✞168」─1─『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(岩波新書)。餓死地獄のレニングラード攻防戦。~No.488No.489   

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   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 2019年8月10日・17日号 週刊現代独ソ戦
 史上最悪の皆殺し
 人間とは何か、それが問われた
 死者3,000万人、読むだけで怖くなる ヒトラースターリンの絶滅戦争
 人類史上全ての戦争の中で最大の死者数を計上した独ソ戦。血で血を洗う戦場ではいったい何が起きていたのか。これまで日本で語られることのなかった絶滅戦争の惨禍を、最新研究をもとに振り返る。
 わが子にわが子を食わせる
 1941年、ドイツ軍に包囲されたソ連第2の都市・レニングラードの街角は死体で溢れていた。ヒトラーは、『革命の聖地』であるレニングラードを軍隊で奪取するのではなく、包囲したうえで飢餓地獄に陥れ、市民もろとも守備隊を全滅させることを狙ったのだ。
 冬が到来すると、死体から人肉を食らう凄惨なありさまとなった。ソ連の内務人民委員部(秘密警察)の文書には以下のような記録まで残っている。
 『ある母親は、上の子どもたちを生き延びさせるために、末の赤ん坊を殺して食べさせた』
 日本では第二次世界大戦という太平洋戦争がイメージされやすく、これまで独ソ戦についてはほとんど語られてこなかった。しかし、7月に刊行された『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(岩波新書)がベストセラーとなり、発売わずか11日で4刷といま大きな話題を呼んでいる。著者で、防衛省防衛研究所講師、陸上自衛隊幹部学校講師などを歴任した現代史家の大木毅氏が語る。
 『独ソ戦は歴史上稀に見る残虐な戦争でした。その凄惨さは数字を見るだけでわかります。ソ連は39年の段階で1億8,879万3,000人の人口を有していましたが、第二次世界大戦で戦闘員、民間人合わせて2,700万人が失われたとされています。一方ドイツも、39年の総人口6,930万人のうち、戦闘員が最大531万8,000人、民間人も最大300万人を失ったとされています』(以下『』内は大木氏の発言)
 41年、ナチス・ドイツ国防軍が、独ソ不可侵条約を破った独ソ戦では、北のフィンランドから、南のコーカサスまでほぼ3,000kmにわたる戦線で、1,000万の大軍が激突。少なく見積もっても3,000万人以上が命を落とした。世界史的に見れば、第二次世界大戦の主戦場は独ソ戦だったとも言いうるのだ。
 当時、ドイツではヒトラーナチスによる一党独裁体制を確立していた。一方、ソ連ではスターリンが自身を頂点とした強力なテロ支配体制(秘密警察による支配)をしいていた。稀代の独裁者同士による戦いの現場でいったい何が起きていたのか。大木氏とともに独ソ戦の歴史を振り返る。
 まず時計の針を戦前の37年まで巻き戻そう。この時ソ連内ですでに悲劇は始まっていた。スターリンによる大粛清である。
 『レーニンが没した後、スターリンの権力基盤はなおも不安定でした。「隙あれば反乱に踏み切り、自分を追い落とそうとしている者が多数いる」、強迫観念に囚われたスターリンは秘密警察を動員し、ソ連の指導者たちを逮捕、処刑させたのです』
 37年から38年にわたって、3万4,301人の将校が逮捕、もしくは追放され、そのうち2万2,705人が銃殺されるか、行方不明になっている。これだけ見ても粛清がいかに苛烈なものだったかがわかるだろう。
 結局41年6月にドイツ軍に攻め込まれたときには、ソ連軍の指揮官は素人ばかりという有り様。まともな戦略も立てられず、ただ反撃すべしという原則のみが習い性になっていた。兵士の中には、無茶な命令をする指揮官を殺そうとしたり、逃亡したりする者が続出した。兵器を持っていても、有能な指揮官がいなければ元も子もない。
 降伏しても殺される
