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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
フランスの第三身分は、日本の庶民(百姓・町人)とは違っていた。
フランスの貧民は、日本の賤民や部落民とは違っていた。
故に、フランスは国王と王妃を血に興奮する公衆の面前でギロチンで首を切断した。
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2018年9月27日号 週刊新潮「変見自在 高山正之
セーヌ川で下る
パリを流れるセーヌの汚れは年季が入っている。
西行が手水(ちょうず)を使いながら『願わくは花のもとにて春死なむ』と詠んでいたころ、この川の畔に住む人たちは便所とか手洗いとかの概念を一切持たなかった。
モノは手掴みで食い、便所は生ごみと一緒にセーヌに放り込んでいた。
ために流れは澱み、腐臭が辺りを覆った。
おまけにシテ島の対岸に畜殺場が立ち並んで豚や牛の群れが別の悪臭と喧噪を付け加えていた。
その川岸通りをルイ6世の王子フィリップが馬を走らせていて、畜殺場から逃げ出した牝豚とぶつかった。
王子は落馬し、ぬかるんだ汚泥に顔から突っ込んで窒息死した。
カペー王朝のお世継ぎが汚泥のせいで亡くなったというのにパリ市民に反省はなかった。糞便は川に捨て、そこらの家の壁に放尿する習慣を改めなかった。
ために建物は根腐れして傾き、ソウルの百貨店のように崩壊していった。
それから800年経ったとき、やっと街をきれいにしようと思う政治家が出てきた。ナポレオンの甥っ子ナポレオン3世だ。
彼はジョルジュ・オスマンを登用しパリの3分の1を占めていた貧民街を取り壊し、凱旋門を中心に12本の大通りを走らせる都市改造を断行した。
地下も改造して600キロに及ぶ下水道を巡らせ、市民に便所の設置を義務付け、糞便の臭いのないパリに変えていった。
今、セーヌ川沿いの古い店に入るとトイレはすべて地下にある。政府命令とはいえ一階の貴重なスペースを割くなどとんでもないという発想からだ。
ナポレオン3世はこの都市改造費を国債の発行ともう一つ、英国を見習って阿片貿易で賄うことのした。
折りよくインドシナで仏宣教師が殺された。それを口実に仏軍が攻め、植民地仏印を手にした。
阿片公社が街ごとに置かれ、住民に阿片を割り当てて販売した。
『ゆくゆくは全ベトナム人を阿片漬けにして儲けるつもりだった』とジャーナリスト、アンドレ・ビオリスが『インドシナSOS』に書いている。
阿片売買の収益で下水道工事の半分くらいは稼ぐことができた。
で、セーヌはきれいになったかというと実はそうではなかった。糞便は下水に流されたものの、その先はセーヌに放流されていた。
仏政府はセーヌをもっときれいにするため仏印の住民に人頭税・塩税のほかに結婚や葬式にまで課税した。下水道は倍に伸びた。
先の大戦では日本軍が進駐して阿漕(あこぎ)な徴税を止めたが、ドゴールが『栄光あるフランスの復活のために仏印を返してくれ』(C・ソーン『米英にとっての太平洋戦争』)とルーズベルトに掛け合い、戦後すぐ仏印の搾取が再開された。
ただドゴールはその利益をセーヌの浄化には回さなかった。彼は栄光の復活にまず核実験を選んだ。
かくて植民地からの収益は核研究に注がれ、1960年以降、アルジェリアの砂漠で4度の大気圏内核実験が行われた。
しかしアフリカは欧州に近い。とかく人目もうるさいので南太平洋で194回の核実験をやった。
97年、シラクはこれで大国になったと言った。
で、積み残しのセーヌ浄化に取り掛かったが、このころには収入源の仏印など植民地はとっくに独立していた。フランスは再び貧乏所帯に戻っていた。
今、パリには30万本の下水管が走り、9割は汚水処理場で処理されているものの、残り3万本が未処理の汚穢(おわい)をそのままセーヌに流している。
……」
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フランスが、江戸幕府を支援し徳川家に勝利をもたらそうとしたのは、親切心で日本を近代国家に善導しようとしたのではなく、日本の一部を割譲させフランス領にする為であった。
フランス領日本を阿片交易の基地として、日本国内で阿片を売って暴利を稼ぐ為であった。
当時の日本人は、現代の日本人とは違って外国に対する危機感を強く持ち、近代的軍事力を持った強力な中央集権国家を建設する為に、戊辰戦争を戦い、明治維新を行い、支配階級・特権階級であった武士を廃止した。
近代的天皇制度と軍事国家日本はこうして成立した。
それ故に、日本民族日本人は、日本国を一つにして存続させる為に天皇制度=国體を命を捨ててまで守ろうとしたのである。
