☭19』─1─日露戦争は日本にとって正しい戦争であった。アムール川大虐殺。義和団大虐殺。キシニョフ大虐殺。1900年。~No.44    

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 人種差別主義のロシアでは、ポグロムユダヤ人虐殺)が繰り返され、中国人に対しても差別と迫害と虐殺を行った。
 日本は、ロシア人による虐殺を目の当たりにして恐怖し、ロシアの侵略を死を賭けて撃退する事に覚悟した。
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 日本にとって、アムール川虐殺は明日の我が身であった。
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 日本人にとって、日露戦争は避けられない戦争であった。
 日本は正義であり、ロシアは悪であった。
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 戦争を否定する現代日本人は、日露戦争を否定し、話し合いで平和を守るべきだったと子供達に教えている。
 つまり、非暴力無抵抗から、戦争するくらいなら虐殺や迫害・差別を我慢して受け容れるべきだったと。
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 1899年~1901年 義和団事件で、ロシア軍やドイツ軍などの連合軍は北京で残虐行為を繰り返した。
 日本軍は、虐殺・や略奪・強姦などを行わず、逃げて来た中国人難民を保護した。
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 八カ国連合軍
 ロシア ロシアは主に旅順口区とウラジオストク港からの守備隊から構成された軍隊12400人からなる日本に次いで二番目の規模の軍隊を派遣した。
 影響
 前述の八カ国の軍隊は1900年8月14日に北京を侵略し占領した。西太后と皇帝と政府高官らは紫禁城から西安へ逃亡し、李鴻章を連合軍との和平交渉に派遣した。
 研究論文でケネス・クラークは「北京獲得の後、連合軍は首都から略奪し、彼らがヨーロッパへ帰る途中で発見した多くの中国の遺産と共に紫禁城を略奪さえした。」と述べている。
 残虐行為
 数えきれないほどの義和団だと疑われた人々が義和団の乱の最中やその後に斬首された。この出来事は短編映画の主題になった。
 アメリカの海兵隊員は、ドイツ兵とロシア兵が女性を強姦したあとで彼女たちを銃剣で突いて殺害するのを見たと記していた。
 北京では、ピエール・マリー・アルフォンス・ファビエ=デュペロン司教が、カトリック教徒が生き残るために必要最低限の生活必需品と50両以下の銀の強奪を8月18日から26日まで許可する告示をしたと言われていたが、本人はそのような告示は出していないと否定した。
 一方の義和団も残虐行為を行っていた。多くのキリスト教徒が義和団の乱の前に殺害された。義和団の乱の前や最中に殺害された正教徒の集団は中国の聖なる殉教者としてこの日に記念されている。
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 義和団の乱における死傷者数
 連合軍は上記のように多くの兵力を投入したが、日本軍の計算に依れば、全期間にわたる死者数は757名、負傷者数は2654名とされている。ちなみに最も多くの死傷者を出したのは日本であった(死者349名・負傷者933名)。また清朝義和団によって殺害された人々は宣教師や神父など教会関係者が241名(カトリック53人+プロテスタント188人)、中国人クリスチャン23000人といわれる。一方清朝義和団側の死傷者は統計としては正確性を欠かざるをえないが、上で引用したように天津城攻防戦だけで4000名ほどの遺体があったと日本軍が書いていることから考えて、一年ほどの戦争期間に多大な死傷者を出したことは容易に想像できる。
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 中国は虐殺と略奪の大陸であった。
 漢族中国人は、人種・民族の中で最も残虐な人間であった。
 日本民族日本人の敵は、漢族系中国人と朝鮮人であった。
 漢族系中国人は、日本人を虐殺していた。
