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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
カラカウア国王は、欧米列強の侵略に対抗する為に日本との関係を深めるべく、皇室との政略結婚を希望したが、失敗した。
次の手として、同じ境遇にあるポリネシア諸島との太平洋諸島連合構想に着手した。
カラカウア国王は、中国人を毛嫌いしていた。
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南方系海洋民の遺伝子を持つ日本人は、中国人よりハワイ人に親近感を持つていた。
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アメリカが最も恐れたのは、日本帝国とハワイ王国が同盟し、他の太平洋諸王国が日布同盟に参加してアメリカに対抗して、アメリカのアジア・中国進出を妨害する事であった。
アメリカと日本の戦争の種は、この時に蒔かれた。
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1882年 アメリカ議会は「支那人締め出し法」を可決させ、新規の中国人移民の受け入れを10年間保留し、国内にいる中国人住民の帰化権を剥奪した。
同様の人種差別法案は、カナダ、メキシコなど南北米国大陸諸国やオーストラリア、ニュージーランドなど中国人移民がいる国で成立した。
アメリカは、白人労働者や新たな白人移民者の仕事を奪って財をなす中国人苦力を排除する為に、中国人労働者の移民を禁止した。
白人労働者が嫌がる仕事をさせる為に、日本人移住者を受け入れた。
白人経営者は、黒人を奴隷として強制労働を強要し、次に中国人を奴隷として使役差さで、三番目に日本人を扱き使う為に受け入れた。
彼等は、非白人を人間とは認めず、使い捨てにする家畜として扱った。
カラカウア国王は、日本政府に日本人移民を要請する為に、ジョン・カペナを移民推進使節全権として日本に派遣した。
政府高官の宣教師の子供とプランテーション経営のアメリカ人は、低賃金農業労働者として自己主張の強い中国人苦力ではなく従順な日本人移民の受け入れを希望した。
ハワイ王室と民族派高官と親ハワイ派白人らは、人口が減少して民族力が弱ったハワイ人の人口を回復させ、アメリカのハワイ併合を跳ね返す為に日本人との結婚に期待した。
ハワイ人は、日本人と中国人を比べて、法を守らず横暴を極める差別意識の強い中国人より、法を守りもの静かな差別意識の少ない日本人に好感を持っていた。
中国人と日本人は、水と油の様に全く異なる人間と見ていた。
アメリカ人農園主らも、アメリカ本土における中国人の不衛生で賭博と売春とアヘンによる自堕落な生活態度に嫌悪して、中国人の移民を歓迎しなかった。
ジョン・カペナ「我々は、日本人とハワイ人は同じ祖先を持つ民族だと考えている。ハワイで育つ日本人の子供達はハワイ人の中に融合してくれ、それが新しい、より活力のある民族を作り出してくれるに違いない。そして減少したハワイ人の数を増やしてくれるだろう。私達が苦力の様な低賃金労働者を欲しいというだけなら、支那人を連れて来ればよい。私達はハワイ人の人口をもう一度増やしたい。それには秩序ある規範を保ち、働き者で、文化水準が高い日本人が必要だ。日本人は法を守る。そして何よりもハワイ人と同族なのだ」
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ハワイ王族は、偶然にも若くして相次いで死亡した。1884年10月 バーニス王女(53歳)死亡。1885年4月 エンマ元王妃(49歳)死亡。1887年2月 リケリケ王女(36歳)死亡。
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1884年 カラカウア国王は、カーチス・ラウキアを団長とする移民促進使節を日本に派遣した。
