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関連ブログを6つを立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
4万年前 日本民族日本人の原始である南方系海洋民は、台湾から沖縄を経て九州に上陸して日本全国に住みついた。
3万年前~2万前 日本列島に縄文人が出現した。
2万8000年前~1万5000年前 最終氷期の最寒冷期に大規模な海面が低下し、対馬海峡・間宮海峡・宗谷海峡を経て人や動物が移動した。
北海道に住みついた縄文人は移動して、宗谷岬から樺太へ、北方領土から千島列島へと渡りカムチャツカ半島に向かった。
縄文人とシベリヤの北方系草原民は樺太や千島列島・カムチャツカ半島などで出会い、雑居し、雑婚し、その中からアイヌ人が生まれた。
アイヌ人らは、船を使って行き来しながら交わり、オホーツク海海域で独自の文化・経済圏を形成した。
アイヌ人は、荒っぽく大きく3つのグループに分けられる。
今に残る蝦夷地・北方領土アイヌ。今はいない樺太アイヌと千島アイヌである。
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北方領土の国後島で、約2300年前の続縄文時代の竪穴住居跡約100軒が発見された。
右代啓視(北海道博物館研究部長)「これまでの調査でこれだけ多くの遺跡が見つかるのは初めてで、奇跡的」
島内では他に、17~18世紀のものとみられるアイヌ民族の砦(チャシ)も数カ所見つかった。周辺にはアイヌの集落「アイヌコタン」があったと考えられる。
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人類の奇蹟。
南方モンゴロイド(釣り針文化)は、丸木船を作り漕いで大海原を渡った。
北方モンゴロイド(縫い針文化)は、防寒服を作り獣を追って極寒地を踏破した。
草原のモンゴロイドは、獣を追って歩いて来た。
海原モンゴロイドと極寒モンゴロイドと草原モンゴロイドは、自然災害多発地帯の日本列島に渡り、定住し、出合い、雑居・同居し、乱婚・雑婚して、混血児の島嶼モンゴロイドを生んだ。
海の釣り針と極寒の縫い針は、混血モンゴロイド(土器文化)の新たな移動によって、更なる改良が加えられながら世界中の人類に広まっていった。
それは、「原始糸の道」でもあった。
大海原の糸は植物性であり、極寒地の糸は動物性であった。
海原モンゴロイドと島嶼モンゴロイドの子孫達は、木を切り倒し丸木船を作り、釣り糸と縫い針を持って、太平洋の大海原へと乗り出していった。
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日本民族日本人の祖先は縄文人である。
縄文人は、日本列島を中心として、北はカムチャツカ半島、樺太、千島列島、北方領土4島、西は朝鮮半島南部、南は沖縄に住み、舟で移動していた。
主な航路は、日本海であった。
日本民族日本人、琉球人、アイヌ人は、祖先を同じくする同族である。
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ソ連は、北方領土を日本の圧政から解放したと宣言していた。
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ロシア人共産主義者は、日本人女性を強姦し殺し、逃げ惑う日本人の子供を戦車で轢き殺す事に快感を覚えていた。
逃げ惑っていた数十万人の日本人の女性や子供そして老人達が、ロシア人共産主義者によって虐殺された。
それは歴史的事実であり、世界史的な非人道的虐殺事件である。
国際社会は、ロシア人共産主義者による日本人女性・子供・老人虐殺を非人道的犯罪とは認めていない。
何故なら、ロシア人共産主義者は戦争勝利者であり、日本人は敗北者であるからである。
人類史、世界史、大陸史において、勝者・勝利者には生殺与奪の権を含む全ての権利が認められ、弱者・敗北者には如何なる権利も剥奪されている。
弱者・敗北者は、強姦されようが、殺されようが、理不尽に耐え、諦めて受け入れ、一切の抗議ををする事なく、泣き寝入りするしかない。
それが、国連が廃棄しない敵国条項であり、日本を縛る日本国憲法である。
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現代の日本人は、江戸時代の人間とは違い、口先で北方領土奪還を騒ぎ立てるか本心はその気はない。
