🔯28」─3─古代ローマ。ウォルター・バジョット『国民の起源』〜No.94No.95No.96 

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 法治主義と民主主義は同じである。
 西洋型近代化の為には、近代的法律を守る法治主義と人権が保証され自由に意見が言える民主主義が不可欠であった。
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 ウォルター・バジョット『国民の起源』
 「ただごく僅かの例外的な国民のみが進歩するのである」
 「遵法性を喪失することなくして変化性を獲得した国民こそ優力な国民となるに適(ふさ)わしい立派な資格をもつものである」
 藤井厳喜古代ローマ帝国500年とその前の共和政ローマ500年、あわせて1000年の法治の歴史があり、これが西洋法治主義の基礎になっています。日本はずっと日本的な法治主義でやってきた。だから近代法治主義が根付いたのです。もともと法治主義がないところに外国から法治主義を持ち込んだところで、うまく運用できるはずがありません」
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 古代ローマに、法治の日本はにているが、徳治・人治の中国や朝鮮はにていない。
 如何に不利な条件であっても結んだ約束を、日本は命を賭け命を捨てても守り、中国は半分位は守り、朝鮮は全て守らず平然と破って恥じなかった。 
 日本は近代化に成功したが、中国や朝鮮は近代化に失敗した。
 日本は、聖徳太子の時代から日本型の法治主義と自由・民主主義が存在していた。
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🔯66」─2─開かれた王族。キング、クイーン、プリンス、プリンセスを返上する自由権利。~No.247No.248No.249 ㉚ 

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 2019年8月13日 msnニュース 時事通信「「プリンセス」やめます=ノルウェー王女、批判受け」
 © 提供 ノルウェー王室のマッタ・ルイーセ王女(王女のインスタグラムより) © 時事通信 提供 ノルウェー王室のマッタ・ルイーセ王女(右)と交際相手で「シャーマン(霊媒師)」を名乗るデュレク・ベレット氏=5月20日、ノルウェー・スタバンゲル(EPA時事)
 【ロンドン時事】ノルウェー王室のマッタ・ルイーセ王女(47)が、公務を除いて「プリンセス(王女)」の肩書を返上すると自らのインスタグラムで表明し、話題を呼んでいる。今後は交流サイト(SNS)を通じて社会に影響を与える活動がしたいという。
 王女は国王ハーラル5世とソニヤ王妃の長女で、王位継承順位は第4位。これまで文化活動に積極的に取り組んできたが、最近はスピリチュアル(精神的)な活動にも関心を寄せている。
 王女は今年、交際相手で「シャーマン(霊媒師)」を名乗るデュレク・ベレット氏と共に「王女とシャーマン」と題したツアーの参加を有料で募集した。これが王室の立場の商業利用と批判を浴びたため、王女は謝罪した上で、公務以外での肩書返上を決めた。」 

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🎄51」─1─『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(岩波新書)。餓死地獄のレニングラード攻防戦。~No.170 

