🗽23」─2─独仏戦争(普仏戦争)と日本の中立宣言。1870年~1870年。~No.89No.90 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 明治3(1870)年7月19日に勃発。
 明治4(1871)年5月10日にフランクフルト講和条約でフランス降伏。
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  2021年6月号 Voice「歴史家の書棚
 奈良岡聰智
 『グローバル・ヒストリー としての独仏戦争』 飯田洋介 
 海をめぐるせめぎ合いから描く実像
 今年は、独仏戦争(普仏戦争)が終結し、ドイツ帝国が創建されてからちょうど150年にあたる。同戦争は、皇帝ナポレオン三世を捕虜にし、フランスの首都パリを攻囲する(こうい)するなど、終始ドイツ側が戦局を優位に進めた。この戦争をとおしてモルトケが育てたプロイセン参謀本部の優秀さが証明され、ドイツは陸軍大国として名を馳(は)せることになった。
 同戦争は陸軍中心の戦争だったが、海戦が行われなかったわけではない。とくに重要だったのは、民間商船の保護をめぐる問題であった。当時、イギリスに次ぐ第二の海軍大国であったフランスに対して、ドイツは海軍力では太刀打ちできず、自国の商船保護に頭を悩ませていた。プロイセンの『鉄血宰相』ビスマルクは海軍力の不利を跳ね返すべく、必死に外交努力を重ねた。本書はその動きに注目し、『もう一つの独仏戦争』を描き出した労作である。
 著書は、海軍の劣勢を埋めるため、ビスマルクが開戦当初、米国から軍艦調達をめざしていあという目新しい事実を紹介している。当時、米国は南北戦争(1861~65年)が終わり、国内再建に向けて動き出していたところで、多数の軍艦を海外向けに売却していた。ビスマルクはこれを購入して、フランス商船に対する通商破壊を展開しようと考えた。しかし、運用に適した軍艦の入手が困難だと考えられたため、実際に米国側に提案するには至らなかった。
 そこでビスマルクが次ぎに乗り出したのは、国際法を活用したフランス海軍の行動の抑止であった。彼の構想に基づいて、ドイツは、武器弾薬などの戦時禁制品を搭載(とうさい)していないフランス商船を拿捕しないことを宣言した。当時すでに、交戦中の敵国の商船上に中立国の積荷(つみに)、中立国の商船上にある敵国の積荷(戦時禁制品を除く)を拿捕・没収する行為は、パリ宣言(1856年締結)によって禁止されていた。ドイツ派この商船保護の原則をさらに拡充し、戦時禁制品を積んでいないかぎり、私有財産を積んだフランス商船は拿捕・没収しないという方針を打ち出したのである。もちろんその狙いは、相互主義の観点から、フランスもドイツ商船に対して同様の措置をとらせることにあった。
 しかし、ビスマルクの期待は見事に裏切られた。ドイツ側の対仏商船保護宣言に対して、フランスはパリ宣言を遵守するに留まり、フランス海軍は世界中でドイツ商船を襲撃・拿捕していった。ビスマルクはフランスの国際法違反を列強諸国に訴えたが、イギリスをはじめ各国の反応は冷淡であった。かねてパリ宣言の拡充を主張しようとしていた米国も、国内問題に忙殺され、積極的な反応を示さなかった。こうして最終的には、ドイツ側が出した対仏商船保護宣言は撤回された。
 興味深いことに、この問題の影響は、アジアにも及んでいた。当時極東には、ドイツ、フランスの商船が多数来航していたが、同地域でも海軍力はフランスが圧倒していた(開戦時点の軍艦数は、ドイツが2隻、フランスが20隻)。日本が開戦後間もなく中立を宣言したため、日本近海では両国の戦闘は禁止され、双方の軍艦、商船共に自由航行が認められていた。しかし、日本を離れるとフランス軍艦に拿捕される可能性が高かったため、ドイツ商船の多くは戦争期間中日本から出港できず、足止めを余儀なくされた。
 このように、ドイツは通商破壊戦では劣勢にあり、事態を打開しようとしたビスマルクの外交努力も実を結ばなかった。独仏戦争は、ドイツが圧勝し、大国としての地位を築き上げた『成功譚(たん)』としてのイメージが強いが、戦争中のドイツは、海軍力、外交交渉力など随所においてまだ力不足で、苦闘を重ねていたというのが現実だった。本書は、海をめぐるせめぎ合いをとおして、こうした実像を活写している。
 やがてドイツは巨大海軍の建設に乗り出し、約40年後に第一次世界大戦を引き起こす。他方で日本は、中立国として座して待つことができず、ドイツに宣戦布告し、中国と南太平洋のドイツ領を占領するに至る。独仏戦争後の日独関係の変転についても、多くを考えさせられる。」