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日本人は、遭難者・避難者・被災者などの弱者を自己犠牲で助け、ロシア人は自己欲望貫徹の為に襲って殺した。
何故なら、日本人は海洋民性島国民族として「死を見詰めて生き」、ロシア人は草原民性大陸民族として「生を見詰めて生き」たからである。
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日本人は、何度も、何度もロシア人を助けたが、ロシア人に一度も助けられた事はない。
むしろ、ロシア人に裏切られ被害や損害を被っている。
日本人は、助けたロシア人から感謝された事がない。
ロシア人を助けてもくたびれるだけであった。
日本人にとってロシア人とは、利害抜きの友人、苦楽を共にできる親友にはなれない。
戦前の日本は、生きるか死ぬかの窮地で困っているロシア人を、子供を含めて数多く助けたが報われる事が1度もなかった。
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欧米列強や中華(中国・朝鮮)は、東西南北から日本を目指して軍事侵略してきた。
キリスト教会も、日本を精神支配するべく宗教侵略してきた。
日本の敵は、世界であった。
日本は孤独で、日本に味方する国は何処にもいなかった。
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中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人を奴隷として世界中で売って大金を稼いでいた。
白人にとって、日本人はアフリカ人同様に金儲けになる人間以下の野蛮な奴隷であった。
ロシアの威圧に屈し譲歩する事は、日本人は「創造主である全知全能の神」が定めた白人の永遠の奴隷である事を認める事である。
北方領土四島返還問題の底辺に、「日本人は家畜同様の奴隷」という人種差別・人種蔑視が存在する。
ロシア人は、日本人を人間ではなく「黄色い猿」と軽蔑して吐き捨てる。
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江戸時代、日本は世界7帝国の1つで、世界は日本の武士・サムライの戦闘能力・軍事力を恐れていた。
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1741年7月15日 ロシア人は、アラスカを発見した。
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1778年 ロシア皇帝の勅書を携えたイワン・アンチーピンが蝦夷地を訪れ、直接交易を求めた。
1779年 松前藩は国法である鎖国令をもって拒否した。
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1781年 仙台藩の藩医工藤平助は、ロシア研究書『赤蝦夷風説考』を著述し、北方海防の重要性を訴えた。
老中・田沼意次は、北方に関心を抱き、蝦夷地・樺太・北方領土等への調査隊を派遣した。
重商主義者・田沼意次の目的は、ロシアとの平和的な交易を開き、同時に北方領土4島・蝦夷地・樺太を日本領として守る事であった。
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1783(天明3)年 船頭・大黒屋光太夫の船は、伊勢白子浦から江戸へ向かう航海の途上に漂流してアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着し、カムチャッカへ向かうまでの4年間をここで過ごした。
1784年 アラスカの毛皮交易はイルクーツクの商人グリゴリー・シェリホフは仲間のゴリコフとともにアラスカ南部のコディアック島に進出して入植地を築いた。
1790年 ロシアは、アラスカを植民地化する為に幾つかの毛皮会社(シェリホフ=ゴリコフ毛皮会社、後に露米会社)を設立した。
1792(寛政4)年 寛政日露外交交渉。
10月20日 遣日使節アダム・キリロヴィチ・ラクスマンは、大黒屋光太夫と磯吉の2人を引き渡し、通商交渉を求めた。
老中・松平定信は、漂流民を受け取るが、イルクーツク総督イワン・ピールの通商要望の信書の受理は長崎以外では受理できない事を伝える事。もしどうしても通商交渉を望むならば長崎に廻航させる事を指示した。