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 2019年8月10日・17日号 週刊現代独ソ戦
 史上最悪の皆殺し
 人間とは何か、それが問われた
 死者3,000万人、読むだけで怖くなる ヒトラースターリンの絶滅戦争
 人類史上全ての戦争の中で最大の死者数を計上した独ソ戦。血で血を洗う戦場ではいったい何が起きていたのか。これまで日本で語られることのなかった絶滅戦争の惨禍を、最新研究をもとに振り返る。
 わが子にわが子を食わせる
 1941年、ドイツ軍に包囲されたソ連第2の都市・レニングラードの街角は死体で溢れていた。ヒトラーは、『革命の聖地』であるレニングラードを軍隊で奪取するのではなく、包囲したうえで飢餓地獄に陥れ、市民もろとも守備隊を全滅させることを狙ったのだ。
 冬が到来すると、死体から人肉を食らう凄惨なありさまとなった。ソ連の内務人民委員部(秘密警察)の文書には以下のような記録まで残っている。
 『ある母親は、上の子どもたちを生き延びさせるために、末の赤ん坊を殺して食べさせた』
 日本では第二次世界大戦という太平洋戦争がイメージされやすく、これまで独ソ戦についてはほとんど語られてこなかった。しかし、7月に刊行された『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(岩波新書)がベストセラーとなり、発売わずか11日で4刷といま大きな話題を呼んでいる。著者で、防衛省防衛研究所講師、陸上自衛隊幹部学校講師などを歴任した現代史家の大木毅氏が語る。
 『独ソ戦は歴史上稀に見る残虐な戦争でした。その凄惨さは数字を見るだけでわかります。ソ連は39年の段階で1億8,879万3,000人の人口を有していましたが、第二次世界大戦で戦闘員、民間人合わせて2,700万人が失われたとされています。一方ドイツも、39年の総人口6,930万人のうち、戦闘員が最大531万8,000人、民間人も最大300万人を失ったとされています』(以下『』内は大木氏の発言)
 41年、ナチス・ドイツ国防軍が、独ソ不可侵条約を破った独ソ戦では、北のフィンランドから、南のコーカサスまでほぼ3,000kmにわたる戦線で、1,000万の大軍が激突。少なく見積もっても3,000万人以上が命を落とした。世界史的に見れば、第二次世界大戦の主戦場は独ソ戦だったとも言いうるのだ。
 当時、ドイツではヒトラーナチスによる一党独裁体制を確立していた。一方、ソ連ではスターリンが自身を頂点とした強力なテロ支配体制(秘密警察による支配)をしいていた。稀代の独裁者同士による戦いの現場でいったい何が起きていたのか。大木氏とともに独ソ戦の歴史を振り返る。
 まず時計の針を戦前の37年まで巻き戻そう。この時ソ連内ですでに悲劇は始まっていた。スターリンによる大粛清である。
 『レーニンが没した後、スターリンの権力基盤はなおも不安定でした。「隙あれば反乱に踏み切り、自分を追い落とそうとしている者が多数いる」、強迫観念に囚われたスターリンは秘密警察を動員し、ソ連の指導者たちを逮捕、処刑させたのです』
 37年から38年にわたって、3万4,301人の将校が逮捕、もしくは追放され、そのうち2万2,705人が銃殺されるか、行方不明になっている。これだけ見ても粛清がいかに苛烈なものだったかがわかるだろう。
 結局41年6月にドイツ軍に攻め込まれたときには、ソ連軍の指揮官は素人ばかりという有り様。まともな戦略も立てられず、ただ反撃すべしという原則のみが習い性になっていた。兵士の中には、無茶な命令をする指揮官を殺そうとしたり、逃亡したりする者が続出した。兵器を持っていても、有能な指揮官がいなければ元も子もない。
 降伏しても殺される
 開戦当初、ソ連軍は当然のように大敗を喫した。7月初旬までにドイツ軍に捕虜にされたソ連兵は32万人にも及んだという。捕虜になったソ連兵にはさらなる地獄が待ち構えていた。
 『ヒトラー独ソ戦を世界観戦争であると規定しました。すなわち「人種的に優れたゲルマン民族が劣等人種スラブ人を奴隷化し支配する」という世界観です。そのためソ連兵捕虜は人間として扱ってもらえなかった。食料も充分に配給されず、ろくに暖房もない収容所にすし詰めにされ、重労働に駆り出された結果、大量の兵士たちが飢餓や凍傷、伝染病で死んでいきました。570万人のソ連兵捕虜のうち、300万人が死亡したと言われています』
 一度捕虜にされてしまえば死亡率は53%。降伏したところで、命の保証はなかったもである。
 ヒトラーやドイツ軍のこうした残虐行為はもちろん占領下の一般市民にも向けられていく。ナチスは占領したソ連領から食料を収奪し、現地住民を飢え死にさせてでも、ドイツ国民、ドイツ軍の将兵に充分な食料を与える計画を立てたのだ。
 『通称「飢餓計画」と呼ばれる構想です。計画を立てた食料農業省次官、ヘルベルト・バッケのロシア人に対する評価は非情なもので、こう言い放っています。「ロシア人は、何世紀もの間。貧困、飢え、節約に耐えてきている。その胃袋は伸縮自在なのだから、間違った同情は不要だ」』
 ドイツ軍に食料を奪われた占領下の住民に残されたのは、わずかなパンとジャガイモのみであった。ソ連の厳しい冬を越えすことができず、多くの餓死者が出た。
 死ぬまで行進
 この独ソ戦では、無意味としか思えない民間人の虐殺まで繰り広げられた。虐殺を担当したのは、ナチス・ドイツの有する『出動部隊』(アインザッツゲルッペ)である。ドイツ軍が制圧した領地に入り込み、教師や聖職者、貴族、将校、ユダヤ人などを、占領軍に反抗するかもしれないという理由で殺害してまわった。
 『出動部隊はなんの罪もない住民たちを、森や野原に追いたて、まとめて銃殺しました。出動部隊の手にかかった人々の数は少なくとも90万人と推定されています』
 出動部隊は殺害の効率化を進めるため、射殺から毒ガスの使用へと方針を切り替えた。アウシュビッツ強制収容所ガス室の初期の犠牲となったのはユダヤ人ではなくソ連軍捕虜600人だったといわれる。
 開戦当初は敗北を喫したソ連軍であったが、冬が到来すると極寒を衝いて反撃を始め、戦況は泥沼化していく。
 『ソ連軍の反撃に危機感を抱いたヒトラーは「総統の許可なくして、一歩たりとも退却してはならい」という仮借(かしゃく)ない命令をドイツ軍に下していた。一方でスターリンソ連軍の主力部隊の背後に、脱走兵を射殺する「阻止部隊」を配置し、前線部隊の退却を許しませんでした』
 捕虜になっても逃亡しても殺されるのだと知った両軍の兵士たちは、どんなに絶望的な状況に追い込まれようとも徹底抗戦し、戦場はまさに地獄の様相を呈していた。
 戦闘が長期化するに従い、膨大な予備兵力を持つソ連が徐々に攻勢を強めた。戦地に増援を次々と送り出し、砲兵や航空機によって敵の最前線から行方までを同時に制圧する『縦深戦(じゅうしんせん)』を展開し、一気に形勢を逆転したのだ。
 形勢の逆転によって始まったのが、ソ連軍による報復だ。特に捕虜となったドイツ兵の扱いは常軌を逸しており、死ぬまで徒歩で長距離行軍させるなど、非人道的な蛮行が繰り返された。
 『ドイツ兵捕虜は、収容所に入ってからも、破壊された建物や地下壕、天幕などで寝泊まりする状態で、重労働を強いられました。食料は水でカサ増ししたパンとジャガイモの皮や魚の頭、犬や猫の肉などしか与えられなかった。夏季には野草摘みに駆り出され、それでスープを作ったものの、毒草であったため、多くの死者を出したという例もあります』
 ソ連の捕虜収容所で生き残ったドイツ兵はたったの5%に過ぎなかったという。
 またドイツ兵だけでなく、ソ連国内のドイツ系住民にも、悲劇が降りかかった。
 『ソ連にはヴォルガ・ドイツ人を始めとする多数のドイツ系住民がいました。スターリンは彼らに対し、シベリア、カザフスタンウズベキスタンへの強制移住を命じたのです』
 70万人とも120万人ともいわれる人々が、家畜運搬用の貨車や徒歩での大移動を強制され、飢えや渇き、過剰に貨車に詰め込まれたことによる酸欠で死亡した。
 前線のソ連軍兵士の蛮行も、その残虐さに引けを取るものではなかった。ソ連将兵の蛮行も、その残虐さに引けを取るものではなかった。ソ連将兵は敵意と復讐心のままに、略奪や暴行を繰り広げたのである。
 『ソ連軍の政治教育機関は、そうした行為を抑制するどころか、むしろ煽りました。ソ連軍機関紙「赤い星」にはこのように書かれています。「もし、あなたがドイツ人一人を殺したら、つぎの一人を殺せ。ドイツ人の死体に勝る楽しみはないのだ」』
 やられたらやり返す、そこにあるのは、剥き出しの憎悪だ。ソ連青年将校が見た戦場の証言を聞こう。
 『女たち、母親やその子たちが、道路の左右に横たわっていた。それぞれの前に、ズボンを下げた兵隊の群れが騒々しく立っていた』『血を流し、意識を失った女たちを一ヵ所に寄せ集めた。そして、わが兵士たちは、子を守ろうとする女たちを撃ち殺した』
 戦争はここまで人間を残虐にさせるのだ。
 国民が共犯者
 最終的に、45年4月26日にソ連軍がベルリン市内に突入、ベルリンのドイツ軍守備隊は5月2日に降伏した。それに先立つ4月30日、ヒトラーは総統地下壕で自殺していた。その遺言には、なお闘争を継続させよとの訴えが記されていた。
 こうして独ソ戦は幕を閉じる。なぜこのような凄惨な戦争が繰り広げられたのか。一つにはドイツとソ連双方が『通常戦争』を放棄したことが原因に挙げられる。
 『通常の戦争であれば、戦争の目的を達成したら、講和を結んで終結させます。しかし、独ソ戦においては、両国ともが、お互いを滅ぼされるべき敵とみなすイデオロギーを掲げていたために、相手を徹底的に殲滅するまで戦争を終わらせることができなかったのです』
 そして、何により大きな要因はこうしたイデオロギーに国民が共犯者として同調したことが挙げられるのだろう。
 『ドイツ人は、戦時下なのに、自分たちには食料が配給される、この食料はどこから来るのか、ということはみんな薄々わかっていたわけです。わかっていながらナチスを支持していた。ソ連にしても、「侵略者」と戦おうと自ら志願した者が多数いた。聖戦意識が強かったのです』
 ドイツとソ連が国ぐるみ、国民総出で殺し合った皆殺しの戦争は、人間とは何かという問いを70年後の現在に投げかけている」
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 人類史・世界史・大陸史において、命を捨てて戦わない者には生きる資格はなかった。
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 戦争と言っても、島国戦争と大陸戦争は違う。
 大陸戦争は、情け容赦なき殲滅戦、根絶やし戦である。
 島国戦争は、まあまあなあなあの曖昧戦、馴れ合い戦であった。
 歴史学地政学・戦争学が理解できない現代日本人には、その違いが分からない。
 特に、高学歴出身知的エリートにその傾向が強い。
 それは、プロパガンダポピュリズムアジテーション、扇動、洗脳などの感受性の度合いが関係している。
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 日本軍が、日本国民が、アメリカやイギリスを「鬼畜米英」として憎み、負けたら強姦され殺害されると恐れて戦った事は正しかった。
 現代日本人は、非暴力無抵抗主義と反戦平和主義から武器を捨てて降伏する。
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 兵士には人権はなく、命令に従って人を殺す人格なき思考力なき操り人形で、補充可能な消耗品であった。
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 世界で最も情け容赦のない殺戮を繰り返したのは、宗教性を秘めたドイツ軍ではなく、宗教性を排除したソ連軍や中国共産党軍などの共産主義軍隊であった。
 国際赤十字キリスト教会は、ドイツ軍を巡回して人道的意見を言えたが、共産主義軍からは排除されていた。
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 第二次世界大戦の内でも、日中戦争独ソ戦は別次元の戦争・殺戮・殺し合いであった。
 ソ連軍とドイツ軍の占領下で起きたような惨劇は、日本軍の占領下では起きていない。
 だが、日本人にも善人はいたし悪人もいて、悪人の日本人は戦争犯罪を行っている。
 犯罪行為を行う悪い日本人は、現代日本でも多数いる。
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 日本軍は戦争犯罪を犯したが、靖国神社A級戦犯達は人道貢献を行った。
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 ソ連軍のモスクワ方面での反撃・大攻勢に貢献したのは、日本軍部・陸軍・関東軍であった。
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 日本陸軍が本当に戦った敵とは、ソ連軍・中国共産党軍などの共産主義軍隊であった。
 ロシアと戦争をする、それは江戸時代後期からの日本の避けられない運命であった。
 日本国内には、共産主義マルクス主義)に感動し、日本を共産主義国に作り変えるべくソ連中国共産党に協力する人々が少なからず存在していた。
 そうした人々は、高学歴出身知的エリートに多かった。
 中国共産党は、第1回南京事件、済南虐殺事件、通州虐殺事件など日本人居留民虐殺事件を繰り返していた。
 歴史的事実において、日本人は被害者であり、中国人は加害者であった。
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 中国共産党は、毛沢東スターリンを神聖不可侵として信奉し、毛沢東スターリンが行った地獄の様な暴力と死の恐怖支配体制を広めようとしている。
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 東条英機が発表した戦陣訓の「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」を非難する者には、戦争はおろか平和を語る資格はない。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人を人間と見做さず家畜か獣のように扱い、アフリカ人同様に奴隷として売って金を稼いでいた。
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 日本軍が大陸で戦った主敵は、ソ連コミンテルン中国共産党・朝鮮共産党などの共産主義勢力であった。
 松岡洋右外相は、「主敵と戦わない為にはむしろ同盟国になる」つまり「悪魔と握手する」事であるとして、軍部の強い要請に従い、ナチス・ドイツの反対を押し切って日ソ中立条約を締結した。
 松岡洋右の外交能力と国際状勢理解力は、現代日本の高学歴出身知的エリートよりも数段優れていた。
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 昭和天皇は、独ソ戦開始に当たって、松岡洋右外相が奏上した「独ソ戦参戦」を「信義に反する」として裁可しなかった。
 この判断では、松岡洋右より昭和天皇の方が正しかった。
 歴史の「if」として、松岡洋右独ソ戦参戦を実行していれば後の日米英戦争(太平洋戦争)は回避できたかもしれない。
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 アメリカとイギリスは、ヒトラーナチス・ドイツ、ドイツ軍と戦って勝利を勝ち取る為にスターリンと手を握りソ連軍を全面的に支援し、戦後は冷戦にもかかわず国際連合常任理事国に向かい入れ「拒否権」という特権を与えた。
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 ウィキペディア
 レニングラード包囲戦レニングラードほういせん、ロシア語:Блокада Ленинграда ブラカーダ・リニングラーダ、1941年9月8日 - 1944年1月18日)は、第二次世界大戦独ソ戦における戦闘のひとつ。
 ドイツ軍はソビエト連邦第2の大都市レニングラード(現・サンクトペテルブルク)を900日近くにわたって包囲したが、レニングラードは包囲に耐え抜き、後にスターリンによって英雄都市の称号が与えられた。飢餓や砲爆撃によって、ソ連政府の発表によれば67万人、一説によれば100万人以上の市民が死亡した。これは日本本土における民間人の戦災死者数の合計(東京大空襲沖縄戦、広島・長崎を含む全て)を上回る。 この間、レニングラードの最高指導者はレニングラード党委員会第一書記の地位にあり、スターリンの後継者の有力候補の一人と目されていたジダーノフであった。