日本政府は、ハワイ王国と、ハワイ政府が責任を持って日本人移民の面倒を見るという約定書を取り交わした。
官約移民の始まりである。
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1885年 ベルリン条約。欧州列強は、アジアやアフリカを無主の土地と決めつけ、所有は早い者勝ちとされ、海岸線を取ればその奥地も優先所有権が認められた。
キリスト教白人国家による、植民地争奪戦の始まりである。
帝国主義は、キリスト教倫理のヨーロッパで起きた。
白人キリスト教徒は、絶対神から与えられた宗教的特権と国際法に於ける無主物先取特権「先占権」で、アフリカ・アジア・太平洋諸地域を暴力的に再分配する事を決めた。
植民地化する該当地域に先住民がいても、白人でなければ絶対神に愛され祝福されない動物であると認定した。
人ではない獣は、絶対神の創造した土地から根絶しても罪にはならないとされた。
白人には、非白人を殺害しても「罪の意識」は皆無であった。
白人は、「絶対神の御名」によって、植民地で虐殺と略奪を行った。
占領地を領土とする為に、大量の白人を入植させ、西洋語を国語とし、キリスト教を国教とした。
新たな領土を国際化する為に、西欧の唯一絶対的価値観から、非白人の宗教や言語や風習など全ての民族性を消滅した。
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日本も朝鮮も中国も、非白人反キリスト教という分類から植民地化の対象とされていた。
朝鮮は、白人の軍事を利用して敵国日本を滅ぼす為に、白人の要求に抵抗せずキリスト教を受け入れた。
戦前の日本は、神の裔・万世一系の男系天皇(直系長子相続)の安泰と国家の自主独立を守る為に、味方してくれる仲間を持たず孤独に戦い、白人キリスト教の植民地化される事なく生き残った。
日本人の英語下手は、植民地化されなかった証拠である。
日本は、自国中心の安全の為に、朝鮮を植民地化した事で犯罪国家とされた。
朝鮮は、日本に対して爆弾テロを繰り返し、国家元首・天皇を爆殺しようとした。
天皇制度国家日本には、自衛権も、正当防衛も認められていなかった。
カナダの大陸横断鉄道であるカナディアン・パシフィック鉄道が完成した。
イギリスは、北太平洋航路に参入する為に、カナダ太平洋汽船を設立(CPS)した。
アメリカは、強力な海運力を持つイギリスが太平洋航路に参入してきた事に危機感を強め、ハワイを重要な軍事拠点として完全支配下に置く事を決意した。
独立国家ハワイ王国の運命は、この時に決定した。
2月8日 ホノルル港に、日本からの第一回官約移民約943名が上陸した。
カラカウア国王とウォルター・ギブソン首相ら政府高官達は、港に出向き、日本人移民を援軍を迎える気持ちで迎えた。
ハワイ人の多くも、同じ非白人である日本人を新たな同胞として歓迎した。
この後。10年間で第26回の官約移民が行われ、約3万人の日本人が移住した。
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1886年 日本政府は、ハワイ王国と日布労働協定を結び、合法的に日本人を労働者として国外に移住させ始めた。
ハワイ王国は、アメリカの侵略から国土と国民を守る為の窮余の一策であった。
フレデリック・ジャクソン・ターナー「これからは太平洋の世紀である」「この地域はミステリアスで、我々の将来にどんな意味を持つのか誰にも分からない」
アメリカは、発展の為に西への進出を加速化させた。
日本は、祖国防衛の為に東に防波堤を築こうとした。
キリスト教西洋文明と日本文明の最初の衝突は、ハワイで起きた。
それは、文明の衝突・文化の衝突というより人種の衝突であった。
西海岸のアメリカ人は、カリフォルニアの黄金が大量に発見されていた当座は東洋人種を受け入れていたが、黄金発見の量が減少するや東洋人種の排斥を求めた。