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 日本民族日本人は、中国人や朝鮮人ほどの凶暴性は弱く、虐殺を怖れ、強奪は少なかったが、根っからの女好きが嵩じて女と見ると強姦し性病をうつされていた。
 日本兵による性犯罪・強姦を減らす為には、民間人経営による慰安婦慰安所が欠かせなかった。
 日本人将校は、女にだらしなく、敵の美人スパイの甘い言葉に欺され、褒められたい、認められたいとの、恋い焦がれる思いから軍事機密情報などを自慢げに話し、その結果、日本軍を窮地に追い込む事があった。
 四谷怪談や牡丹灯籠など女性の幽霊・亡霊・怨霊に怯える気の弱い日本人は、男を呪い殺す力が強い女性や子供などの弱者を殺す事に躊躇いがあった。
 日本民族日本人は、亭主関白であったが、同時に女性が恐い、カカァ天下・山の神の恐妻家でもあった。
 男性の幽霊・亡霊・怨霊は、女性に比べて少ない。
 子供は神に近い存在として、家神の座敷童であり、三途の河原で小石を積むが鬼に虐められ地蔵菩薩に助けられる哀れな水子である。
 日本の最高神は女性神天照大神伊勢神宮の祭神)である。
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 1900年 アムール川大虐殺事件。白人至上主義のロシア軍兵士は、アムール河畔ブラゴベシチェンスクを占領するや、現地のモンゴル人・満州人・中国人ら女子供に関係なく数千人を虐殺した。
 欧米列強は、同じ宗教的選民思想を共有するだけにロシア軍の残虐行為を不問に付した。
 反日朝鮮人は、夷・ロシア帝国の軍事力を利用して夷・日本を滅ぼす為に、ロシア軍を朝鮮半島に引き込もうとしていた。
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 親露派朝鮮人は、ロシア軍が勝利する為に日本軍の情報をロシア側に流していた。
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 大韓帝国は、自主独立国として国際法に則って中立を宣言したが、日本が負ける事を期待して極秘に日本軍の軍事情報をロシア軍に伝えていた。
 古代から。朝鮮は、国益の為に、日本の極秘情報を中国などの反日国家に流していた。
 日本にとって、朝鮮が親日として味方につけばよし、反日として敵側に協力するのであれば、国益を守る為にも何らかの処分を加える必要があった。
 清国は、日清戦争の復讐として、ロシア帝国との間で対日秘密軍事条約を締結した。
 もし。日本軍がロシア軍に敗北すれば、清国軍は敗走する日本軍を殲滅する予定であった。
 中国は、にこやかに微笑みながら友好を口にするが、本心は日本の滅亡のみである。
 それは、古代から一貫して変わらない対日戦略である。
 何故か。それは、中華皇帝との対等を許さないという儒教的「面子」である。
 儒教は、神の裔・天皇の存在を「面子」ゆえにけっして認めない。
 ホーチミン(本名・阮愛国)は、「虎(フランス)をやっつける為に狼(日本)に噛み付かれにいく」として日本行く事を拒否して、フランスの植民地官吏大学院に入学するべく願書を提出した。
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 ロシア帝国の真の狙いは、江戸時代から対馬と北海道の領有であった。
 現代日本反戦平和団体が望む、話し合いによる戦争回避の手段とは、対馬アイヌ人の土地である北海道の放棄しかなかった。
 一部の日本人は、如何なる戦争も避ける為ならば、タイ方式の平和もやむなしと主張している。
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 この時、アイヌ人だ日本人の支配から独立する為にロシア帝国に支援を要請したら、ロシア帝国は喜んで軍隊を派遣したであろう。
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 軍国日本は、援軍を送ってくれる友好国を持っていなかっただけに、一国でロシア帝国と戦う為に軍国主義諸政策を進めた。
 天皇制度国家日本は、世界から非難される侵略戦争を行う軍国主義国家となった。
 日本が戦ったのは自衛の為であって、中国を分割消滅から救う為ではないし、朝鮮をロシア帝国の領土にされる事から救う為ではかった。