 包囲戦
 1941年の状況。ドイツ軍がラドガ湖に到達したことでレニングラードへ通じる陸上の連絡線が遮断された。

 飢餓計画
 レニングラードを包囲した北方軍集団は、まず住民の生活能力を断つため、ガス・水道・電力の供給施設、食料倉庫への砲爆撃を開始した。エストニアの飛行場から出撃したドイツ空軍が、最初の爆撃で6000発以上の焼夷弾を投下し、1000ポンドの高性能爆弾を48発投下した。給水施設と市内の全ての食料を備蓄していたバターエフ倉庫が、破壊された。バターエフ倉庫の喪失は、市内の食料事情を急激に悪化させた。9月8日、ドイツ軍参謀本部ミュンヘン栄養研究所のエルンスト・ツィーゲルマイヤー教授と会合し、市内の民間人を餓死させるにはどれだけの時間封鎖が必要なのか見積もりを求めた。レニングラードの人口、市内に備蓄された食料の量、冬の気温など、大量のデータがツィーゲルマイヤーに渡された。ツィーゲルマイヤーは封鎖を一か月続ければ、市内の食料事情は極度に悪化し、一日のパン配給量が250グラムに落ちると予測した。冬季に封鎖を継続すれば市内は飢餓状態に陥ると結論を出し、市民を市内に留めることが重要であると勧告した。ゲッベルスは自身の日記に、「レニングラードの降伏要求で悩むことはないだろう。それはほぼ科学的な方法で破壊することができる。」と記している。国防軍最高司令部は通常の占領を避け、市内の周囲にフェンスと電気ワイヤーを設置、住民の脱出を物理的に阻止し、脱出者には砲兵隊を使用することを決定した。9月中旬には覚書が完成した。「レニングラードを密閉せよ。しかる後にテロルと増大する飢餓によってそれを弱体化せよ。春に我々は市を占領し、生存者を排除してロシア内地に監禁し、レニングラードを高性能爆薬によって平らな地面にする。」 レニングラード市民への飢餓作戦は科学的な手法で計画的に実施された。ヒトラーは新たな総統訓令を発令した。「総統はペテルブルグ市を地表から削りとることを決断した。ソビエト・ロシアの敗北後は、この都市が将来に存在するための理由は跡形もなくなる。この都市を隙間もなく封鎖し、あらゆる口径の砲火と絶え間のない空爆によって、これを跡形もなく破壊すべし。たとえこれによって降伏を要請する声が出てくるようになっても、これは拒否される。この戦争においてわれわれは、たとえ一部にせよ、この大都市の人口を維持することに関心を持っていない。」 北方軍集団は大規模な包囲陣地を建設し、周囲に塹壕、監視所、射撃陣地、砲撃陣地を設置、防御拠点用のトーチカや掩蔽壕も複数建設された。包囲陣地の後方では、工兵が連絡道路と食料・物資の貯蔵地を建設し、長期的な包囲戦の準備が整えられた。レープはガッチナに司令部を置き、市内への砲撃を指揮した。ウリ―ツクとヴォロダルスキーの間の集落に、3個砲兵連隊を配置、毎日午前10時~午後7時にかけて、2時間毎に休憩を取りながら砲撃が実施された。9月末までに市内に5364発の砲弾が撃ち込まれた。脱出を図る民間人は即刻射殺が決まったが、北方軍集団司令部は民間人を近距離で射殺する兵士への心理的影響を懸念し、陣地の前方には地雷原を設置、必要な場合は砲兵隊で対処することを決定した。兵士が見ている状況下での民間人殺戮は出来るだけ避けなければならないとレープは語っている。多数の心理カウンセラーが陣地に常駐し、同時にナチイデオロギーの思想教育が強化され、劣等人種に対する同情は不要であると喧伝された。砲兵隊には兵士が近距離で民間人を射殺する事態を避けるため、市内を厳しく監視し、市内からでた早い段階で正確に処理することが求められた。これらの工夫にも関わらずドイツ軍兵士の動揺は避けられなかった。兵士の中には市内にパンを投げ込む兵士や、パンと引き換えに市内の女性に売春をせまる兵士もいた。砲兵隊の兵士も民間人を標的とする上級司令部の命令を皮肉っていた。

 飢餓の発生
 連絡線の遮断によってレニングラードへの補給はほぼ途絶した。9月2日、市民への食糧の配給が削減され、肉体労働者は1日にパン600g、労働者は400g、その他の市民と子供は300gと定められた。9月8日の空襲ではバターエフ倉庫に貯蔵してあった大量の穀類や砂糖が焼失した。9月12日には、食料の残量は以下の通りと試算された。
 穀類・小麦粉 35日分
 えん麦・粉物 30日分
 肉類・家畜 33日分
 油脂 45日分
 砂糖・菓子類 60日分
 同日、配給の再度の削減が実施され、肉体労働者は1日にパン500g、労働者と子供は300g、その他の市民は250gと定められた。陸軍とバルチック艦隊は備蓄を有していたが十分ではなかった。ラドガ湖に配備されていた河川艦隊は装備も十分ではなく、しばしばドイツ軍の空襲を受け、9月には穀物輸送船が撃沈された。輸送船は後に引き上げられ、濡れた穀物もパンを焼くのに使われた。小麦粉を使い果たした後は、セルロースや綿の実の絞りかすが食用に供された。馬の飼料用のえん麦も食用に回された。肉類も底をつき、内臓や皮革が料理された。市内のあらゆる空き地には野菜が植えられた。市内に残った赤軍の状況も深刻だった。モスクワ防衛に呼ばれたジューコフは(10月7日にモスクワ到着)、フェジュニンスキー少将を後任とした。しかしフェジュニンスキーは後任を辞退し、ホージン中将を推薦した。将官達は封鎖されたレニングラードの指揮をとることに乗り気ではなかった。ジダーノフはヴォロノフ砲兵大将に司令官就任を要請したが、ヴォロノフは国防人民委員代理の職務を理由に辞退した。やむを得ずジダーノフは、ホージン中将に話をもっていった。ホージンも第54軍の指揮を理由に、辞退したが、スタフカはホージンを正式に後任とした。ネフスキー橋頭保を守るネヴァ作戦集団は第54軍との合流を命じられたが、支援を欠いた渡河作戦はドイツ軍砲兵隊の恰好の餌食となり、一方的に殺戮された。その後も封鎖の打破を試みる、ネヴァ河での攻勢はことごとく失敗に終わり、死体の山が積み上げられた。相次ぐ敗戦と食料事情の悪化は規律を再び低下させ、市内では兵士の逃亡や盗難が相次いだ。ジダーノフもホージンもなんら有効な手をうてなかった。 9月末には石油と石炭も尽きた。唯一の燃料は倒木であった。10月8日には市の北方にある森林での木材の伐採が計画されたが、機材も作業施設もなく、10月24日までに木材伐採計画の1%が実施できたのみであった。電力供給も不足し、電力の使用は軍の司令部や地域委員会、防空拠点などを除き厳禁とされた。大部分の工場が操業を停止し、11月には全ての公共交通機関が運行を停止した。1942年の春には一部の路面電車が運行を再開したが、トロリーバスとバスは終戦まで再開しなかった。

 聖イサアク大聖堂の近くに設置された対空砲
 冬が近づく頃、飢餓による死が襲ってきた。植物学者のニコライ・ヴァヴィロフの研究スタッフの1人は、食用にすることもできた20万種の植物種子コレクションを守ろうとして餓死した。ターニャ・サヴィチェワという当時12歳の少女は、12月から翌年5月にかけてレニングラードにいた肉親全員が次々と死んでいったことを書き残している(ターニャの日記)。レニングラードの街角は死体で溢れた。やがて食料が切れた市内には飢餓地獄が訪れ、死体から人肉を食らう凄惨な状況が常態化し、人肉を含む食品を売る店まで現れた。

 命の道
 レニングラードへ食糧を輸送する氷上列車
 ドイツ軍はレニングラードの包囲をさらに強化するため、レニングラードの南東部にある鉄道の拠点のチフヴィンを攻撃し11月8日に占拠した。チフヴィンの陥落により内陸部からラドガ湖への輸送ルートが遮断され、レニングラードは危機に陥ったが赤軍は1ヶ月後にここを奪回し輸送ルートの維持に成功した。
 11月20日、ラドガ湖が結氷し、馬橇の輸送部隊が氷上を通ってレニングラードへ物資を送り届けた。その後トラックによる輸送も可能となった。氷上の連絡路は「命の道」(Дорога жизни ダローガ・ジーズニ)と呼ばれた。湖の対岸から市内へ物資が運び込まれ、市民の脱出も可能となった。命の道は1942年4月24日までの152日間利用可能であった。この間に市民51万4千人、負傷した兵士3万5千人がレニングラードから脱出し、重要な産業設備も運び出された。命の道は対空砲と戦闘機によって防衛されたが、ドイツ軍の砲撃と空襲による脅威にさらされ続け、危険は高かった。人々は皮肉を込めてこれを「死の道」と呼んだ。1942年の夏にはラドガ湖の湖底を通る長さ29kmの石油パイプライン「命の動脈」が敷設された。冬になると命の道は再開した。12月20日から馬の往来が始まり、12月24日から自動車輸送も始まった。氷上鉄道の建設も行われた。

 解放(1944年)
 封鎖を打破したとはいえ、北方軍集団は依然として強大であり、大多数の包囲陣地を維持していた。赤軍は奪還した地域の確保に全力を注ぎ、新しい補給線を急ピッチで建設して、大規模な食料を市内に送り込んだが、イスクラ作戦で確保した狭い回廊はドイツ軍の砲爆撃の標的となり、不完全ながらレニングラードの包囲は継続されていた。しかし、南方ではクルスクの戦いとその後の赤軍の攻勢の前にドイツ軍は退却を続け、ドニエプル川の西のキエフまでも赤軍に奪還されていた。赤軍は1943年9月からゴヴォロフらによりレニングラードの解放作戦の検討を進めた。作戦はオラニエンバウム(レニングラードの西側の赤軍橋頭保)、プルコヴォ(レニングラードのすぐ南)、ノブゴロド(レニングラードの南東方向、イリメニ湖のすぐ北)から開始することが決定され、作戦に備えて膨大な量の火力集積が開始された。21000門の火砲、1500以上のロケット砲、600門の対空砲が攻勢用に集められ、開戦以来最大規模の砲兵火力集積を実現させた。北方軍集団司令官キュヒラーは、赤軍の大規模攻勢を察知していた。後方の予備陣地であるパンテル・ラインに部隊を移す準備を整えたが、ヒトラーは依然としてレニングラードの攻略をあきらめていなかった。キュヒラーは占領地の人的資源が赤軍に渡ることを恐れ、民間人を強制的にパンテル・ラインへ連行した。レニングラードの完全解放、レニングラード州の奪還、北方軍集団の撃滅を目標とする解放作戦(レニングラードノヴゴロド攻勢)にはレニングラードヴォルホフ、第2バルトの3方面軍に、長距離航空艦隊とバルト艦隊が加わり、125万の兵士が参加して、イスクラ作戦から約1年後の1944年1月15日に開始された。1マイルあたりの砲配置数は320門に達し、史上空前規模の集中砲火がドイツ軍陣地に降り注いだ。2時間30分で、50万発の砲弾が撃ち込まれた。ドイツ第18軍と第16軍は壊滅的打撃を受け、北方軍集団は戦闘力を喪失して敗走した。赤軍は封鎖を完全に解放、レニングラード州全域を奪還、カリーニン州西部、エストニアまで兵を進めた。ドイツ軍はこの攻勢でレニングラードから280キロ押し返され、攻守は完全に逆転した。今度はドイツ軍が絶望的な防衛戦を強いられた。 1944年1月27日、レニングラードでは包囲からの解放を祝う祝砲が轟いた。1941年9月8日にシュリッセルブルクが陥落して包囲が始まってから872日目であった。
 西に向かった赤軍とドイツ軍の次の大きな戦いはナルヴァをめぐる攻防である。