人種差別や移民排斥は、豊かでゆとりのある時代は起きないが、貧しくなりゆとりがなくなると必ず起きる。
それは。古今東西、何れの国でも、何れの地域でも、不可避的に発生する問題である。
カール・クロウ「我が国と日本には、全く共通性がない」「この二つの国は、お互いを理解するのは不可能である」
同じ人間であっても、突き詰めて人種が異なる。
文明・文化の違いによる衝突は人種の違いで起き、人種に違いゆえに理解し合う事がなく最悪な状況に暴走した。
ラフカディオ・ハーンら日本を愛した外国人は、日本の将来に起きるであろう人種間紛争を危惧した。
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1887年 ハワイ王国は、海軍強化として、イギリスから中古の小型蒸気船を購入し、軍艦に改造して「カイミロア(遠い彼方へ)」号と命名した。
船長と士官はイギリス人で、水兵はハワイ人であった。
親ハワイ派のアメリカ人ギブソン首相は、ハワイ王国を欧米列強の侵略から守る為に「ハワイは太平洋州の盟主たるべし」と訴えた。
カラカウア国王は、祖国ハワイを守る為にポリネシア人連帯構想を打ち出し、ミクロネシア人のギルバート諸島(後のキリバス共和国)やメラネシア人のニューヘブリディズ諸島(バヌアツ)に特使を派遣した。
ジョン・ブッシュは、特使として、ポリネシア人のサモア王国を訪れた。
サモア国王マリエトアは、ハワイ人船員が酒を飲んで暴れた事に不快感を表して、ハワイ国王の申し出に当惑した。
太平洋島嶼諸国によるポリネシア構想は失敗した。
ギルバート諸島は1892年にイギリス領となり、ニューヘブリディズ諸島はイギリスとフランスの共同統治となった。
サモアは1899年に東西に分割され、東サモアはアメリカの領土となり、西サモアはドイツ帝国の統治とされた。
ドイツ帝国が第一次世界大戦で敗北するや、西サモアはイギリスのニュージーランドの委任統治領となった。
海洋国家日本は、太平洋島嶼諸国の悲運を救うよりも、清国・中国とロシア帝国の侵略から祖国日本を守る自衛が最優先であった。
ハワイの親米派である宣教師の子供達は、アメリカ経済との連繋を強化して利益を上げる為に、カラカウア国王やギブソン首相らのハワイ民族主義者の反米的行動に危機感を抱いた。
イギリスは、ベネズエラと英領ギアナとの国境紛争を起こしていた。
アメリカは、モンロー主義からベネズエラを支援した。
イギリスは、叛徒が建国したアメリカを憎悪し、アメリカを潰す為に敵対した。
1月 ローリン・サーストンは、民族派の民族自立運動に対抗する為に、秘密結社ハワイ連盟を結成した。
6月 ハワイ王妃カピオラニとリリウオカラーニ王女は、ロンドンで開催されたイギリス王国ヴィクトリア女王在位50年の祝典に参列した。
イギリス政府は、ハワイ王国を独立国家と認め、ドイツ帝国や日本(代表・小松宮)などの貴賓と同席させた。
ハワイ王国は、日本の皇室との婚姻関係に失敗した為に、アメリカの侵略に対抗するべくイギリス王室との関係強化を望んでいた。
ハワイ連盟は、民族派を武力で押さえ込む為に武装集団ホノルル・ライフルズを組織した。
イギリスは、内政不干渉の原則から傍観するのみで、カラカウア国王を支援しなかった。
ハワイ王国は、カラカウア国王の世界歴訪で諸外国から自主独立国家として承認されたにもかかわらず、国際的に孤立していた。
親米派は、経済と軍事を支配しその力を背景として、カラカウア国王に対して反米急先鋒のギブソン首相の解任を要求した。
そして、カラカウア国王に銃剣を突きつけて国王権限を制限する新憲法に署名させた。
世にいう、銃剣憲法である。
アメリカ人移民だけで政治権力を独占する為に、法律に、600ドル以上の年収もしくは最低3,000ドルの資産を持つ者のみに参政権を付与すると定めた。
今後、日本からの移民が増える事を予想して、ハワイの市民権がない白人にも参政権を認めた。