 開戦当初、ソ連軍は当然のように大敗を喫した。7月初旬までにドイツ軍に捕虜にされたソ連兵は32万人にも及んだという。捕虜になったソ連兵にはさらなる地獄が待ち構えていた。
 『ヒトラー独ソ戦を世界観戦争であると規定しました。すなわち「人種的に優れたゲルマン民族が劣等人種スラブ人を奴隷化し支配する」という世界観です。そのためソ連兵捕虜は人間として扱ってもらえなかった。食料も充分に配給されず、ろくに暖房もない収容所にすし詰めにされ、重労働に駆り出された結果、大量の兵士たちが飢餓や凍傷、伝染病で死んでいきました。570万人のソ連兵捕虜のうち、300万人が死亡したと言われています』
 一度捕虜にされてしまえば死亡率は53%。降伏したところで、命の保証はなかったもである。
 ヒトラーやドイツ軍のこうした残虐行為はもちろん占領下の一般市民にも向けられていく。ナチスは占領したソ連領から食料を収奪し、現地住民を飢え死にさせてでも、ドイツ国民、ドイツ軍の将兵に充分な食料を与える計画を立てたのだ。
 『通称「飢餓計画」と呼ばれる構想です。計画を立てた食料農業省次官、ヘルベルト・バッケのロシア人に対する評価は非情なもので、こう言い放っています。「ロシア人は、何世紀もの間。貧困、飢え、節約に耐えてきている。その胃袋は伸縮自在なのだから、間違った同情は不要だ」』
 ドイツ軍に食料を奪われた占領下の住民に残されたのは、わずかなパンとジャガイモのみであった。ソ連の厳しい冬を越えすことができず、多くの餓死者が出た。
 死ぬまで行進
 この独ソ戦では、無意味としか思えない民間人の虐殺まで繰り広げられた。虐殺を担当したのは、ナチス・ドイツの有する『出動部隊』(アインザッツゲルッペ)である。ドイツ軍が制圧した領地に入り込み、教師や聖職者、貴族、将校、ユダヤ人などを、占領軍に反抗するかもしれないという理由で殺害してまわった。
 『出動部隊はなんの罪もない住民たちを、森や野原に追いたて、まとめて銃殺しました。出動部隊の手にかかった人々の数は少なくとも90万人と推定されています』
 出動部隊は殺害の効率化を進めるため、射殺から毒ガスの使用へと方針を切り替えた。アウシュビッツ強制収容所ガス室の初期の犠牲となったのはユダヤ人ではなくソ連軍捕虜600人だったといわれる。
 開戦当初は敗北を喫したソ連軍であったが、冬が到来すると極寒を衝いて反撃を始め、戦況は泥沼化していく。
 『ソ連軍の反撃に危機感を抱いたヒトラーは「総統の許可なくして、一歩たりとも退却してはならい」という仮借(かしゃく)ない命令をドイツ軍に下していた。一方でスターリンソ連軍の主力部隊の背後に、脱走兵を射殺する「阻止部隊」を配置し、前線部隊の退却を許しませんでした』
 捕虜になっても逃亡しても殺されるのだと知った両軍の兵士たちは、どんなに絶望的な状況に追い込まれようとも徹底抗戦し、戦場はまさに地獄の様相を呈していた。
 戦闘が長期化するに従い、膨大な予備兵力を持つソ連が徐々に攻勢を強めた。戦地に増援を次々と送り出し、砲兵や航空機によって敵の最前線から行方までを同時に制圧する『縦深戦(じゅうしんせん)』を展開し、一気に形勢を逆転したのだ。
 形勢の逆転によって始まったのが、ソ連軍による報復だ。特に捕虜となったドイツ兵の扱いは常軌を逸しており、死ぬまで徒歩で長距離行軍させるなど、非人道的な蛮行が繰り返された。
 『ドイツ兵捕虜は、収容所に入ってからも、破壊された建物や地下壕、天幕などで寝泊まりする状態で、重労働を強いられました。食料は水でカサ増ししたパンとジャガイモの皮や魚の頭、犬や猫の肉などしか与えられなかった。夏季には野草摘みに駆り出され、それでスープを作ったものの、毒草であったため、多くの死者を出したという例もあります』
 ソ連の捕虜収容所で生き残ったドイツ兵はたったの5%に過ぎなかったという。
 またドイツ兵だけでなく、ソ連国内のドイツ系住民にも、悲劇が降りかかった。
 『ソ連にはヴォルガ・ドイツ人を始めとする多数のドイツ系住民がいました。スターリンは彼らに対し、シベリア、カザフスタンウズベキスタンへの強制移住を命じたのです』