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 日本人が悪人かどうかは、現実の日本と中国人・韓国人・朝鮮人の立ち居振る舞いや言動、約束、マナー等を比べれば一目瞭然である。
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 世界の戦争で、食料などの必要物資を現地で調達する事は常識であった。
 例外は、アメリカのように自国で充分な食料・医薬品などを補給できる軍隊は、敵地での現地調達は行わなかった。
 日本軍の現地調達を犯罪行為と非難する日本人には、歴史とくに戦史を語る資格がない。
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 現代日本人の能力では、悲劇の戦争や悲惨な戦争は理解できたが、地獄の戦争は理解できない。
 それに比べて、戦前の日本人は地獄の戦争を正しく理解していた。
 つまり、歴史力において、戦前の日本人は優れていたが、現代の日本人は劣っているか持っていない。
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 島国の日本民族日本人と大陸国の西洋系白人・中国人・朝鮮人とは、生きてきた環境が違う為に同じ人間と言っても全然違う。
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 日本人共産主義者テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリストと同様に昭和天皇や皇族を殺す為につけ狙っていた。
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 何故、共産主義者や反天皇反日的日本人が、天皇制度廃絶と皇室消滅を使命として政治活動や市民運動を熱心に進めているのか。
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 哲学・思想・主義主張による~イズム戦争は、宗教の信仰戦争に比べて地獄であった。
 戦争や人殺しに於いて、神が定める宗教の良心は歯止めとなるが、人が思索した哲学・思想・主義主張における道徳や倫理は歯止めにはならない。
 特に、共産主義ほど血に餓えた怖ろしい冷血・冷酷・残虐な思想はない。
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 日本民族日本は、哲学・思想・主義主張とは無縁で生きてきた為に、論理的合理的科学的な~イズム論争が理解できないどころか、ごり押し・屁理屈に聞こえて虫唾が走るほどに嫌いであった。
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 神話を信じて生きてきた日本人には、全体主義であるボルシェビキ共産主義)、ファシズム、ナチズムを正しく理解する能力はない。
 が、高学歴出身知的エリートはマルクス主義共産主義)に染まり易く、党員にならなくとも協力的になった。
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 マルクス主義で、極右にあるのがファシズム・ナチズムであり、極左にあるのがボルシェビキ共産主義)であった。
 ロシア革命において、ボルシェビキは多数派ではなく少数派であり、人民の多数派は穏健なメンシェビキであった。
 「ボルシェビキ革命は5%の支持率で成功する」、それが共産主義の5%革命論である。
 共産主義革命成功のカギは、公的暴力機関である警察と軍隊の掌握である。
 それ故に、真の共産主義者は警察と軍隊の存在に反対しない。
 事実、国会の日本国憲法審議において、日本共産党自衛戦争と軍隊存続を主張した。
 敗戦後の日本で共産主義人民革命を封じ込める為には、戦争放棄再軍備禁止は有効な手段であった。
 日本国憲法案を承認した昭和天皇は、優れたリーダーであり、逆転の発想で憲法第九条を受け入れる事で日本国と日本民族日本人を共産主義人民革命から救った。
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 共産主義体制とは、警察による「暴力・拷問」と軍隊による「死」の恐怖体制である。
 警察も軍隊も共産党の下部組織であって、人民を守る為の国家の公的機関ではない。
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 共産主義政体とは、専門党員と素人行政官の政体である。
 共産主義軍とは、党員将校が支配する民兵的軍隊であり、専門の職業軍人は党命令を実行する操り人形に過ぎない。
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🐖5」─2─中国の人口を微増させる3人っ子政策。~No.35 

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 子供は、女性でしか産めない。
 男性は、女性に精子を提供して自分の子供を産んで貰いだけである。
 自然に生きると言う事は、男性は種馬に徹すると言う事である。
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 2019年7月31日 msnニュース REUTRS「中国遼寧省、「3人っ子政策」導入を計画 出生減少歯止め本腰
 © Reuters/China Stringer Network 中国遼寧省、「3人っ子政策」導入を計画 出生減少歯止め本腰
 [上海 31日 ロイター] - 中国北東部の遼寧省は30日、産児制限を緩和して一部の夫婦に3人目の出産を許可する計画をウェブサイトで明らかにした。出生率の引き上げと労働人口の減少に歯止めをかけることが狙い。
 中国は1978年に「1人っ子政策」を導入したが、人口の急速な高齢化に伴い2016年、すべての夫婦に対し2人まで子供を産めるよう1人っ子政策を撤廃した。
遼寧省政府はこれまでの調整が人口減少の抑制に効果がなかったことから、家族計画規制の改正は19年の最優先事項の1つだと説明した。
 そのために教育や住宅、社会保障を改善し、子どもを2人育てる選択をした夫婦への経済的支援を増やすことを目指した新たな規制案を策定。この案では「国境地帯」で暮らす夫婦には3人目の子供も認められる。
 遼寧省の昨年の出生率は1000人当たり6.39人で、全国の同10.94人を大幅に下回った。昨年は2年連続で人口が減少。出生率低下だけでなく、若年層が別の地域での職を求めて同省を出て行くことも打撃となっている。」
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 人口を増加させ唯一の方法は、若い両親が3人以上の子供を産む事である。
 少子高齢化で人口が激減する日本。
 日本の、男性の精子劣化、女性の卵子老化、生殖機能の退化、繁殖能力の衰退。
 日本民族日本人は、強欲な日本人によって殺され尽くされた在来種の日本産トキににている。
 老人が多く、子供が少ない、そうした民族は消滅する民族である。
 日本の未来は、多死であり、少生である。
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💥17」─1─ノルウェーの高度福祉国家は社会民主主義ではなく天然資源のお蔭である。~No.65No.66No.67 ⑨

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 2019年7月30日号 Newsweek「社会民主主義モデルが北欧を豊かにしたという幻想 
 ニーマ・サナンダジ
 世界のリベラル派が理想とするノルウェーがリッチな福祉国家になれた泥くさい理由
 トランプ米大統領の正式な出馬宣言で、来年の大統領選に向けた戦いが本格化している。20人以上の候補者が乱立する民主党では、支持率トップを争うバーニー・サンダース上院議員が、北欧型の社会民主主義を目指すと主張している。
 無理もない。ノルウェー緑の党のアーレン・クビトルドは6月、フォーリン・ポリシー誌ウェブ版への寄稿で、社会民主主義的な経済政策が北欧諸国を豊かにしたと主張している。『世界銀行によると、ノルウェーアメリカの1人当たりGDPはほぼ同じだ』
 クビトルドによれば、それは政府が経済に大きく介入する政策が、実現可能であるだけでなく好ましいことの証拠だ。サンダースら世界中の左派は、社会民主主義がただ理想論ではなく、豊かで平等な国をつくる現実的な手法であることを北欧諸国が示していると言う。
 こうした『北欧モデル』のファンには申し訳ないが、ノルウェー経済の成功をもたらしたのは豊かな天然資源であって、社会民主主義的な政策ではない。人口500万人余りのノルウェーは森林、漁業、石油、天然ガスなど豊かな資源に恵まれてきた。なかでも大きな富をもたらしているのは石油だ。
 むしろ政府介入を減らす
 ノルウェーの石油基金は世界最大級の政府系投資ファンドであり、国民一人当たり約20万ドルの運用残高を誇る。むしろ国民一人当たりの石油輸出量でノルウェーを大きく下回るアメリカが、ノルウェーと同等の生活水準を実現していることのほうがあっぱれと言っていいだろう。
 同じ北欧でもノルウェーほど資源に恵まれていない国は、アメリカよりも生活水準が低い。18年のアメリカの一人当たり名目GDP(購買力平価換算)は6万2,480ドルで、ノルウェーの6万5,603ドルと同水準だったが、デンマークは5万5,019ドル、スウェーデンは5万2,767ドル、フィンランドは4万8,248ドルだった。
 クビトルドは、ノルウェーでは国が主要産業を支えていると言う。実際、国有企業の雇用は約23万1,000人に上るが、これも巨大な石油産業の大部分が国に支配されているからであって、北欧全体を見れば実のところ国有部門の雇用は限定的だ。
 人口がノルウェーの2倍のスウェーデンでは、国有部門の雇用はノルウェーの半分(12万4,000人)だし、ノルウェーと人口が同程度のフィンランドでは7万2,000人にすぎない。ノルウェーよりもやや人口の多いデンマークでは、国有企業で働く人は1万9,000人だ。
 より基本的なポイントとして、北欧諸国は社会民主主義的な政策を導入する前に、既に豊かで平等な社会を築いていたことも忘れてはならない。例えば、北欧諸国の平均寿命と乳幼児死亡率の低さは、1970年の時点で既に世界の上位にあった。経済学者のアンソニー・バーンズ・アトキンソンらの論文によると、ノルウェースウェーデンにおける所得格差の大部分は、1970年代以降に生まれた。
 むしろ現在の北欧諸国は、社会民主主義の欠点が明らかになるにつれて、政府の介入を縮小する方向に動いている。税金はまだ高いが、市場経済のルールが導入され、多くの国有企業が民営化され、社会保障は縮小されつつある。 
 北欧モデルの導入を唱える世界の人々は、実際の北欧の国々がどこに向かっているか、よく目を凝らして見たほうがいい。」
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 日本の理想社会を目指すリベラル派・革新派・進歩派・人権派などは、如何に外国語を流暢に話す高学歴出身知的エリートであっても、現実の、世界、歴史、文化、伝統、宗教などを理解する能力が低い。
 彼らが目指している理想社会は、現代の地球上には存在しない、過去にも存在しないし、たぶん未来にも存在しない、存在するとすれば幼児的ファンタジー物語の中だけであり、シビア・過酷・残酷な日本の子供用アニメ・漫画・劇画にさえ存在しない。
 つまりは、彼らは大人どころか子供にさえなり損ねた幼児と言える。
 そうした幼児的大人は、子供達に実現不可能な理想社会を語り教えて幼稚なままでの大人にして社会に送り出そうとしている。
 彼らが言う、多文化の多様性ある共生社会とは嘘である。
 だが、彼らが吹く笛は魔法の笛として、踊り出したくなるほどに心地よい美しい甘美なメロディーが流れてくる。
 彼らは、幻想を見せる魔法に笛を吹きながら、子供達を海の彼方の蓬莱山か、アフリカや中南米の森林の秘境にあるだろうエル゠ドラードに誘おうとしている。
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 ノルウェー王国ノルウェー語: Kongeriket Norge/Noreg)、通称ノルウェーは、北ヨーロッパのスカンディナビア半島西岸に位置する立憲君主制国家である。首都は半島南端部に存在するオスロフィヨルドの奥に形成された港湾都市オスロで、東にスウェーデン、ロシア、フィンランドと国境を接している。
 ノルディックモデルによる高負担高福祉の福祉国家として知られ[5]、OECDの人生満足度(Life Satisfaction)ではスイスに次いで第2位となった(2014年)。

