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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
中国による領土拡大の侵略は、中国人移民である。
中国の伝統的戦略は、「孫子」の戦わずして勝つ事であり、敵地の中に中国人居住区・チャイナタウンを獲得する「囲碁」である。
敵の中に、美女・美男子や利益・金で味方(売国奴・裏切り者・内通者)を作り、親中国派、媚中派、協調派、友好派、朝貢派などを増やす事であった。
中国人移民が多数派にならなくとも、親中国派・媚中派らを加えて多数派になれば主導権を握る事ができる。
少数派が主導権を握る為には、土地の私有、投票権、立候補権、官僚登用、教育決定などである。
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中国共産党政府は、国連の5大常任理事国である為に、如何なる国も、如何なる人間も、中国共産党の非人道的残虐行為を止める事はできないし、悲惨な状況にある少数民族を助ける事ができない。
中国共産党政府を、常任理事国に認めた全ての国の責任である。
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2019年7月25日 朝日新聞「世界発2019年
新疆ウイグル もう一つの民族弾圧
中国当局、カザフ族も拘束
ウイグル人族への弾圧が続く中国新疆ウイグル自治区で、同じ境遇にあると訴えている別の少数民族の人々がいる。(アルマイト=石橋亮介)
『イスラム礼拝所通った』逮捕
『私たちの話を聞いて、世界に伝えてほしい』
カザフスタン・アルマイトの人権団体『アタジュルト』の事務所を7月始めに訪ねると、居合わせた約20人が詰め寄せるように訴えてきた。
彼らは中国新疆ウイグル自治区から移住したカザフ族。
『弟が収容所に入れられた』『母が逮捕され、連絡がつかない』。拘束されたという親族の写真を手にしている。
アハルト・ハリダさん(65)は昨年、新疆に住む3人の息子が警察に突然逮捕され、刑務所に入れられたと現地の知人から聞いた。『イスラム教の礼拝所に通ったことが理由と言われてた。息子たちは過激派なんかではないのに』。息子の妻らと連絡がとれず、孫の安否もわからないと話し、涙で赤くなった目をハンカチであさえた。
中国のカザフ族はカザフスタンのカザフ人と同じ民族で、新疆に100万人以上が暮らす。カザフ語を話しイスラム教を信仰することも共通で、ソ連崩壊後に独立したカザフスタンに、仕事などを求めて数十万人が移住。国境をまたいで行き来していた。
ところが2017年ごろから、新疆で中国当局に逮捕されたり『再教育収容所』に収容されたりする例が急増した。アタジュルトによると、拘束された可能性のあるカザフ族は、相談を受けた分だけで2年間に5,000人を超える。
再教育施設 作文と豚肉強要
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『内政問題』カザフ政府弱腰
中国政府は、独自の文化や言葉を持つ少数民族は独立を求めると恐れている。弾圧の目的は民族の文化を奪い中国化すること──。拘束経験のあるカザフ族の人々は、そう受け止めている。
だがカザフスタン政府は『中国の内政問題』と距離を置く。天然資源の最大の輸出先として中国を重視、油田開発などへの中国企業の参入を推進してきた。また中国の経済圏構想『一帯一路』に参加して国内のインフラ整備に巨額の投資を期待しており、中国の機嫌を損ねたくない。
そのためカザフスタン政府はアタジュルトの活動を黙認する一方、NPOとしての認可申請は拒絶。3月には団体創設者のセリクジャン・ビヤシュ代表を『民族間の憎悪をあおった』として逮捕した。
一方で政府は1月、再教育施設に収容された2,000人以上のカザフ族を中国政府が解放、カザフスタンへの出国を認めたと公表した。国民や国際社会の反発を恐れ、水面下で中国に働きかけたとみられている。
現在アタジュルトを率いるエルボル・タウレトベク氏は『政府が本気になればアタジュルトなどすぐつぶせる。カザフ族を助ける人がいなくなるのは政府も避けたいのではないか』と話す。」
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ウィキペディア
イリ・カザフ自治州(-じちしゅう)は中華人民共和国新疆ウイグル自治区北部に位置するカザフ族の副省級自治州。グルジャ市(伊寧市)を州都とし、全国で唯一、タルバガタイ(塔城)、アルタイ(阿勒泰)の2地区を管轄する地区級行政単位である。
民族構成はカザフ族が25.5%、漢族が45.2%、ウイグル族が15.9%を占める。自治区の中心部は天山山脈とボロホロ山脈(英語版)(天山山脈の支脈)に挟まれたイリ盆地(イリ川上流部)である。
歴史[編集]
唐代には突厥旧属カルルク部の地であり、後にカラハン王朝の領土となった。 1124年、契丹貴族耶律大石がイリのカルルク部を臣服させて西遼を樹立した。 1211年カルルク部はモンゴル帝国の支配下に入り、チャガタイ・ハン国に分封された。 1677年、オイラト・モンゴルのジュンガル部が南下して新疆に入り、イリ地方をその中心とした。 1755年、清朝はジュンガル部との数十年にわたる戦いの後、イリを征服し、1762年にはイリ将軍を置いた。 イリ将軍が駐在した恵元城は新疆の政治、軍事の中心ともなった。 新中国成立後、1954年にイリ・カザフ自治州が成立。
