🛲6」─1─マレーシア。中国人暴徒による日本人女性強姦惨殺事件。谷豊の事件。1934年。〜No.57 * 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 東南アジアで、中国人暴徒による日本人への暴行・強姦・殺人事件が頻発していた。
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 欧米の植民地警察は、被害を受けた日本人の訴えを適当に聞き流し、中国人犯罪者の取締を厳しく行わず、むしろ放置していた。
 中国人犯罪者は、植民地警察官に賄賂を渡して手懐けていた。
 地元住民は親日派として、植民地支配する白人や植民地支配に協力する中国人の華僑や華人への憎しみから日本軍・日本人に協力していた。
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 2019年4月18日号 週刊新潮「変幻自在  高山正之
 国王陛下の便衣隊
 昭和17年1月下旬、シンガポールが間もなく陥落というとき朝日新聞が現地マレーについて千田商会の千田牟婁太郎ら関係者を集めた座談会を掲載した。
 マレーには実は阿片戦争のころから支那人が逃げ込んできて、白人支配者に取り入ってマレー人労働者を仕切ったり、彼らに阿片を売りつけたりしていた。
 昭和に入るころには支那人子弟のための学校が『300くらいあった』と千田が紹介している。
 その頃には日支の緊張がそのまま入り込んで在マレーの日本企業や邦人を支那人が襲いだした。
 その一つがマレーの虎こと谷豊の事件だ。
 彼が日本に戻っていた時期に支那人の群がトレンガヌの街を襲い、彼の妹を犯したうえに首を切り落として持ち去った。支那人らしい残忍さだった。
 日本から帰った豊は妹を殺した集団を追い、さらに阿片長者を襲うなどして支那人からはハリマオの名で恐れられた。
 支那人たちは英国の勝利を信じ、日本軍にサボタージュやテロを仕掛けた。
 座談会では支那人テロ集団には元締め組織があって、それが蒋介石と通じていた陳嘉庚の『籌賑会(ちゅうしんかい)』という。この組織は、南洋全体の抗日の中心機関になっていた。
 因みに陳嘉庚は毛沢東とも通じていて、戦後、共産党政権が成立するとマレーを捨てて故郷の福建省に戻っていった。愚かな選択だった。
 日本軍は英印軍と戦いながらこうした支那人ゲリラの気配に注意を払わなければならなかった。
 それで平均して1日20キロも進攻していった。日本軍は本当に強かった。
 座談会では触れていないが、そのころシンガポールでは英軍が組織した『支那人だけの戦闘集団がいた』と朝日の従軍記者酒井寅吉が報告している。
 この部隊はジョン・ダレー中佐の指揮下にあり、兵員数4,000人というから優に旅団規模を誇る。兵士の中にはチャンギ刑務所に収監されていた共産ゲリラも含まれていた。
 彼らの特徴は正式の軍装を持たない。つまり私服の便衣隊で、黄色いバンダナを首に巻くのがただひとつの目印とされた。
 指揮官の名に因んで『ダル・フォース』あるいは『Dalley’s Desperades(ダレーの無法者たち)』と呼ばれた。
 日本軍との市街戦になったとき彼らは善良な市民を装って攻撃の機会を窺い、追われれば銃を捨てて市民の群れに逃げ込んだ。
 この便衣による戦闘はそのまま国際法違反のゲリラと見做される。
 捕らえれば国際法でも極刑を求めている。
 シンガポール攻略戦ではこのダル・フォースの何人かが捕まり彼ら便衣隊の存在をが明らかになった。
 今、シンガポール華人が日本軍の華僑粛清を非難するが、原因を創ったのは紛れもなく彼ら自身だった。
 このマレー作戦で最初に制圧された重要都市アロルスターで先日『日本軍兵士を英雄とたたえる慰霊碑』がケダー州政府の手で修復され、そのお披露目式が賑々しく執り行われた。
 それに対して、地元支那系住民が『中華系住民が日本軍に殺されている』『侵略軍がなぜ英雄なのか』と騒ぎ出した。
 『州政府は吃驚(きっきょう)してお詫びした』と朝日の守真弓記者が嬉しそうに報じた。
 戦時中、支那人は英軍について日本軍と戦った。卑怯なテロも仕掛け、便衣隊まで繰り出した。
 それで殺されるのは不当だとどの口で言うのか。
 因みに守記者の大先輩の酒井特派員が昭和16年12月30日付で同州のマレー人が日本軍を大歓迎する様子を伝えている。
 州の王様格のM・デュワ摂政とも会見して『英国は我々を見下し圧迫してきた。今こそ我が民族の夜明けがきた』と日本軍による解放に感謝する言葉も併せて報じている。
 先輩の記事を読まず、残忍で嘘つきの支那人の言葉にのめり込む。朝日新聞が売れないは。それは真弓のせいかも」
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 ウィキペディア
 谷 豊(1911年11月6日 - 1942年3月17日)は、昭和初期にマレー半島で活動した盗賊。ムスリム名「モハマッド・アリー・ビン・アブドラー」。現在の福岡県福岡市南区出身で、イギリス領マラヤに渡った後に盗賊となり「ハリマオ」として一躍知られる存在となった。その後、日本陸軍の諜報員となって活動する。

 妹の惨殺
 同じ頃マラヤでは、満州事変に対して在マレーの華僑たちが排日暴動を起こしていた。そのさなかの1932年11月にマラヤの谷家(店舗兼住居)も破壊され、さらにたまたま寝込んでいた豊の妹シズコが暴徒に斬首され殺されてしまう。しかも暴徒は妹の首を持ち去り、さらしものにまでしたともいう(なおこの首は隣家の歯科医が奪還し、遺体と縫い合わせている)。この事件により谷一家は日本へ引き揚げざるを得なくなった。
 帰国した母親から事件のことを聞いた豊は激怒し、1934年7月、単身再びマラヤへ向かった。

 盗賊団を組織
 再びマラヤへ戻った豊はマレー人の友人たちと徒党を組み、華僑を主に襲う盗賊団となった。数年の間、マレー半島を転々としながら活動を続けていた。
 マレー語とタイ語を堪能に扱い、大胆な行動と裏腹に敬虔なムスリムであった谷を、誰もがマレー人と信じて疑わなかったという。しかし、その時期にタイ南部のハジャイで逮捕、地元の刑務所に投獄され、そこで2か月の獄中生活を送った。
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 世界は、日本人の国内での正当防衛、自衛行動、報復権や復讐権を認めても、国外では認めてはいなかった。
 つまり、中国や東南アジアでは、日本人はやられ損で、やられたくなかったら国外に出ない事であった。
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 中国人暴徒は、国際的な反日気運で日本人への犯罪行為をより凄惨化させていった。
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 国際世論は、中国人に味方し、日本人を非難した。
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 日本軍は、抗日派中国人の暴徒、便衣隊、ゲリラ、テロリスト、工作員、スパイなどを発見しだい裁判にかけずに処刑した。
 それが、シンガポールの中国人虐殺である。
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 戦後の国際軍事裁判所は、彼らにも人権と命の尊厳はあったあったとして、日本軍の中国人に対する処刑は戦争犯罪と認定し、処刑に関わった日本人兵士を戦争犯罪者として残忍に処刑した。
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 日本人兵士極非道な犯罪者という認識は、世界常識として現代においても引き継がれている。
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神本利男とマレーのハリマオ―マレーシアに独立の種をまいた日本人