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 ウィッテ「ロシア軍による満州占領以来、あの地方は実際上ロシアの保護領となった。統治は現実にロシアの手中にある、ロシアは問題となっている一切の事実と特権に関する優先を獲得した。……戦勝の場合、日本への平和条件は満州及び朝鮮の併合の問題の他に、日本から永久に戦闘力を奪わなければならない、太平洋沿岸における優越は保障されなければならないとの見解で一致している。それは日本に対する艦隊保有禁止であり、さらに黄海における優越を維持する為に旅順に加えて、鴨緑江の江口の龍岩浦に築城し前哨を確保し、さらに朝鮮海峡を制する事が必要となるであろう。また、敗北した日本から充分な賠償金を得る事は事実上不可能であり、韓国が経済上無価値な事を考慮すれば、この戦争から得るべきロシアの唯一の具体的な補償は、満州の併合であるかに思われる」
 ロシア帝国は、満州と朝鮮を併合し、日本から自由を奪い主権なき無防備な衛星国にす事を考えていた。同時に、イギリスに対して、北海道と対馬の領有と本州の太平洋沿岸に軍港要塞要地の租借等を打診したという情報があったという。
 スプリング・ライス駐露イギリス大使館参事「ロシアの要求は過大となり東北清国及び韓国の事実上の併合、北京をその保護下に置いて清国政府を一歩一歩ロシアの手中に収めるであろう。また勝利に終わるならば、1.満州をロシアの手中に収め、2.鴨緑江沿いの築城と東朝鮮における築城、3.日本に対する海軍保有禁止、4.朝鮮、満州からの日本の排除を、ロシアは日本に要求するであろう」(セオドア・ルーズベルトへの電報)
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 ロシア帝国は、ウラジオストク軍港を強化する為に、フランスのパリ・ロスチャイルド家の財政支援を得てシベリア鉄道の建設を急いだ。その時間稼ぎの為に、日本の関心をフィリピンに向けるべく親露派日本人を利用した。
 ユダヤ人の多くは、ユダヤ人を弾圧するロシア帝国を憎み、ユダヤ人を助ける明治天皇と神国日本を支援した。
 清国・中国は、第一次露清秘密軍事条約を結び、日本から返還された遼東半島の旅順と大連を対日戦の軍事基地に利用する事を認めた。第二次露清秘密条約で、長城以北の満州内モンゴルのロシア保護領化を認めた。
 ロシア軍は、日本領対馬と北海道を軍事占領し領土化する為に、サハリンの軍事基地強化と朝鮮への影響力増加に力を入れた。
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 イギリスは、ボーア戦争で国費を使い新たな戦争を起こすゆとりがなかった。やむなく、ロシア帝国の南下から中国にある利権を守る為に、日本の軍事力を利用するべく同盟を組んだ。
 全ての軍事専門家は、アジアの小国日本はロシア帝国に敗北すると分析していた。
 当然。イギリスも、軍事力の脆弱な日本が巨大な軍事力を持つロシア帝国の南下を食い止めるとは本気で考えていなかった。
 イギリスの真意は、ロシアが勝てば、中国の利権を守る為に日本の一部をロシアに割譲させる腹づもりであった。
 日本は、戦費調達の為にイギリスに財政支援を要請したが断られた。
 日英同盟とは、イギリスが表面的に日本に支援の手を差し伸べたように見せかけたポーズに過ぎなかった。
 時代は、善意もなく、信義もない、弱肉強食の帝国主義時代である。
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 ロシア帝国が欲しいのは、アジアと太平洋に出る不凍港である。日本の北海道か東北の一部が領土隣るのであれば、イギリスを敵にしてまで中国の利権に拘る必要は無かった。
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 フランスは、植民地・仏印での独立運動を恐れ、日本を敗北させるためにフランス帝国を支援した。
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 ドイツ帝国は、ロシア帝国の軍事力を利用して、華北に植民地を拡大する為にロシア帝国を支援した。
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 アメリカは、日本の関心をフィリピンから満州に向けさせるべく日本を支援した。