この結果、7割のハワイ人とアジア系移民は政治への参加が閉ざされた。
非白人の排除が、アメリカが推し進めようとした自由と民主主義の実態であった。
当然の事ながら。ハワイ人民族主義者は猛反発し、ハワイをアメリカ化しようとする親米派への反感が敵意に変わり、反米暴動へ発展するような不穏な空気が充満し始めた。
7月 ハワイ改革党のアメリカ人は、ハワイ人口の約20%に過ぎなかったが、富の大半を独占していた。
王政が存続してはハワイの完全支配が叶わないと確信し、秘密結社「ハワイアン・リーグ」を結成して、王制打倒の陰謀をめぐらした。
イギリス人やフランス人などの欧州系白人達は、アメリカへの併合を公言してはばからぬアメリカ人に嫌悪感を抱いていたが、あえてハワイ王国を救済しようとはしなかった。
人種差別主義者の彼らは、専制君主制廃止の理想主義者として、異教徒非白人の王政を廃して人民主権の共和制に改変し、後にアメリカとの合併を希望していた。
国王への忠誠心篤いW・ギブソン首相を、職権を乱用し、アメン密売で不正蓄財を行ったとして逮捕して国外に追放した。
改革党は、私兵の武装集団であるホノルル・ライフルズを組織していた。
7月7日 改革党はクーデターを起こし、カラカウア国王に銃を突きつけ強制的にベイオネット憲法に署名させた。
国王は、国家元首としての権限を奪われ、政治への関与が禁止され、改革党の厳しい監視下に置かれた。
もし、署名を拒否すればカラカウア国王を暗殺する手筈を整えていた。
ジョン・マクグルー「歴史には進化というものがある。今から僅か80年前のカメハメハ1世の時、このハワイはまるで石器時代だった。我々が入ってきて、ハワイの生活は急速に向上した。ゆくゆくはアメリカに合併するのが、一番いいのだ」
ロリン・サーストン「フランス革命が良い前例ではないか。まず王制を倒して共和制とし、それからアメリカに合併する。それが順当な道筋というものだよ」
アメリカの理想主義は、植民地廃止と同時に王政の廃絶を掲げている。
彼らにとって、日本の皇室も廃絶すべき王室の一つであった。
現代の日本の天皇制廃止者のうちで、左翼・左派のマルクス主義者でない日本人は、この流れを受けた国際派リベラリストである。
天皇女系支持派も、この流れを引いている。
7月12日 ギブソン首相は、公金横領の容疑をかけられたが、親米派との裏取引で国外に出る事で逮捕・訴追を免れた。
民族派は、ギブソン首相がサンフランシスコに逃亡した事で指導者を失い、統一的反米活動がとれなくなって弱体化した。
ギブソンは、半年、亡命先のアメリカで肺を患って死亡した。
7月26日 リリウオカラーニ王女やカピオラニ王妃らは、急遽帰国した。
宣教師党は、ハワイ王国をキリスト教国家にするべく、リリウオカラーニ王女に即位を要請した。
リリウオカラーニ王女は、キリスト教会の操り人形になるだけであるとして拒絶した。
改革党のリーダーであるサンフォード・ドールは、白人支配の地盤を強化する為に、リリウオカラーニ王女に王位継承権を14歳のカイウラニ王女に譲る様に要請した。
リリウオカラーニ王女は、改革党や宣教師党らからハワイ王国を守る為に、人口の70%を占めるハワイ人とアジア人に選挙権を与えるべきであると考え始めた。
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1888年 ハワイ人は、ハワイ王家を守るべく政治組織・ハワイ人政治協会(王党派)を組織した。
パーシバル・ローウェル「我々が直感的に感じる理解と日本人の理解とは全く逆である。それは滑稽なほどである。しゃべり方でも書き方でも読み方でも同じ様に逆である。表現方法が逆なのである。考え方そのものが、我々と正反対だ。我々が当然だと感じる事は彼らにはひどく不自然で、我々がおかしなことだと感じる事は、彼らにとっては当たり前の事なのだ」
