☭10」─2─日露戦争は日本にとって正しい戦争であった。アムール川虐殺事件。キシニョフ虐殺。~No.29 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 人種差別主義のロシアでは、ポグロムユダヤ人虐殺)が繰り返され、中国人に対しても差別と迫害と虐殺を行った。
 日本は、ロシア人による虐殺を目の当たりにして恐怖し、ロシアの侵略を死を賭けて撃退する事に覚悟した。
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 日本にとって、アムール川虐殺は明日の我が身であった。
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 日本人にとって、日露戦争は避けられない戦争であった。
 日本は正義であり、ロシアは悪であった。
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 戦争を否定する現代日本人は、日露戦争を否定し、話し合いで平和を守るべきだったと子供達に教えている。
 つまり、非暴力無抵抗から、戦争するくらいなら虐殺や迫害・差別を我慢して受け容れるべきだったと。
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 1899年~1901年 義和団事件で、ロシア軍やドイツ軍などの連合軍は北京で残虐行為を繰り返した。
 日本軍は、虐殺・や略奪・強姦などを行わず、逃げて来た中国人難民を保護した。
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 八カ国連合軍
 ロシア ロシアは主に旅順口区とウラジオストク港からの守備隊から構成された軍隊12400人からなる日本に次いで二番目の規模の軍隊を派遣した。
 影響
 前述の八カ国の軍隊は1900年8月14日に北京を侵略し占領した。西太后と皇帝と政府高官らは紫禁城から西安へ逃亡し、李鴻章を連合軍との和平交渉に派遣した。
 研究論文でケネス・クラークは「北京獲得の後、連合軍は首都から略奪し、彼らがヨーロッパへ帰る途中で発見した多くの中国の遺産と共に紫禁城を略奪さえした。」と述べている。
 残虐行為
 数えきれないほどの義和団だと疑われた人々が義和団の乱の最中やその後に斬首された。この出来事は短編映画の主題になった。
 アメリカの海兵隊員は、ドイツ兵とロシア兵が女性を強姦したあとで彼女たちを銃剣で突いて殺害するのを見たと記していた。
 北京では、ピエール・マリー・アルフォンス・ファビエ=デュペロン司教が、カトリック教徒が生き残るために必要最低限の生活必需品と50両以下の銀の強奪を8月18日から26日まで許可する告示をしたと言われていたが、本人はそのような告示は出していないと否定した。
 一方の義和団も残虐行為を行っていた。多くのキリスト教徒が義和団の乱の前に殺害された。義和団の乱の前や最中に殺害された正教徒の集団は中国の聖なる殉教者としてこの日に記念されている。
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 義和団の乱における死傷者数
 連合軍は上記のように多くの兵力を投入したが、日本軍の計算に依れば、全期間にわたる死者数は757名、負傷者数は2654名とされている。ちなみに最も多くの死傷者を出したのは日本であった(死者349名・負傷者933名)。また清朝義和団によって殺害された人々は宣教師や神父など教会関係者が241名(カトリック53人+プロテスタント188人)、中国人クリスチャン23000人といわれる。一方清朝義和団側の死傷者は統計としては正確性を欠かざるをえないが、上で引用したように天津城攻防戦だけで4000名ほどの遺体があったと日本軍が書いていることから考えて、一年ほどの戦争期間に多大な死傷者を出したことは容易に想像できる。
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 中国は虐殺と略奪の大陸であった。
 漢族中国人は、人種・民族の中で最も残虐な人間であった。
 日本民族日本人の敵は、漢族系中国人と朝鮮人であった。
 漢族系中国人は、日本人を虐殺していた。
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 日本民族日本人は、中国人や朝鮮人ほどの凶暴性は弱く、虐殺を怖れ、強奪は少なかったが、根っからの女好きが嵩じて女と見ると強姦し性病をうつされていた。
 日本兵による性犯罪・強姦を減らす為には、民間人経営による慰安婦慰安所が欠かせなかった。
 日本人将校は、女にだらしなく、敵の美人スパイの甘い言葉に欺され、褒められたい、認められたいとの、恋い焦がれる思いから軍事機密情報などを自慢げに話し、その結果、日本軍を窮地に追い込む事があった。
 四谷怪談や牡丹灯籠など女性の幽霊・亡霊・怨霊に怯える気の弱い日本人は、男を呪い殺す力が強い女性や子供などの弱者を殺す事に躊躇いがあった。
 日本民族日本人は、亭主関白であったが、同時に女性が恐い、カカァ天下・山の神の恐妻家でもあった。
 男性の幽霊・亡霊・怨霊は、女性に比べて少ない。
 子供は神に近い存在として、家神の座敷童であり、三途の河原で小石を積むが鬼に虐められ地蔵菩薩に助けられる哀れな水子である。
 日本の最高神は女性神天照大神伊勢神宮の祭神)である。
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 1900年 アムール川大虐殺事件。白人至上主義のロシア軍兵士は、アムール河畔ブラゴベシチェンスクを占領するや、現地のモンゴル人・満州人・中国人ら女子供に関係なく数千人を虐殺した。
 欧米列強は、同じ宗教的選民思想を共有するだけにロシア軍の残虐行為を不問に付した。
 反日朝鮮人は、夷・ロシア帝国の軍事力を利用して夷・日本を滅ぼす為に、ロシア軍を朝鮮半島に引き込もうとしていた。
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 親露派朝鮮人は、ロシア軍が勝利する為に日本軍の情報をロシア側に流していた。
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 大韓帝国は、自主独立国として国際法に則って中立を宣言したが、日本が負ける事を期待して極秘に日本軍の軍事情報をロシア軍に伝えていた。
 古代から。朝鮮は、国益の為に、日本の極秘情報を中国などの反日国家に流していた。
 日本にとって、朝鮮が親日として味方につけばよし、反日として敵側に協力するのであれば、国益を守る為にも何らかの処分を加える必要があった。
 清国は、日清戦争の復讐として、ロシア帝国との間で対日秘密軍事条約を締結した。
 もし。日本軍がロシア軍に敗北すれば、清国軍は敗走する日本軍を殲滅する予定であった。
 中国は、にこやかに微笑みながら友好を口にするが、本心は日本の滅亡のみである。
 それは、古代から一貫して変わらない対日戦略である。
 何故か。それは、中華皇帝との対等を許さないという儒教的「面子」である。
 儒教は、神の裔・天皇の存在を「面子」ゆえにけっして認めない。
 ホーチミン(本名・阮愛国)は、「虎(フランス)をやっつける為に狼(日本)に噛み付かれにいく」として日本行く事を拒否して、フランスの植民地官吏大学院に入学するべく願書を提出した。
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 ロシア帝国の真の狙いは、江戸時代から対馬と北海道の領有であった。
 現代日本反戦平和団体が望む、話し合いによる戦争回避の手段とは、対馬アイヌ人の土地である北海道の放棄しかなかった。
 一部の日本人は、如何なる戦争も避ける為ならば、タイ方式の平和もやむなしと主張している。
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 この時、アイヌ人だ日本人の支配から独立する為にロシア帝国に支援を要請したら、ロシア帝国は喜んで軍隊を派遣したであろう。
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 軍国日本は、援軍を送ってくれる友好国を持っていなかっただけに、一国でロシア帝国と戦う為に軍国主義諸政策を進めた。
 天皇制度国家日本は、世界から非難される侵略戦争を行う軍国主義国家となった。
 日本が戦ったのは自衛の為であって、中国を分割消滅から救う為ではないし、朝鮮をロシア帝国の領土にされる事から救う為ではかった。
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 ウィッテ「ロシア軍による満州占領以来、あの地方は実際上ロシアの保護領となった。統治は現実にロシアの手中にある、ロシアは問題となっている一切の事実と特権に関する優先を獲得した。……戦勝の場合、日本への平和条件は満州及び朝鮮の併合の問題の他に、日本から永久に戦闘力を奪わなければならない、太平洋沿岸における優越は保障されなければならないとの見解で一致している。それは日本に対する艦隊保有禁止であり、さらに黄海における優越を維持する為に旅順に加えて、鴨緑江の江口の龍岩浦に築城し前哨を確保し、さらに朝鮮海峡を制する事が必要となるであろう。また、敗北した日本から充分な賠償金を得る事は事実上不可能であり、韓国が経済上無価値な事を考慮すれば、この戦争から得るべきロシアの唯一の具体的な補償は、満州の併合であるかに思われる」
 ロシア帝国は、満州と朝鮮を併合し、日本から自由を奪い主権なき無防備な衛星国にす事を考えていた。同時に、イギリスに対して、北海道と対馬の領有と本州の太平洋沿岸に軍港要塞要地の租借等を打診したという情報があったという。
 スプリング・ライス駐露イギリス大使館参事「ロシアの要求は過大となり東北清国及び韓国の事実上の併合、北京をその保護下に置いて清国政府を一歩一歩ロシアの手中に収めるであろう。また勝利に終わるならば、1.満州をロシアの手中に収め、2.鴨緑江沿いの築城と東朝鮮における築城、3.日本に対する海軍保有禁止、4.朝鮮、満州からの日本の排除を、ロシアは日本に要求するであろう」(セオドア・ルーズベルトへの電報)
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 ロシア帝国は、ウラジオストク軍港を強化する為に、フランスのパリ・ロスチャイルド家の財政支援を得てシベリア鉄道の建設を急いだ。その時間稼ぎの為に、日本の関心をフィリピンに向けるべく親露派日本人を利用した。
 ユダヤ人の多くは、ユダヤ人を弾圧するロシア帝国を憎み、ユダヤ人を助ける明治天皇と神国日本を支援した。
