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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
政治とは、非情な国家の統治理念で、99人を救う為に1人を見捨てる事である。
政治家は、責任倫理として、1人を殺して99人を助ける蛮勇をふるえるかどうかである。
宗教とは、信仰心として、たぶん安全であろう99人を脇に置いて、はぐれた1人を救う事である。
宗教家は、信条倫理(無条件の普遍的愛)として、政府から見捨てられた1人の魂を救う為に全力を尽く者の事である。
政治が99人の為に1人を見捨てるのは、ある意味やむを得ない事である。
つまり。国家は、できうる限りの手段を講じて国民を助けようとすが、万策尽きて取る手段がなくなった時、国民を見捨てる。
宗教は、見捨てられた1人に救済を差し伸べ、政治を怨むのではなく、神の御心を信じ魂の救済を祈るように導く使命があった。
政治と宗教は別物であり、目指すべき到達地点は正反対である以上、決して一体化させるものではない。
宗教と政治の関係は、水と油の関係にある。
ただし。政治は、法至上主義と同時に良心・道徳・倫理の源泉としての宗教精神を持たねばならない。
政治が宗教に干渉してはならないし、宗教が政治を支配してはならない。
賢者は、政治と宗教を明確に分離して、宗教精神を持って政治を行う。
愚者は、政治と宗教を一体化さ、片方が一方を支配するか破壊しようとする。
反宗教無神論者は、政治で宗教を消滅させようとする。
宗教原理主義者は、宗教で政治をねじ曲げようとする。
反宗教無神論も宗教原理主義も、社会の安定した発展に貢献しないし、人に安心と幸福をもたらす事は決してない。
マックス・ウェーバー「全ての倫理的な行動は、二つの根本的に異なりお互いに両立する事のできない原則に基づいている」
「キリスト教徒として正しく行動する事だけを考え、その結果を神に委ねる」(『職業としての政治』)
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「ルカの福音書」
第15章
さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。
するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。
そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、
「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。
そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、
家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。
よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。
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「マタイ福音書」
第4章
さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。
そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。
イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて
言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。
『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』
と書いてありますから」。
イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。
次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて
言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。
するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。
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海野弘「世界は謎である。世界は秘密と陰謀に満ちている。そのような世界を解読したい、はっきり見たいと思う時、陰謀論という<アプリ>が必要となる」「ばらばらの部分をつないだ統一的な理論が求められ」「陰謀説はそのため呼び出される」(『世界陰謀全史』)
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階級差別の激しい大陸においては、卑しい家系で、身分の低い者には教養を持つ事も読み書きを覚える事も一切禁止されていた。
サムライは、領民が国王を玉座から引きずり下ろして処刑した事に衝撃を受け、その恐怖心が後年の開国問題での騒動の要因となった。
尊王攘夷派が、開国に反対したのは、異国人を国内に入れる事ではなく、庶民がキリスト教国の真似をして将軍家や皇室に牙をむき、日本的なモノを破壊し、将軍や天皇を娯楽半分で殺害する事であった。
昔の日本人は、神道的多種多様な価値観を持っていたがゆえに、人の心とは、欲深いだけに自然と共に移ろいやすい事を知っていた。
決して、ヨーロッパの様に、全てのモノが絶対神の御意志・御わざで計画され、絶対神の普遍的単一価値観で不変であるとは、嘘でも信じ切れなかった。日本の自然環境とヨーロッパの自然環境とは、全く違う気候風土にあった。日本は、変化の激しい狂暴な自然と柔軟に共存し、自然のおもむくままに、人的思惑を抑えてあるがままに受け入れた。ヨーロッパは、変化の乏しい自然と敢えて闘って支配し、自然を悪魔が住み着く邪悪な場所として憎み、人工美を追求して思うがままに破壊的に改造した。個性の弱い神道と個性の強いキリスト教の違いも、そこにある。
同様に、人を人と思わず押しのける我欲の強い陽気で排他的な朝鮮や中国とも、友好関係を持って国交を開く事はしなかった。中国と朝鮮の自然環境も、ヨーロッパ同様に日本の自然環境とは異質であった。