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水戸藩は、勤皇思想から、幕府に対して、ロシアの侵略から神国日本を防衛する為に蝦夷地開拓の許可を求めた。
幕府は、外交と国防は幕府の専管事項であるとして水戸藩の蝦夷地開拓申請を脚下した。
水戸学は、キリスト教と白人の侵略から日本を守る為に、明治国家の原型を思想から創作した。
日本ナショナリズム。近代的天皇制度。庶民皆兵=国民徴兵制。遠征型軍事国家。廃仏毀釈。国家神道。
明治維新は、ロシアの日本侵略に備える為に始まった。
水戸学思想を明治維新の原動力に変えたのは吉田松陰であった。
対ロシア防衛戦略から、日本・清国(中国)・朝鮮の3ヶ国攻守軍事同盟結成か、それがダメならば日本が清国(中国)と朝鮮を侵略して属国とする事を考えた。
だが、清国(中国)と朝鮮は伝統的反日感情から、敵日でロシアと密かに手を組み、ロシアの日本侵略に協力した。
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1795年 官僚・外交官でもあるニコライ・レザノフは、アラスカの毛皮会社を継いだ。
ロシアは、先住民が生活するアラスカを無主の地と決めつけ、移民を送り込んで入植地を広げ植民地化した。
移民とは、静から侵略であった。
1799年 ロシアは、極東と北アメリカでの植民地経営と毛皮交易を目的とした、国策会社・勅許会社「露米会社」を設立した。
ロシア皇帝パーヴェル1世は、レザノフに露米会社の経営を委任する勅許を与え、同時に日本を含むアジアの交渉を命じた。
ロシアは、ロシア領アメリカとしてアラスカの領有を宣言し、アラスカ統治を露米会社に委託して北太平洋航路独占に乗り出した。
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1803年5月18日~1815年11月20日 ナポレオン戦争。
イギリスのユダヤ人金融家ロスチャイルドは、戦争を利用して巨万の富を得て国際金融家に成長し、イギリスの金融経済を支配した。
ユダヤ人が西洋経済に影響力を強める事に対する反発が反ユダヤ主義を生み、ユダヤ人に対する差別や偏見がヨーロッパに広がった。
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1806(文化3)年 文化露寇。
レザノフは、日ロ通商交渉が不調に終わった事に激怒し、皇帝アレクサンドル1世に対し、「日本は武力をもって開国させるしかない」と上奏し、日本への攻撃許可を求めた。
そして、部下に蝦夷地・択捉島などでの海賊行為を命じて帰国した。
ロシア軍艦は、択捉島や蝦夷地を攻撃した。
1807(文化4)年 シャナ事件。
東北諸藩は、幕府からの蝦夷地・北方領土・樺太の防衛出兵を命じられ、兵員の分担をして約3,000人を派遣した。
ロシア軍も、臨戦態勢に入った。
日ロ両軍は、択捉島などで局地戦闘を行った。
1808年 アレクサンドル1世の元に、日本との戦いの情報がもたらされた。
アレクサンドル1世は、日本との戦争を許可していないのに戦闘が行われいる事に不快感を示し、攻撃の中止を命じた。
ロシア軍は、択捉島や蝦夷周辺から撤退しました。
ロシアは、ナポレオン戦争に集中する為に、対日戦略を攻勢から守勢にかえた。
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会津藩の北方警備は、1807年(文化4年)から1809年(文化6年)にかけて、会津藩が江戸幕府によって樺太への出兵を命じられ、総勢1,558名が宗谷岬や利尻島、樺太に駐留した出来事である。会津藩の樺太出兵とも呼ばれる。
東北諸藩への幕命
江戸時代の鎖国政策の中で、ロシア通商使節のニコライ・レザノフが実力での通商を図ろうとロシア皇帝のエカチェリーナ2世とその跡を継いだパーヴェル1世の許しなく海軍が樺太や北海道の漁村で略奪を行った。そのため幕府は襲撃に備えるよう1807年(文化4年)、秋田藩・弘前藩・仙台藩などに蝦夷地への出兵と防備を命じた。
当時会津藩家老の田中玄宰は錬兵と東北諸藩に会津藩の戦力を誇示するため、幕府に会津藩の樺太出兵を内願した。1808年(文化5年)、内藤信周(内藤源助)隊長指揮の下、会津藩兵が若松城を出発、宗谷(稚内市)に本陣を置き、台場や見張り台を設置した。番頭梶原景保は利尻島本泊(もとどまり)に派遣され、さらに北原采女(北原光裕)指揮の下、樺太に上陸して本格的な警備陣営を設け、ロシア軍襲撃に備え訓練を重ねた。