 清国・中国は、第一次露清秘密軍事条約を結び、日本から返還された遼東半島の旅順と大連を対日戦の軍事基地に利用する事を認めた。第二次露清秘密条約で、長城以北の満州内モンゴルのロシア保護領化を認めた。
 ロシア軍は、日本領対馬と北海道を軍事占領し領土化する為に、サハリンの軍事基地強化と朝鮮への影響力増加に力を入れた。
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 イギリスは、ボーア戦争で国費を使い新たな戦争を起こすゆとりがなかった。やむなく、ロシア帝国の南下から中国にある利権を守る為に、日本の軍事力を利用するべく同盟を組んだ。
 全ての軍事専門家は、アジアの小国日本はロシア帝国に敗北すると分析していた。
 当然。イギリスも、軍事力の脆弱な日本が巨大な軍事力を持つロシア帝国の南下を食い止めるとは本気で考えていなかった。
 イギリスの真意は、ロシアが勝てば、中国の利権を守る為に日本の一部をロシアに割譲させる腹づもりであった。
 日本は、戦費調達の為にイギリスに財政支援を要請したが断られた。
 日英同盟とは、イギリスが表面的に日本に支援の手を差し伸べたように見せかけたポーズに過ぎなかった。
 時代は、善意もなく、信義もない、弱肉強食の帝国主義時代である。
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 ロシア帝国が欲しいのは、アジアと太平洋に出る不凍港である。日本の北海道か東北の一部が領土隣るのであれば、イギリスを敵にしてまで中国の利権に拘る必要は無かった。
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 フランスは、植民地・仏印での独立運動を恐れ、日本を敗北させるためにフランス帝国を支援した。
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 ドイツ帝国は、ロシア帝国の軍事力を利用して、華北に植民地を拡大する為にロシア帝国を支援した。
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 アメリカは、日本の関心をフィリピンから満州に向けさせるべく日本を支援した。
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 朝鮮は、反日抵抗運動から、ロシア帝国の日本征服に協力し、国内に軍事基地を置く事に同意した。
 日本を欺く為に、局外中立を宣言した。
 朝鮮人の言う事には、信義はなかった。
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 清国・中国と朝鮮は、200万人以上の総兵力を持つロシア帝国を利用して、約20万人の総兵力しかない軍国主義国家日本を消滅させようとしていた。
 清国は、日本への復讐船の為に、ロシア帝国と秘密の軍事協定を結んでいた。
 ロシア軍が日本軍を撃退して日本領に上陸すれば、日本領の一部を手に入れる為に日本討伐の出兵を行うつもりであった。
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 アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ帝国は、自国の国家戦略から、日本とロシア帝国の全面戦争を煽っていた。
 欧米列強は、非白人にして非キリスト教徒の日本が想定以上の勝ちすぎを警戒していた。
 人種差別主義である黄禍論の国際世論は、ロシア帝国の圧勝を予想していた。
 インドシナ半島民族主義者は、独立運動を勝利する為に優秀な青年達を日本に留学させた。東南アジアの人々にとって、欧米列強に抵抗する日本は希望の星であり、キリスト教白人と戦う日本人は憧れであった。
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 ロシア軍は、朝鮮から日本を追放する為に、大軍をシベリアから満州にかけて展開して日本に軍事的圧力をかけた。
 ロシア海軍は、ウラジオストク軍港と旅順要塞軍港をつなぐ航路を確保する為に、朝鮮海峡に面した良港を軍港として利用する権利を要求した。その真の目的は、日本海の完全支配であった。
 ロシア帝国のアジア戦略は、カムチャッカ半島・サハリン・沿海州満州・朝鮮を防衛ラインとしていた。そして、太平洋と東シナ海への航路を軍事力で奪い確保する事であった。
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 日本は、ロシア軍が北海道に侵攻して軍事占領する事と、清国で拝外思想で義和団の様な内乱が再燃する事を恐れた。
 日本軍部は、ロシア帝国の軍事圧力を日本から遠ざけるべく、朝鮮を支配し、満州で戦争を行う事を決断した。それが、日露戦争であった。
 中程度国家日本には、アジアで味方してくれる国は一ヵ国も無かく、援軍を得られず孤独であった。
 多勢に無勢で戦って勝つという自信がなかったが、一時の平和の為に話し合いで戦争を回避するという意思はなかった。
 ロシア帝国が、日本海を支配するべく、北海道の領有と津軽海峡の自由な航行及び対馬の領有と対馬海峡の自由な航行を望んでいる以上は、平和の為に話し合っても無意味である事はわかっていた。
 いずれにせよ、生きるか死ぬかの瀬戸際に追い詰められた軍国日本には、世界を敵に回し、国際社会で孤立化しても、一か八かの侵略戦争を発動するしか選択肢がなかった。
 東京日日新聞(1903年6月24日)「満州を手に入れたロシアの次の目標は朝鮮であり、もし朝鮮が取られたならば、次は日本である」
 日本軍部は、北の脅威であるロシア帝国及びソ連の軍事力を後退させる為に、朝鮮を併合し、満州に傀儡国家を樹立して、そこを軍事基地としてシベリアを脅かすことであった。
 但し、国力及び軍事力差から、積極的(攻撃型)防衛は口先だけで消極的(専守型)防衛に徹した。
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 日本国内には、キリスト教ロシア帝国と戦う事に反対する反戦平和主義者いた。
 彼らは、日本がロシア帝国の植民地となるか領土となっても、戦争だけはするべきではないと確信していた。
 現代の日本でも、日本がどうなっても構ず、非戦のみを貫くべきだと信ずる日本人がいる。
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 1903年4月6日 ロシア人は、人種差別差主義者として、ベッサラビアキシニョフにおいてユダヤ人虐殺を行った。
 ロシア人達は、ユダヤ人47人から49人を虐殺し、92人に重軽傷を負わせた。
 殺害対象は、女子供に関係なく、ユダヤ人であれば容赦しなかった。
 ロシアに於けるユダヤ人虐殺は、1906年まで全土で行われた。 
 ロシアにおけるユダヤ人弾圧を、ポグロムという。
 日本は、ユダヤ人に同情した。
 明治天皇は、反ユダヤ主義者ではなかった。
 昭和天皇も、反ユダヤではなく親ユダヤであった。
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 キシニョフ事件 (1903)
 セオドア・ルーズベルトアメリカ大統領がロシア皇帝ニコライ2世ユダヤ人弾圧の停止を要請するカートゥーン(1904)
 1903年2月、ユダヤ人が住民の半数を占めるベッサラビアキシニョフでの少年殺害事件はユダヤ人が犯人とされ、クルーシェヴァンの地方新聞は反ユダヤ報道を続けた。キシニョフユダヤ人への復讐を宣言する「真のキリスト教徒労働者党」が結成され、「キリスト教徒の血を吸うユダヤ人が、民衆を反皇帝運動に扇動している」と主張した。復活祭の日曜日の1903年4月6日、ポグロムが発生した。死者は49人、負傷者数は500人、町の3分の1が破壊された。軍が暴徒を鎮圧したのは翌日の夕方であった。
 このキシニョフ事件に対して欧米諸国は非難し、ロシア語の「ポグロム」が広く認知された。ウルーソフ公爵は、当時のロシア警察、官吏にとって反ユダヤは義務と捉えられていたとし、一方で、ロシア民衆にユダヤ人への敵意は見られないと回想している。同1903年ドゥボサリーで儀式殺人事件が起こった。
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 アムール川黒龍江)事件
 中国東北部とロシア極東部の国境地図。ブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)の南にある赤い色の地域が「江東六十四屯」
 1900年(明治33年)、義和団の乱(中国側の呼称:庚子拳乱)が発生した際、義和団員の一部が黒龍江対岸のブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)(現ロシア・アムール州州都)を占領した。かねてから満洲全域への進出を計画していたロシアは、義和団と列強とを相手にしている清国側は満洲情勢に関わる余裕がないと考えた。
 そこで、1900年7月13日、ロシアの軍艦ミハイル (Михаил) 号は河上より銃撃を開始し戦端が開かれた。7月16日のブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)事件でコサック兵が混住する清国人約3,000名を同地から排除するために虐殺して奪還。さらに8月2日から3日にかけての黒龍江・璦琿事件では、義和団に対する報復として派兵されたロシア兵約2,000名が黒河鎮に渡河上陸し、清国人を虐殺。その結果、この時期に清国人約二万五千名がロシア兵に虐殺されてアムール川に投げ捨てられ、遺体が筏のように川を下って行ったという。
 これらの事件によって江東六十四屯から清国人居留民は一掃され、清の支配は失われることとなる。
 これらの事件と、これに続くロシアの東三省占領は、三国干渉以来高まっていた日本での対ロシア警戒感を一層高めることとなった。アムール川から南下の機会を狙うのは、世界最大のロシア陸軍。日本の世論は緊張し、反ロシア大集会が日本各地で開かれるに至った。ロシアは次に朝鮮を蹂躙して日本へ侵略してくるに違いない、というのが世論の見方であった。江東六十四屯の崩壊は『アムール川の流血や』という題名の旧制第一高等学校の寮歌にも歌われることとなった。
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 アムール川の流血や(アムールがわのりゅうけつや)は、旧制第一高等学校(一高)の寮歌のひとつで、1901年(明治34年)に制作された。正式名称は「第11回紀念祭東寮寮歌」だが、冒頭の歌詞の一節から取られたタイトルで知られている。「嗚呼玉杯」とともに、一高の寮歌として広く知られた。