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 朝鮮は、反日抵抗運動から、ロシア帝国の日本征服に協力し、国内に軍事基地を置く事に同意した。
 日本を欺く為に、局外中立を宣言した。
 朝鮮人の言う事には、信義はなかった。
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 清国・中国と朝鮮は、200万人以上の総兵力を持つロシア帝国を利用して、約20万人の総兵力しかない軍国主義国家日本を消滅させようとしていた。
 清国は、日本への復讐船の為に、ロシア帝国と秘密の軍事協定を結んでいた。
 ロシア軍が日本軍を撃退して日本領に上陸すれば、日本領の一部を手に入れる為に日本討伐の出兵を行うつもりであった。
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 アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ帝国は、自国の国家戦略から、日本とロシア帝国の全面戦争を煽っていた。
 欧米列強は、非白人にして非キリスト教徒の日本が想定以上の勝ちすぎを警戒していた。
 人種差別主義である黄禍論の国際世論は、ロシア帝国の圧勝を予想していた。
 インドシナ半島民族主義者は、独立運動を勝利する為に優秀な青年達を日本に留学させた。東南アジアの人々にとって、欧米列強に抵抗する日本は希望の星であり、キリスト教白人と戦う日本人は憧れであった。
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 ロシア軍は、朝鮮から日本を追放する為に、大軍をシベリアから満州にかけて展開して日本に軍事的圧力をかけた。
 ロシア海軍は、ウラジオストク軍港と旅順要塞軍港をつなぐ航路を確保する為に、朝鮮海峡に面した良港を軍港として利用する権利を要求した。その真の目的は、日本海の完全支配であった。
 ロシア帝国のアジア戦略は、カムチャッカ半島・サハリン・沿海州満州・朝鮮を防衛ラインとしていた。そして、太平洋と東シナ海への航路を軍事力で奪い確保する事であった。
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 日本は、ロシア軍が北海道に侵攻して軍事占領する事と、清国で拝外思想で義和団の様な内乱が再燃する事を恐れた。
 日本軍部は、ロシア帝国の軍事圧力を日本から遠ざけるべく、朝鮮を支配し、満州で戦争を行う事を決断した。それが、日露戦争であった。
 中程度国家日本には、アジアで味方してくれる国は一ヵ国も無かく、援軍を得られず孤独であった。
 多勢に無勢で戦って勝つという自信がなかったが、一時の平和の為に話し合いで戦争を回避するという意思はなかった。
 ロシア帝国が、日本海を支配するべく、北海道の領有と津軽海峡の自由な航行及び対馬の領有と対馬海峡の自由な航行を望んでいる以上は、平和の為に話し合っても無意味である事はわかっていた。
 いずれにせよ、生きるか死ぬかの瀬戸際に追い詰められた軍国日本には、世界を敵に回し、国際社会で孤立化しても、一か八かの侵略戦争を発動するしか選択肢がなかった。
 東京日日新聞(1903年6月24日)「満州を手に入れたロシアの次の目標は朝鮮であり、もし朝鮮が取られたならば、次は日本である」
 日本軍部は、北の脅威であるロシア帝国及びソ連の軍事力を後退させる為に、朝鮮を併合し、満州に傀儡国家を樹立して、そこを軍事基地としてシベリアを脅かすことであった。
 但し、国力及び軍事力差から、積極的(攻撃型)防衛は口先だけで消極的(専守型)防衛に徹した。
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 日本国内には、キリスト教ロシア帝国と戦う事に反対する反戦平和主義者いた。
 彼らは、日本がロシア帝国の植民地となるか領土となっても、戦争だけはするべきではないと確信していた。
 現代の日本でも、日本がどうなっても構ず、非戦のみを貫くべきだと信ずる日本人がいる。
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 1903年4月6日 ロシア人は、人種差別差主義者として、ベッサラビアキシニョフにおいてユダヤ人虐殺を行った。