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西洋礼賛の日本人とは、歴史的事実を正確に知っている者で、その多くは高学歴出身知的エリートに存在する。
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西洋諸国が日本を見誤ったのは、日本を半独立した地方領主(藩王国、マハーラージャ、マハラジャ)からなるムガル帝国か多民族国家のビルマ王国やシャム(タイ)王国の同類とみなし、利益・金で味方になる大名・藩を利用して日本から分離独立させられるとみた事である。
つまり、日本という葡萄の房から一粒の藩(大名領)を切り離し、簡単に分離・分割・解体できると、考えていた。
たとえ、葡萄の粒(国土)が半分に減っても葡萄の一房(日本)にかわりがない。
日本を裏切り、日本を売り渡す、西洋諸国の味方をする大名・上級武士達を見つける為に、戦国時代同様に貿易の振興とキリスト教の布教を行った。
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日本滅亡の危機に尊王攘夷派や勤皇の志士として立ち上がったのが、名もなき身分低い下級武士、貧しい庶民(百姓・町人)、そして賤民や部落民達であった。
彼らは、事態の逼迫している事を知り、七生報恩で命を捨てる覚悟があった。
ここに、現代の右翼・右派・ネットウヨク・ナショナリストとは無関係のない、純粋無垢とした愛国心・民族主義が自然発生的に生まれた。
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現代に於ける葡萄の粒とは、中国共産党政府が狙っている尖閣諸島・沖縄・沖ノ鳥島・小笠原諸島・北海道、韓国が狙っている竹島・対馬、ロシアが狙っている北方領土四島である。
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尊王攘夷派や勤皇の志士達は、諸藩・諸大名の緩やかな連邦政治体制である幕藩体制では母国日本は守れないとして、天皇を中心として強力な軍隊を持った中央集権国家を急いで作ろうとした。
それが、明治維新である。
狂信的な尊王攘夷派や勤皇の志士の多数派が、大名や上級武士、豪商・豪農ではなく下級武士や貧しい庶民(百姓・町人)そして賤民や部落民であったのは、この為である。
明治維新は、そうした憂国のテロリストによって始まり成功した。
日本の憂国テロリストは、イスラム教の宗教テロリストでもないし、共産主義のイデオロギーテロリストでもなければ、キリスト教系朝鮮人テロリストや反日テロリストでもない。
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尾崎咢堂(がくどう)「明治維新の大業を成就した者達は諸君に比べて知識、識見が優れていたのではない。抱負があったからだ。国家を背負って自ら高く任じていたからだ。まず諸君に国家を背負って立つ覚悟があるのかを問いたい」(昭和21年8月24日 第90臨時議会での演説の一部)
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何故、西欧諸国で、無関係な従軍慰安婦問題や第二回南京事件問題など首を突っ込む親中国親韓国反日本運動が根強く存在するのか、それは過去に消したい非人道的犯罪行為があるからである。
そして、近代以降、西洋キリスト教文明圏と真っ正面から、正々堂々と戦争を挑んできたのが非白人非キリスト教・有色人種である日本だからである。
日中戦争の、初期段階ではドイツ軍事顧問団とドイツ軍需産業が支援するファシスト中国軍中央軍(蒋介石軍主力)を殲滅し、次にファシスト中国軍に参加したソ連軍・人民義勇部隊を撃破し、そしてアメリカ陸軍航空部隊のボランティア部隊を互角以上に戦っていた。
イギリスの国際金融資本や軍需産業は、ファシスト中国軍に大量の軍需物資を提供していた。
フランスは、ファシスト中国軍への物資輸送路を提供していた。
軍国日本は、一国のみでファシスト中国軍と有利に戦っていた。
中国は日本と戦う為に、最初はナチス・ドイツの軍事支援を受けてファシスト陣営に参加し、次にソ連の軍事支援を受けた共産主義陣営に鞍替えし、最後にアメリカに泣きついて自由・民主主義陣営に逃げ込んだ。
西洋キリスト教文明圏諸国が、日本に対して悪感情を抱くのはこの為である。
そして、西洋の富の源であったアジア・アフリカの植民地が日本の戦争に影響されて独立した事である。
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ウィキペディア