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武士・サムライは、北方領土四島を武力を持ってロシアの侵略から死守していた。
下層民に近い下級武士・庶民・賤民・部落民らは、尊皇攘夷派・勤皇派として、ロシアの侵略から天皇と日本を守る為に動き出した。
日本は、上層民ではなく下層民で動く。
天皇を守ろうとしたのは、下級武士・庶民・賤民・部落民達であった。
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北海異談(ほっかいいだん)とは、文化5年(1808年)に講談師の南豊亭永助が著した前年に発生した文化露寇(フヴォストフ事件)にまつわる読本。その事件を機密扱いにしていた江戸幕府の怒りに触れ、永助は処刑されるなど関係者が処分を受けた。
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1811(文化8)年 ゴローニン事件。千島列島を測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長のヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニンらが、国後島で松前奉行配下の役人に捕縛され、約2年3か月間、日本に抑留された事件である。
高田屋嘉兵衛は、淡路国津名郡都志本村(現:兵庫県洲本市五色町都志)の百姓・弥吉の長男であったが、廻船業者になった。
高田屋嘉兵衛は、ゴローニン解放に尽力した。
平田篤胤は、ゴローニン事件を切っ掛けに憂国の士として国学に志した。
高田屋嘉兵衛は、淡路島に戻り、港湾の整備や灌漑事業などに私財を投じています。
徳島藩主蜂須賀治昭は、その努力を称賛し、300石の藩士並の待遇を与えた。
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1822年 ロシアは、イギリスのロスチャイルドから600万ポンドの借款を受けた。
ユダヤ系国際金融資本は、世界の各国の戦争に介入して大金を荒稼ぎし、アジアや日本にも戦争を起こすべく金を注ぎ込み始めていた。
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1846年~1848年 アメリカは、米墨戦争の勝利でメキシコからカリフォルニアを強奪した。
アメリカは、太平洋国家群に参入し、巨大市場である清(中国)との貿易開拓を国家目標とした。
アメリカ人商人が取引した主要商品は、アヘンと中国人奴隷(苦役)そして武器であった。
アメリカ西海岸から中国に至る最短航路(大圏コース)は、西海岸から北上し、アリューシャン列島・千島列島・北方領土4島沿いに南下、津軽海峡と対馬海峡を通過して上海付近に至る北太平洋航路である。
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1853年7月8日(嘉永6年6月3日) ペリー黒船艦隊の日本来航。
代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、浦賀沖に午後5時に現れ、停泊した。
10月16日~1856年3月30日 クリミア戦争。
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クリミア戦争
太平洋での戦闘と日本への影響
太平洋側のロシア極東にも戦争は波及した。フランス海軍とイギリス海軍の連合は1854年8月末、カムチャツカ半島のロシアの港湾・要塞であるペトロパブロフスク・カムチャツキー攻略を目論んだ(ペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦)。英仏連合軍は盛んに砲撃を行い、同年9月に上陸したが、陸戦で大きな犠牲を出して撤退した。英仏連合は兵力を増援したが、再度攻撃をかけた時には、ロシア軍は撤退した後だった。ロシアの守備隊は1855年の初頭に雪の中を脱出した。
この戦いと並行して、エフィム・プチャーチン海軍中将が日本との開国交渉にあたっていた。プチャーチンは、開戦前にロシア本国を出発し、1853年8月に長崎に到着。外交交渉に着手していたが、交渉が長引く中で英仏両国との開戦の情報に接し、東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフとも協議の上日本との交渉を続行。英仏の艦隊との遭遇・交戦の危険を控え、1854年12月には安政東海地震により乗艦ディアナ号を喪失するも、1855年1月に日露和親条約の締結に成功している。