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1889年 大統領選挙で、ハワイ王家に好意を寄せていた民主党のクリーヴランド大統領は惨敗した。
新大統領のハリソンは、冒険主義的海外拡大派として南太平洋のサモア諸島を保護領とした。
ワシントンで、第一回汎アメリカ外相会議が開催された。
王党派のウィルコックスは、自由愛国協会を組織し、武装決起の準備を進めていた。
1月 日本とアメリカの間で、C&J(チャイナ・アンド・ジャパン貿易)栄養補助食品スコット・エマルジョンの販売が外交問題となっていた。
アメリカは、対日貿易で大幅な赤字を出し、その不均衡を是正する様に求めていた。
日本政府や外務省内では、外交方針をめぐって親ドイツ派と親米派が主導権争いをしていた。
2月 森有礼文相は、国を背負って立つ国際人を育てるには、国際化に不向きな日本語を捨てて西欧語に変更するべきであると主張した。
国粋主義者は、日本神話に根ざした言霊である日本語を捨ててキリスト教徒の外国語を国語にしようとしていると激怒して、国際派の森有礼文相を暗殺した。
民族主義者は、国際競争力を付ける為と言いながら、日本精神や伝統文化の核である日本語を破壊する様な国際化には猛反対した。
アメリカ公使リチャード・ハバードは、大隈重信外相と不平等条約改正に関する条約を調印した。
大隈外相は、関税自主権の回復と引き換えに外国人裁判に外国人判事を任用する事を認めた。
日本政府は、60%の地租を財源としていた為に慢性的財政赤字に苦しんでいた。
開国をして外国貿易が可能になっても民間資本が税金で徴集されて、国力を付ける為の殖産興業を行うだけの余力がなかった。
8%の関税収入を増やし、競争力の脆弱な国内産業を外国製品から保護する為にも、関税自主権の回復は急務であった。
ハバード「日本は、必ずや自由で独立した大国に成長して行くに違いない」
3月12日 ハリソン大統領は、ハワイにおける日本人移民の増加はハワイ併合の行程表に差し支えると警戒した。
ブレイン国務長官は、日本人移民増加問題の解決の為に、中国人移民問題解決に手腕を発揮したカリフォルニア州選出議員ジョン・スウィフトを対日外交責任者として駐日公使に任命(〜92年)した。
「日本人はアメリカに低賃金労働者となって入り込み、アメリカ社会に摩擦を生み、それが人々の間に大きな不満の渦を巻き起こすに違いない。……これまで長期にわたって支那が苦力労働の供給基地だった。しかし、アメリカと日本を結ぶ交通の便がよくなった現在、日本人移民がアメリアに雪崩を打って押し寄せるだろう」
日本政府は、国内で過剰化し始めた低所得層を移民として国外に送り出し、現地で定着した日本人移民を介して通商国家の建設を国策とした。世にいう、国際交易の為の植民論である。
その二大柱が、黒田清隆らの北海道の警備・開拓の屯田兵計画(1975年設置)と杉浦重剛らのハワイ移民計画であった。
杉浦重剛『進取論』(1887年発表)「殖民省を立て北海道、小笠原諸島等の管轄より布哇国の移住民に至るまで、之を監督し漸次他の殖民地を起こすべき方法を調査し、民間にて此等の事業を起さんと欲する者もあるときには相当の保護を与え、持って之を奨励」
志賀重昂『南洋時事』(1887年刊行)「布哇は我東隣の独立国にして亦南洋の一群島なり。近時我同胞2,000余人は這般(しゃはん)群島に散在移住して各其業務に服せり。故に此国の安危治乱は直接に我同胞に関係する者なり。且本年より我国と布哇の間に直接の汽船航路を開くの計画ありと。是れ亦(また)我国の貿易家が注意を忽(ゆるが)せに可からざる処なり」
アメリカは、安全保障の面から日本がハワイに進出してくる事に警戒した。
東京に到着したスウィフト公使は、ハワイに向かう官約移民の船が横浜港を出港するたびに、移民の人数を本国に報告した。
5月10日 リリウオカラーニ王女は、ハワイ王家をアメリカから守るべくカイウラニ王女をイギリスに留学させた。
