🛳18」─26─台湾鉄道を完成させた日本統治時代の技師、長谷川謹介である。~No.181No.182No.183 * ⑯ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 昔の日本人は現代の日本人とは違い、悪い日本人もいたが、いい日本人もいた。
 いい日本人は、自己犠牲的に粉骨砕身して地元社会や地元住民の努力し、中には地元住民から殺された日本人もいた。
 近代天皇や軍国日本・軍部・陸軍は、歴史的な人命救助の人道貢献を行っていた。
   ・   ・   ・    
 2020年9月10日 産経新聞「【台湾有情】台湾鉄道の父は誰か
 「台湾鉄道の父は誰か」をめぐり、台湾で論争が始まっている。きっかけは、台湾博物館に7月、開設された鉄道エリアにある展示物の中で、日本統治時代の技師、長谷川謹介が「台湾鉄道の父」と紹介されていたことだった。
 親中メディアの中国時報と一部の学者は「台湾の鉄道の父は清朝の巡撫(じゅんぶ)(地方統治長官)、劉銘伝だ」と指摘した。1899年に台湾に赴任した長谷川より「10年以上も前に鉄道を造った」と主張し、「親日的な台湾独立派が中国を否定するために歴史を歪曲(わいきょく)した」とも批判した。抗議を受けて博物館側は長谷川を「台湾鉄道の父」とする説明文を外した。
 これに対し、歴史問題に詳しい評論家、管仁健氏らはメディアで反論した。劉の時代、確かに台湾では約100キロの鉄道が造られたが、使い物にならなかったのですぐ廃棄された。
 長谷川が一から今の台湾の鉄道網の基礎を築いたのに対し、劉は行政官僚のトップとして「鉄道を造れ」と指示しただけで、鉄道の専門家ではなかった。「技術者として工事の陣頭指揮を執った長谷川こそ台湾鉄道の父にふさわしい」「親中派こそ歴史を客観的にみるべきだ」と管氏らは主張して譲らない。
 政治的な立場を背景に始まったこの歴史論争は長引きそうだ。(矢板明夫)」
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 長谷川 謹介(安政2年8月10日(1855年9月20日) - 大正10年(1921年)8月27日)は、鉄道官僚、技術者。
 経歴
 長門国厚狭郡千崎村(現在の山口県山陽小野田市)出身。1874年(明治7年)に鉄道寮に出仕したが、1877年(明治10年)に鉄道寮が廃止されると、工部省技手に転じた。1892年(明治25年)、官を辞して日本鉄道の技師となり、1897年(明治30年)には岩越鉄道の嘱託技師も兼ねた。
 1899年(明治32年)、台湾総督府民政長官後藤新平の招きで臨時台湾鉄道敷設部技師長に任命され、台湾総督府鉄道部技師長、台湾総督府鉄道部長を歴任した。1908年(明治41年)、自らが手がけた台湾縦貫線の完成とともに辞任し、鉄道院に転じた。
 東部鉄道管理局長、西部鉄道管理局長などを務めた後、鉄道院理事、鉄道院技監を歴任し、1918年には鉄道院副総裁に就任した。
 「台湾鉄道の父」などと呼ばれている。
   ・   ・   ・   
開拓鉄道に乗せたメッセージ: ─鉄道院副総裁 長谷川謹介の生涯