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 ウィキペディア
 普仏戦争(独: Deutsch-Französischer Krieg、仏: Guerre franco-allemande de 1870)は、フランス第二帝政期の1870年7月19日に起こり、1871年5月10日まで続いたフランス帝国プロイセン王国の間で行われた戦争である。
 プロイセン北ドイツ連邦のみならず、南ドイツのバーデン大公国・ヴュルテンベルク王国バイエルン王国と同盟を結び、フランスに圧勝した。この戦争を契機に、すでに旧ドイツ連邦の解体で除外が濃厚となっていた議長国オーストリア帝国を除いたドイツ統一が達成され、フランス第二帝政は崩壊した。
 ドイツ諸邦もプロイセン側に立って参戦したため独仏戦争とも呼ぶ他、フランス側では1870年戦争と呼称する。なお、日本の世界史の教科書ではプロイセン=フランス戦争と呼称する例もある。
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 朝日新聞「(103)普仏戦争 パリでの丹念な記録
 写真:渡正元。大正天皇即位式に参列した時の肖像。フランスでは陸軍士官学校で学んだが、帰国後は軍人から法制官に転じた=渡正元研究会提供
 拡大渡正元。大正天皇即位式に参列した時の肖像。フランスでは陸軍士官学校で学んだが、帰国後は軍人から法制官に転じた=渡正元研究会提供
 写真:研究会はほぼ毎月開催し、この3月で38回を数えている。左側手前が代表の渡洋二郎さん=東京都千代田区
 拡大研究会はほぼ毎月開催し、この3月で38回を数えている。左側手前が代表の渡洋二郎さん=東京都千代田区
 写真:研究成果の「現代語訳 巴里籠城日誌」。松井道昭さんの解説なども収めて2016年に刊行した。1500円(税別)
 拡大研究成果の「現代語訳 巴里籠城日誌」。松井道昭さんの解説なども収めて2016年に刊行した。1500円(税別)
■曽祖父の日記 研究し出版
 ◇「城内は飢渇し、寒さに凍え困窮」
 「いずれ勤めをやめたなら」という思いを抱いている人は多いだろう。藤沢市の渡洋二郎さんもその一人で、2013年に64歳で長年の会社勤めに終止符を打つと動き出した。
 挑みたかったのは曽祖父の残した日記だった。
 曽祖父、渡正元は江戸時代の1839(天保10)年に広島で武士の家に生まれた。20代で幕末の激動期を迎え、勤皇の志士として活動。藩の支配層と対立し脱藩し、大阪で蘭学を、江戸で仏学を学んだ。
 外国で学びたいと横浜から英国行きの船に乗り込んだのは1869(明治2)年9月で、ロンドンを経て70年3月にパリに到着。すると4カ月後にプロイセンとフランスの間で普仏戦争が勃発した。戦争中にパリで見聞したことを正元は丹念に記録し、報告書として71年に日本政府に提出すると兵部省が刊行。1914年に第1次世界大戦が始まると再版された。
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 渡さんの念頭にあったのはその日記。正元の子孫は〈いとこ会〉を結成し30人余の会員がいる。その仲間に呼びかけ研究会を立ち上げた。目指したのは日記の現代語訳で、真野文子さんが担当した。さらに内容を理解するため研究者を訪ね協力を要請した。
 横浜市大の松井道昭名誉教授も要請を受けた一人で研究会に参加した。フランス経済史が専門で普仏戦争を研究の対象としてきた。
 戦争の発端はスペインの王位継承をめぐる確執だった。プロイセン王家から候補が出たのに対しフランス皇帝ナポレオン3世が反対した。将来にわたってスペインの王位につかない確約までを要求した。
 日記にはパリ市民の様子が記されている。
 7月14日。兵士が出発するのを正元は目撃する。
 「パリの広い通りは所々人々が集まっていて通行できない。話は戦争でもちきりである」
 5日後にフランスは宣戦を布告。「両国の首脳の大半に、戦争するつもりはありませんでした。流れを変えたのは群衆であり、開戦をあおるジャーナリズムでした」と松井さん。
 背景には、1815年に成立したウィーン体制への不満があったと松井さんは考える。フランス革命最中の対仏干渉戦争に始まり、それを引き継ぐナポレオン戦争まで二十数年にわたった戦争を終結させたウィーン講和条約がもたらした平和の体制だったが、フランスには軍事的、外交的自主権を奪われたとの思いがあった。ナポレオンによって痛めつけられたプロイセンは、フランスへの恨みを抱いていた。
 戦いは一方的だった。ナポレオン戦争で欧州を席巻した自負が支えのフランスに対し、プロイセンは宰相ビスマルクのもと軍備を増強し態勢を整えていた。スダンの戦いでフランスは敗れ、9月2日にナポレオン3世は捕虜となった。