 70万人とも120万人ともいわれる人々が、家畜運搬用の貨車や徒歩での大移動を強制され、飢えや渇き、過剰に貨車に詰め込まれたことによる酸欠で死亡した。
 前線のソ連軍兵士の蛮行も、その残虐さに引けを取るものではなかった。ソ連将兵の蛮行も、その残虐さに引けを取るものではなかった。ソ連将兵は敵意と復讐心のままに、略奪や暴行を繰り広げたのである。
 『ソ連軍の政治教育機関は、そうした行為を抑制するどころか、むしろ煽りました。ソ連軍機関紙「赤い星」にはこのように書かれています。「もし、あなたがドイツ人一人を殺したら、つぎの一人を殺せ。ドイツ人の死体に勝る楽しみはないのだ」』
 やられたらやり返す、そこにあるのは、剥き出しの憎悪だ。ソ連青年将校が見た戦場の証言を聞こう。
 『女たち、母親やその子たちが、道路の左右に横たわっていた。それぞれの前に、ズボンを下げた兵隊の群れが騒々しく立っていた』『血を流し、意識を失った女たちを一ヵ所に寄せ集めた。そして、わが兵士たちは、子を守ろうとする女たちを撃ち殺した』
 戦争はここまで人間を残虐にさせるのだ。
 国民が共犯者
 最終的に、45年4月26日にソ連軍がベルリン市内に突入、ベルリンのドイツ軍守備隊は5月2日に降伏した。それに先立つ4月30日、ヒトラーは総統地下壕で自殺していた。その遺言には、なお闘争を継続させよとの訴えが記されていた。
 こうして独ソ戦は幕を閉じる。なぜこのような凄惨な戦争が繰り広げられたのか。一つにはドイツとソ連双方が『通常戦争』を放棄したことが原因に挙げられる。
 『通常の戦争であれば、戦争の目的を達成したら、講和を結んで終結させます。しかし、独ソ戦においては、両国ともが、お互いを滅ぼされるべき敵とみなすイデオロギーを掲げていたために、相手を徹底的に殲滅するまで戦争を終わらせることができなかったのです』
 そして、何により大きな要因はこうしたイデオロギーに国民が共犯者として同調したことが挙げられるのだろう。
 『ドイツ人は、戦時下なのに、自分たちには食料が配給される、この食料はどこから来るのか、ということはみんな薄々わかっていたわけです。わかっていながらナチスを支持していた。ソ連にしても、「侵略者」と戦おうと自ら志願した者が多数いた。聖戦意識が強かったのです』
 ドイツとソ連が国ぐるみ、国民総出で殺し合った皆殺しの戦争は、人間とは何かという問いを70年後の現在に投げかけている」
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 人類史・世界史・大陸史において、命を捨てて戦わない者には生きる資格はなかった。
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 戦争と言っても、島国戦争と大陸戦争は違う。
 大陸戦争は、情け容赦なき殲滅戦、根絶やし戦である。
 島国戦争は、まあまあなあなあの曖昧戦、馴れ合い戦であった。
 歴史学地政学・戦争学が理解できない現代日本人には、その違いが分からない。
 特に、高学歴出身知的エリートにその傾向が強い。
 それは、プロパガンダポピュリズムアジテーション、扇動、洗脳などの感受性の度合いが関係している。
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 日本軍が、日本国民が、アメリカやイギリスを「鬼畜米英」として憎み、負けたら強姦され殺害されると恐れて戦った事は正しかった。
 現代日本人は、非暴力無抵抗主義と反戦平和主義から武器を捨てて降伏する。
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 兵士には人権はなく、命令に従って人を殺す人格なき思考力なき操り人形で、補充可能な消耗品であった。
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 世界で最も情け容赦のない殺戮を繰り返したのは、宗教性を秘めたドイツ軍ではなく、宗教性を排除したソ連軍や中国共産党軍などの共産主義軍隊であった。