地球は一つではあるが、自然環境は地形によって一つではない。
人類は一種類であるが、人間は一つではない。
日本人は、気弱でひ弱な民族であるがゆえに、家族的な人間関係を大事にし、相手の気分を害さない様に推し量って気を配り、相手の気持ちを自分の気持ちよりも優先しようとしすぎて臆病になり、赤面恐怖症的に無口になる性癖があった。その対人恐怖症・視線恐怖症的な引っ込み思案が、言った者勝ちの自己主張至上主義の国際社会から、閉鎖的とされ、没個性とされ、何を考えているか分からない得体の知れない人間として嫌われた。日本人への差別は、人種と共に、島国気質・民族的性格が原因となっている。その点、相手の迷惑を顧みずに騒ぎ立てる中国人や朝鮮人は、大陸気質から、国際社会では分かりやすく理解されやすいとして好意を持たれている。
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古代スラブ民族は、カルパティア山脈北側のポーランド東南部からウクライナ西部地域に居住し、農耕・牧畜と狩猟・漁労で生計を立てていた。
北方のゲルマン民族の侵略に絶えず悩まされていたが、ゲルマン民族が東方からのフン族の侵略を受けて大移動して、その空白地に生活圏を拡大した。
西スラブ族は、ポーランド人、チェコ人、スロバキア人に分かれた。
南スラブ族は、セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人に分かれた。
東スラブ族は、ロシア人、ウクライナ人に分かれた。
彼らは、個々の独立して王国を建国した。
スラブ人の語源は奴隷と言う言葉であり、ローマ人やギリシャ人との戦争で捕虜となると奴隷として売買されていた。
ギリシャ・ローマス世界は、スラブ人やアフリカ人を家畜の様に売買していた。
1219(〜24)年 チンギス汗のモンゴル軍による侵略で南ロシアは征服された。
1243年 モンゴルは、キプチャク=ハン国(〜1502)を建国し、中国の東洋的専制君主制を持ち込み、中華思想に倣ってロシア人諸侯に朝貢させて領主としての地位を保証した。
ロシア人は、人間以下の農業奴隷として、苛酷に支配された。
東洋的専制君主は、ツァーリ(皇帝)と呼ばれて恐れられた。
「タタールの軛」の始まりである。
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成吉思汗の孫バトゥ大汗は、西方を征服する為に騎馬軍団を西へと派遣して、農耕民族が暮らすロシアの大地を侵略し、抵抗する者は容赦なく虐殺してキプチャク汗国を建国した。
モングル軍は、大兵力と火器などの最強兵器を用いてモスクワやキエフなどの都市を猛攻して陥落させるや、抵抗した見せしめとして大虐殺を行い廃墟とした。
少数民族であるモンゴル人は、農耕民であるロシア人等を奴隷として重労働と重税を課し、逆らえば集落ごと女子供に関係なく容赦なく皆殺しにした。
大陸に於いては、町や都市の住人を一人残らず根絶やしにしても、そこに新たな住人を連れて来るのに造作もない事であった。
司馬遼太郎「(ロシアという国の性質)外敵を異常におそれるだけでなく、病的な外国への猜疑心、そして潜在的な征服欲、また火器への異常信仰、それらすべてがキプチャク汗国の支配と被支配の文化遺産だと思えなくはないのです」
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1380年 モスクワ大公ドミトリーは、諸公国を糾合し、キプチャク=ハン国に戦いを挑んでハン軍を撃破した。
1462年 モスクワ大公国イヴァン3世は、ロシアを統一して独立した。
1472年 イヴァン3世は、ビザンツ皇帝コンスタンティノス11世の姪と結婚し、ローマ帝国の後継者とギリシャ正教の保護者の資格を得た。
1480年 イヴァン3世は、ビザンツ帝国の威信をかけて戦ってモンゴル軍を撃退した。
1497年 イヴァン3世は、農民を農奴として支配する為に法典を整備した。
東洋的専制君主によるツァーリズムの始まりで、農民は皇帝の奴隷となった。
1533年 イヴァン4世(雷帝)が、女系相続として第三のローマ皇帝に即位し、ビザンツ帝国は滅亡した。
女系皇帝は、東欧の支配者の権利が認められた。
世界史の常識として、女系の即位は一つの王朝の終焉を意味した。
イヴァン4世は、恐怖独裁者として、政敵となりそうな皇族や大貴族層を冤罪で皆殺しにした。
ノヴゴロトの住民6万人以上は、皇帝暗殺を企てた容疑として見せしめに、女子供に関係なく虐殺された。
如何なる国においても、君主に対する反逆罪は極刑とされ、その家族も全員同罪として処刑されるか流罪となった。
噂話をしただけでも、有罪となった。
それが冤罪と解っていても、疑われただけで有罪となった。
1584年 イヴァン4世が死亡するや、血統が絶えた。
ロシア帝国は、政情が混乱し、恐怖政治で虐げられていた農奴や都市の下層民が各地で反乱を起こた。
混乱が続くとモンゴル侵略の時の様に周辺諸国から侵略される恐れがあるとして、再統合に進んだ。
1613年 ミハイル・ロマノフが帝位について、ロマノフ朝が開かれた。
新たな専制君主の即位によって、国内の混乱は収束した。
周辺諸国は、ロシア帝国の国内不安を利用して絶えず国境を侵略していた。
ロシア帝国は、国家防衛を防衛より攻撃をとして周辺諸国への侵略戦争を開始した。
同時に、反ロマノフ派や不満農奴らを弾圧し、血と死の恐怖政治を行った。
ロシアは、建国以来の宿命として「死の影」が付きまとっていた。
東洋的専制君主が支配するロシアの大地は、中華皇帝が支配する中国同様に大量の流血で染まっていた。
東洋的専制君主を拒否した日本では、考えられない、死が支配する恐怖の世界であった。
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ロシア帝国の正統性を支えた「第三のローマ論」。
第一のローマは、ゲルマ人に滅ぼされた。
第二のローマ(東ローマ)は、トルコ人に滅ぼされた。
第三のローマは、モスクワで蘇った。
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ロシア帝国は、黒海から地中海へ、バルカン半島を経てギリシャへと侵略した。
オスマン・トルコ帝国とロシア帝国のギリシャをめぐる戦争は、避けられい運命にあった。
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