また、プチャーチンが長崎に入港中との情報を得、英国東インド・中国艦隊司令ジェームズ・スターリングは、それを捕捉すべく長崎に向かった。到着時にはすでにロシア艦隊は長崎にはいなかったが、英国とロシアが戦争中であること、ロシアがサハリンおよび千島列島への領土的野心があることを警告し、幕府に対して局外中立を求めた。スターリングは外交交渉を行う権利は有しておらず、かつ本国からの指示も受けていなかったが、長崎奉行水野忠徳は条約締結を提案し、1854年10月14日に日英和親条約が調印された。日本の北方でロシア海軍との交戦を行うためには、日本での補給を可能にすることには大きなメリットがあり、本国も追認した。
新興国で大きな海軍も有していないアメリカが、この時期ペリー提督を派遣して日本に対して砲艦外交を展開できたのは、この戦争によって欧州列強の関心が日本を含めた東アジア地域にまで及ばなかったことも理由の一つである。
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1855(安政2)年 ロシア軍艦ディアナ号は津波で破損したが、周辺の漁民は、日本人、ロシア人に関係なく、同じ海の男として、命の危険を顧みず、何ら得・利益にもならずむしろ損を承知で、500名のロシア人水兵を嵐の中で救助した。
日露和親条約(日露通好条約。下田条約)で、北方領土・択捉島と中千島列島・ウルップ島の間を公式に国境と定めた。
ロシアは、北方領土四島を日本固有の領土と認めた。
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1859(安政6)年 ロシアの東シベリア総督ムラヴィヨフは、自ら軍艦7隻を率いて品川に来航し、樺太全土はロシア領であると軍事力で威嚇し領有を主張した。
7月26日 江戸幕府は、虎ノ門天徳寺において樺太領有問題に関する日露交渉を行う。
外国事務掛遠藤胤統と酒井忠毘は、ムラヴィヨフに対し樺太は日本領であるとしてロシアの主張を完全に退けた。
江戸幕府は、母国を守るべく外圧に耐えていた。
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1861年3月14日(文久元年2月3日) ロシア軍艦による対馬占拠事件。ロシア帝国海軍中尉ニコライ・ビリリョフは軍艦ポサドニック号で対馬に来航し、尾崎浦に投錨し測量、その後浅茅湾内に進航した。
ロシア人は、宗教的白人至上主義者として、日本人を下等な野蛮人として侮蔑して暴虐の限りを尽くしていた。
中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人を奴隷として世界に売って大金を稼いでいた。
3月23日 ビリリョフ艦長は、対馬藩に対し芋崎の租借を求め。
ロシア側の本当の狙いは、日本の領土内に租借地を強奪してアジア侵略の根拠地とし、南海航路の確保であった。
イギリスは、ロシアの極東侵出を恐れ、軍艦を派遣して対馬からロシア軍艦を追いだした。
各地の攘夷派は、幕府の弱腰に激怒した。
特に長州藩過激派は、幕府が武力で対馬を守り切れない弱体ぶりに絶望し、ロシアの侵略から日本を守る為には天皇中心の国家をつくるしかなく、その為には役に立たない時代遅れの幕府を打倒するべきであるとして暴走し始めた。
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1861年4月12日?1865年5月9日 南北戦争。
アメリカは、内戦の為に日本やアジアへの干渉を後退させた。
ビスマルク「南北戦争は、欧州の金融権力(ユダヤ人金融資本家)によって誘発された」
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1862(文久2)年1月15日 坂下門外の変。尊王攘夷派の水戸浪士は、和宮降嫁に対する反幕感情から老中・安藤信正(陸奥磐城平藩の第5代藩主)を坂下門外で襲撃して、背中に負傷を負わせた。
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1865年4月15日 リンカーン大統領暗殺事件。エイブラハム・リンカーン大統領死亡。