6月 ジェイムズ・ブレイン国務長官は、ハリソン大統領にキューバやプエルトリコよりもハワイ併合を急ぐ事を伝え、ジョン・スティーブンスをハワイ公使としてホノルルに送り込んだ。
スティーブンス公使は、宣教師の子供やプランティーション経営者とハワイ併合の為の裏取引をして支持を広めた。
7月30日 ロバート・ウィルコックスによる、王宮占拠事件。
イギリスの駐ハワイ弁務官ジョン・ウォードハウスは、占拠事件が長引くと外国勢力の介入を招く危険がある為に、速やかに鎮圧すべきであると国王に忠告した。
イギリスは、ハワイに於いてアメリカが影響力を付ける事を警戒した。
7月31日 ウィルコックスは、王室を守るべく改革党内閣に対して決起し、政府建物を占拠した。
一部の中国人商人らは、ハワイ経済での居場所を確保する為にクーデターを支援した。
政府は、民兵組織ホノルル・ライフルズに武力鎮圧を命じた。
急進的王党派のクーデターは失敗し、ウィルコツクスは逮捕された。
改革党政府は、ウィルコツクスの王党派への影響力に配慮して死刑ではなく禁錮刑を求めた。
リリウオカラーニ王女は、武力ではなく平和的な手段での王権回復を望み、全ての非白人に選挙権を与えようとしていた。
アメリカ系白人が多数を占める議会は、非白人に選挙権を与える事に猛反対していた。
改革党や宣教師党らは、人民による理想国家を建設する為に王制を打倒する事を決意した。
合併派は、ハワイ王国解体の準備に入った。
プレイン国務長官と駐ハワイ公使スティーヴンスは、アメリカの国益の為にハワイの併合を念頭に外交活動を行っていた。
日本は、アメリカの領土的野望に危機感を抱きつつ、日本人移民を急増させていた。
10月 国粋主義者は、条約改正の大隈案で、人種差別の強い外人判事を任用する事は、外国語に弱い日本人判事では太刀打ちできず、白人に気後れする日本人被害者に不利になると激怒していた。
玄洋社構成員の来島恒喜は、大隈外相の乗る馬車に爆弾を投げて暗殺しようとしたが失敗した。
大隈重信は、右足を失う重傷を負い、命に別状はなかったが外務大臣職を辞職した。
新たに外務大臣に就任した青木周蔵は、親ドイツ派として、アメリカ依存外交をドイツ帝国などの欧州協調外交に変更した。
青木外相は、C&Jが訴えている商品販売許可問題をC&J側に不利な裁定を下した。
スウィフト公使は日本側の不誠実を激しく抗議したが、青木外相は冷たくあしらった。
トーマス・エジソンと多くのアメリカ企業は、日本政府に対して、日本市場で特許権侵害による猿真似的類似商品が出回って不利益が出ていると訴えたが、全て誠実なく却下され大損を被っていた。
日本の国際協調路線が、アメリカ一国から欧州諸国に変更されて、アメリカとの関係は悪化して行った。
アメリカは、日本不信から、親日外交方針を根本から変更した。
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1890年 アルフレッド・マハンは、海洋支配を正当化する『歴史における海洋支配力の影響』を出版した。
セオドア・ルーズベルトは、マハンの「国家発展の為には海上交通路を支配するべきである」に共感し、欧米歴訪(1889〜90年)でワシントンを訪れたハーバー大学の学友金子堅太郎にマハンを紹介された。
金子堅太郎は、『海上権力史論』を熟読し、そこに将来の大日本帝国あるべき姿を読み解き、帰国後ただちに抄訳を海軍大臣の西郷従道に贈った。
資源のない島国日本は、海外交易の重要性を理解して、直ちに海軍力の充実に取り掛かった。
大陸国のアメリカは、海洋を支配するイギリス海軍に対抗する為の海軍力強化には及び腰であった。
ワシントンを支配していたのは、南北戦争を勝利に導いた陸軍将官であり、海軍は物資や兵員を運搬する後方任務部隊とされていた。
世界の軍事常識は、戦争の勝利を決めるのは陸軍主力部隊による一大会戦であって、海軍の艦隊決戦ではないとしていた。
2月 大日本帝国憲法発布。
3月31日 日本軍は、在日する全ての国の外交官や武官を招待して、陸海合同大演習を知多半島の武豊港で実施した。