 国民
 2011年の統計[10]によるとゲルマン系のノルウェー人がほとんどで82.0%を占める。その他、スウェーデン系1.6%、デンマーク系1.0%、他に少数民族サーミ人約2万人がいる。残りは移民であり、2010年には移民人口は552,000人と全人口の11.4%を占めている。その内訳はポーランド(60,610人)、スウェーデン(34,108人)パキスタン(31,884人)、イラク(27,827人)、ソマリア(27,523人)、ドイツ(24,394人)、ベトナム(20,452人)、デンマーク(19,522人)、イラン(16,957人)、トルコ(16,430人)の順となっている。

 移民制度
 2013年には移民人口は全人口の14%を占めている。ノルウェー労働党連立左派政権は移民受け入れは安易過ぎるとして2011年にウトヤ島にてノルウェー連続テロ事件で青年部を狙われた。2013年9月9日に行われた総選挙では青年部の生存者を「ウトヤの声」と名付けて候補者として多数擁立した。しかし、進歩党 (ノルウェー)という安易な移民受け入れを批判する政党と保守党を中心とした中道右派連合に敗北して下野した。以後はノルウェーでは未だに寛容な受け入れ対策するスウェーデンを「失敗例」だとして言い続けてきた。進歩党のシルヴィ・リストハウグ移民・統合大臣は福祉国家の豊かなノルウェーを目当てに国内にやって来る移民への審査を厳しくしたため、移民制度自体がより厳格なデンマークよりも申請者数が激減した。大臣は「効果的な話し方と政治、厳しい境界線には効果がある。昨年(2016年)、申請者の数が最も激減したのはノルウェー!今後、受け入れた人々の社会統合をより成功させるためにも重要なこと。これからも低い数字を維持するためにも、出来る限りのことをしていかなければならない!」とするなどデンマークフィンランドと同様に昨今では安易な移民受け入れに反対する政党が政権へ影響力を持っている。

 移民制度
 2013年には移民人口は全人口の14%を占めている。ノルウェー労働党連立左派政権は移民受け入れは安易過ぎるとして2011年にウトヤ島にてノルウェー連続テロ事件で青年部を狙われた。2013年9月9日に行われた総選挙では青年部の生存者を「ウトヤの声」と名付けて候補者として多数擁立した。しかし、進歩党 (ノルウェー)という安易な移民受け入れを批判する政党と保守党を中心とした中道右派連合に敗北して下野した。以後はノルウェーでは未だに寛容な受け入れ対策するスウェーデンを「失敗例」だとして言い続けてきた。進歩党のシルヴィ・リストハウグ移民・統合大臣は福祉国家の豊かなノルウェーを目当てに国内にやって来る移民への審査を厳しくしたため、移民制度自体がより厳格なデンマークよりも申請者数が激減した。大臣は「効果的な話し方と政治、厳しい境界線には効果がある。昨年(2016年)、申請者の数が最も激減したのはノルウェー!今後、受け入れた人々の社会統合をより成功させるためにも重要なこと。これからも低い数字を維持するためにも、出来る限りのことをしていかなければならない!」とするなどデンマークフィンランドと同様に昨今では安易な移民受け入れに反対する政党が政権へ影響力を持っている。

 歴史
 詳細は「ノルウェーの歴史」を参照
 考古学上の発見が示すところによると、ノルウェーには約12,000年前には人が住んでいた。彼らはおそらくもっと南の地域、ドイツ北部からやって来て、海岸線に沿ってさらに北上したと考えられている。
 9世紀から11世紀までのヴァイキング時代が国家形成の統一運動及び拡大の元となった。1130年から1240年までは王位継承権をめぐる内戦が起こった(ノルウェー内戦)。黒死病などによりノルウェー王家が1387年に途絶えデンマーク配下となり、1450年より条約により従属化され、1536年には正式に独立を失った(デンマークノルウェー)。デンマークナポレオン1世側に付いた後の1814年にスウェーデンに引き渡された。ノルウェー人はこの時、独立をはかったが、列強の反対により実現できず、スウェーデン王国との同君連合(スウェーデンノルウェー)が形成された。スウェーデン王カール13世がノルウェー王に即位した。1818年にカール13世が死去すると、スウェーデンノルウェーベルナドッテ王朝支配下となった。
 1750年頃から第一次世界大戦ロシア革命が起こった1920年まではノルウェー北部とロシアのアルハンゲリスクの間でポモール貿易と呼ばれる海上貿易が盛んに行われた。ノルウェーで捕れる魚とロシアの穀物を取引し、どちらの社会においても重要度が高かった。
 20世紀初頭、スウェーデンノルウェーの連合を解消しようという運動が高まり、1905年にノルウェー側からデンマークのカール王子に打診があった。その後、国民投票により君主国家を設立、議会は満場一致でカール王子をノルウェー王として選出した。彼は独立したノルウェーホーコン7世として即位した。スウェーデン政府はこの決定に反発し、一時騒然となったが、オスカル2世と社民党政府の国民への説得により、ノルウェーの独立が認められた。
 ノルウェー第一次世界大戦では中立国だったが、第二次世界大戦ではドイツによる侵略を受け、非同盟政策に疑問を抱くようになり、集団安全保障国家となった。また、1945年7月6日には対日宣戦布告するが、ついに戦火を交える事はなかった。ノルウェー国際連合設立メンバーであり、また北大西洋条約機構 (NATO)原加盟国として、1949年に北大西洋条約に調印した。ノルウェーでは1972年と1994年の2度欧州連合への加盟に関する投票が行われたが二度とも否決され、現在も欧州自由貿易連合 (EFTA) のメンバーに留まっている。