 作詞は塩田環。作曲は栗林宇一とされ、作詞・作曲とも生徒の手で行われたとする点でも最初期の寮歌と言われてきたが、曲の原型は永井建子作曲の軍歌「小楠公」に求められる。同様の旋律で歌う歌には、軍歌「歩兵の本領」、労働歌「聞け万国の労働者」などがある。一高内では本曲の旋律を用いて「征露歌 (ウラルの彼方)」が制作された。
 内容
 1901年(明治34年)、一高東寮第十一回紀念祭寮歌として作成披露された。作詞の塩田環は同学だった鳩山一郎の友人だった。曲は、栗林宇一が軍歌など既存の複数の曲を組み合わせたものである。栗林本人も「原曲」がある趣旨の発言を行っていた[1]。
義和団の乱のさなか、ロシア軍が、ロシア領内の中国人居留地江東六十四屯を襲撃した事件を描いている。
 日露戦争前の極東地域の不穏な情勢や「これからは日本が清に代わっていく」という感情を感じさせる。
 一、
 アムール川の流血や
 凍りて恨み結びけん
 二十世紀の東洋は
 怪雲空にはびこりつ
 二、
 コサック兵の剣戟(けんげき)や
 怒りて光ちらしけん
 二十世紀の東洋は
 荒波海に立ちさわぐ
 三、
 満清(まんしん)すでに力つき
 末は魯縞(ろこう)も穿(うが)ち得で
 仰ぐはひとり日東(にっとう)の
 名もかんばしき秋津島
 四、
 桜の匂い衰えて
 皮相の風の吹きすさび
 清き流れをけがしつつ
 沈滞ここに幾春秋
 五、
 向が丘の健男児
 虚声偽涙(きょせいぎるい)をよそにして
 照る日の影を仰ぎつつ
 自治寮たてて十一年
 六、
 世紀新たに来れども
 北京の空は山嵐
 さらば兜の緒をしめて
 自治の本領あらわさん
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 征露歌(ウラルの彼方)
 1904年(明治37年)2月11日、日露開戦直後一高にて行われた紀元節奉祝集会に於て「征露歌」として披露された。「アムール川の流血や」の様に通例行事の紀念祭に合わせて作成された物ではなく、日露開戦に向けた学生に依る戦意発揚の為に作成されたと見るべき歌である。
 翌三月に挙行された通例行事の紀念祭(一高第十四回紀念祭)に於ても、数多くの「露西亜征討の歌」が作成された。
 作詞は青木得三。
 曲は「アムール川の流血や」と同じ。
 一、
 ウラルの彼方風荒れて
 東に翔ける鷲一羽
 渺々遠きシベリアも
 はや時の間に飛び過ぎて
 二、
 明治三十七の年
 黒雲乱れ月暗き
 鶏林の北滿洲に
 声物凄く叫ぶなり
 三、
 嗚呼絶東の君子国
 蒼浪浸す一孤島
 銀雪高し芙蓉峰
 紅英清し芳野山
 四、
 これ時宗の生れし地
 これ秀吉の生れし地
 一千の児が父祖の国
 光栄しるき日本国
 五、
 荒鷲今や南下しつ
 八道の山後に見て
 大和島根を衝かむとす
 金色の民鉾取れや
 六、
 十年の昔丈夫が
 血汐に染めし遼東の
 山河欺き奪いてし
 嗚呼その恨み忘れんや
 七、
 北洲の北熊吼ゆる
 薩哈嗹(サガレン)島これ昔
 我神洲の領なるを
 奪い去りしも亦彼ぞ
 八、
 西暦一千九百年
 恨は長きアムールや
 魯人の暴に清の民
 罪なく逝けり数五千
 九、
 いふ勿れ唯清人
 金色の民彼も亦
 嗚呼怨なり残虐の
 蛮族いかで赦すべき
 十、
 玉なす御手に剣取り
 華顔潮に湿して
 高麗半島を懲めにし
 神功皇后君見ずや
 十一、
 海を蔽いて寄せ来る
 敵艦四千 鎮西の
 蒼溟深く沈めたる
 彼時宗を君見ずや
 十二、
 明朝鮮を伐ちとりて
 鳳輦遠く迢遙と
 唐の都に謀りたる
 彼秀吉を君見ずや
 十三、
 時宗の裔鉾取れや
 秀吉の裔太刀佩けや
 恨尽きせぬ蛮族を
 屠り尽さむ時至る
 十四、
 貔貅たちまち海を越え
 旅順ダルニー蛮族の
 血汐に洗い遼東の
 山河再び手に収め
 十五、
 朝日・敷島艨艟の
 精を尽して波を蹴り
 ロシア艦隊葬りて
 翠波収まる日本海
 十六、
 砲火に焼かん浦塩
 屍を積まん哈爾浜府
 シベリア深く攻入らば
 魯人も遂になすなけむ
 十七、
 斯くて揚らむ我が国威
 斯くて晴れなむ彼の恨
 金色の民鉾取れや
 大和民族太刀佩けや
 十八、
 嗚呼絶東の君子国
 富士の高嶺の白雪や
 芳野の春の桜花
 光示さむ時至る
 十九、
 忍ぶに堪へぬ遼東や
 亦薩哈嗹やアムールや
 嗚呼残虐の蛮族に
 怨返さん時至る
 二十、
 金色の民いざやいざ
 大和民族いざやいざ
 戦はんかな時期至る
 戦はんかな時期至る
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🦟16」─1─南西太平洋の中央部・オセアニア。日米豪がフィジー軍支援で連携。〜No.43No.44No.45・ 

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 2019年7月13日22:25 産経新聞「日米豪がフィジー軍支援で連携 攻勢の中国に巻き返し
 政府が自衛隊の他国軍への能力構築支援(キャパシティ・ビルディング)をフィジーに拡大し、太平洋島嶼(とうしょ)国の軍支援で米国、オーストラリアとの3カ国連携が初めて実現することが13日、分かった。島嶼国では中国が経済支援と合わせ軍事的な影響力を高め、有事で米豪連携阻止を図る。多額の支援を受けてきたフィジーは中国の軍事拠点になりかねず、日米豪の安全保障協力で巻き返しを狙う。
 能力構築支援は自衛官らを派遣したり支援対象国の実務者を招いたりして他国軍の能力を向上させる。支援対象国と国際安保環境の安定化に貢献し、日本の信頼性も高める意義がある。
 太平洋島嶼国は14カ国あり、自衛隊の能力構築支援の対象となる軍を保有するのはフィジーパプアニューギニア、トンガ。自衛隊パプアニューギニアの軍楽隊育成などを支援し、昨秋にはフィジー軍に短期研修を行ったこともあるが、新たにフィジーに対する本格的な支援に乗り出す。
 フィジー津波やサイクロンに伴う洪水といった災害を受けやすく、2016年にはサイクロンで人口の6割にあたる約54万人が被災した。それを踏まえ、自衛隊の能力構築支援は災害救援分野から始める。
 災害救援ではまず医療から着手し、今年度中にフィジー軍の関係者を都内にある陸上自衛隊衛生学校や自衛隊中央病院に招き、自衛隊医療関係者の育成や教育訓練の内容、装備の運用方法を教える。その後、道路復旧などの施設分野にも支援を拡大する見通しだ。
 フィジーに対しては豪軍がフィジー軍の医療施設建設を支援しており、米軍も医療・衛生の装備品をフィジー軍に供与する。こうしたハード面の支援に自衛隊のソフト面の能力構築支援が加わることで日米豪の連携が実現する。
 能力構築支援は他国との安保協力の柱として重要性が増している。政府は昨年末に策定した新たな「防衛計画の大綱」で米豪両国との関係強化について能力構築支援での協力推進を柱に掲げ、フィジーへの支援はその方針を実行に移す措置と位置づけられる。
  ◇
 ■能力構築支援 自衛隊は平成24年度から始め、東南アジアを中心に15カ国・1機関へ実施。災害派遣や国連平和維持活動(PKO)で蓄積した能力を活用できる災害救援や施設分野が多い。日米豪が連携した支援はベトナムやフィリピンなどで行っている。」
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 7月13日22:31 産経新聞「省庁横断「インド太平洋使節団」が推進 日米豪のフィジー支援
 太平洋島嶼(とうしょ)国の軍支援で日本、米国、オーストラリアの3カ国連携が初めて行われることが13日、判明した。「自由で開かれたインド太平洋」を推進する日米両国に加え豪州と、巨大経済圏構想「一帯一路」を掲げる中国が影響力を争う最前線。フィジーへの安全保障協力は政府内で「インド太平洋使節団」と呼ばれる一行が道筋をつけた。
 使節団は薗浦健太郎首相補佐官が率い、6月5~7日、外務、経済産業、国土交通、防衛の4省と海上保安庁日本貿易振興機構(JETRO)が同行し、フィジーを訪問。使節団が有効なのは、協力案件を持ち帰って検討するのではなく「安保と経済の両面でその場で内容を詰められる」(薗浦氏)ことにある。
 日本政府が提唱するインド太平洋構想は(1)法の支配、航行の自由、自由貿易(2)経済的繁栄(3)平和と安定の確保-が3本柱だ。各国に働きかけるには省庁横断の取り組みが求められる。
 (3)の平和と安定の確保に向けては能力構築支援と災害救援での協力を打ち出しており、フィジーでの支援は合致する。海保の海上法執行能力の支援や貿易と投資の促進でも意見を交わし、使節団はフィジーで構想の3本柱を網羅した。
 昨年9月のオマーンから始まった使節団訪問は今年に入り太平洋島嶼国を重視し、5カ国を回った。政府高官はその意図を「中国をにらんだ外交安保上の重点国を集中的に支援する必要がある」と説明する。
 豪州と同国ダーウィンに米軍拠点を置く米国は中国が太平洋島嶼国を取り込むことに懸念を強めている。島嶼国に中国の軍事拠点が築かれれば海軍の太平洋進出の脅威は高まり、南シナ海有事などで米豪連携が阻まれる恐れもあるためだ。
 実際、フィジーパプアニューギニア、バヌアツなどでは中国の軍事拠点化の布石が指摘されている。薗浦氏は米豪とも密に協議しており、中国の攻勢に歯止めをかけるには日米豪がそれぞれの特性と強みを効果的に太平洋島嶼国へ投じていくことが欠かせない。(半沢尚久)
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🐖19」─2─アジアインフラ投資銀行(AIIB)に参加承認の国・地域が100。〜No.124No.125No.126 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2019年7月13日 22:11 産経新聞「参加承認の国・地域が100に アジア投資銀、影響力拡大
 アジアインフラ投資銀行(AIIB)の看板=2016年1月、北京(共同)
 中国が主導する国際金融機関のアジアインフラ投資銀行(AIIB)は13日、加盟を認めた国・地域が100に達したと発表した。アフリカのベナンジブチルワンダの参加を承認した。引き続き、アジア地域以外での影響力強化を狙う。
 AIIBはルクセンブルクで、アジア以外では初となる年次総会を13日まで開催。欧州や中東、アフリカの国・地域との協力拡大を目指した。12日には、ユーロ圏の金融安定網「欧州安定メカニズム(ESM)」と連携を進める覚書を結んだ。(共同)」
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🔯54」─1─マキアヴェッリ『君主論』。西洋の国王・皇帝・教皇、中華皇帝、日本天皇。~No.190 

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 2019年7月18日号 週刊文春「文春図書館 名著のツボ 石井千湖
 マキアヴェッリ君主論
 第六章が最重要。世襲君主と市民の連合のために〈政教分離〉を唱えた