 国際赤十字キリスト教会は、ドイツ軍を巡回して人道的意見を言えたが、共産主義軍からは排除されていた。
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 第二次世界大戦の内でも、日中戦争独ソ戦は別次元の戦争・殺戮・殺し合いであった。
 ソ連軍とドイツ軍の占領下で起きたような惨劇は、日本軍の占領下では起きていない。
 だが、日本人にも善人はいたし悪人もいて、悪人の日本人は戦争犯罪を行っている。
 犯罪行為を行う悪い日本人は、現代日本でも多数いる。
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 日本軍は戦争犯罪を犯したが、靖国神社A級戦犯達は人道貢献を行った。
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 ソ連軍のモスクワ方面での反撃・大攻勢に貢献したのは、日本軍部・陸軍・関東軍であった。
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 日本陸軍が本当に戦った敵とは、ソ連軍・中国共産党軍などの共産主義軍隊であった。
 ロシアと戦争をする、それは江戸時代後期からの日本の避けられない運命であった。
 日本国内には、共産主義マルクス主義)に感動し、日本を共産主義国に作り変えるべくソ連中国共産党に協力する人々が少なからず存在していた。
 そうした人々は、高学歴出身知的エリートに多かった。
 中国共産党は、第1回南京事件、済南虐殺事件、通州虐殺事件など日本人居留民虐殺事件を繰り返していた。
 歴史的事実において、日本人は被害者であり、中国人は加害者であった。
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 中国共産党は、毛沢東スターリンを神聖不可侵として信奉し、毛沢東スターリンが行った地獄の様な暴力と死の恐怖支配体制を広めようとしている。
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 東条英機が発表した戦陣訓の「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」を非難する者には、戦争はおろか平和を語る資格はない。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人を人間と見做さず家畜か獣のように扱い、アフリカ人同様に奴隷として売って金を稼いでいた。
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 日本軍が大陸で戦った主敵は、ソ連コミンテルン中国共産党・朝鮮共産党などの共産主義勢力であった。
 松岡洋右外相は、「主敵と戦わない為にはむしろ同盟国になる」つまり「悪魔と握手する」事であるとして、軍部の強い要請に従い、ナチス・ドイツの反対を押し切って日ソ中立条約を締結した。
 松岡洋右の外交能力と国際状勢理解力は、現代日本の高学歴出身知的エリートよりも数段優れていた。
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 昭和天皇は、独ソ戦開始に当たって、松岡洋右外相が奏上した「独ソ戦参戦」を「信義に反する」として裁可しなかった。
 この判断では、松岡洋右より昭和天皇の方が正しかった。
 歴史の「if」として、松岡洋右独ソ戦参戦を実行していれば後の日米英戦争(太平洋戦争)は回避できたかもしれない。
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 アメリカとイギリスは、ヒトラーナチス・ドイツ、ドイツ軍と戦って勝利を勝ち取る為にスターリンと手を握りソ連軍を全面的に支援し、戦後は冷戦にもかかわず国際連合常任理事国に向かい入れ「拒否権」という特権を与えた。
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 ウィキペディア