 軍事
 詳細は「ノルウェー軍」を参照
 ノルウェー軍は陸軍、海軍、空軍および郷土防衛隊の四軍からなる。沿岸警備隊も海軍の傘下にある。
 徴兵制が布かれており、19歳から44歳の国民は1年間兵役を勤める。女性は徴兵の対象から外れていたが、2015年より女性もその対象となった。これにより、ノルウェーは欧州で、また北大西洋条約機構 (NATO) で唯一、女性を徴兵対象とする国となった。ただし、良心的兵役拒否を行う者は、代替役務として社会奉仕活動を選択することが可能である。
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🐉25」─1─新疆ウイグルでの中国共産党によるカザフ族に対する非人道的民族弾圧。~No.95 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 中国による領土拡大の侵略は、中国人移民である。
 中国の伝統的戦略は、「孫子」の戦わずして勝つ事であり、敵地の中に中国人居住区・チャイナタウンを獲得する「囲碁」である。 
 敵の中に、美女・美男子や利益・金で味方(売国奴・裏切り者・内通者)を作り、親中国派、媚中派、協調派、友好派、朝貢派などを増やす事であった。
 中国人移民が多数派にならなくとも、親中国派・媚中派らを加えて多数派になれば主導権を握る事ができる。
 少数派が主導権を握る為には、土地の私有、投票権、立候補権、官僚登用、教育決定などである。
   ・   ・   ・   
 中国共産党政府は、国連の5大常任理事国である為に、如何なる国も、如何なる人間も、中国共産党の非人道的残虐行為を止める事はできないし、悲惨な状況にある少数民族を助ける事ができない。
 中国共産党政府を、常任理事国に認めた全ての国の責任である。
   ・   ・   ・   
 2019年7月25日 朝日新聞「世界発2019年
 新疆ウイグル もう一つの民族弾圧 
 中国当局、カザフ族も拘束 
 ウイグル人族への弾圧が続く中国新疆ウイグル自治区で、同じ境遇にあると訴えている別の少数民族の人々がいる。(アルマイト=石橋亮介)
 『イスラム礼拝所通った』逮捕
 『私たちの話を聞いて、世界に伝えてほしい』
 カザフスタンアルマイトの人権団体『アタジュルト』の事務所を7月始めに訪ねると、居合わせた約20人が詰め寄せるように訴えてきた。
 彼らは中国新疆ウイグル自治区から移住したカザフ族。
 『弟が収容所に入れられた』『母が逮捕され、連絡がつかない』。拘束されたという親族の写真を手にしている。
 アハルト・ハリダさん(65)は昨年、新疆に住む3人の息子が警察に突然逮捕され、刑務所に入れられたと現地の知人から聞いた。『イスラム教の礼拝所に通ったことが理由と言われてた。息子たちは過激派なんかではないのに』。息子の妻らと連絡がとれず、孫の安否もわからないと話し、涙で赤くなった目をハンカチであさえた。
 中国のカザフ族はカザフスタンのカザフ人と同じ民族で、新疆に100万人以上が暮らす。カザフ語を話しイスラム教を信仰することも共通で、ソ連崩壊後に独立したカザフスタンに、仕事などを求めて数十万人が移住。国境をまたいで行き来していた。
 ところが2017年ごろから、新疆で中国当局に逮捕されたり『再教育収容所』に収容されたりする例が急増した。アタジュルトによると、拘束された可能性のあるカザフ族は、相談を受けた分だけで2年間に5,000人を超える。
 再教育施設 作文と豚肉強要
 ……
 『内政問題』カザフ政府弱腰
 中国政府は、独自の文化や言葉を持つ少数民族は独立を求めると恐れている。弾圧の目的は民族の文化を奪い中国化すること──。拘束経験のあるカザフ族の人々は、そう受け止めている。
 だがカザフスタン政府は『中国の内政問題』と距離を置く。天然資源の最大の輸出先として中国を重視、油田開発などへの中国企業の参入を推進してきた。また中国の経済圏構想『一帯一路』に参加して国内のインフラ整備に巨額の投資を期待しており、中国の機嫌を損ねたくない。
 そのためカザフスタン政府はアタジュルトの活動を黙認する一方、NPOとしての認可申請は拒絶。3月には団体創設者のセリクジャン・ビヤシュ代表を『民族間の憎悪をあおった』として逮捕した。
 一方で政府は1月、再教育施設に収容された2,000人以上のカザフ族を中国政府が解放、カザフスタンへの出国を認めたと公表した。国民や国際社会の反発を恐れ、水面下で中国に働きかけたとみられている。
 現在アタジュルトを率いるエルボル・タウレトベク氏は『政府が本気になればアタジュルトなどすぐつぶせる。カザフ族を助ける人がいなくなるのは政府も避けたいのではないか』と話す。」
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イリ・カザフ自治州(-じちしゅう)は中華人民共和国新疆ウイグル自治区北部に位置するカザフ族の副省級自治州。グルジャ市(伊寧市)を州都とし、全国で唯一、タルバガタイ(塔城)、アルタイ(阿勒泰)の2地区を管轄する地区級行政単位である。
民族構成はカザフ族が25.5%、漢族が45.2%、ウイグル族が15.9%を占める。自治区の中心部は天山山脈とボロホロ山脈(英語版)(天山山脈の支脈)に挟まれたイリ盆地(イリ川上流部)である。
歴史[編集]
唐代には突厥旧属カルルク部の地であり、後にカラハン王朝の領土となった。 1124年、契丹貴族耶律大石がイリのカルルク部を臣服させて西遼を樹立した。 1211年カルルク部はモンゴル帝国支配下に入り、チャガタイ・ハン国に分封された。 1677年、オイラト・モンゴルのジュンガル部が南下して新疆に入り、イリ地方をその中心とした。 1755年、清朝ジュンガル部との数十年にわたる戦いの後、イリを征服し、1762年にはイリ将軍を置いた。 イリ将軍が駐在した恵元城は新疆の政治、軍事の中心ともなった。 新中国成立後、1954年にイリ・カザフ自治州が成立。
   ・   ・   ・   
 『中国少数民族事典』(東京堂出版 2001年)
 ・ カ ザ フ 族 ・
 カザフ族は、旧ソ連中央アジアの独立国カザフスタン共和国の中心的な民族であり、カザフスタン全人口1682万4825人のうち46パーセントを占めている(1999年)。中国領内では、おもに新彊ウイグル自治区のイリカザフ自治州、木塁カザフ自治県、巴里坤カザフ自治県と昌吉回族自治州などの各県に居住するほか、一部は青海省甘粛省にも居住する。1990年の全国人口調査によれば、中国全土のカザフ族の人口は111万758人である。なお、1997年の新彊ウイグル自治区のカザフ族の人口は、127万800人である。
 カザフ族は、中国では、漢王朝時代に天山山脈の北方うそんに居住していた烏孫に由来するといわれている。直接的には、15世紀に遊牧ウズベク族集団から分離して形成された集団である。当初、現在のカザフスタン東南部に位置するセミレチエ地域に居住していたが、その後、カザフ草原全域に遊牧地域を拡大させた。やがて自らの国家形成をはかり、カザフ・ハン国を創設した。しかしロシア帝国が東方に大々的に領域拡大を実現するに及び、1820年代には、その大部分がロシアの制御下に入った。現在の中国領にカザフ族が居住している歴史的背景としては、清王朝中央アジア進出があげられよう。18世紀半ば、清王朝がモンゴル系の遊牧勢カシュンガルを平定し、天山山脈北側の地域を征服したあと、一部のカザフ族は清王朝に帰順した。これにより、カザフ族が部分的に西方のカザフ草原から清王朝治下のこの地域に移動し、浸透していったといわれる。カザフ族の居住地域は、ロシアと中国の2つの国家領域にまたがる形になったが、それ以後も、両国の間では、カザフ族同士の国境を越えた移動が行われていた。また大規模な移住も、歴史上特定の条件下で発生してきた。たとえば、スターリン時代のソ連における集団化の時期に、中華民国領への移動が見られた。逆に中華人民共和国成立後には、1962年にソ連との間で発生した、いわゆるイリ事件を契機として、数万人規模のカザフ族が、中国領からソ連領に集団越境したといわれる。この事件を契機として中ソ国境が閉鎖されたが、1980年代に入ると、改革開放政策の導入による国境路や鉄道の開通にともなって、往来が再開された。カザフ族はヒツジとウマの飼育を中心とする遊牧民族として知られ、中国のカザフ族に関していえば、現在でもかなりの部分が、とくに天山山脈およびアルタイ山脈の一帯で遊牧生活を営んでいる。彼らはモンゴル族のゲルとほぼ同型のフェルト張りのユルトと呼ばれるテントに夏の間住んでいる。ユルトには一家族が住み、この家族が7~10戸集合したものをアウルといい、伝統的に遊牧の単位となった。また、彼らの牧畜の技術は非常にすぐれており、肉と毛の両方が利用できるいわゆる新彊細毛ヒツジや、イリウマと呼ばれる名馬を生み出した。主食は季節によって異なっている。すなわち、春季から夏季にかけてはヒツジ肉が主体であるが、秋季から冬季の食料としてはウマの腸に馬肉を詰めて火燻製にしたソーセージが有名である。さらに飲料としてはクミスと呼ばれる馬乳を発酵させた低アルコール分の乳酸飲料をたいへん好む。ウイグル族の主食であるナンも一部の地域では日常的に欠かせない食べ物である。新彊ウイグル自治区の区都ウルムチ市などの都市には、都市化されたカザフ族も見られるが、人口比率からいえば少数派である。都市在住であっても、旧来の出自である部族に対する帰属意識が部分的には残存している。言語はカザフ語で、文字は、カザフスタン領内ではキリル文字を基盤とするものであるのに対し、中国領内ではアラビア文字を変形した字母が用いられている。都市のカザフ族は、漢語とのバイリンガルであることが多い。宗教はスンニー派イスラム教である。しかし彼らは、伝統的には遊牧を専業としてきたため、モスク(イスラム教寺院)は持たなかった。〔新免〕
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 中国共産党は、国内・支配地で中国化を暴力的に強行し、漢族系中国人住民を増やして地元住民を圧迫し、地元の伝統的宗教・文化・習慣・言語を消滅させつつある。
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 隣国のカザフスタンは、中国共産党が進める一帯一路構想による支援を受ける為に、同族であるカザフ族への弾圧から目を逸らしている。
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 現代日本には、戦後の朝鮮帰還事業で聞かされた「北朝鮮は労働者の天国」「朝鮮は極楽」と同じような宣伝文句が、「中国は素晴らしい」「中国は進んだ国である」としてまことしやかに流されている。
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☭10」─2─日露戦争は日本にとって正しい戦争であった。アムール川虐殺事件。キシニョフ虐殺。~No.29 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 人種差別主義のロシアでは、ポグロムユダヤ人虐殺)が繰り返され、中国人に対しても差別と迫害と虐殺を行った。
 日本は、ロシア人による虐殺を目の当たりにして恐怖し、ロシアの侵略を死を賭けて撃退する事に覚悟した。
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 日本にとって、アムール川虐殺は明日の我が身であった。
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 日本人にとって、日露戦争は避けられない戦争であった。
 日本は正義であり、ロシアは悪であった。
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 戦争を否定する現代日本人は、日露戦争を否定し、話し合いで平和を守るべきだったと子供達に教えている。
 つまり、非暴力無抵抗から、戦争するくらいなら虐殺や迫害・差別を我慢して受け容れるべきだったと。
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 1899年~1901年 義和団事件で、ロシア軍やドイツ軍などの連合軍は北京で残虐行為を繰り返した。
