923年4月)
 第一次世界大戦期(1914年~1918年)、米国大統領ウィルソンは民族自決主義を提唱し、戦争の終結とともに多くの植民地は次々と独立を獲得した。民族自決・民主主義の流れは日本の統治地域にも及び、植民地自治の要求である「台湾議会設置請願運動」が開始された。日本国内にあっては「大正デモクラシー」が進展し、さらには朝鮮三・一独立運動がこれまでの軍部主導の「特別統治」=「憲兵政治」の破綻を明らかにした。
 このため朝鮮総督府台湾総督府官制の改革がされ、総督の武官専任の制限が外された。首相の原敬は、日本本土(内地)と同様の制度を植民地である台湾に適用するという主張「内地延長主義」に基づく政策を展開させようとしていた。
 まず1919年(大正8年)10月29日、最初の文官総督となる田健治郎が台湾総督に就任していた。田総督も、「内台融合」や「一視同仁」などの方針を唱え、これに基づき、1920年大正9年)地方制度の改革を実施し、州、市、街、庄の官選議会を創設した。翌1921年(大正10年)2月台湾総督府評議会を設置した。さらに1922年(大正11年)1月には、「三一法」(「台湾ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律」明治40年第31号法律のこと。台湾総督に法律と同等の効力を有する律令の制定権限を与えていた「六三法」を引き継ぐもの)を「法三号」(「台湾ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律」大正10年法第3号)に改め、原則的に日本の法律を台湾に適用するとした。
 この他にも、台湾人官吏特別任用令を公布し、台湾人と日本人(内地人)の共学を許し(内台共学)、台湾人と日本人との結婚も認められた(内台共婚)。原首相と田台湾総督は、自らによる「内地延長主義」により手直しされた台湾統治体制の諸改革を権威づける総仕上げとして、台湾行啓を実行した。
 日程
 以下日付、[宿泊地]、主要訪問地の順
 1923年4月12日 横須賀軍港出港(御召艦;戦艦「金剛」、供奉艦「比叡」「霧島」)[艦中泊]
4月16日 (台湾北東端の三貂角沖に到着。三貂角沖は1895年の台湾征服のための日本軍上陸地点である。)[台北]
4月17日 [台北] 台湾神社、総督府、台湾生産品展覧会
4月18日 [台北] 総督府中央研究所(中国語版)、台北師範学校、太平公学校、台湾軍司令部、総督府医学専門学校
4月19日 [台中] 新竹州庁、台中州庁、台中第一小学校、台中第一中学校
4月20日 [台南] 台南州庁、南門小学校、台南師範学校台南市第一公学校
4月21日 [高雄] 台湾製塩会社塩田、養殖試験場、台湾歩兵第二連隊、高雄州庁、高雄第一小学校、寿山館(中国語版)
4月22日 [高雄] 屏東駅にて鳳山海軍無線電信所遠望、台湾製糖会社工場
4月23日 [艦中泊](金剛)澎湖・馬公海軍要港部
4月24日 [台北] 基隆重砲大隊、博物館、円山運動場
4月25日 [台北] 草山、北投温泉
4月26日 [台北] 台湾歩兵第一連隊、台湾総督府専売局、台北第一高等女学校、台北第三高等女学校、円山運動場
4月27日 [艦中泊]
5月1日 横須賀軍港着
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