 マキアヴェッリの『君主論』は近代政治学の古典として名高い。〈愛されるよりも恐れられよ〉といった警句の詰まった政治術、経営術を学ぶ書として現代でも読み継がれている。しかし、イタリア文学者の原基晶さんは『警句は枝葉末節で、それを味わっていても「君主論」の本質は理解できません』と語る。『16世紀初頭に書かれた「君主論」は、14世紀初頭にダンテが「神曲」で取り組んだ問題を受け継いでいます。どうすれば戦争を終わらせて、平和を実現できるか』
 マキアヴェッリフィレンツェ共和国の外交官だったが、1512年、フランスとスペインがイタリア諸国間の紛争に介入して勃発したイタリア戦争のさなかに失脚し、翌年『君主論』を書き始める。その核心は、第6章から第11章にある、と原さんは指摘する。
 『ダンテが唱えた〈皇帝〉は非現実的だと考えたマキアヴェッリが平和実現のために提案したのは、ある領域を支配する世襲君主による政治権力が市民の支持を受けて、軍事力を独占し、内乱のない安定した国家を樹立することでした。このような政体は今なら〈主権国家〉と呼ばれるでしょう。現代だと当たり前に思われるかもしれませんが、マキアヴェッリの時代には、そうではありませんでした。当時は教皇と大銀行と傭兵を擁する政治権力が結託して、経済力を蓄える一方、政治権力や宗教的権威、軍事力の所在がバラバラで統一されていなかったため、西欧の政治情勢は極めて不安定で、戦争が絶えませんでした。その元凶は教皇です。教皇は絶大な宗教的権威と大銀行と手を組んで築いた経済力を持っていましたが、極めて脆弱な軍事力しか持っていなかった。教皇は西洋の諸国家に支配のお墨付きを与える代わりに軍事力(傭兵)を提供してもらっていました。この歪(いびつ)な権力がイタリアに混乱をもたらしていたのです。そのことを見抜いたマキアヴェッリは、教皇・大銀行・傭兵勢力に対抗できる世襲君主と市民の連合による〈主権国家〉を実現するために何よりもまず教皇勢力を世俗から排除することを唱えました。これが〈政教分離〉です。そのために書かれたのが第6章なんです。第7章から第11章は、〈政教分離〉後の世界で望ましい政体を論じています』
 第6章は、新しい君主国を建てた偉大な先人としてモーゼ、キュロス、ロムルス、テーセウスの名前を挙げられている。
 『この章が「君主論」で最も重要です。当時の歴史認識では、ユダヤ民族を率いてエジプトから脱出させたモーゼの行いは、すべて神の意思によるものだとされ、それゆえにモーゼは正しく、成功したとされていました。この論法で自らの行動を正当化していたのが教皇です。教皇は神の意志を体現しているがゆえに常に正義であり勝利する。ところがマキアヴェッリはkの歴史認識に抗して、モーゼはユダヤ民族の軍事司令官であり〈自己の軍備と力量〉によって新しい国と政治体制を勝ちとった書きました。これは〈革命的〉でした。なぜなら、モーゼの成功と勝利の理由を単に彼が優れた指導者であり、運に恵まれていたからだとしたからです。マキアヴェッリはこうして地上を自由意志を持つ個人が衝突する場所にしたのです』」
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 大陸の王侯は、軍隊と奴隷を持ち、高い城壁と深く広い濠に守られた宮殿で生活していた。っていた。
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 中華皇帝は、軍隊と家庭奴隷を持ち、高い城壁と深く広い濠に守られた王宮で生活していた。っていた。
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 日本天皇は、軍隊も奴隷も持っていなかったし、住まいの御所には濠はなく飛び越え可能な低い塀しかなかった。
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 大陸の王侯や中華皇帝に求められたは、カリスマとリーダーシップであった。
 日本の天皇に求められたのは、カリスマだけでリーダーシップは必要なかった。
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 日本の天皇・皇族・皇室を守った尊王派・勤皇派は、下級武士、貧しい庶民(百姓や町人)、卑しい芸能の民(歌舞伎役者・曲芸師・軽業師ら)、差別された賤民(非人・穢多・河乞食ら)、軽蔑された部落民(山の民・川の民・海の民ら)ら、下層民達であった。
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 大陸では、他国の人間でも即位できた為に、王朝は変わっても王家は途絶える事なく続いた。イギリス国王はイギリス人ではない。
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 中華では、200年~300年周期で易姓革命が起き、戦乱で王朝は打倒され、王家と忠臣は虐殺された。
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 日本天皇が持っていた権威とは「菊の御威光」であって、軍事力を持った政治権力や経済力の宗教権威は持っていなかった。
 天皇の「菊の御威光」は、空気のように掴み所のない虚像であって、破壊できる実像ではなかった。
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 日本では、日本民族の中で特殊な血筋・血統を正統継承とする特別な一家系による世襲万世一系男系天皇・皇室が、途絶える事なく2000年近く守られてきた。
 日本天皇制度は、血筋・血統を正統とする世襲万世一系男系天皇を守る為に女性天皇を即位させても女系を臣下に落として皇室から排除した。
 日本天皇制度における正統性は、特殊な血筋・血統であって、人である事の皇統ではない。
 人としての皇統を正当とするならば、開かれた王家である西洋と同じように、天皇に即位するのは日本民族日本人に限る必要なない。
 つまり、皇統が憲法・法律を正当性とするなら、天皇ローマ皇帝のように、中国人でも、韓国人でも、アメリカ人でも、ユダヤ人でも、それこそアフリカ人でも人であれば即位する資格がある。
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 中華皇帝の忠実な臣下であり下僕であった、朝鮮の歴代国王を世界史レベルで論ずる意味はない。
 何故なら、世界史・大陸史はおろか東アジア史・極東アジア史に主体的に関与した事がないから、存在感さえない。
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🔯11」─1─21万年前にヨーロッパに移住した西洋系白人の祖先。人の幸福とは?~No.35 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 人とは、普遍宗教が言うような、全知全能の絶対神が自分に似せて塵芥を集めて作り命を吹き込んだ「泥人形」ではない。
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 人類の誕生と進化は、当然でもなく必然でもなく、たまたまの偶然と幸運に過ぎない。
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 人類は、アフリカで生まれたアフリカ人である。
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 メギンソン「生き残ることができるのは最も強い者でも最も賢い者でもない。変化に対応できる者だ」
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 2019年7月11日 朝日新聞「21万年前 ギリシャホモ・サピエンス
 アフリカ大陸出た時期 見直しも
 ギリシャで見つかった頭骨(とうこつ)化石が約21万年前のホモ・サピエンスのものだったと、同国やドイツの研究チームが11日、英科学誌ネイチャーで発表する。年代が正しければ、ユーラシア大陸における最古のホモ・サピエンスとなり、初期の現生人類がアフリカ大陸を出た時期の見直しにつながる可能性がある。
 この頭骨は後頭部のみ。ギリシャ南部にあるアピディマ洞窟の調査で、1970年代後半に見つかった。チームが今回、改めて調べると、約21万年前のものとみられ、ネアンデルタール人ではなく現代人に通じる丸みある形などの特徴を持つと考えられた。
 現生人類のホモ・サピエンスは約25万~30万年前にアフリカで誕生後、世界に拡散したと考えられている。アフリカを出てユーラシア大陸に移った時期については、5万~6万年前くらい前との説が有力だが、それに先立つ15万~20万年前にも第一波があったとの見方もある。
 特徴的な顔面部がない頭骨をどう評価するかは簡単ではないが、チームは『従来考えられていたより古い時代に、さらに遠くまで現生人類がアフリカから出ていたことになる』と結論づけている。(米山正寛)」
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 エピクロス
 「自然研究に神話を入れるな」
 「神話だけは遠ざけるべきである」
 「神は人の祈りを聴かない」
 「夢は預言にならない」
 「万物は偶然であつても問題ない。万物は必然だという人は、偶然だという人がいるのも必然になってしまうからだ。第一必然は悪だ」
 「善悪は結果の見通しだ」
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 ネアンデルタール人は、血縁による核家族共同体で生活していた。
 ホモ・サピエンス(現生人類)は、宗教による地域集団共同体で生活していた。
 核家族で生活していたネアンデルタール人は、家族内で子供が生まれなくなって絶滅した。
 ホモ・サピエンスと乱婚し混血化したネアンデルタール人は、宗教的地域集団共同体の中に吸収されて自然消滅した。
 ネアンデルタール人の絶滅は、ホモ・サピエンスに皆殺しにされたわけではなく、共同体における生き方の違いが原因であった。
 ネアンデルタール人にせよ、ホモ・サピエンスにせよ、オス・メスの間には愛もなければ恋もなかった。
 血縁による共同体でも、宗教的地域集団共同体は生き残り、核家族共同体は死滅する。
   ・   ・   ・   
 自然環境において生物が子供を産み育てるのは、愛情からではない、ただ単に優秀な子孫を残す為である。
 自然に生きるとは、そういう事である。
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 2019年7月18日号 週刊文春「臆病者のための楽しい人生100年計画
 12 性愛編 結婚と妊娠はなぜ悩ましい?
 ……
 そもそも幸福とは?