 9月4日にフランスは帝政廃止を宣言し共和制に移行。だが戦争は終わらず、パリは包囲された。籠城(ろうじょう)は132日に及ぶ。
 「パリ城内は飢渇し、寒さに凍え困窮している。パンは極めて劣等」「パリ市内の犬、猫、ネズミを食べつくした度合いはおおむね10のうちの7、8分になった」などと日記にはある。
 勝つ望みはないのに、戦争をやめられない。日本の戦争末期とも似ている。一方、戦いの間にプロイセンと周辺国によってドイツ帝国が誕生する。
 そして日記は71年3月9日にこう終わっている。ドイツ軍がシャンゼリゼ通りを行進した8日後である。
 「パリ市内は平静で変わったことはない」
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 研究会の成果は「現代語訳 巴里籠城日誌」として出版。ネット通販のアマゾンで入手できる。研究会では、欧州滞在期間全体の日記の解読を始めている。
 「普仏戦争はその後の欧州に大きな影響を及ぼしたのですが日本では知られていません。戦争は突然やってくる。その展開や帰結には古今東西において共通する要素があるのです」と松井さん。「普仏戦争」(春風社)などの著作のほか、研究成果を松井さんはブログ(https://blogs.yahoo.co.jp/matsui6520)で紹介している。
 簡単には外国へ行けなかった明治初年、正元に留学資金を提供したのは横浜の商人だったと渡家には伝わっているが、提供者の名前も、どのように返済したのかも不明だという。正元は1874年に帰国。法制官となり、1924年に亡くなるまで33年にわたり貴族院議員をつとめた。(渡辺延志)」
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 何時の時代でも、国際法は、強者・大国に味方して勝者の要求しに従って占領下での生殺与奪と略奪の権利を含む無敵の権利を与え、弱者・小国に味方せず敗者の権利を停止し主張・訴えを無効としている。
 その好例が、東京裁判である。
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 何故、プロイセンドイツ帝国親日となってアジアの弱小国日本を支援したのか。
 何故、鉄血宰相ビスマルク大久保利通伊藤博文ら文明度の低い非白人非キリスト教徒の日本使節団を温かく迎え、親身に近代国家建設に当たっての助言をしたのか。
 何故、ドイツ・ワイマール共和国が反日新中国となって、日本と戦争をするファシズム中国(中国国民党)に軍事顧問団を派遣し軍事支援を行い、弱小軍隊であった中国軍を世界最強の軍隊に育てたのか。
 何故、ヒトラーや保守派・国際的軍需産業が日本を裏切り者として嫌ったのか。
 何故、日本陸軍がドイツ軍事顧問団指導協力する中国軍を完膚無きまでに撃破したのか。
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 他国を排除する鎖国時代を生きてきた昔のローカルな日本人は、世界が認める高度な知識を持ち外国語を話して世界中を飛び回る現代のグローバルな日本人に比べて外交能力は優れていた。
 では、昔の日本人と現代の日本人の違いは何処かと言えば、本当の戦争(殺し合い)を知っているか、信仰宗教やイデオロギーを貫く為ではなく天皇・母国・家・家族を守る為ならば命を捨てる勇気と死ぬ覚悟があるかどうかである。
 つまり、日本民族の「バサラと潔い」の武士・サムライ及び「粋(いき)」な庶民(百姓や町人)であるかどうかである。
 当然の事ながら、現代の日本人は戦(いくさ)を嫌った「雅」な公家ではない。
 現代日本には、民族が極めたバサラと潔い、粋、雅は存在しない、あるのは贋作・偽物・紛い物である。
 現代の日本人が好む武士道は、心・志・精神・気概のない空虚な「武士道神話」に過ぎない。
 その醜悪な実態を現したのが、武漢肺炎(新型コロナウイルス)の蔓延に対する後手後手対応の見当外れ対策の醜態と、現実にいま中国共産党が行っている非人道のジェノサイドに対する非情である。
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 明治の日本人は、世界最強国のロシア帝国が清国人(中国人)を虐殺したアムール川事件に激怒し、国力差・戦力差から戦えば負ける可能性が高いにもかかわず、義憤から無謀にも非人道的犯罪に対する懲罰的対露戦争を要求した。
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