ユダヤ人金融資本家による陰謀説がささやかれた。
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1867年 ロシアは、クリミア戦争に敗れ財政的に困窮した上に、イギリスにアラスカを盗まれる事を恐れた。
10月18日 ロシアは、アメリカに720万ドル(2005年現在の価値で9,000万ドル)で売却した。
アメリカは、アラスカとアリューシャン列島を植民地として北太平洋航路競争に本格参入した。
アリューシャン列島には、アレウト族またはアリュート族が先住民として住んでいた。
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蝦夷地(北海道)や北方領土4島のアイヌ人は、アレウト族やイヌイット(エスキモー)のように日本・ロシア・アメリカ三国の国民に組み込まれる運命で、少数民族として独立や中立はありえなかった。
それは、南の琉球王国の琉球人も同じであった。
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1868年6月10日(慶応4年閏4月20日)?11月6日(明治元年9月22日) 会津戦争。
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蝦夷共和国とは、戊辰戦争末期に蝦夷地(北海道)を支配した江戸幕府軍勢力による「事実上の政権」である蝦夷島政府を指す俗称。箱館政権とも称される。慶応3年(1867年)に15代征夷大将軍徳川慶喜が大政奉還を行って江戸幕府が消滅し、山岡鉄太郎の斡旋により新政府軍の大総督府参謀である西郷隆盛と徳川家陸軍総裁の勝海舟の会談で江戸城の無血開城が決定する。海軍副総裁榎本武揚は旧幕臣の保護と北辺防備を目的として慶応4年(1868年)8月19日に品川沖から開陽丸を旗艦に8隻の軍艦を率いて江戸を脱出し、蝦夷地に向かった。途中仙台で会津戦争で敗走した伝習隊、旧新選組や彰義隊の残党を吸収し、北上、鷲ノ木に上陸し、各地を平定、五稜郭を攻略し、箱館府知事清水谷公考を敗走させ、蝦夷地全島を支配下に置いた。
呼称
榎本ら蝦夷島政府の関係者が「蝦夷共和国」と名乗ったことはなく、また独立主権国家たると宣言したわけでもない。また、主権的な独立や地方割拠を目論んだわけではないため、「政権」「共和国」などの呼称は適切ではない。
「事実上の政権」の真相
翌11月5日、現地の英仏領事と両艦の艦長が会同して打ち合わせを行ったが、英仏領事とも、この時点では榎本軍に対して高い評価を与えていた。やがて箱館港を管理する箱館奉行永井尚志に来てもらったが、榎本は松前に出張中であり、帰るまでしばらく待って欲しいと答えた。永井は外交経験も豊富であり、彼の態度は、英仏領事のみならず、英仏艦艦長にも好印象を与えた。その会同の最中、榎本艦隊旗艦開陽丸が、賓客の来訪を歓迎する21発の礼砲を撃った。これを見たアメリカ、ロシア帝国、プロイセン(ドイツ)の領事は、英仏艦に行かずに開陽丸を表敬訪問した。
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日本の敵はロシアであったが、ドイツとアメリカはロシアに協力する仮想敵国であった。
日本にとって安心できる相手は、イギリスとフランスであった。
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1868(明治元)年7月 会津藩・庄内藩は、プロイセンに対し蝦夷地の土地売却の打診を行った。
ビスマルクは、イギリスとフランスが関係している日本の内戦に巻き込まれる事を嫌って、蝦夷地売却提案を却下した。
だが、ビスマルクは、北太平洋航路に参入を考えると好ましい提案であるとして、方針転換し、却下の3週間後に交渉を認可した。
ビスマルク文書は、後にドイツ連邦軍事文書館で発見された。
会津・庄内両藩は、プロイセンから資金を借り受ける為の担保として「蝦夷地の土地を99年間貸与」を申し出た。
プロイセンの駐日公使ブラントは、ビスマルクに「会津藩、庄内藩が蝦夷地を売り渡す変わりに軍事援助を求めてきた」との手紙を送った。
プロイセンは、会津藩にライフル銃780挺と2万ドル相当の弾薬を売る事に合意した。
官軍は、会津への銃・弾薬を新潟港に陸揚げされた所を差し押さえ、押収した。
会津軍は、官軍に敗北した。