 レニングラード包囲戦レニングラードほういせん、ロシア語:Блокада Ленинграда ブラカーダ・リニングラーダ、1941年9月8日 - 1944年1月18日)は、第二次世界大戦独ソ戦における戦闘のひとつ。
 ドイツ軍はソビエト連邦第2の大都市レニングラード(現・サンクトペテルブルク)を900日近くにわたって包囲したが、レニングラードは包囲に耐え抜き、後にスターリンによって英雄都市の称号が与えられた。飢餓や砲爆撃によって、ソ連政府の発表によれば67万人、一説によれば100万人以上の市民が死亡した。これは日本本土における民間人の戦災死者数の合計(東京大空襲沖縄戦、広島・長崎を含む全て)を上回る。 この間、レニングラードの最高指導者はレニングラード党委員会第一書記の地位にあり、スターリンの後継者の有力候補の一人と目されていたジダーノフであった。

 包囲戦
 1941年の状況。ドイツ軍がラドガ湖に到達したことでレニングラードへ通じる陸上の連絡線が遮断された。

 飢餓計画
 レニングラードを包囲した北方軍集団は、まず住民の生活能力を断つため、ガス・水道・電力の供給施設、食料倉庫への砲爆撃を開始した。エストニアの飛行場から出撃したドイツ空軍が、最初の爆撃で6000発以上の焼夷弾を投下し、1000ポンドの高性能爆弾を48発投下した。給水施設と市内の全ての食料を備蓄していたバターエフ倉庫が、破壊された。バターエフ倉庫の喪失は、市内の食料事情を急激に悪化させた。9月8日、ドイツ軍参謀本部ミュンヘン栄養研究所のエルンスト・ツィーゲルマイヤー教授と会合し、市内の民間人を餓死させるにはどれだけの時間封鎖が必要なのか見積もりを求めた。レニングラードの人口、市内に備蓄された食料の量、冬の気温など、大量のデータがツィーゲルマイヤーに渡された。ツィーゲルマイヤーは封鎖を一か月続ければ、市内の食料事情は極度に悪化し、一日のパン配給量が250グラムに落ちると予測した。冬季に封鎖を継続すれば市内は飢餓状態に陥ると結論を出し、市民を市内に留めることが重要であると勧告した。ゲッベルスは自身の日記に、「レニングラードの降伏要求で悩むことはないだろう。それはほぼ科学的な方法で破壊することができる。」と記している。国防軍最高司令部は通常の占領を避け、市内の周囲にフェンスと電気ワイヤーを設置、住民の脱出を物理的に阻止し、脱出者には砲兵隊を使用することを決定した。9月中旬には覚書が完成した。「レニングラードを密閉せよ。しかる後にテロルと増大する飢餓によってそれを弱体化せよ。春に我々は市を占領し、生存者を排除してロシア内地に監禁し、レニングラードを高性能爆薬によって平らな地面にする。」 レニングラード市民への飢餓作戦は科学的な手法で計画的に実施された。ヒトラーは新たな総統訓令を発令した。「総統はペテルブルグ市を地表から削りとることを決断した。ソビエト・ロシアの敗北後は、この都市が将来に存在するための理由は跡形もなくなる。この都市を隙間もなく封鎖し、あらゆる口径の砲火と絶え間のない空爆によって、これを跡形もなく破壊すべし。たとえこれによって降伏を要請する声が出てくるようになっても、これは拒否される。この戦争においてわれわれは、たとえ一部にせよ、この大都市の人口を維持することに関心を持っていない。」 北方軍集団は大規模な包囲陣地を建設し、周囲に塹壕、監視所、射撃陣地、砲撃陣地を設置、防御拠点用のトーチカや掩蔽壕も複数建設された。包囲陣地の後方では、工兵が連絡道路と食料・物資の貯蔵地を建設し、長期的な包囲戦の準備が整えられた。レープはガッチナに司令部を置き、市内への砲撃を指揮した。ウリ―ツクとヴォロダルスキーの間の集落に、3個砲兵連隊を配置、毎日午前10時~午後7時にかけて、2時間毎に休憩を取りながら砲撃が実施された。9月末までに市内に5364発の砲弾が撃ち込まれた。脱出を図る民間人は即刻射殺が決まったが、北方軍集団司令部は民間人を近距離で射殺する兵士への心理的影響を懸念し、陣地の前方には地雷原を設置、必要な場合は砲兵隊で対処することを決定した。兵士が見ている状況下での民間人殺戮は出来るだけ避けなければならないとレープは語っている。多数の心理カウンセラーが陣地に常駐し、同時にナチイデオロギーの思想教育が強化され、劣等人種に対する同情は不要であると喧伝された。砲兵隊には兵士が近距離で民間人を射殺する事態を避けるため、市内を厳しく監視し、市内からでた早い段階で正確に処理することが求められた。これらの工夫にも関わらずドイツ軍兵士の動揺は避けられなかった。兵士の中には市内にパンを投げ込む兵士や、パンと引き換えに市内の女性に売春をせまる兵士もいた。砲兵隊の兵士も民間人を標的とする上級司令部の命令を皮肉っていた。