パリ
19世紀
第二帝政及び第三共和政下の都市改造
混乱を経た1800年当時の人口は、54万7,756人であった。 ナポレオン1世は、パリを新しいローマとすべく、帝都と定め、カルーゼル凱旋門やエトワール凱旋門を建て、ウルク運河(en)を開削するなどした。
第一帝政後の19世紀のパリは、復古王政期及び1848年革命(二月革命)を経て、第二共和政、そして、第二帝政さらに第三共和政へと、王政ないし帝政と共和政が交錯し、政治的には安定しなかったものの、産業革命の到来により経済的、文化的には繁栄した。 文化面では、ヴィクトル・ユーゴー、オノレ・ド・バルザック、エミール・ゾラ、スタンダールといった文豪に加え、19世紀後半にはエドゥアール・マネやモネ、ドガ、ルノワール、セザンヌ、ピサロ、モリゾ、ギヨマン、シスレーといった印象派の画家が活躍し始めた。スーラ、ゴッホ、ポール・ゴーギャンなどのポスト印象派、新印象派へと続くものとなった。
1837年にはパリ・サン=ジェルマン鉄道のサン・ラザール駅、1840年にヴェルサイユ・左岸鉄道のモンパルナス駅、1840年にパリ・オルレアン鉄道のオステルリッツ駅、1846年北部鉄道 (フランス)のパリ北駅、1846年にソー鉄道のアンフェール城門駅(ダンフェール=ロシュロー駅)、1849年にパリ・リヨン鉄道のリヨン駅及びパリ・ストラスブール鉄道のストラスブール駅(パリ東駅)がそれぞれ建設された。他方、1841年から1844年にかけてティエールの城壁が築かれ、こららの放射状路線をつなぎ、城壁内の補給路を確保するために、プティト・サンチュールが1852年から建設され始めた。
第二帝政下ではセーヌ県知事ジョルジュ・オスマンによってパリ改造が行なわれた。中世以来の狭い路地を壊して道路網を一新したほか、上下水道の設置など都心部の再開発や社会基盤の整備が行なわれた。水道の水はジェネラル・デゾーが供給するようになった。これらによりパリは近代都市として生まれ変わった。現在のパリ市中心部の姿はほぼこの時の状態をとどめている。1860年に、ティエールの城壁内のコミューンがパリに併合された。併合後である1861年当時の人口は169万6,141人だった,
普仏戦争でナポレオン3世の主力軍が敗北すると、パリは1870年9月からプロイセン軍に包囲された。翌1871年1月に第三共和政の政府は降伏したが、パリの労働者らはこれを認めず蜂起した。3月には史上初の労働者階級の政権パリ・コミューンが発足したが、ヴェルサイユ政府軍の攻撃によりわずか2か月で崩壊した。コミューンの最後はパリ市内での市街戦となり、大きな被害を出した。
クレディ・リヨネのパリ支店支配人Mazerat がリヨン本店支配人Letourneur に書き送ったところによると、普仏戦争以後に企てられた全事業でロスチャイルドとその庇護下のオートバンクが独占的役割を果した。パリ市はロスチャイルドらより2億フランを借り受け、ドイツへ占領税を支払った。20億フランのパリ市公債もロスチャイルドらが引受けた。
19世紀末から20世紀初めにかけて、パリでは数回の万国博覧会が開かれた。1889年の万博ではエッフェル塔が建てられ、1900年にはメトロが開業した。この時代をベル・エポック(よき時代)と呼ぶ。パリは「光の都」と呼ばれ、ロンドンに匹敵する経済都市に成長した。
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パリの下水道の由来
物語 「下水道の歴史」 齋藤健次郎著 水道産業新聞社出版 より
1,トイレもなかった中世の頃
パリは古代ローマ帝国のころからの歴史がある都市です。
中世のパリといえば、素敵な都市という印象ですが、街路に汚物が投げ捨てられていたことでは他の欧州の諸都市と同じでした。
パリジャンは自由に窓から「おまる」の中身を投げ捨てていましたから、道を歩く人は素早く逃げないとそれを浴びなければなりませんでした。
1531年に法律ができ、家主は各家にトイレを設置しなければならなくなりましたが、必ずしも徹底しませんでした。フランス革命の頃、パリにも公衆便所が沢山できていましたが、その多くはあまりに不潔で、あまり気にしない人でもよその場所で用を足したくらいです。1830年代中頃パリの警視総監であったアンリー・ジョセフ・ジスケは、パリの路上で働く下級労働者、その多くは当時盛んだった住宅建築現場で働く人々でした、が所かまわず立小便をしているのが外国人のひんしゅくを買っていると日記に書き、市内に1500カ所の公衆便所を造ることを提案しました。しかし、これには下水道の整備が前提になるものであり、実際その実現はかなり困難でした。
2,下水道のはじまり