 ……
 ここで、『そもそも幸福とは何か?』を問うひとがいるにちがいない。その答えはシンプルにシンプルで、『進化の過程で幸福と感じるようプログラムされたもの』になる。現代の進化論では、喜びや悲しみ、怒りなどの感情はすべて、遺伝子の複製を最大化するための『設計』だと考える。
 愛されることが幸福でなかったり、セックスで快感を感じなかったりする個体は子どもをつくらなくないから、そのような遺伝子は淘汰されて消えていくはずだ。ここまではわかりやすい理屈だが、進化論では現代社会の制度を正当化することはできない。
 『結婚』の制度が成立したのはせいぜい1万年ほど前の農業革命までしか遡れないから、進化とはなんの関係もない。『一夫一妻制』も同じで、すくなくともヒトは、結婚すれば末永く幸せになるように『設計』されていない。
 子どもが生まれれば、母親は強い愛着を、父親もそれなりの愛情を持つようにヒトが『設計』されていることは間違いない。しかし、避妊法のない旧石器時代には、『子どもが欲しい』という欲望を持つ必要はなかった。男と女がセックスしれば自然に子どもは生まれたのだ。
 だがさまざま避妊の手段が登場した現代では、私たちは子どもを産むかどうかを選択しなくてはならなくなった。そのとき、自分のこころに問いかけてもそこに答えはない。なぜなら、そのように『設計』されていないから。
 さらに最近では、子どもを持つリスクを思い知らされるような事件が立て続けに起きている。若い男女がますますどうしたらいいかわからなくなるのも無理はないだろう」
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☭29」─3─強奪された日本領土北方4島の帰属。~No.101No.102No.103No.104 ㉕ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 4万年前 日本民族日本人の原始である南方系海洋民は、台湾から沖縄を経て九州に上陸して日本全国に住みついた。
 3万年前~2万前 日本列島に縄文人が出現した。
 2万8000年前~1万5000年前 最終氷期の最寒冷期に大規模な海面が低下し、対馬海峡間宮海峡宗谷海峡を経て人や動物が移動した。    
 北海道に住みついた縄文人は移動して、宗谷岬から樺太へ、北方領土から千島列島へと渡りカムチャツカ半島に向かった。
 縄文人とシベリヤの北方系草原民は樺太や千島列島・カムチャツカ半島などで出会い、雑居し、雑婚し、その中からアイヌ人が生まれた。
 アイヌ人らは、船を使って行き来しながら交わり、オホーツク海海域で独自の文化・経済圏を形成した。 
 アイヌ人は、荒っぽく大きく3つのグループに分けられる。
 今に残る蝦夷地・北方領土アイヌ。今はいない樺太アイヌと千島アイヌである。
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 北方領土国後島で、約2300年前の続縄文時代の竪穴住居跡約100軒が発見された。
 右代啓視(北海道博物館研究部長)「これまでの調査でこれだけ多くの遺跡が見つかるのは初めてで、奇跡的」
 島内では他に、17~18世紀のものとみられるアイヌ民族の砦(チャシ)も数カ所見つかった。周辺にはアイヌの集落「アイヌコタン」があったと考えられる。
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 人類の奇蹟。
 南方モンゴロイド(釣り針文化)は、丸木船を作り漕いで大海原を渡った。
 北方モンゴロイド(縫い針文化)は、防寒服を作り獣を追って極寒地を踏破した。
 草原のモンゴロイドは、獣を追って歩いて来た。
 海原モンゴロイドと極寒モンゴロイドと草原モンゴロイドは、自然災害多発地帯の日本列島に渡り、定住し、出合い、雑居・同居し、乱婚・雑婚して、混血児の島嶼モンゴロイドを生んだ。
 海の釣り針と極寒の縫い針は、混血モンゴロイド(土器文化)の新たな移動によって、更なる改良が加えられながら世界中の人類に広まっていった。
 それは、「原始糸の道」でもあった。
 大海原の糸は植物性であり、極寒地の糸は動物性であった。
 海原モンゴロイド島嶼モンゴロイドの子孫達は、木を切り倒し丸木船を作り、釣り糸と縫い針を持って、太平洋の大海原へと乗り出していった。
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 日本民族日本人の祖先は縄文人である。
 縄文人は、日本列島を中心として、北はカムチャツカ半島樺太、千島列島、北方領土4島、西は朝鮮半島南部、南は沖縄に住み、舟で移動していた。
 主な航路は、日本海であった。
 日本民族日本人、琉球人、アイヌ人は、祖先を同じくする同族である。
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 ソ連は、北方領土を日本の圧政から解放したと宣言していた。
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 ロシア人共産主義者は、日本人女性を強姦し殺し、逃げ惑う日本人の子供を戦車で轢き殺す事に快感を覚えていた。
 逃げ惑っていた数十万人の日本人の女性や子供そして老人達が、ロシア人共産主義者によって虐殺された。
 それは歴史的事実であり、世界史的な非人道的虐殺事件である。
 国際社会は、ロシア人共産主義者による日本人女性・子供・老人虐殺を非人道的犯罪とは認めていない。
 何故なら、ロシア人共産主義者は戦争勝利者であり、日本人は敗北者であるからである。
 人類史、世界史、大陸史において、勝者・勝利者には生殺与奪の権を含む全ての権利が認められ、弱者・敗北者には如何なる権利も剥奪されている。
 弱者・敗北者は、強姦されようが、殺されようが、理不尽に耐え、諦めて受け入れ、一切の抗議ををする事なく、泣き寝入りするしかない。
 それが、国連が廃棄しない敵国条項であり、日本を縛る日本国憲法である。
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 現代の日本人は、江戸時代の人間とは違い、口先で北方領土奪還を騒ぎ立てるか本心はその気はない。
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 日本人は、遭難者・避難者・被災者などの弱者を自己犠牲で助け、ロシア人は自己欲望貫徹の為に襲って殺した。
 何故なら、日本人は海洋民性島国民族として「死を見詰めて生き」、ロシア人は草原民性大陸民族として「生を見詰めて生き」たからである。
   ・   ・   ・   
 日本人は、何度も、何度もロシア人を助けたが、ロシア人に一度も助けられた事はない。
 むしろ、ロシア人に裏切られ被害や損害を被っている。
 日本人は、助けたロシア人から感謝された事がない。
 ロシア人を助けてもくたびれるだけであった。
 日本人にとってロシア人とは、利害抜きの友人、苦楽を共にできる親友にはなれない。
 戦前の日本は、生きるか死ぬかの窮地で困っているロシア人を、子供を含めて数多く助けたが報われる事が1度もなかった。
   ・   ・   ・   
 欧米列強や中華(中国・朝鮮)は、東西南北から日本を目指して軍事侵略してきた。
 キリスト教会も、日本を精神支配するべく宗教侵略してきた。
 日本の敵は、世界であった。
 日本は孤独で、日本に味方する国は何処にもいなかった。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人を奴隷として世界中で売って大金を稼いでいた。
 白人にとって、日本人はアフリカ人同様に金儲けになる人間以下の野蛮な奴隷であった。
 ロシアの威圧に屈し譲歩する事は、日本人は「創造主である全知全能の神」が定めた白人の永遠の奴隷である事を認める事である。
 北方領土四島返還問題の底辺に、「日本人は家畜同様の奴隷」という人種差別・人種蔑視が存在する。
 ロシア人は、日本人を人間ではなく「黄色い猿」と軽蔑して吐き捨てる。
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 江戸時代、日本は世界7帝国の1つで、世界は日本の武士・サムライの戦闘能力・軍事力を恐れていた。
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 1741年7月15日 ロシア人は、アラスカを発見した。
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 1778年 ロシア皇帝の勅書を携えたイワン・アンチーピンが蝦夷地を訪れ、直接交易を求めた。
 1779年 松前藩は国法である鎖国令をもって拒否した。
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 1781年 仙台藩藩医工藤平助は、ロシア研究書『赤蝦夷風説考』を著述し、北方海防の重要性を訴えた。
 老中・田沼意次は、北方に関心を抱き、蝦夷地・樺太北方領土等への調査隊を派遣した。
 重商主義者・田沼意次の目的は、ロシアとの平和的な交易を開き、同時に北方領土4島・蝦夷地・樺太を日本領として守る事であった。
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 1783(天明3)年 船頭・大黒屋光太夫の船は、伊勢白子浦から江戸へ向かう航海の途上に漂流してアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着し、カムチャッカへ向かうまでの4年間をここで過ごした。
 1784年 アラスカの毛皮交易はイルクーツクの商人グリゴリー・シェリホフは仲間のゴリコフとともにアラスカ南部のコディアック島に進出して入植地を築いた。
 1790年 ロシアは、アラスカを植民地化する為に幾つかの毛皮会社(シェリホフ=ゴリコフ毛皮会社、後に露米会社)を設立した。
 1792(寛政4)年 寛政日露外交交渉。
 10月20日 遣日使節アダム・キリロヴィチ・ラクスマンは、大黒屋光太夫と磯吉の2人を引き渡し、通商交渉を求めた。
 老中・松平定信は、漂流民を受け取るが、イルクーツク総督イワン・ピールの通商要望の信書の受理は長崎以外では受理できない事を伝える事。もしどうしても通商交渉を望むならば長崎に廻航させる事を指示した。      
   ・   ・   ・   
 水戸藩は、勤皇思想から、幕府に対して、ロシアの侵略から神国日本を防衛する為に蝦夷地開拓の許可を求めた。
 幕府は、外交と国防は幕府の専管事項であるとして水戸藩蝦夷地開拓申請を脚下した。
 水戸学は、キリスト教と白人の侵略から日本を守る為に、明治国家の原型を思想から創作した。
 日本ナショナリズム。近代的天皇制度。庶民皆兵=国民徴兵制。遠征型軍事国家。廃仏毀釈国家神道
 明治維新は、ロシアの日本侵略に備える為に始まった。
 水戸学思想を明治維新の原動力に変えたのは吉田松陰であった。
 対ロシア防衛戦略から、日本・清国(中国)・朝鮮の3ヶ国攻守軍事同盟結成か、それがダメならば日本が清国(中国)と朝鮮を侵略して属国とする事を考えた。
 だが、清国(中国)と朝鮮は伝統的反日感情から、敵日でロシアと密かに手を組み、ロシアの日本侵略に協力した。
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 1795年 官僚・外交官でもあるニコライ・レザノフは、アラスカの毛皮会社を継いだ。
 ロシアは、先住民が生活するアラスカを無主の地と決めつけ、移民を送り込んで入植地を広げ植民地化した。