陸上演習の兵力は約2万8,000人で、アメリカ陸軍常備兵を上回る人数であった。
アメリカのスウィフト公使は、大演習の模様と日本軍は無煙火薬を開発し保有しているとの軍機密情報をワシントンに報告した。
アメリカ海軍は、日本の海軍力増強に危機感を抱いた。
セオドア・ルーズベルトもまた、日本脅威論者となった。
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ハワイの総人口8万9,990人のうち日本人は約1万2,610人で、ハワイ人、白人、中国人に次ぐ第四の勢力となっていた。
選挙権。純粋ハワイ人、65%。白人との混血ハワイ人、6%。ハワイ生まれの白人、1%。アメリカ人、5%。イギリス人、%。ドイツ人、3%。ポルトガル人、15%。その他、1%。
人口比率第2位の中国人1万5,301人(17%)と第3位の日本人(14%)は、選挙権がなかった。
アメリカは、25年間という永きにわたった異教徒インディアンとの戦争に勝利し、「フロンティアの消滅」を宣言した。、白人の「天から与えられた明白な使命」によって、数百万人のインディアンが虐殺されるか餓死し、数百万人が故郷から居住区に強制移住させられた。
インディアンは、圧倒的な戦力差から負ける事がわかっていたが、部族の誇りと祖先の栄光と自然豊かな生活環境を取り戻すべく絶望的な戦争を行った。そして、情け容赦のない大虐殺の末に多くの仲間を失い、不毛の強制居住区に押し込められた。
ノックス陸軍長官「我々の植民のやり方がインディアン先住民に対して、メキシコやペルーの征服者の振る舞いよりもなお破壊的だった事を思うと憂鬱な気持ちに沈められる。……将来、歴史家はこの民族破壊の原因を暗黒色で描くかも知れぬ」
アメリカの領土欲は海を越え、カリブ海や太平洋に向けられた。暴力を持って抵抗する異教徒原住民は虐殺され、生き残った島民は改宗して島がキリスト教化された。
国内産業保護を目的とするマッキンレー関税法が成立し、輸入品の関税が平均48%を超えたが、食料品は無関税とされた。ただし、国内の農家保護の為に生産ポンド当たり2セントの保証金を出した。
粗糖は、無関税となった為に、キューバなど中南米からも大量に輸入出る様になった。
ハワイの砂糖プランテーション経営者は、米布互恵条約で無関税特権を得て利益を上げていたが、マッキンレー関税法成立で大損害を被った。
1890年に1,300万ドルあった対米輸出は、92年には800万ドルに落ち込んだ。
ハワイの輸出品は、粗糖が94%、ライスが3%、バナナが2%、その他が1%であった。
砂糖プランテーション産業に占めるアメリカ資本は、全体の74%であった。
ハワイ経済は、アメリカに粗糖を輸出する事で成り立っていた。
ハワイ人口約8万9,000人中2万人が、砂糖きび畑で働いていた。
カラカウア国王は、「ハワイ人の為のハワイ」という民族主義を掲げて、日本人移民を推進していた。
11月25日 カラカウア国王は、アメリカとの関係改善と主要産業の砂糖輸出交渉の為に、アメリカに向けて旅に出た。
12月 マハン(アトランチック・マンスリー誌)「舞台は大西洋から太平洋へ移った。そうなればアメリカに対する脅威は日本から来るはずで、ハワイを外国の影響下にさらしてはならない」
ウンデット・ニーの大虐殺。アメリカ陸軍は、インディアン戦争を終結させるべく、頑強に抵抗するスー族を容赦なく虐殺した。
12月29日 サウスダコタ州ウーンデッド・ニー渓谷で、スー族の女子供300人が酷たらしく虐殺され、死体はゴミの様に穴に捨てられた。
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1891年1月20日 カラカウア国王は、体調を崩し、サンフランシスコで治療を受けていたが死亡した。
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