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ガルトネル開墾条約事件あるいはガルトネル事件は、日本の幕末から明治時代最初期にかけ、函館(当時、箱館)における開墾地租借契約をめぐりプロイセン貿易商との間で発生した外交事件である。
概略
プロイセンの貿易商ライノルト・ガルトネル(以下、R.ガルトネル)は、クニッフラー商会横浜支店から同商会箱館代理店店長兼駐箱館プロイセン副領事となった弟のコンラート・ガルトネルの助力により、箱館近郊の開墾を計画した。慶応3年(1867年)箱館に近い七重村に、箱館奉行杉浦勝誠から1,500坪の開拓許可を得て開墾に向けた準備を開始した。翌慶応4年(1868年)に江戸幕府が瓦解し、この計画はいったん白紙に戻された。箱館奉行所の業務は、明治新政府が4月に設けた箱館府(設置時は箱館裁判所と呼称)が引き継ぎ、公家出身の清水谷公考が府知事に就いた。箱館府民政方判事の井上石見はR.ガルトネルと面会し、蝦夷地の開拓推進のためにR.ガルトネルの計画に同意し、7月ごろより七重村御薬園地の周辺の開墾が始まった。
そのさなかに箱館戦争がはじまり、榎本武揚が率いる蝦夷島政府が10月末に箱館を占領し、箱館府の役人は青森に退却した。R.ガルトネルは蝦夷島政府と交渉し、引き続き同様の開墾を行う同意を得、明治2年2月19日(グレゴリオ暦1869年3月31日)に「蝦夷地七重村開墾条約書」を締結した。その内容は、七重村およびその近傍の約300万坪を99年間借りることや、有志を選びヨーロッパ農法を教授すること、などであった。しかしながら事態は大きく変転し、5月11日には明治新政府軍が箱館を攻撃し、わずか1週間後の18日には榎本の降伏により蝦夷島政府は倒れた。その翌日である5月19日に再び箱館府が設置されると、R.ガルトネルはさっそく箱館府と交渉し、約1か月後の6月16日には「地所開拓之為蝦夷政府アル・ガルトネル氏の約定」および「蝦夷島開拓人員之掟則」を早々に締結した。なお、この約定には契約期限が示されていなかった。この約定により、七重村村民は自らの農地をガルトネルに横取りされるような形となってしまい、周辺住民との間には土地境界や契約を巡るトラブルが絶えず、箱館府への陳情もたびたび行われたが、混乱期でもあり省みられることがなかった。
明治2年7月8日に明治新政府により蝦夷地及び樺太の開拓を掌る開拓使が設置された。9月には蝦夷地は「北海道」に、箱館は「函館」にそれぞれ改称され(ただし後者については、『函館市史』等において異論も主張されている)、旧箱館府は「開拓使出張所」と改称され本格業務も開始された。その中で、開拓使は本件を問題視し、東京の中央政府にもこの開墾条約の存在が知らされた。この契約が定められた居留地外の案件であることや、この土地を足掛かりに蝦夷地が植民地化されるおそれもあることから、外務省は11月に開拓使へガルトネル条約の契約を破棄するよう伝えた。その後、開拓長官となった東久世通禧(前述の清水谷公考と同様に公家出身者であり、実質的には開拓次官となった黒田清隆が中心となった)とガルトネルとの厳しい交渉がおこなわれた結果、明治3年(1870年)11月に62,500両の賠償金を支払うことで契約を解消した。取り戻した土地には同月に開拓使により七重開墾場が設けられたが、その本格的な活用[明治6年(1873年)以降のこととなる。
遺された財産目録によると、開墾地にはアルファルファやクローバー等の牧草、リンゴやサクランボ、セイヨウナシなどの果樹や、牛や馬、豚などの家畜がヨーロッパより導入されている。このため、七飯町は自町を「西洋農業発祥の地」としている。また目録には、プラウなどの農具や、パン焼き竈、温室建造用のガラスなども記されている。R.ガルトネルが故国を懐かしんで植えたと言い伝えられているブナの林は現存し、樹齢100年を超えるブナの人工林は珍しいことから、「ガルトネル・ブナ保護林」として林野庁が管理している。
なお、蝦夷地北辺を防備する諸藩に対しても、ガルトネルは土地を担保に武器を提供していたことを示す書簡がドイツで見つかっている。
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1870年7月19日~1871年5月10日 普仏戦争。
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1874(明治7)年 明治新政府は、ロシアの侵略から日本を守り北海道の警備と開拓の為に屯田兵を配置した。1904(明治37)年に廃止された。