 移民とは、静から侵略であった。
 1799年 ロシアは、極東と北アメリカでの植民地経営と毛皮交易を目的とした、国策会社・勅許会社「露米会社」を設立した。
 ロシア皇帝パーヴェル1世は、レザノフに露米会社の経営を委任する勅許を与え、同時に日本を含むアジアの交渉を命じた。
 ロシアは、ロシア領アメリカとしてアラスカの領有を宣言し、アラスカ統治を露米会社に委託して北太平洋航路独占に乗り出した。
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 1803年5月18日~1815年11月20日 ナポレオン戦争
 イギリスのユダヤ人金融家ロスチャイルドは、戦争を利用して巨万の富を得て国際金融家に成長し、イギリスの金融経済を支配した。
 ユダヤ人が西洋経済に影響力を強める事に対する反発が反ユダヤ主義を生み、ユダヤ人に対する差別や偏見がヨーロッパに広がった。
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 1806(文化3)年 文化露寇。
 レザノフは、日ロ通商交渉が不調に終わった事に激怒し、皇帝アレクサンドル1世に対し、「日本は武力をもって開国させるしかない」と上奏し、日本への攻撃許可を求めた。
 そして、部下に蝦夷地・択捉島などでの海賊行為を命じて帰国した。
 ロシア軍艦は、択捉島蝦夷地を攻撃した。
 1807(文化4)年 シャナ事件。
 東北諸藩は、幕府からの蝦夷地・北方領土樺太の防衛出兵を命じられ、兵員の分担をして約3,000人を派遣した。
 ロシア軍も、臨戦態勢に入った。
 日ロ両軍は、択捉島などで局地戦闘を行った。
 1808年 アレクサンドル1世の元に、日本との戦いの情報がもたらされた。
 アレクサンドル1世は、日本との戦争を許可していないのに戦闘が行われいる事に不快感を示し、攻撃の中止を命じた。
 ロシア軍は、択捉島蝦夷周辺から撤退しました。
 ロシアは、ナポレオン戦争に集中する為に、対日戦略を攻勢から守勢にかえた。
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 会津藩の北方警備は、1807年(文化4年)から1809年(文化6年)にかけて、会津藩江戸幕府によって樺太への出兵を命じられ、総勢1,558名が宗谷岬利尻島樺太に駐留した出来事である。会津藩樺太出兵とも呼ばれる。
 東北諸藩への幕命
 江戸時代の鎖国政策の中で、ロシア通商使節のニコライ・レザノフが実力での通商を図ろうとロシア皇帝のエカチェリーナ2世とその跡を継いだパーヴェル1世の許しなく海軍が樺太や北海道の漁村で略奪を行った。そのため幕府は襲撃に備えるよう1807年(文化4年)、秋田藩弘前藩仙台藩などに蝦夷地への出兵と防備を命じた。
 当時会津藩家老の田中玄宰は錬兵と東北諸藩に会津藩の戦力を誇示するため、幕府に会津藩樺太出兵を内願した。1808年(文化5年)、内藤信周(内藤源助)隊長指揮の下、会津藩兵が若松城を出発、宗谷(稚内市)に本陣を置き、台場や見張り台を設置した。番頭梶原景保は利尻島本泊(もとどまり)に派遣され、さらに北原采女(北原光裕)指揮の下、樺太に上陸して本格的な警備陣営を設け、ロシア軍襲撃に備え訓練を重ねた。 
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 武士・サムライは、北方領土四島を武力を持ってロシアの侵略から死守していた。
 下層民に近い下級武士・庶民・賤民・部落民らは、尊皇攘夷派・勤皇派として、ロシアの侵略から天皇と日本を守る為に動き出した。
 日本は、上層民ではなく下層民で動く。
 天皇を守ろうとしたのは、下級武士・庶民・賤民・部落民達であった。
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 ウィキペディア
 北海異談(ほっかいいだん)とは、文化5年(1808年)に講談師の南豊亭永助が著した前年に発生した文化露寇(フヴォストフ事件)にまつわる読本。その事件を機密扱いにしていた江戸幕府の怒りに触れ、永助は処刑されるなど関係者が処分を受けた。
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 1811(文化8)年 ゴローニン事件。千島列島を測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長のヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニンらが、国後島松前奉行配下の役人に捕縛され、約2年3か月間、日本に抑留された事件である。
高田屋嘉兵衛は、淡路国津名郡都志本村(現:兵庫県洲本市五色町都志)の百姓・弥吉の長男であったが、廻船業者になった。
 高田屋嘉兵衛は、ゴローニン解放に尽力した。
 平田篤胤は、ゴローニン事件を切っ掛けに憂国の士として国学に志した。
 高田屋嘉兵衛は、淡路島に戻り、港湾の整備や灌漑事業などに私財を投じています。
 徳島藩主蜂須賀治昭は、その努力を称賛し、300石の藩士並の待遇を与えた。
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 1822年 ロシアは、イギリスのロスチャイルドから600万ポンドの借款を受けた。
 ユダヤ系国際金融資本は、世界の各国の戦争に介入して大金を荒稼ぎし、アジアや日本にも戦争を起こすべく金を注ぎ込み始めていた。
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 1846年~1848年 アメリカは、米墨戦争の勝利でメキシコからカリフォルニアを強奪した。
 アメリカは、太平洋国家群に参入し、巨大市場である清(中国)との貿易開拓を国家目標とした。
 アメリカ人商人が取引した主要商品は、アヘンと中国人奴隷(苦役)そして武器であった。
 アメリカ西海岸から中国に至る最短航路(大圏コース)は、西海岸から北上し、アリューシャン列島・千島列島・北方領土4島沿いに南下、津軽海峡対馬海峡を通過して上海付近に至る北太平洋航路である。
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 1853年7月8日(嘉永6年6月3日) ペリー黒船艦隊の日本来航。
 代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、浦賀沖に午後5時に現れ、停泊した。
 10月16日~1856年3月30日 クリミア戦争
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 クリミア戦争
 太平洋での戦闘と日本への影響
 太平洋側のロシア極東にも戦争は波及した。フランス海軍とイギリス海軍の連合は1854年8月末、カムチャツカ半島のロシアの港湾・要塞であるペトロパブロフスク・カムチャツキー攻略を目論んだ(ペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦)。英仏連合軍は盛んに砲撃を行い、同年9月に上陸したが、陸戦で大きな犠牲を出して撤退した。英仏連合は兵力を増援したが、再度攻撃をかけた時には、ロシア軍は撤退した後だった。ロシアの守備隊は1855年の初頭に雪の中を脱出した。
 この戦いと並行して、エフィム・プチャーチン海軍中将が日本との開国交渉にあたっていた。プチャーチンは、開戦前にロシア本国を出発し、1853年8月に長崎に到着。外交交渉に着手していたが、交渉が長引く中で英仏両国との開戦の情報に接し、東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフとも協議の上日本との交渉を続行。英仏の艦隊との遭遇・交戦の危険を控え、1854年12月には安政東海地震により乗艦ディアナ号を喪失するも、1855年1月に日露和親条約の締結に成功している。
 また、プチャーチンが長崎に入港中との情報を得、英国東インド・中国艦隊司令ジェームズ・スターリングは、それを捕捉すべく長崎に向かった。到着時にはすでにロシア艦隊は長崎にはいなかったが、英国とロシアが戦争中であること、ロシアがサハリンおよび千島列島への領土的野心があることを警告し、幕府に対して局外中立を求めた。スターリングは外交交渉を行う権利は有しておらず、かつ本国からの指示も受けていなかったが、長崎奉行水野忠徳は条約締結を提案し、1854年10月14日に日英和親条約が調印された。日本の北方でロシア海軍との交戦を行うためには、日本での補給を可能にすることには大きなメリットがあり、本国も追認した。
 新興国で大きな海軍も有していないアメリカが、この時期ペリー提督を派遣して日本に対して砲艦外交を展開できたのは、この戦争によって欧州列強の関心が日本を含めた東アジア地域にまで及ばなかったことも理由の一つである。
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 1855(安政2)年 ロシア軍艦ディアナ号は津波で破損したが、周辺の漁民は、日本人、ロシア人に関係なく、同じ海の男として、命の危険を顧みず、何ら得・利益にもならずむしろ損を承知で、500名のロシア人水兵を嵐の中で救助した。
 日露和親条約(日露通好条約。下田条約)で、北方領土択捉島と中千島列島・ウルップ島の間を公式に国境と定めた。
 ロシアは、北方領土四島を日本固有の領土と認めた。
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 1859(安政6)年 ロシアの東シベリア総督ムラヴィヨフは、自ら軍艦7隻を率いて品川に来航し、樺太全土はロシア領であると軍事力で威嚇し領有を主張した。
 7月26日 江戸幕府は、虎ノ門天徳寺において樺太領有問題に関する日露交渉を行う。
 外国事務掛遠藤胤統と酒井忠毘は、ムラヴィヨフに対し樺太は日本領であるとしてロシアの主張を完全に退けた。
 江戸幕府は、母国を守るべく外圧に耐えていた。
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 1861年3月14日(文久元年2月3日) ロシア軍艦による対馬占拠事件。ロシア帝国海軍中尉ニコライ・ビリリョフは軍艦ポサドニック号で対馬に来航し、尾崎浦に投錨し測量、その後浅茅湾内に進航した。
 ロシア人は、宗教的白人至上主義者として、日本人を下等な野蛮人として侮蔑して暴虐の限りを尽くしていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人を奴隷として世界に売って大金を稼いでいた。
 3月23日 ビリリョフ艦長は、対馬藩に対し芋崎の租借を求め。
 ロシア側の本当の狙いは、日本の領土内に租借地を強奪してアジア侵略の根拠地とし、南海航路の確保であった。
 イギリスは、ロシアの極東侵出を恐れ、軍艦を派遣して対馬からロシア軍艦を追いだした。
 各地の攘夷派は、幕府の弱腰に激怒した。
 特に長州藩過激派は、幕府が武力で対馬を守り切れない弱体ぶりに絶望し、ロシアの侵略から日本を守る為には天皇中心の国家をつくるしかなく、その為には役に立たない時代遅れの幕府を打倒するべきであるとして暴走し始めた。
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 1861年4月12日?1865年5月9日 南北戦争
 アメリカは、内戦の為に日本やアジアへの干渉を後退させた。
 ビスマルク南北戦争は、欧州の金融権力(ユダヤ人金融資本家)によって誘発された」