 飢餓の発生
 連絡線の遮断によってレニングラードへの補給はほぼ途絶した。9月2日、市民への食糧の配給が削減され、肉体労働者は1日にパン600g、労働者は400g、その他の市民と子供は300gと定められた。9月8日の空襲ではバターエフ倉庫に貯蔵してあった大量の穀類や砂糖が焼失した。9月12日には、食料の残量は以下の通りと試算された。
 穀類・小麦粉 35日分
 えん麦・粉物 30日分
 肉類・家畜 33日分
 油脂 45日分
 砂糖・菓子類 60日分
 同日、配給の再度の削減が実施され、肉体労働者は1日にパン500g、労働者と子供は300g、その他の市民は250gと定められた。陸軍とバルチック艦隊は備蓄を有していたが十分ではなかった。ラドガ湖に配備されていた河川艦隊は装備も十分ではなく、しばしばドイツ軍の空襲を受け、9月には穀物輸送船が撃沈された。輸送船は後に引き上げられ、濡れた穀物もパンを焼くのに使われた。小麦粉を使い果たした後は、セルロースや綿の実の絞りかすが食用に供された。馬の飼料用のえん麦も食用に回された。肉類も底をつき、内臓や皮革が料理された。市内のあらゆる空き地には野菜が植えられた。市内に残った赤軍の状況も深刻だった。モスクワ防衛に呼ばれたジューコフは(10月7日にモスクワ到着)、フェジュニンスキー少将を後任とした。しかしフェジュニンスキーは後任を辞退し、ホージン中将を推薦した。将官達は封鎖されたレニングラードの指揮をとることに乗り気ではなかった。ジダーノフはヴォロノフ砲兵大将に司令官就任を要請したが、ヴォロノフは国防人民委員代理の職務を理由に辞退した。やむを得ずジダーノフは、ホージン中将に話をもっていった。ホージンも第54軍の指揮を理由に、辞退したが、スタフカはホージンを正式に後任とした。ネフスキー橋頭保を守るネヴァ作戦集団は第54軍との合流を命じられたが、支援を欠いた渡河作戦はドイツ軍砲兵隊の恰好の餌食となり、一方的に殺戮された。その後も封鎖の打破を試みる、ネヴァ河での攻勢はことごとく失敗に終わり、死体の山が積み上げられた。相次ぐ敗戦と食料事情の悪化は規律を再び低下させ、市内では兵士の逃亡や盗難が相次いだ。ジダーノフもホージンもなんら有効な手をうてなかった。 9月末には石油と石炭も尽きた。唯一の燃料は倒木であった。10月8日には市の北方にある森林での木材の伐採が計画されたが、機材も作業施設もなく、10月24日までに木材伐採計画の1%が実施できたのみであった。電力供給も不足し、電力の使用は軍の司令部や地域委員会、防空拠点などを除き厳禁とされた。大部分の工場が操業を停止し、11月には全ての公共交通機関が運行を停止した。1942年の春には一部の路面電車が運行を再開したが、トロリーバスとバスは終戦まで再開しなかった。

 聖イサアク大聖堂の近くに設置された対空砲
 冬が近づく頃、飢餓による死が襲ってきた。植物学者のニコライ・ヴァヴィロフの研究スタッフの1人は、食用にすることもできた20万種の植物種子コレクションを守ろうとして餓死した。ターニャ・サヴィチェワという当時12歳の少女は、12月から翌年5月にかけてレニングラードにいた肉親全員が次々と死んでいったことを書き残している(ターニャの日記)。レニングラードの街角は死体で溢れた。やがて食料が切れた市内には飢餓地獄が訪れ、死体から人肉を食らう凄惨な状況が常態化し、人肉を含む食品を売る店まで現れた。

 命の道
 レニングラードへ食糧を輸送する氷上列車