パリの下水道は、その場しのぎでやりやすいところから造っていったようです。最も古い下水道は1374年パリ市長のユーグ・オブリオが中央市場近くのモンマルトル地区に造ったものとされています。1605年にはフランソワ・ミロシが暗渠式の下水道であるポンソー下水管を設置し、ルイ13世、14世など歴代の国王も下水道整備のための計画を立て、その一部を実現しました。その大半は、はじめは蓋のない開水路でしたが、ごみなどの投棄を防いだり、当時発達しつつあった馬車の邪魔にならないように、次第に暗渠になっていきました。ユゴーが19世紀中頃「レミゼラブル」中で226kmの下水道ができていると書き留めています。ジャンバルジャンが傷ついたマリウスを背負って逃げたとされる環状下水道は1740年頃にできています。
このように下水道は整備されてきましたが、人口の急増によって根本的な対策を必要とする状況になってきました。パリの人口は1801年で54.8万人、1836年に86.6万人、2月革命で共和制が復活した1848年に105.4万人と50年で2倍になりました。この結果し尿の量も急増しました。当時し尿の大部分はパリ北東部のモンフォーコーンの石切場跡地に投棄されていました。ここでは大地の斜面を利用して造った穴をし尿が順々に流れ下ることによって、固形物と液状部分に沈殿分離し、上の方、つまり液状部分はセーヌ川に流し、底に残った部分は天日で乾燥し、肥料として主に野菜栽培者に売られていました。
やがて住宅開発が石切場周辺まで押し寄せ、処理を続けることが難しくなって、遠く離れたボンデイの森に投棄場所が移されることになり、1849年に移転しました。
一方でパリ市内の低所得者層が多く住む住宅では、家の下に穴を掘り、し尿の液状部分を地中に浸透させるだけ、という吸い込み式トイレも多く残っていたそうです。根本的な対策が不可欠の状況になっていました。
3,水売りから水道へ
市民は長い間、セーヌ川の水を汲んで売り歩く、水売りの水がたよりでした。泉水を利用した小規模な水道や、セーヌ川の水を蒸気機関駆動のポンプで揚水し、給水する水道会社もありましたが、主な供給先は寺院、王宮、一部の特権階級の邸宅などに限られていました。市民は市内に50ほどあった公共の泉水でそのおこぼれにあずかる程度でした。
1802年、舟運と水利用を兼ねるウルク運河の工事がはじまりました。ウルク川からセーヌ川まで運河を掘り、舟運に利用するとともに、パリの街路と下水道を洗浄し、上水道にも役立てようとするものでした。計画ははかどりませんでしたが、第一執政であったナポレオンの主導のもとで実現を見たのです。
当初の計画は工期3年でしたが、通水したのは1808年、全てが完成したのは1825年でした。
これによりパリ市内への水供給量は飛躍的に増大し、水使用量は10倍に増えました。
その後、ベルグランにより、別系統の上水道が創設され、ウルク運河の水は雑用水道に転用されました。現在、パリ市内で早朝に街路を水で洗浄していますが、いまも使われています。
4,セーヌ川の汚濁進行
水供給量の増大は汚水量の増大を引き起こすものでした。パリ市民はもともと入浴の習慣はあまりなかったようですが、富裕層の家庭での入浴が増え、公共浴場が1817年に500カ所であったのが1831年には2700カ所になりました。
またイギリス式便所と呼ばれた水洗トイレを使う人々もでてきました。
このように汚水量が急増しました。
当時、家庭からの下水、街路を洗い流した水が下水道や側溝からセーヌ川に流れ込んでいて、川は汚れていきました。
5,コレラの大流行
コレラはもともとガンジス川のデルタ地帯に多発する風土病でした。19世紀に入ると世界的に流行するようになりました。理由として人々の移動が活発になったり、鉄道の発達により聖地巡礼の規模が拡大したことなどがあげられています。
世界規模の流行は以下のように広がりました。最初1817年にインドからミャンマー、タイを経て東南アジアの島々に侵出したのち、1820年に広東から北京の地域に拡大しました、1822年(文政5年 この翌年シーボルトが出島に着任)には日本に上陸し、8月から10月にかけて西日本で流行しています。
また1821年にペルシャ(いまのイラク)に達したコレラは中東を席巻し、1823年にはコーカサスの山麓やカスピ海沿岸で流行しました。
1830年ペテルスブルグとモスクワに達したのち、ポーランドに広がっています。
1831年にはイギリス全土で蔓延しました。フランスでは1832年カレーではじめて発生した後パリに到達し、このときの死者の数はパリ1.8万人に上り、およそ5人に1人という高率で人が亡くなったことを示しています。
その後幾度となくコレラの流行がありました。
6,下水道整備が緊急の課題に