 ロシア人達は、ユダヤ人47人から49人を虐殺し、92人に重軽傷を負わせた。
 殺害対象は、女子供に関係なく、ユダヤ人であれば容赦しなかった。
 ロシアに於けるユダヤ人虐殺は、1906年まで全土で行われた。 
 ロシアにおけるユダヤ人弾圧を、ポグロムという。
 日本は、ユダヤ人に同情した。
 明治天皇は、反ユダヤ主義者ではなかった。
 昭和天皇も、反ユダヤではなく親ユダヤであった。
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 キシニョフ事件 (1903)
 セオドア・ルーズベルトアメリカ大統領がロシア皇帝ニコライ2世ユダヤ人弾圧の停止を要請するカートゥーン(1904)
 1903年2月、ユダヤ人が住民の半数を占めるベッサラビアキシニョフでの少年殺害事件はユダヤ人が犯人とされ、クルーシェヴァンの地方新聞は反ユダヤ報道を続けた。キシニョフユダヤ人への復讐を宣言する「真のキリスト教徒労働者党」が結成され、「キリスト教徒の血を吸うユダヤ人が、民衆を反皇帝運動に扇動している」と主張した。復活祭の日曜日の1903年4月6日、ポグロムが発生した。死者は49人、負傷者数は500人、町の3分の1が破壊された。軍が暴徒を鎮圧したのは翌日の夕方であった。
 このキシニョフ事件に対して欧米諸国は非難し、ロシア語の「ポグロム」が広く認知された。ウルーソフ公爵は、当時のロシア警察、官吏にとって反ユダヤは義務と捉えられていたとし、一方で、ロシア民衆にユダヤ人への敵意は見られないと回想している。同1903年ドゥボサリーで儀式殺人事件が起こった。
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 アムール川黒龍江)事件
 中国東北部とロシア極東部の国境地図。ブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)の南にある赤い色の地域が「江東六十四屯」
 1900年(明治33年)、義和団の乱(中国側の呼称:庚子拳乱)が発生した際、義和団員の一部が黒龍江対岸のブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)(現ロシア・アムール州州都)を占領した。かねてから満洲全域への進出を計画していたロシアは、義和団と列強とを相手にしている清国側は満洲情勢に関わる余裕がないと考えた。
 そこで、1900年7月13日、ロシアの軍艦ミハイル (Михаил) 号は河上より銃撃を開始し戦端が開かれた。7月16日のブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)事件でコサック兵が混住する清国人約3,000名を同地から排除するために虐殺して奪還。さらに8月2日から3日にかけての黒龍江・璦琿事件では、義和団に対する報復として派兵されたロシア兵約2,000名が黒河鎮に渡河上陸し、清国人を虐殺。その結果、この時期に清国人約二万五千名がロシア兵に虐殺されてアムール川に投げ捨てられ、遺体が筏のように川を下って行ったという。
 これらの事件によって江東六十四屯から清国人居留民は一掃され、清の支配は失われることとなる。
 これらの事件と、これに続くロシアの東三省占領は、三国干渉以来高まっていた日本での対ロシア警戒感を一層高めることとなった。アムール川から南下の機会を狙うのは、世界最大のロシア陸軍。日本の世論は緊張し、反ロシア大集会が日本各地で開かれるに至った。ロシアは次に朝鮮を蹂躙して日本へ侵略してくるに違いない、というのが世論の見方であった。江東六十四屯の崩壊は『アムール川の流血や』という題名の旧制第一高等学校の寮歌にも歌われることとなった。
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 アムール川の流血や(アムールがわのりゅうけつや)は、旧制第一高等学校(一高)の寮歌のひとつで、1901年(明治34年)に制作された。正式名称は「第11回紀念祭東寮寮歌」だが、冒頭の歌詞の一節から取られたタイトルで知られている。「嗚呼玉杯」とともに、一高の寮歌として広く知られた。