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 1862(文久2)年1月15日 坂下門外の変尊王攘夷派の水戸浪士は、和宮降嫁に対する反幕感情から老中・安藤信正陸奥磐城平藩の第5代藩主)を坂下門外で襲撃して、背中に負傷を負わせた。
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 1865年4月15日 リンカーン大統領暗殺事件。エイブラハム・リンカーン大統領死亡。
 ユダヤ人金融資本家による陰謀説がささやかれた。
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 1867年 ロシアは、クリミア戦争に敗れ財政的に困窮した上に、イギリスにアラスカを盗まれる事を恐れた。
 10月18日 ロシアは、アメリカに720万ドル(2005年現在の価値で9,000万ドル)で売却した。
 アメリカは、アラスカとアリューシャン列島を植民地として北太平洋航路競争に本格参入した。
 アリューシャン列島には、アレウト族またはアリュート族が先住民として住んでいた。
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 蝦夷地(北海道)や北方領土4島のアイヌ人は、アレウト族やイヌイットエスキモー)のように日本・ロシア・アメリカ三国の国民に組み込まれる運命で、少数民族として独立や中立はありえなかった。
 それは、南の琉球王国琉球人も同じであった。
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 1868年6月10日(慶応4年閏4月20日)?11月6日(明治元年9月22日) 会津戦争
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 蝦夷共和国とは、戊辰戦争末期に蝦夷地(北海道)を支配した江戸幕府軍勢力による「事実上の政権」である蝦夷島政府を指す俗称。箱館政権とも称される。慶応3年(1867年)に15代征夷大将軍徳川慶喜大政奉還を行って江戸幕府が消滅し、山岡鉄太郎の斡旋により新政府軍の大総督府参謀である西郷隆盛と徳川家陸軍総裁の勝海舟の会談で江戸城無血開城が決定する。海軍副総裁榎本武揚は旧幕臣の保護と北辺防備を目的として慶応4年(1868年)8月19日に品川沖から開陽丸を旗艦に8隻の軍艦を率いて江戸を脱出し、蝦夷地に向かった。途中仙台で会津戦争で敗走した伝習隊、旧新選組彰義隊の残党を吸収し、北上、鷲ノ木に上陸し、各地を平定、五稜郭を攻略し、箱館府知事清水谷公考を敗走させ、蝦夷地全島を支配下に置いた。
 呼称
 榎本ら蝦夷島政府の関係者が「蝦夷共和国」と名乗ったことはなく、また独立主権国家たると宣言したわけでもない。また、主権的な独立や地方割拠を目論んだわけではないため、「政権」「共和国」などの呼称は適切ではない。
 「事実上の政権」の真相
 翌11月5日、現地の英仏領事と両艦の艦長が会同して打ち合わせを行ったが、英仏領事とも、この時点では榎本軍に対して高い評価を与えていた。やがて箱館港を管理する箱館奉行永井尚志に来てもらったが、榎本は松前に出張中であり、帰るまでしばらく待って欲しいと答えた。永井は外交経験も豊富であり、彼の態度は、英仏領事のみならず、英仏艦艦長にも好印象を与えた。その会同の最中、榎本艦隊旗艦開陽丸が、賓客の来訪を歓迎する21発の礼砲を撃った。これを見たアメリカ、ロシア帝国プロイセン(ドイツ)の領事は、英仏艦に行かずに開陽丸を表敬訪問した。
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 日本の敵はロシアであったが、ドイツとアメリカはロシアに協力する仮想敵国であった。
 日本にとって安心できる相手は、イギリスとフランスであった。
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 1868(明治元)年7月 会津藩庄内藩は、プロイセンに対し蝦夷地の土地売却の打診を行った。
 ビスマルクは、イギリスとフランスが関係している日本の内戦に巻き込まれる事を嫌って、蝦夷地売却提案を却下した。
 だが、ビスマルクは、北太平洋航路に参入を考えると好ましい提案であるとして、方針転換し、却下の3週間後に交渉を認可した。
 ビスマルク文書は、後にドイツ連邦軍事文書館で発見された。
 会津・庄内両藩は、プロイセンから資金を借り受ける為の担保として「蝦夷地の土地を99年間貸与」を申し出た。
 プロイセンの駐日公使ブラントは、ビスマルクに「会津藩庄内藩蝦夷地を売り渡す変わりに軍事援助を求めてきた」との手紙を送った。
 プロイセンは、会津藩にライフル銃780挺と2万ドル相当の弾薬を売る事に合意した。
 官軍は、会津への銃・弾薬を新潟港に陸揚げされた所を差し押さえ、押収した。
 会津軍は、官軍に敗北した。
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 ガルトネル開墾条約事件あるいはガルトネル事件は、日本の幕末から明治時代最初期にかけ、函館(当時、箱館)における開墾地租借契約をめぐりプロイセン貿易商との間で発生した外交事件である。
 概略
 プロイセンの貿易商ライノルト・ガルトネル(以下、R.ガルトネル)は、クニッフラー商会横浜支店から同商会箱館代理店店長兼駐箱館プロイセン副領事となった弟のコンラート・ガルトネルの助力により、箱館近郊の開墾を計画した。慶応3年(1867年)箱館に近い七重村に、箱館奉行杉浦勝誠から1,500坪の開拓許可を得て開墾に向けた準備を開始した。翌慶応4年(1868年)に江戸幕府が瓦解し、この計画はいったん白紙に戻された。箱館奉行所の業務は、明治新政府が4月に設けた箱館府(設置時は箱館裁判所と呼称)が引き継ぎ、公家出身の清水谷公考が府知事に就いた。箱館府民政方判事の井上石見はR.ガルトネルと面会し、蝦夷地の開拓推進のためにR.ガルトネルの計画に同意し、7月ごろより七重村御薬園地の周辺の開墾が始まった。
 そのさなかに箱館戦争がはじまり、榎本武揚が率いる蝦夷島政府が10月末に箱館を占領し、箱館府の役人は青森に退却した。R.ガルトネルは蝦夷島政府と交渉し、引き続き同様の開墾を行う同意を得、明治2年2月19日(グレゴリオ暦1869年3月31日)に「蝦夷地七重村開墾条約書」を締結した。その内容は、七重村およびその近傍の約300万坪を99年間借りることや、有志を選びヨーロッパ農法を教授すること、などであった。しかしながら事態は大きく変転し、5月11日には明治新政府軍が箱館を攻撃し、わずか1週間後の18日には榎本の降伏により蝦夷島政府は倒れた。その翌日である5月19日に再び箱館府が設置されると、R.ガルトネルはさっそく箱館府と交渉し、約1か月後の6月16日には「地所開拓之為蝦夷政府アル・ガルトネル氏の約定」および「蝦夷島開拓人員之掟則」を早々に締結した。なお、この約定には契約期限が示されていなかった。この約定により、七重村村民は自らの農地をガルトネルに横取りされるような形となってしまい、周辺住民との間には土地境界や契約を巡るトラブルが絶えず、箱館府への陳情もたびたび行われたが、混乱期でもあり省みられることがなかった。
 明治2年7月8日に明治新政府により蝦夷地及び樺太の開拓を掌る開拓使が設置された。9月には蝦夷地は「北海道」に、箱館は「函館」にそれぞれ改称され(ただし後者については、『函館市史』等において異論も主張されている)、旧箱館府は「開拓使出張所」と改称され本格業務も開始された。その中で、開拓使は本件を問題視し、東京の中央政府にもこの開墾条約の存在が知らされた。この契約が定められた居留地外の案件であることや、この土地を足掛かりに蝦夷地が植民地化されるおそれもあることから、外務省は11月に開拓使へガルトネル条約の契約を破棄するよう伝えた。その後、開拓長官となった東久世通禧(前述の清水谷公考と同様に公家出身者であり、実質的には開拓次官となった黒田清隆が中心となった)とガルトネルとの厳しい交渉がおこなわれた結果、明治3年(1870年)11月に62,500両の賠償金を支払うことで契約を解消した。取り戻した土地には同月に開拓使により七重開墾場が設けられたが、その本格的な活用[明治6年(1873年)以降のこととなる。
 遺された財産目録によると、開墾地にはアルファルファやクローバー等の牧草、リンゴやサクランボ、セイヨウナシなどの果樹や、牛や馬、豚などの家畜がヨーロッパより導入されている。このため、七飯町は自町を「西洋農業発祥の地」としている。また目録には、プラウなどの農具や、パン焼き竈、温室建造用のガラスなども記されている。R.ガルトネルが故国を懐かしんで植えたと言い伝えられているブナの林は現存し、樹齢100年を超えるブナの人工林は珍しいことから、「ガルトネル・ブナ保護林」として林野庁が管理している。
 なお、蝦夷地北辺を防備する諸藩に対しても、ガルトネルは土地を担保に武器を提供していたことを示す書簡がドイツで見つかっている。
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 1870年7月19日~1871年5月10日 普仏戦争
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 1874(明治7)年 明治新政府は、ロシアの侵略から日本を守り北海道の警備と開拓の為に屯田兵を配置した。1904(明治37)年に廃止された。
 屯田兵の多くは武士で、賊軍に関係ない各藩から送り込まれていた。
 日本政府は、アイヌ人の生活を脅かさない為に、屯田兵アイヌ人が住んでいない不毛の原生林に移住させた。
 屯田兵になった武士は、自分と旧藩主の名誉に賭けて、逃げ出さず原生林を切り開き開墾を行った。
 庶民(百姓や町人)からなる開拓団は、土地が手に入るとして北海道に入植したが、苦労して不毛の原生林を切り開くよりも手っ取り早く開墾地を手に入れるべくアイヌ人の土地を奪っい、奪ったという後ろめたさを誤魔化す為にアイヌ人を馬鹿にし差別した。
 日本人のアイヌ人差別は、国防を最優先とした日本政府や武士開拓団ではなく、土地欲しさに入植した庶民開拓団が広めた。
 庶民開拓団には、国益や国防や公益など興味も関心もなく、自分の土地を手に入れる事だけであった。
 そうしたアイヌ人を差別する庶民感情は、現代の北海道にも根強く存在する。
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 1875(明治8)年5月7日 樺太・千島交換条約締結により日本は樺太島の領有権を完全に放棄し、全島がロシア領となる。
 日本は、昔からの北方領土四島に加えて、ロシア領であった北千島と中千島を日本領に編入した。
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 1877(明治10)年11月19日 北海道瀬棚海岸沖にてロシア軍艦アレウト号が暴風に煽られ座礁し、地元の日本人が乗組員60人全員を救助した。
 1878年4月20日 迎えに来た軍艦エルマック号へアレウト号乗組員がボートで向かう途中高波によって転覆して、12人が犠牲になった。
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 日本はロシアとの戦争に備えて軍事強化を急いだ。
 日本陸軍プロイセン陸軍を手本とし、日本海軍はイギリス海軍の協力をえた。
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 ロシアとの戦争の為の囚人道路と八甲田遭難事件。