 日本軍は、虐殺・や略奪・強姦などを行わず、逃げて来た中国人難民を保護した。
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 八カ国連合軍
 ロシア ロシアは主に旅順口区とウラジオストク港からの守備隊から構成された軍隊12400人からなる日本に次いで二番目の規模の軍隊を派遣した。
 影響
 前述の八カ国の軍隊は1900年8月14日に北京を侵略し占領した。西太后と皇帝と政府高官らは紫禁城から西安へ逃亡し、李鴻章を連合軍との和平交渉に派遣した。
 研究論文でケネス・クラークは「北京獲得の後、連合軍は首都から略奪し、彼らがヨーロッパへ帰る途中で発見した多くの中国の遺産と共に紫禁城を略奪さえした。」と述べている。
 残虐行為
 数えきれないほどの義和団だと疑われた人々が義和団の乱の最中やその後に斬首された。この出来事は短編映画の主題になった。
 アメリカの海兵隊員は、ドイツ兵とロシア兵が女性を強姦したあとで彼女たちを銃剣で突いて殺害するのを見たと記していた。
 北京では、ピエール・マリー・アルフォンス・ファビエ=デュペロン司教が、カトリック教徒が生き残るために必要最低限の生活必需品と50両以下の銀の強奪を8月18日から26日まで許可する告示をしたと言われていたが、本人はそのような告示は出していないと否定した。
 一方の義和団も残虐行為を行っていた。多くのキリスト教徒が義和団の乱の前に殺害された。義和団の乱の前や最中に殺害された正教徒の集団は中国の聖なる殉教者としてこの日に記念されている。
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 義和団の乱における死傷者数
 連合軍は上記のように多くの兵力を投入したが、日本軍の計算に依れば、全期間にわたる死者数は757名、負傷者数は2654名とされている。ちなみに最も多くの死傷者を出したのは日本であった(死者349名・負傷者933名)。また清朝義和団によって殺害された人々は宣教師や神父など教会関係者が241名(カトリック53人+プロテスタント188人)、中国人クリスチャン23000人といわれる。一方清朝義和団側の死傷者は統計としては正確性を欠かざるをえないが、上で引用したように天津城攻防戦だけで4000名ほどの遺体があったと日本軍が書いていることから考えて、一年ほどの戦争期間に多大な死傷者を出したことは容易に想像できる。
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 中国は虐殺と略奪の大陸であった。
 漢族中国人は、人種・民族の中で最も残虐な人間であった。
 日本民族日本人の敵は、漢族系中国人と朝鮮人であった。
 漢族系中国人は、日本人を虐殺していた。
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 日本民族日本人は、中国人や朝鮮人ほどの凶暴性は弱く、虐殺を怖れ、強奪は少なかったが、根っからの女好きが嵩じて女と見ると強姦し性病をうつされていた。
 日本兵による性犯罪・強姦を減らす為には、民間人経営による慰安婦慰安所が欠かせなかった。
 日本人将校は、女にだらしなく、敵の美人スパイの甘い言葉に欺され、褒められたい、認められたいとの、恋い焦がれる思いから軍事機密情報などを自慢げに話し、その結果、日本軍を窮地に追い込む事があった。
 四谷怪談や牡丹灯籠など女性の幽霊・亡霊・怨霊に怯える気の弱い日本人は、男を呪い殺す力が強い女性や子供などの弱者を殺す事に躊躇いがあった。
 日本民族日本人は、亭主関白であったが、同時に女性が恐い、カカァ天下・山の神の恐妻家でもあった。
 男性の幽霊・亡霊・怨霊は、女性に比べて少ない。
 子供は神に近い存在として、家神の座敷童であり、三途の河原で小石を積むが鬼に虐められ地蔵菩薩に助けられる哀れな水子である。
 日本の最高神は女性神天照大神伊勢神宮の祭神)である。
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 1900年 アムール川大虐殺事件。白人至上主義のロシア軍兵士は、アムール河畔ブラゴベシチェンスクを占領するや、現地のモンゴル人・満州人・中国人ら女子供に関係なく数千人を虐殺した。
 欧米列強は、同じ宗教的選民思想を共有するだけにロシア軍の残虐行為を不問に付した。
 反日朝鮮人は、夷・ロシア帝国の軍事力を利用して夷・日本を滅ぼす為に、ロシア軍を朝鮮半島に引き込もうとしていた。
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 親露派朝鮮人は、ロシア軍が勝利する為に日本軍の情報をロシア側に流していた。
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 大韓帝国は、自主独立国として国際法に則って中立を宣言したが、日本が負ける事を期待して極秘に日本軍の軍事情報をロシア軍に伝えていた。
 古代から。朝鮮は、国益の為に、日本の極秘情報を中国などの反日国家に流していた。
 日本にとって、朝鮮が親日として味方につけばよし、反日として敵側に協力するのであれば、国益を守る為にも何らかの処分を加える必要があった。
 清国は、日清戦争の復讐として、ロシア帝国との間で対日秘密軍事条約を締結した。
 もし。日本軍がロシア軍に敗北すれば、清国軍は敗走する日本軍を殲滅する予定であった。
 中国は、にこやかに微笑みながら友好を口にするが、本心は日本の滅亡のみである。
 それは、古代から一貫して変わらない対日戦略である。
 何故か。それは、中華皇帝との対等を許さないという儒教的「面子」である。
 儒教は、神の裔・天皇の存在を「面子」ゆえにけっして認めない。
 ホーチミン(本名・阮愛国)は、「虎(フランス)をやっつける為に狼(日本)に噛み付かれにいく」として日本行く事を拒否して、フランスの植民地官吏大学院に入学するべく願書を提出した。
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 ロシア帝国の真の狙いは、江戸時代から対馬と北海道の領有であった。
 現代日本反戦平和団体が望む、話し合いによる戦争回避の手段とは、対馬アイヌ人の土地である北海道の放棄しかなかった。
 一部の日本人は、如何なる戦争も避ける為ならば、タイ方式の平和もやむなしと主張している。
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 この時、アイヌ人だ日本人の支配から独立する為にロシア帝国に支援を要請したら、ロシア帝国は喜んで軍隊を派遣したであろう。
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 軍国日本は、援軍を送ってくれる友好国を持っていなかっただけに、一国でロシア帝国と戦う為に軍国主義諸政策を進めた。
 天皇制度国家日本は、世界から非難される侵略戦争を行う軍国主義国家となった。
 日本が戦ったのは自衛の為であって、中国を分割消滅から救う為ではないし、朝鮮をロシア帝国の領土にされる事から救う為ではかった。
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 ウィッテ「ロシア軍による満州占領以来、あの地方は実際上ロシアの保護領となった。統治は現実にロシアの手中にある、ロシアは問題となっている一切の事実と特権に関する優先を獲得した。……戦勝の場合、日本への平和条件は満州及び朝鮮の併合の問題の他に、日本から永久に戦闘力を奪わなければならない、太平洋沿岸における優越は保障されなければならないとの見解で一致している。それは日本に対する艦隊保有禁止であり、さらに黄海における優越を維持する為に旅順に加えて、鴨緑江の江口の龍岩浦に築城し前哨を確保し、さらに朝鮮海峡を制する事が必要となるであろう。また、敗北した日本から充分な賠償金を得る事は事実上不可能であり、韓国が経済上無価値な事を考慮すれば、この戦争から得るべきロシアの唯一の具体的な補償は、満州の併合であるかに思われる」
 ロシア帝国は、満州と朝鮮を併合し、日本から自由を奪い主権なき無防備な衛星国にす事を考えていた。同時に、イギリスに対して、北海道と対馬の領有と本州の太平洋沿岸に軍港要塞要地の租借等を打診したという情報があったという。
 スプリング・ライス駐露イギリス大使館参事「ロシアの要求は過大となり東北清国及び韓国の事実上の併合、北京をその保護下に置いて清国政府を一歩一歩ロシアの手中に収めるであろう。また勝利に終わるならば、1.満州をロシアの手中に収め、2.鴨緑江沿いの築城と東朝鮮における築城、3.日本に対する海軍保有禁止、4.朝鮮、満州からの日本の排除を、ロシアは日本に要求するであろう」(セオドア・ルーズベルトへの電報)
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 ロシア帝国は、ウラジオストク軍港を強化する為に、フランスのパリ・ロスチャイルド家の財政支援を得てシベリア鉄道の建設を急いだ。その時間稼ぎの為に、日本の関心をフィリピンに向けるべく親露派日本人を利用した。
 ユダヤ人の多くは、ユダヤ人を弾圧するロシア帝国を憎み、ユダヤ人を助ける明治天皇と神国日本を支援した。
 清国・中国は、第一次露清秘密軍事条約を結び、日本から返還された遼東半島の旅順と大連を対日戦の軍事基地に利用する事を認めた。第二次露清秘密条約で、長城以北の満州内モンゴルのロシア保護領化を認めた。
 ロシア軍は、日本領対馬と北海道を軍事占領し領土化する為に、サハリンの軍事基地強化と朝鮮への影響力増加に力を入れた。
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 イギリスは、ボーア戦争で国費を使い新たな戦争を起こすゆとりがなかった。やむなく、ロシア帝国の南下から中国にある利権を守る為に、日本の軍事力を利用するべく同盟を組んだ。
 全ての軍事専門家は、アジアの小国日本はロシア帝国に敗北すると分析していた。
 当然。イギリスも、軍事力の脆弱な日本が巨大な軍事力を持つロシア帝国の南下を食い止めるとは本気で考えていなかった。
 イギリスの真意は、ロシアが勝てば、中国の利権を守る為に日本の一部をロシアに割譲させる腹づもりであった。
 日本は、戦費調達の為にイギリスに財政支援を要請したが断られた。
 日英同盟とは、イギリスが表面的に日本に支援の手を差し伸べたように見せかけたポーズに過ぎなかった。
 時代は、善意もなく、信義もない、弱肉強食の帝国主義時代である。
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 ロシア帝国が欲しいのは、アジアと太平洋に出る不凍港である。日本の北海道か東北の一部が領土隣るのであれば、イギリスを敵にしてまで中国の利権に拘る必要は無かった。
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 フランスは、植民地・仏印での独立運動を恐れ、日本を敗北させるためにフランス帝国を支援した。
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 ドイツ帝国は、ロシア帝国の軍事力を利用して、華北に植民地を拡大する為にロシア帝国を支援した。
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 アメリカは、日本の関心をフィリピンから満州に向けさせるべく日本を支援した。
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 朝鮮は、反日抵抗運動から、ロシア帝国の日本征服に協力し、国内に軍事基地を置く事に同意した。
 日本を欺く為に、局外中立を宣言した。
 朝鮮人の言う事には、信義はなかった。
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 清国・中国と朝鮮は、200万人以上の総兵力を持つロシア帝国を利用して、約20万人の総兵力しかない軍国主義国家日本を消滅させようとしていた。
 清国は、日本への復讐船の為に、ロシア帝国と秘密の軍事協定を結んでいた。