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『中国少数民族事典』(東京堂出版 2001年)
・ カ ザ フ 族 ・
カザフ族は、旧ソ連領中央アジアの独立国カザフスタン共和国の中心的な民族であり、カザフスタン全人口1682万4825人のうち46パーセントを占めている(1999年)。中国領内では、おもに新彊ウイグル自治区のイリカザフ自治州、木塁カザフ自治県、巴里坤カザフ自治県と昌吉回族自治州などの各県に居住するほか、一部は青海省、甘粛省にも居住する。1990年の全国人口調査によれば、中国全土のカザフ族の人口は111万758人である。なお、1997年の新彊ウイグル自治区のカザフ族の人口は、127万800人である。
カザフ族は、中国では、漢王朝時代に天山山脈の北方うそんに居住していた烏孫に由来するといわれている。直接的には、15世紀に遊牧ウズベク族集団から分離して形成された集団である。当初、現在のカザフスタン東南部に位置するセミレチエ地域に居住していたが、その後、カザフ草原全域に遊牧地域を拡大させた。やがて自らの国家形成をはかり、カザフ・ハン国を創設した。しかしロシア帝国が東方に大々的に領域拡大を実現するに及び、1820年代には、その大部分がロシアの制御下に入った。現在の中国領にカザフ族が居住している歴史的背景としては、清王朝の中央アジア進出があげられよう。18世紀半ば、清王朝がモンゴル系の遊牧勢カシュンガルを平定し、天山山脈北側の地域を征服したあと、一部のカザフ族は清王朝に帰順した。これにより、カザフ族が部分的に西方のカザフ草原から清王朝治下のこの地域に移動し、浸透していったといわれる。カザフ族の居住地域は、ロシアと中国の2つの国家領域にまたがる形になったが、それ以後も、両国の間では、カザフ族同士の国境を越えた移動が行われていた。また大規模な移住も、歴史上特定の条件下で発生してきた。たとえば、スターリン時代のソ連における集団化の時期に、中華民国領への移動が見られた。逆に中華人民共和国成立後には、1962年にソ連との間で発生した、いわゆるイリ事件を契機として、数万人規模のカザフ族が、中国領からソ連領に集団越境したといわれる。この事件を契機として中ソ国境が閉鎖されたが、1980年代に入ると、改革開放政策の導入による国境路や鉄道の開通にともなって、往来が再開された。カザフ族はヒツジとウマの飼育を中心とする遊牧民族として知られ、中国のカザフ族に関していえば、現在でもかなりの部分が、とくに天山山脈およびアルタイ山脈の一帯で遊牧生活を営んでいる。彼らはモンゴル族のゲルとほぼ同型のフェルト張りのユルトと呼ばれるテントに夏の間住んでいる。ユルトには一家族が住み、この家族が7~10戸集合したものをアウルといい、伝統的に遊牧の単位となった。また、彼らの牧畜の技術は非常にすぐれており、肉と毛の両方が利用できるいわゆる新彊細毛ヒツジや、イリウマと呼ばれる名馬を生み出した。主食は季節によって異なっている。すなわち、春季から夏季にかけてはヒツジ肉が主体であるが、秋季から冬季の食料としてはウマの腸に馬肉を詰めて火燻製にしたソーセージが有名である。さらに飲料としてはクミスと呼ばれる馬乳を発酵させた低アルコール分の乳酸飲料をたいへん好む。ウイグル族の主食であるナンも一部の地域では日常的に欠かせない食べ物である。新彊ウイグル自治区の区都ウルムチ市などの都市には、都市化されたカザフ族も見られるが、人口比率からいえば少数派である。都市在住であっても、旧来の出自である部族に対する帰属意識が部分的には残存している。言語はカザフ語で、文字は、カザフスタン領内ではキリル文字を基盤とするものであるのに対し、中国領内ではアラビア文字を変形した字母が用いられている。都市のカザフ族は、漢語とのバイリンガルであることが多い。宗教はスンニー派のイスラム教である。しかし彼らは、伝統的には遊牧を専業としてきたため、モスク(イスラム教寺院)は持たなかった。〔新免〕
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中国共産党は、国内・支配地で中国化を暴力的に強行し、漢族系中国人住民を増やして地元住民を圧迫し、地元の伝統的宗教・文化・習慣・言語を消滅させつつある。
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隣国のカザフスタンは、中国共産党が進める一帯一路構想による支援を受ける為に、同族であるカザフ族への弾圧から目を逸らしている。
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現代日本には、戦後の朝鮮帰還事業で聞かされた「北朝鮮は労働者の天国」「朝鮮は極楽」と同じような宣伝文句が、「中国は素晴らしい」「中国は進んだ国である」としてまことしやかに流されている。
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