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 1892年(明治26年)に加藤正之助によって第五回帝国議会へ北海道土人保護法案が提出、アイヌ自身も代表を送り法案成立を目指して国会に陳情し、1898年(明治32年)に制定。
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 日露戦争は、ヨーロッパ諸国を巻き込んだ為に第ゼロ次世界大戦の様相を示し、最新近代兵器が投入された本格的な近代戦争であった。
 1904~05年 日露戦争時。金沢市民は、肉親を殺した憎きロシア人兵士捕虜であっても、「おもてなしの心」で人道的に温かく迎え、戦傷や病気を治療し、死亡すれば野田山墓地に敬意を持って葬った。
 ロシア人兵士捕虜の好待遇を望んだのは、天皇と皇后であった。
 敵軍兵士捕虜に対する捕虜収容所における厚遇は、日清戦争の中国人や第一次世界大戦のドイツ人でも同じであった。
 天皇がそれを望む以上、日本民族日本人は天皇の大御心・御稜威に従い実行した。
 つまり、日本民族日本人による敵兵士に対する捕虜虐待は天皇への不忠になる為に存在しない。
 天皇への忠誠心がない日本人が捕虜虐待を行った。
 性善説日本民族日本人、武士道に生きる武士・サムライは戦場から一歩でも離れれば敵味方関係なく友人と考えていた。
 スターリンは、日露戦争の復讐戦と報酬戦を悲願としていた。
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 1917(大正6)年 ロシア革命
 共産主義者は、組織の5%を洗脳し赤化して組織全体を自由に操っていた。
 1918~22年 シベリア出兵。 
 日本民族日本人は、共産主義の侵略から天皇と母国を守るべく戦っていた。
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 1918年5月 親を殺されたり親からはぐれたりしたロシア人上流階級の3~15才の子供達は、助け合い、庇い合いながらサンクトペテルブルグを出発し、内戦がまだ穏やかなウラル地方まで逃げてきた。
 共産主義陣営でも反革命陣営でも、人種差別主義のロシア人はユダヤ人10万人以上を、女子供に関係なく虐殺していた。
 共産主義者マルクス主義者)は、人種・民族に関係なく~イズムを大義とする血に飢えた虐殺魔であった。
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 1920年3月から5月 ニコライエフスク住民虐殺事件(尼港事件)。赤軍パルチザン部隊約4,300人(ロシア人3,000人、朝鮮人1,000人、中国人300人)は、反革命派ロシア人住民約8,000人と日本人民間人735人を虐殺した。
 朝鮮人テロリストは、裕仁皇太子や皇族を殺すべく狙っていた。
 日本民族日本人の全ての敵がそこにそろっていた。
 それは、ロシア、中国、朝鮮である。
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 1920年7月 勝田銀次郎と陽明丸。
 シベリア出兵時。日本人軍国主義者は、報酬がなかったが、シベリアの激戦からロシア人避難児童779人(男児・428人。女児・351人)と婦人・87人を救い出し、無事にヨーロッパ側のペトログラード(現サンクトペテルブルク)に送り届けた。
 世界は、日本人軍国主義者の人道貢献を絶賛した。
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 日本軍は、ポーランド人学童を赤軍の攻撃から戦死者を出しながら助け出し、祖国ポーランドに送り届けた。
 戦死した日本軍兵士は、靖国神社の軍神として祀られた。
 日本軍と日本人軍国主義者は、人道貢献としていい事もした。
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 日本は、天皇の御稜威から人道貢献として、武器を持たず戦う意思のない女性・子供・老人さらに怪我人・病人などを弱者を助けた。
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 1939(昭和14)年8月23日 スターリンヒトラーは、独ソ不可侵条約モロトフ・リッペントロップ条約)を結んで同盟を組み、ポーランドを分割する秘密議定書を取り交わした。
 9月1日 ドイツ軍は、ポーランドに侵攻した。
 イギリスとフランスは、ナチス・ドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が勃発した。
 9月17日 ソ連軍は、英仏がポーランドを救う為の救援軍を派遣しない事を確認して、ポーランドに侵攻して東半分を占領した。
 12月12日 ソ連・ロシア人は、自国民が軍国日本に助けられても決して感謝しない。
 宗谷岬で、ソ連貨物船インディギルカ号が猛吹雪の中で座礁して遭難した。
 猿払(さるふつ)村の漁民や村人と稚内の警察や漁業協同組合の救助隊は、乗客1,500人の内400人程を救出したが残りは死亡した。
 乗客は、700人の漁業労働者とその家族、約800人の囚人であった。
 日本では死者一人一人に名前があり親兄弟や故郷があるが、ソ連の死者は無名で親兄弟も故郷もわからなかった。
 無名兵士の墓とは、敬意の対象ではなく単なる石の碑にすぎなかった。
 9月 ソ連ナチス・ドイツは密約を交わしてポーランドを侵略して第二次世界大戦が勃発した。
 ロシア人共産主義者は、人民の正義によって、ポーランド人の民族主義者、民主主義者、自由主義者、政治家、軍人、資本家、学者、宗教関係者などを反共産主義者反革命分子として虐殺した。
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 ソ連が、ナチス・ドイツとの大祖国戦争で勝利できたのは日本軍のお陰であった。
 ナチス・ドイツは、日本に対して、アメリカの対ソ支援輸送路ウラジオストック・ルートの遮断を要請した。
 日本軍は、拒否し、アメリカの輸送船団の通過を黙認した。
 ドイツ軍は、ロシア軍の大攻勢で敗北し敗走し始めた。
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 日中戦争も太平洋戦争も、ソ連の陰謀である。
 日本は戦争をしたくなかったが、ソ連の工作で戦争へと追い込まれていった。
 レーニンが企画し、スターリンが命じ、毛沢東ルーズベルトが実行した。
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 昭和天皇東条英機A級戦犯たちは、ヒトラーから逃げて来た数万人のポーランドユダヤ人難民を無償で助け、ナチス・ドイツからの圧力を無視し、彼らを安全地帯に逃がした。
 上海ゲットーホロコースト阻止事件。松岡洋右松井石根A級戦犯日本陸軍は、ゲシュタポ反ユダヤ主義者が上海ゲットーでホロコーストを行おうとしたのを阻止し、数万人のユダヤ人難民を助けた。
 アメリカ・イギリスなどの連合国、バチカン、国際赤十字は、ホロコースト情報を得ていても否定して、ユダヤ人達を見殺しにした。
 ワルシャワ蜂起。ソ連軍は、ワルシャワゲットーのユダヤ人を助けず見捨てた。
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 ロシア人共産主義者は、日本を共産化する為に、天皇制度を廃絶し、昭和天皇や皇族と天皇主義者を全員虐殺する為に暴力的共産主義革命=敗戦革命を起こそうとした。
 日本人共産主義者テロリストは、昭和天皇や皇族を殺そうとしていた。 
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 ロシア人共産主義者は、満州樺太で数十万人の逃げ惑う日本人の女性や子供を虐殺した。
 日本人女性は、ロシア人共産主義者によって強姦され、そして惨殺された。
 ソ連軍戦車は、日本人の女性や子供達を生きたまま轢き殺しながら日本に向かって侵略を続けた。
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 日本は戦争を止めるべくソ連に連合軍への停戦交渉の仲介を依頼したが、ソ連は日本の領土を強奪すべく陰険か手段を使って騙した。
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 ソ連(ロシア)は不法行為を承知で北方領土四島を武力で強奪した。
 ソ連(ロシア)は、強欲で、国際法を無視し、人としての信義も情理も踏みにじって日本の領土を暴力で奪った。
 ロシア人に、人権、人道、道理、分別、道義、信義、情義など、日本人が思いつく限りの人の道を話した所で無意味である。
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 ロシアは、戦争犯罪国家日本に対する全ての行為は合法で正当性があるり、戦勝国の当然の権利だと主張している。
 戦勝国には、敗戦国及び敗戦国の国民に対する生殺与奪の権利は国際法で認められていると。
 つまり、敗戦国は文句を言わず、戦勝国の言う事を無条件で聞き受け容れるべきであると。
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 北方領土四島返還を二島返還や面積2分の1分割案は、ロシア人共産主義者による日本人女性の強姦や殺害を不問に付す事である。
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 1988(昭和63)年1月29日 日本の外相は、国連にアイヌを日本の少数民族であると報告した。 
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 1992(平成4)年1月2日未明 島根県隠岐島沖の日本海でナホトカ号重油流出事故。
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 地球温暖化北極海航路が可能となれば、中国、韓国、北朝鮮北方領土4島問題に介入してくる事になる。
 日本の目の前に立ちはだかるは、ロシア、中国、朝鮮(韓国・北朝鮮)であった。
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 日本人は、お人好しのバカであった。
 しょせん、ロシア人は中国人や朝鮮人同様に信用できない。
 ロシア人を助けようとして戦死した靖国神社の英霊は、無駄死に、犬死に、バカな死に方をした愚か者である。
   ・   ・   ・     

🔯35」─1─ローマ帝国の人口を激減させ国力を衰退させた感染症爆発(パンデミック)。〜No.121 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 ローマ帝国は、版図を拡大して、多くの奴隷を連行し、市民の移動を自由にする事で、各地に点在していたペスト、チフス天然痘マラリアハンセン病など死に至る疾病を広め、人口を激させ、国力を衰退させた。
 125年 オロシウスの疫病によってアフリカ北部で約80万人が死亡した。
 164〜180年 アントニヌスの疾病。第16代ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス病死。
 251〜266年 キプリアヌス大疾病。1日に約5,000人が死亡し、地中海周辺の人口は4分3にまで減少した。 
   ・   ・   ・  
疫病と世界史(上下合本) (中公文庫)