 作詞は塩田環。作曲は栗林宇一とされ、作詞・作曲とも生徒の手で行われたとする点でも最初期の寮歌と言われてきたが、曲の原型は永井建子作曲の軍歌「小楠公」に求められる。同様の旋律で歌う歌には、軍歌「歩兵の本領」、労働歌「聞け万国の労働者」などがある。一高内では本曲の旋律を用いて「征露歌 (ウラルの彼方)」が制作された。
 内容
 1901年(明治34年)、一高東寮第十一回紀念祭寮歌として作成披露された。作詞の塩田環は同学だった鳩山一郎の友人だった。曲は、栗林宇一が軍歌など既存の複数の曲を組み合わせたものである。栗林本人も「原曲」がある趣旨の発言を行っていた[1]。
義和団の乱のさなか、ロシア軍が、ロシア領内の中国人居留地江東六十四屯を襲撃した事件を描いている。
 日露戦争前の極東地域の不穏な情勢や「これからは日本が清に代わっていく」という感情を感じさせる。
 一、
 アムール川の流血や
 凍りて恨み結びけん
 二十世紀の東洋は
 怪雲空にはびこりつ
 二、
 コサック兵の剣戟(けんげき)や
 怒りて光ちらしけん
 二十世紀の東洋は
 荒波海に立ちさわぐ
 三、
 満清(まんしん)すでに力つき
 末は魯縞(ろこう)も穿(うが)ち得で
 仰ぐはひとり日東(にっとう)の
 名もかんばしき秋津島
 四、
 桜の匂い衰えて
 皮相の風の吹きすさび
 清き流れをけがしつつ
 沈滞ここに幾春秋
 五、
 向が丘の健男児
 虚声偽涙(きょせいぎるい)をよそにして
 照る日の影を仰ぎつつ
 自治寮たてて十一年
 六、
 世紀新たに来れども
 北京の空は山嵐
 さらば兜の緒をしめて
 自治の本領あらわさん
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 征露歌(ウラルの彼方)
 1904年(明治37年)2月11日、日露開戦直後一高にて行われた紀元節奉祝集会に於て「征露歌」として披露された。「アムール川の流血や」の様に通例行事の紀念祭に合わせて作成された物ではなく、日露開戦に向けた学生に依る戦意発揚の為に作成されたと見るべき歌である。
 翌三月に挙行された通例行事の紀念祭(一高第十四回紀念祭)に於ても、数多くの「露西亜征討の歌」が作成された。
 作詞は青木得三。
 曲は「アムール川の流血や」と同じ。
 一、
 ウラルの彼方風荒れて
 東に翔ける鷲一羽
 渺々遠きシベリアも
 はや時の間に飛び過ぎて
 二、
 明治三十七の年
 黒雲乱れ月暗き
 鶏林の北滿洲に
 声物凄く叫ぶなり
 三、
 嗚呼絶東の君子国
 蒼浪浸す一孤島
 銀雪高し芙蓉峰
 紅英清し芳野山
 四、
 これ時宗の生れし地
 これ秀吉の生れし地
 一千の児が父祖の国
 光栄しるき日本国
 五、
 荒鷲今や南下しつ
 八道の山後に見て
 大和島根を衝かむとす
 金色の民鉾取れや
 六、
 十年の昔丈夫が
 血汐に染めし遼東の
 山河欺き奪いてし
 嗚呼その恨み忘れんや
 七、
 北洲の北熊吼ゆる
 薩哈嗹(サガレン)島これ昔
 我神洲の領なるを
 奪い去りしも亦彼ぞ
 八、
 西暦一千九百年
 恨は長きアムールや
 魯人の暴に清の民
 罪なく逝けり数五千
 九、
 いふ勿れ唯清人
 金色の民彼も亦
 嗚呼怨なり残虐の
 蛮族いかで赦すべき
 十、
 玉なす御手に剣取り
 華顔潮に湿して
 高麗半島を懲めにし
 神功皇后君見ずや
 十一、
 海を蔽いて寄せ来る
 敵艦四千 鎮西の
 蒼溟深く沈めたる
 彼時宗を君見ずや
 十二、
 明朝鮮を伐ちとりて
 鳳輦遠く迢遙と
 唐の都に謀りたる
 彼秀吉を君見ずや
 十三、
 時宗の裔鉾取れや
 秀吉の裔太刀佩けや
 恨尽きせぬ蛮族を
 屠り尽さむ時至る
 十四、
 貔貅たちまち海を越え
 旅順ダルニー蛮族の
 血汐に洗い遼東の
 山河再び手に収め
 十五、
 朝日・敷島艨艟の
 精を尽して波を蹴り
 ロシア艦隊葬りて
 翠波収まる日本海
 十六、
 砲火に焼かん浦塩
 屍を積まん哈爾浜府
 シベリア深く攻入らば
 魯人も遂になすなけむ
 十七、
 斯くて揚らむ我が国威
 斯くて晴れなむ彼の恨
 金色の民鉾取れや
 大和民族太刀佩けや
 十八、
 嗚呼絶東の君子国
 富士の高嶺の白雪や
 芳野の春の桜花
 光示さむ時至る
 十九、
 忍ぶに堪へぬ遼東や
 亦薩哈嗹やアムールや
 嗚呼残虐の蛮族に
 怨返さん時至る
 二十、
 金色の民いざやいざ
 大和民族いざやいざ
 戦はんかな時期至る
 戦はんかな時期至る
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