 ドイツ軍はレニングラードの包囲をさらに強化するため、レニングラードの南東部にある鉄道の拠点のチフヴィンを攻撃し11月8日に占拠した。チフヴィンの陥落により内陸部からラドガ湖への輸送ルートが遮断され、レニングラードは危機に陥ったが赤軍は1ヶ月後にここを奪回し輸送ルートの維持に成功した。
 11月20日、ラドガ湖が結氷し、馬橇の輸送部隊が氷上を通ってレニングラードへ物資を送り届けた。その後トラックによる輸送も可能となった。氷上の連絡路は「命の道」(Дорога жизни ダローガ・ジーズニ)と呼ばれた。湖の対岸から市内へ物資が運び込まれ、市民の脱出も可能となった。命の道は1942年4月24日までの152日間利用可能であった。この間に市民51万4千人、負傷した兵士3万5千人がレニングラードから脱出し、重要な産業設備も運び出された。命の道は対空砲と戦闘機によって防衛されたが、ドイツ軍の砲撃と空襲による脅威にさらされ続け、危険は高かった。人々は皮肉を込めてこれを「死の道」と呼んだ。1942年の夏にはラドガ湖の湖底を通る長さ29kmの石油パイプライン「命の動脈」が敷設された。冬になると命の道は再開した。12月20日から馬の往来が始まり、12月24日から自動車輸送も始まった。氷上鉄道の建設も行われた。

 解放(1944年)
 封鎖を打破したとはいえ、北方軍集団は依然として強大であり、大多数の包囲陣地を維持していた。赤軍は奪還した地域の確保に全力を注ぎ、新しい補給線を急ピッチで建設して、大規模な食料を市内に送り込んだが、イスクラ作戦で確保した狭い回廊はドイツ軍の砲爆撃の標的となり、不完全ながらレニングラードの包囲は継続されていた。しかし、南方ではクルスクの戦いとその後の赤軍の攻勢の前にドイツ軍は退却を続け、ドニエプル川の西のキエフまでも赤軍に奪還されていた。赤軍は1943年9月からゴヴォロフらによりレニングラードの解放作戦の検討を進めた。作戦はオラニエンバウム(レニングラードの西側の赤軍橋頭保)、プルコヴォ(レニングラードのすぐ南)、ノブゴロド(レニングラードの南東方向、イリメニ湖のすぐ北)から開始することが決定され、作戦に備えて膨大な量の火力集積が開始された。21000門の火砲、1500以上のロケット砲、600門の対空砲が攻勢用に集められ、開戦以来最大規模の砲兵火力集積を実現させた。北方軍集団司令官キュヒラーは、赤軍の大規模攻勢を察知していた。後方の予備陣地であるパンテル・ラインに部隊を移す準備を整えたが、ヒトラーは依然としてレニングラードの攻略をあきらめていなかった。キュヒラーは占領地の人的資源が赤軍に渡ることを恐れ、民間人を強制的にパンテル・ラインへ連行した。レニングラードの完全解放、レニングラード州の奪還、北方軍集団の撃滅を目標とする解放作戦(レニングラードノヴゴロド攻勢)にはレニングラードヴォルホフ、第2バルトの3方面軍に、長距離航空艦隊とバルト艦隊が加わり、125万の兵士が参加して、イスクラ作戦から約1年後の1944年1月15日に開始された。1マイルあたりの砲配置数は320門に達し、史上空前規模の集中砲火がドイツ軍陣地に降り注いだ。2時間30分で、50万発の砲弾が撃ち込まれた。ドイツ第18軍と第16軍は壊滅的打撃を受け、北方軍集団は戦闘力を喪失して敗走した。赤軍は封鎖を完全に解放、レニングラード州全域を奪還、カリーニン州西部、エストニアまで兵を進めた。ドイツ軍はこの攻勢でレニングラードから280キロ押し返され、攻守は完全に逆転した。今度はドイツ軍が絶望的な防衛戦を強いられた。 1944年1月27日、レニングラードでは包囲からの解放を祝う祝砲が轟いた。1941年9月8日にシュリッセルブルクが陥落して包囲が始まってから872日目であった。
 西に向かった赤軍とドイツ軍の次の大きな戦いはナルヴァをめぐる攻防である。

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 日本人が悪人かどうかは、現実の日本と中国人・韓国人・朝鮮人の立ち居振る舞いや言動、約束、マナー等を比べれば一目瞭然である。
