🔯7」─2─『新約聖書』「ヨハネによる福音書」。不寛容な唯一絶対真理の一神教。〜No.24 @ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 ゾロアスター教聖典『アベスタ』には、聖書の「処女の懐胎」や「救世主の誕生」や「最後の審判」などがすでに存在するといわれている。
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 一神教絶対神は、光と世界と時間を創造し、予定に従って、全てを与え、全てを奪った。
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 一神教であるユダヤ教キリスト教イスラム教の絶対神は、唯一の「ある」神として光と時間と世界を創造し、光と時間と世界の外にあって「与え・奪う」事で全てを支配している。
 時間の初めと時間の終わり、世の初めと世の終わり、生を死を定め、全てが終わった時に最後の審判を行い、善い行いをした者は光り輝く神の国・天国に招き永遠の命を与え、悪い行いをした者は暗黒の地獄に突き落としその罪科に見あった責め苦を永遠の命で償わせる。
 罪人には、救いはない。
 神の世界とは「永遠の形」がある世界の事で、老いる事なき「永遠の若さ」と死ぬ事なき「永遠の命」が存在する世界であると共に、新しいモノが一つも生まれる事なき永遠の世界である。
 地上の人間世界とは、永遠や無限とは無縁の限定された「形のある」閉塞世界である。
 起きる全ての出来事は、主なる神の御心による御業で何らかのワケがあるのだが、人間には主なる神のお考えは理解できない。
 つまり、絶望も悲嘆も、悲劇も悲惨も、そこには存在しない。
 全てが、絶対神権を持った創造神によって、永遠の昔から運命的に定められた世界である。
 阪神・淡路大震災東日本大震災などの地球上で起きている全ての自然災害は、主なる神がある意図を持って引き起こされた大災害である。
 自然災害で死んだ者は主なる神の定めによって死に、助かった者は主なる神が助かる様に定めていたがゆえに助かった。
 助かった者は、助けてくれた主なる神に感謝して「隣人愛の信仰」の道に入らねばならない。
 人は、死んだ家族や友人の冥福を祈る前に、自分が助かった事を絶対神に感謝した。
 大事なのは、不幸に死んだものではなく、幸運に生き残った者だけである。
 日本神道は、普遍宗教とは真逆に、死者の追悼を終えてから自分が生き残った事を嘆き悲しんだ。
 主なる神は、信仰を持つ善人を天国に誘い、信仰を持たない悪人を地獄に突き落とした。
 人は、自分が救われる運命か救われない定めか分からないだけに、主なる神と「隣人愛の信仰」を持つ事を契約し、救われると信じて勤勉に生き、強欲と嘘偽りを避けて日常生活を過ごしてきた。
 初めと終わりの間には、時間と世界を創造した唯一の神による絶対真理という一本の直線しか存在しない。
 神を捨てた反宗教無神論者には、初めもなければ終わりもなく、「隣人愛の信仰」で嘘偽りなき品行方正な生涯を終えて死後の世界を迎えようという誠実さは皆無である。
 理想社会を建設すると信じられた共産主義は、他人を意識した「完全無欠な絶対平等」を理想として、ソ連や中国など世界中で夥しい犠牲者を出して失敗した。
 同様に、資本主義もユートピアをもたらす事なく、他人を意識しない「個の完全なる自由」を標榜して、自分だけの富みと幸福を追求するだけの弱肉強食の不公平社会を出現させた。
 勤勉と禁欲という歯止めを捨てた個人は、個の強欲だけを唯一の目的として利益と金儲けを追い求める成長至上主義と社会から切り離されて取り残されるという恐怖の脅迫観念で、終わりなき「無限衝動」に駈られて盲目的に暴走している。
 そこには、立ち止まって自分を振り返る満ち足りた喜びも新しいモノに出会う楽しみもない。
 現代社会には、目的のない一本の直線が過去から未来に向けて永遠に延びている。
 個の欲得しか持たない現代人は、神の審判はおろか歴史の審判という恐怖心を持たないがゆえに、亡者の如く絶望に打ちひしがれながらその道を虚ろな目をして彷徨うしかない。
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 『新約聖書』(日本聖書協会、1954年)キリスト教
 「ヨハネによる福音書
第1章
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。
この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。
彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。
すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。
わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。
律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。
神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。
さて、ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司たちやレビ人たちをヨハネのもとにつかわして、「あなたはどなたですか」と問わせたが、その時ヨハネが立てたあかしは、こうであった。
すなわち、彼は告白して否まず、「わたしはキリストではない」と告白した。
そこで、彼らは問うた、「それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか」。彼は「いや、そうではない」と言った。「では、あの預言者ですか」。彼は「いいえ」と答えた。
そこで、彼らは言った、「あなたはどなたですか。わたしたちをつかわした人々に、答を持って行けるようにしていただきたい。あなた自身をだれだと考えるのですか」。
彼は言った、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」。
つかわされた人たちは、パリサイ人であった。
彼らはヨハネに問うて言った、「では、あなたがキリストでもエリヤでもまたあの預言者でもないのなら、なぜバプテスマを授けるのですか」。
ヨハネは彼らに答えて言った、「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。
それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない」。
これらのことは、ヨハネバプテスマを授けていたヨルダンの向こうのベタニヤであったのである。
その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。
わたしはこのかたを知らなかった。しかし、このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。
ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。
わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。
わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。
その翌日、ヨハネはまたふたりの弟子たちと一緒に立っていたが、
エスが歩いておられるのに目をとめて言った、「見よ、神の小羊」。
そのふたりの弟子は、ヨハネがそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
エスはふり向き、彼らがついてくるのを見て言われた、「何か願いがあるのか」。彼らは言った、「ラビ(訳して言えば、先生)どこにおとまりなのですか」。
エスは彼らに言われた、「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう」。そこで彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を見た。そして、その日はイエスのところに泊まった。時は午後四時ごろであった。
ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。
彼はまず自分の兄弟シモンに出会って言った、「わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った」。
そしてシモンをイエスのもとにつれてきた。イエスは彼に目をとめて言われた、「あなたはヨハネの子シモンである。あなたをケパ(訳せば、ペテロ)と呼ぶことにする」。
その翌日、イエスガリラヤに行こうとされたが、ピリポに出会って言われた、「わたしに従ってきなさい」。
ピリポは、アンデレとペテロとの町ベツサイダの人であった。
このピリポがナタナエルに出会って言った、「わたしたちは、モーセが律法の中にしるしており、預言者たちがしるしていた人、ヨセフの子、ナザレのイエスにいま出会った」。
ナタナエルは彼に言った、「ナザレから、なんのよいものが出ようか」。ピリポは彼に言った、「きて見なさい」。
エスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた、「見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない」。
ナタナエルは言った、「どうしてわたしをご存じなのですか」。イエスは答えて言われた、「ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た」。
ナタナエルは答えた、「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」。
エスは答えて言われた、「あなたが、いちじくの木の下にいるのを見たと、わたしが言ったので信じるのか。これよりも、もっと大きなことを、あなたは見るであろう」。
また言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。
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『口語 新約聖書日本聖書協会、1954年
ヨハネによる福音書
第15章[編集]
わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。
あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。
わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。
人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。
あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。
もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。
わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。
わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。
これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。
もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。
もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。
わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。また、もし彼らがわたしの言葉を守っていたなら、あなたがたの言葉をも守るであろう。
彼らはわたしの名のゆえに、あなたがたに対してすべてそれらのことをするであろう。それは、わたしをつかわされたかたを彼らが知らないからである。
もしわたしがきて彼らに語らなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう。しかし今となっては、彼らには、その罪について言いのがれる道がない。
わたしを憎む者は、わたしの父をも憎む。
もし、ほかのだれもがしなかったようなわざを、わたしが彼らの間でしなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう。しかし事実、彼らはわたしとわたしの父とを見て、憎んだのである。
それは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と書いてある彼らの律法の言葉が成就するためである。
わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。
あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのであるから、あかしをするのである。
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ヨハネの黙示録
「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。
わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。
いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。
犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている」




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