 ロシア軍が日本軍を撃退して日本領に上陸すれば、日本領の一部を手に入れる為に日本討伐の出兵を行うつもりであった。
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 アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ帝国は、自国の国家戦略から、日本とロシア帝国の全面戦争を煽っていた。
 欧米列強は、非白人にして非キリスト教徒の日本が想定以上の勝ちすぎを警戒していた。
 人種差別主義である黄禍論の国際世論は、ロシア帝国の圧勝を予想していた。
 インドシナ半島民族主義者は、独立運動を勝利する為に優秀な青年達を日本に留学させた。東南アジアの人々にとって、欧米列強に抵抗する日本は希望の星であり、キリスト教白人と戦う日本人は憧れであった。
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 ロシア軍は、朝鮮から日本を追放する為に、大軍をシベリアから満州にかけて展開して日本に軍事的圧力をかけた。
 ロシア海軍は、ウラジオストク軍港と旅順要塞軍港をつなぐ航路を確保する為に、朝鮮海峡に面した良港を軍港として利用する権利を要求した。その真の目的は、日本海の完全支配であった。
 ロシア帝国のアジア戦略は、カムチャッカ半島・サハリン・沿海州満州・朝鮮を防衛ラインとしていた。そして、太平洋と東シナ海への航路を軍事力で奪い確保する事であった。
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 日本は、ロシア軍が北海道に侵攻して軍事占領する事と、清国で拝外思想で義和団の様な内乱が再燃する事を恐れた。
 日本軍部は、ロシア帝国の軍事圧力を日本から遠ざけるべく、朝鮮を支配し、満州で戦争を行う事を決断した。それが、日露戦争であった。
 中程度国家日本には、アジアで味方してくれる国は一ヵ国も無かく、援軍を得られず孤独であった。
 多勢に無勢で戦って勝つという自信がなかったが、一時の平和の為に話し合いで戦争を回避するという意思はなかった。
 ロシア帝国が、日本海を支配するべく、北海道の領有と津軽海峡の自由な航行及び対馬の領有と対馬海峡の自由な航行を望んでいる以上は、平和の為に話し合っても無意味である事はわかっていた。
 いずれにせよ、生きるか死ぬかの瀬戸際に追い詰められた軍国日本には、世界を敵に回し、国際社会で孤立化しても、一か八かの侵略戦争を発動するしか選択肢がなかった。
 東京日日新聞(1903年6月24日)「満州を手に入れたロシアの次の目標は朝鮮であり、もし朝鮮が取られたならば、次は日本である」
 日本軍部は、北の脅威であるロシア帝国及びソ連の軍事力を後退させる為に、朝鮮を併合し、満州に傀儡国家を樹立して、そこを軍事基地としてシベリアを脅かすことであった。
 但し、国力及び軍事力差から、積極的(攻撃型)防衛は口先だけで消極的(専守型)防衛に徹した。
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 日本国内には、キリスト教ロシア帝国と戦う事に反対する反戦平和主義者いた。
 彼らは、日本がロシア帝国の植民地となるか領土となっても、戦争だけはするべきではないと確信していた。
 現代の日本でも、日本がどうなっても構ず、非戦のみを貫くべきだと信ずる日本人がいる。
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 1903年4月6日 ロシア人は、人種差別差主義者として、ベッサラビアキシニョフにおいてユダヤ人虐殺を行った。
 ロシア人達は、ユダヤ人47人から49人を虐殺し、92人に重軽傷を負わせた。
 殺害対象は、女子供に関係なく、ユダヤ人であれば容赦しなかった。
 ロシアに於けるユダヤ人虐殺は、1906年まで全土で行われた。 
 ロシアにおけるユダヤ人弾圧を、ポグロムという。
 日本は、ユダヤ人に同情した。
 明治天皇は、反ユダヤ主義者ではなかった。
 昭和天皇も、反ユダヤではなく親ユダヤであった。
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 キシニョフ事件 (1903)
 セオドア・ルーズベルトアメリカ大統領がロシア皇帝ニコライ2世ユダヤ人弾圧の停止を要請するカートゥーン(1904)
 1903年2月、ユダヤ人が住民の半数を占めるベッサラビアキシニョフでの少年殺害事件はユダヤ人が犯人とされ、クルーシェヴァンの地方新聞は反ユダヤ報道を続けた。キシニョフユダヤ人への復讐を宣言する「真のキリスト教徒労働者党」が結成され、「キリスト教徒の血を吸うユダヤ人が、民衆を反皇帝運動に扇動している」と主張した。復活祭の日曜日の1903年4月6日、ポグロムが発生した。死者は49人、負傷者数は500人、町の3分の1が破壊された。軍が暴徒を鎮圧したのは翌日の夕方であった。
 このキシニョフ事件に対して欧米諸国は非難し、ロシア語の「ポグロム」が広く認知された。ウルーソフ公爵は、当時のロシア警察、官吏にとって反ユダヤは義務と捉えられていたとし、一方で、ロシア民衆にユダヤ人への敵意は見られないと回想している。同1903年ドゥボサリーで儀式殺人事件が起こった。
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 アムール川黒龍江)事件
 中国東北部とロシア極東部の国境地図。ブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)の南にある赤い色の地域が「江東六十四屯」
 1900年(明治33年)、義和団の乱(中国側の呼称:庚子拳乱)が発生した際、義和団員の一部が黒龍江対岸のブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)(現ロシア・アムール州州都)を占領した。かねてから満洲全域への進出を計画していたロシアは、義和団と列強とを相手にしている清国側は満洲情勢に関わる余裕がないと考えた。
 そこで、1900年7月13日、ロシアの軍艦ミハイル (Михаил) 号は河上より銃撃を開始し戦端が開かれた。7月16日のブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)事件でコサック兵が混住する清国人約3,000名を同地から排除するために虐殺して奪還。さらに8月2日から3日にかけての黒龍江・璦琿事件では、義和団に対する報復として派兵されたロシア兵約2,000名が黒河鎮に渡河上陸し、清国人を虐殺。その結果、この時期に清国人約二万五千名がロシア兵に虐殺されてアムール川に投げ捨てられ、遺体が筏のように川を下って行ったという。
 これらの事件によって江東六十四屯から清国人居留民は一掃され、清の支配は失われることとなる。
 これらの事件と、これに続くロシアの東三省占領は、三国干渉以来高まっていた日本での対ロシア警戒感を一層高めることとなった。アムール川から南下の機会を狙うのは、世界最大のロシア陸軍。日本の世論は緊張し、反ロシア大集会が日本各地で開かれるに至った。ロシアは次に朝鮮を蹂躙して日本へ侵略してくるに違いない、というのが世論の見方であった。江東六十四屯の崩壊は『アムール川の流血や』という題名の旧制第一高等学校の寮歌にも歌われることとなった。
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 アムール川の流血や(アムールがわのりゅうけつや)は、旧制第一高等学校(一高)の寮歌のひとつで、1901年(明治34年)に制作された。正式名称は「第11回紀念祭東寮寮歌」だが、冒頭の歌詞の一節から取られたタイトルで知られている。「嗚呼玉杯」とともに、一高の寮歌として広く知られた。
 作詞は塩田環。作曲は栗林宇一とされ、作詞・作曲とも生徒の手で行われたとする点でも最初期の寮歌と言われてきたが、曲の原型は永井建子作曲の軍歌「小楠公」に求められる。同様の旋律で歌う歌には、軍歌「歩兵の本領」、労働歌「聞け万国の労働者」などがある。一高内では本曲の旋律を用いて「征露歌 (ウラルの彼方)」が制作された。
 内容
 1901年(明治34年)、一高東寮第十一回紀念祭寮歌として作成披露された。作詞の塩田環は同学だった鳩山一郎の友人だった。曲は、栗林宇一が軍歌など既存の複数の曲を組み合わせたものである。栗林本人も「原曲」がある趣旨の発言を行っていた[1]。
義和団の乱のさなか、ロシア軍が、ロシア領内の中国人居留地江東六十四屯を襲撃した事件を描いている。
 日露戦争前の極東地域の不穏な情勢や「これからは日本が清に代わっていく」という感情を感じさせる。
 一、
 アムール川の流血や
 凍りて恨み結びけん
 二十世紀の東洋は
 怪雲空にはびこりつ
 二、
 コサック兵の剣戟(けんげき)や
 怒りて光ちらしけん
 二十世紀の東洋は
 荒波海に立ちさわぐ
 三、
 満清(まんしん)すでに力つき
 末は魯縞(ろこう)も穿(うが)ち得で
 仰ぐはひとり日東(にっとう)の
 名もかんばしき秋津島
 四、
 桜の匂い衰えて
 皮相の風の吹きすさび
 清き流れをけがしつつ
 沈滞ここに幾春秋
 五、
 向が丘の健男児
 虚声偽涙(きょせいぎるい)をよそにして
 照る日の影を仰ぎつつ
 自治寮たてて十一年
 六、
 世紀新たに来れども
 北京の空は山嵐
 さらば兜の緒をしめて
 自治の本領あらわさん
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 征露歌(ウラルの彼方)
 1904年(明治37年)2月11日、日露開戦直後一高にて行われた紀元節奉祝集会に於て「征露歌」として披露された。「アムール川の流血や」の様に通例行事の紀念祭に合わせて作成された物ではなく、日露開戦に向けた学生に依る戦意発揚の為に作成されたと見るべき歌である。
 翌三月に挙行された通例行事の紀念祭(一高第十四回紀念祭)に於ても、数多くの「露西亜征討の歌」が作成された。
 作詞は青木得三。
 曲は「アムール川の流血や」と同じ。
 一、
 ウラルの彼方風荒れて
 東に翔ける鷲一羽
 渺々遠きシベリアも
 はや時の間に飛び過ぎて
 二、
 明治三十七の年
 黒雲乱れ月暗き
 鶏林の北滿洲に
 声物凄く叫ぶなり
 三、
 嗚呼絶東の君子国
 蒼浪浸す一孤島
 銀雪高し芙蓉峰
 紅英清し芳野山
 四、
 これ時宗の生れし地
 これ秀吉の生れし地
 一千の児が父祖の国
 光栄しるき日本国
 五、
 荒鷲今や南下しつ
 八道の山後に見て
 大和島根を衝かむとす
 金色の民鉾取れや
 六、
 十年の昔丈夫が
 血汐に染めし遼東の
 山河欺き奪いてし
 嗚呼その恨み忘れんや
 七、
 北洲の北熊吼ゆる
 薩哈嗹(サガレン)島これ昔
 我神洲の領なるを
 奪い去りしも亦彼ぞ
 八、
 西暦一千九百年
 恨は長きアムールや
 魯人の暴に清の民
 罪なく逝けり数五千
 九、
 いふ勿れ唯清人
 金色の民彼も亦
 嗚呼怨なり残虐の
 蛮族いかで赦すべき
 十、
 玉なす御手に剣取り
 華顔潮に湿して
 高麗半島を懲めにし
 神功皇后君見ずや
 十一、
 海を蔽いて寄せ来る
 敵艦四千 鎮西の
 蒼溟深く沈めたる
 彼時宗を君見ずや
 十二、
 明朝鮮を伐ちとりて
 鳳輦遠く迢遙と
 唐の都に謀りたる
 彼秀吉を君見ずや
 十三、
 時宗の裔鉾取れや
 秀吉の裔太刀佩けや
 恨尽きせぬ蛮族を
 屠り尽さむ時至る
 十四、
 貔貅たちまち海を越え
 旅順ダルニー蛮族の
 血汐に洗い遼東の
 山河再び手に収め
 十五、
 朝日・敷島艨艟の
 精を尽して波を蹴り
 ロシア艦隊葬りて
 翠波収まる日本海
 十六、
 砲火に焼かん浦塩
 屍を積まん哈爾浜府
 シベリア深く攻入らば
 魯人も遂になすなけむ
 十七、
 斯くて揚らむ我が国威
 斯くて晴れなむ彼の恨
 金色の民鉾取れや
 大和民族太刀佩けや
 十八、
 嗚呼絶東の君子国
 富士の高嶺の白雪や
 芳野の春の桜花
 光示さむ時至る
 十九、
 忍ぶに堪へぬ遼東や
 亦薩哈嗹やアムールや
 嗚呼残虐の蛮族に
 怨返さん時至る
 二十、
 金色の民いざやいざ
 大和民族いざやいざ
 戦はんかな時期至る
 戦はんかな時期至る
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