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 世界の戦争で、食料などの必要物資を現地で調達する事は常識であった。
 例外は、アメリカのように自国で充分な食料・医薬品などを補給できる軍隊は、敵地での現地調達は行わなかった。
 日本軍の現地調達を犯罪行為と非難する日本人には、歴史とくに戦史を語る資格がない。
   ・   ・   ・   
 現代日本人の能力では、悲劇の戦争や悲惨な戦争は理解できたが、地獄の戦争は理解できない。
 それに比べて、戦前の日本人は地獄の戦争を正しく理解していた。
 つまり、歴史力において、戦前の日本人は優れていたが、現代の日本人は劣っているか持っていない。
   ・   ・   ・   
 島国の日本民族日本人と大陸国の西洋系白人・中国人・朝鮮人とは、生きてきた環境が違う為に同じ人間と言っても全然違う。
   ・   ・   ・   
 日本人共産主義者テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリストと同様に昭和天皇や皇族を殺す為につけ狙っていた。
   ・   ・   ・   
 何故、共産主義者や反天皇反日的日本人が、天皇制度廃絶と皇室消滅を使命として政治活動や市民運動を熱心に進めているのか。
   ・   ・   ・   
 哲学・思想・主義主張による~イズム戦争は、宗教の信仰戦争に比べて地獄であった。
 戦争や人殺しに於いて、神が定める宗教の良心は歯止めとなるが、人が思索した哲学・思想・主義主張における道徳や倫理は歯止めにはならない。
 特に、共産主義ほど血に餓えた怖ろしい冷血・冷酷・残虐な思想はない。
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 日本民族日本は、哲学・思想・主義主張とは無縁で生きてきた為に、論理的合理的科学的な~イズム論争が理解できないどころか、ごり押し・屁理屈に聞こえて虫唾が走るほどに嫌いであった。
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 神話を信じて生きてきた日本人には、全体主義であるボルシェビキ共産主義)、ファシズム、ナチズムを正しく理解する能力はない。
 が、高学歴出身知的エリートはマルクス主義共産主義)に染まり易く、党員にならなくとも協力的になった。
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 マルクス主義で、極右にあるのがファシズム・ナチズムであり、極左にあるのがボルシェビキ共産主義)であった。
 ロシア革命において、ボルシェビキは多数派ではなく少数派であり、人民の多数派は穏健なメンシェビキであった。
 「ボルシェビキ革命は5%の支持率で成功する」、それが共産主義の5%革命論である。
 共産主義革命成功のカギは、公的暴力機関である警察と軍隊の掌握である。
 それ故に、真の共産主義者は警察と軍隊の存在に反対しない。
 事実、国会の日本国憲法審議において、日本共産党自衛戦争と軍隊存続を主張した。
 敗戦後の日本で共産主義人民革命を封じ込める為には、戦争放棄再軍備禁止は有効な手段であった。
 日本国憲法案を承認した昭和天皇は、優れたリーダーであり、逆転の発想で憲法第九条を受け入れる事で日本国と日本民族日本人を共産主義人民革命から救った。
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 共産主義体制とは、警察による「暴力・拷問」と軍隊による「死」の恐怖体制である。
 警察も軍隊も共産党の下部組織であって、人民を守る為の国家の公的機関ではない。
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 共産主義政体とは、専門党員と素人行政官の政体である。
 共産主義軍とは、党員将校が支配する民兵的軍隊であり、専門の職業軍人は党命令を実行する操り人形に過ぎない。
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