欧州ではペスト、チフス、コレラなど多くの伝染病が流行し、多数の人々が亡くなりました。医師や公衆衛生にたずさわる人々は、この流行を統計的に解析し、伝染病が生活環境が劣悪な地域に多く発生することを科学的に導き出しました。
当時、伝染病の原因について、二つの考え方が対立していました。
「接触伝染説」 伝染病が生きた伝染質によって引き起こされるという考えであり、その後の細菌伝染説につながるもので、正しいものでしたが当時は少数派でした
「非接触伝染説」伝染病の原因が、死体、汚物、塵芥などの腐敗物、澱んで腐敗した川などが発生する「毒気(ミアズマ)」であるとし、人がそれを吸い込んだり触れたりして発病するというもので、主流派でした。
当時すでに検疫制度があり、イギリスやフランスではドイツからの船に対し一定期間停船を命じていました。これは接触伝染説を根拠にしたものです。
しかし、コレラが上陸してしまったため、接触伝染説は不利になっていきました。
またコレラが「ミアズマ」が充満していそうな低所得者階級の住む地域で多く発生したこともあり、当時非接触伝染説が強くなっていきました。
「ミアズマ」をなくしていくには下水道によって排水の流れを良くし、蓋をしてミアズマが立ち上らないようにしなければいけないという考えが主流になっていきました。これから下水道の建設が急務となりました。
7,ナポレオン3世のパリ大改造
1831年権力を手中におさめたナポレオン3世はパリの大改造を決意し、ジロンド県知事であったオスマンを抜擢し、任に当たらせました。
老朽化して非衛生的な低所得者階級の住居地を建て替えるという公衆衛生上の理由だけでなく、街路拡張、上下水道、公園など公共施設を整備して 近代都市に造り替えるという高邁な意図がありました。
下水道については、地形に応じ4本の下水道幹線を建設し、下水をパリの郊外まで運んでセーヌ川に流すというものでした。1851年リボリ通りの拡幅整備の際、高さ4m、幅2.4mという大きな幹線が整備されるなど、1861年に幹線下水道は完成し、その後準幹線の整備に移行しています。
パリ大改造のためには巨額の資金が必要でした。このため公共投資に国債を発行し民間から資金を調達することが行われました。
8,当初トイレは接続せず
下水道ができあがった地域では、下水を下水道に排除することが義務付けられました。 担当の技術者であったベルグマン他は、イギリスでの調査から水洗便所も受け入れるべきとしていましたが、オスマンの了解を得られませんでした。その代わり、オスマンはし尿のうち固形部分を浄化装置にしばらく溜め、一定期間後下水道に流すことにしました。この施設は市庁舎、兵舎、学校などを対象に実験がはじまり、公衆便所、やがては道路に面した住宅などに次第に拡大されていきました。
パリでし尿を下水道に流すことが認められたのは下水の処理が確実に行われるようになった1880年代です。
9,パリ万国博で下水道を世界にアピール
1867年の第5回万国博が開催され、市街地の大改造がほぼ完成し、「花の都」と欧州第一の都市になったパリがその舞台となりました。ナポレオン3世は、世界に広く参加を呼びかけ、江戸幕府も出展し、使節団も派遣されました。使節団は下水道も視察しています。大型土木建築構造物を造ることを可能にした大型機械は主要な展示物でしたが、橋梁など土木構造物は会場に持ち込めず、会場近くにあって比較的容易に入り込めた下水道が東洋から来た視察団の見学に格好の施設でした。
10,下水の処理へ
当時今のような下水処理の手段はありませんでした。セーヌ川の汚濁を軽減し、下水中の肥効成分を有効に活用する、灌漑処理法は欧州各地で実施されるようになり、1865年にセーヌ川右岸で実験が始まり、結果は上々でした。 当時セーヌ川の汚濁もひどくなり、1865年の伝染病発生などもあって、下水処理が行われることになりました。
サンジェルマンの森とセーヌ川の間にあるアシェール平野に下水畑のための広大な土地が購入され、1889年から5年以内に市内全域の下水が処理されるよう法律で義務づけがされました。これと同時に、市民の水洗トイレ化の義務付けも実施されました。
下水畑の処理は第一次大戦直後まで続き、最盛期には5千ヘクタールにもなり。その1/3を占める市有地には農園が設けられ、花や果樹などが栽培されました。残りの民有地では牧草、菜類、ジャガイモなどがつくられていました。
1930年に下水処理場の事業計画がつくられ、アシェールでは広大な敷地の中に逐次活性汚泥法の処理施設が整備され、現代にいたっています。一方下水畑も二千ヘクタールほど残っています。
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