屯田兵の多くは武士で、賊軍に関係ない各藩から送り込まれていた。
日本政府は、アイヌ人の生活を脅かさない為に、屯田兵をアイヌ人が住んでいない不毛の原生林に移住させた。
屯田兵になった武士は、自分と旧藩主の名誉に賭けて、逃げ出さず原生林を切り開き開墾を行った。
庶民(百姓や町人)からなる開拓団は、土地が手に入るとして北海道に入植したが、苦労して不毛の原生林を切り開くよりも手っ取り早く開墾地を手に入れるべくアイヌ人の土地を奪っい、奪ったという後ろめたさを誤魔化す為にアイヌ人を馬鹿にし差別した。
日本人のアイヌ人差別は、国防を最優先とした日本政府や武士開拓団ではなく、土地欲しさに入植した庶民開拓団が広めた。
庶民開拓団には、国益や国防や公益など興味も関心もなく、自分の土地を手に入れる事だけであった。
そうしたアイヌ人を差別する庶民感情は、現代の北海道にも根強く存在する。
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1875(明治8)年5月7日 樺太・千島交換条約締結により日本は樺太島の領有権を完全に放棄し、全島がロシア領となる。
日本は、昔からの北方領土四島に加えて、ロシア領であった北千島と中千島を日本領に編入した。
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1877(明治10)年11月19日 北海道瀬棚海岸沖にてロシア軍艦アレウト号が暴風に煽られ座礁し、地元の日本人が乗組員60人全員を救助した。
1878年4月20日 迎えに来た軍艦エルマック号へアレウト号乗組員がボートで向かう途中高波によって転覆して、12人が犠牲になった。
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日本はロシアとの戦争に備えて軍事強化を急いだ。
日本陸軍はプロイセン陸軍を手本とし、日本海軍はイギリス海軍の協力をえた。
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ロシアとの戦争の為の囚人道路と八甲田遭難事件。
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1892年(明治26年)に加藤正之助によって第五回帝国議会へ北海道土人保護法案が提出、アイヌ自身も代表を送り法案成立を目指して国会に陳情し、1898年(明治32年)に制定。
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日露戦争は、ヨーロッパ諸国を巻き込んだ為に第ゼロ次世界大戦の様相を示し、最新近代兵器が投入された本格的な近代戦争であった。
1904~05年 日露戦争時。金沢市民は、肉親を殺した憎きロシア人兵士捕虜であっても、「おもてなしの心」で人道的に温かく迎え、戦傷や病気を治療し、死亡すれば野田山墓地に敬意を持って葬った。
ロシア人兵士捕虜の好待遇を望んだのは、天皇と皇后であった。
敵軍兵士捕虜に対する捕虜収容所における厚遇は、日清戦争の中国人や第一次世界大戦のドイツ人でも同じであった。
天皇がそれを望む以上、日本民族日本人は天皇の大御心・御稜威に従い実行した。
つまり、日本民族日本人による敵兵士に対する捕虜虐待は天皇への不忠になる為に存在しない。
天皇への忠誠心がない日本人が捕虜虐待を行った。
性善説の日本民族日本人、武士道に生きる武士・サムライは戦場から一歩でも離れれば敵味方関係なく友人と考えていた。
スターリンは、日露戦争の復讐戦と報酬戦を悲願としていた。
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1917(大正6)年 ロシア革命。
共産主義者は、組織の5%を洗脳し赤化して組織全体を自由に操っていた。
1918~22年 シベリア出兵。
日本民族日本人は、共産主義の侵略から天皇と母国を守るべく戦っていた。
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1918年5月 親を殺されたり親からはぐれたりしたロシア人上流階級の3~15才の子供達は、助け合い、庇い合いながらサンクトペテルブルグを出発し、内戦がまだ穏やかなウラル地方まで逃げてきた。
共産主義陣営でも反革命陣営でも、人種差別主義のロシア人はユダヤ人10万人以上を、女子供に関係なく虐殺していた。
共産主義者(マルクス主義者)は、人種・民族に関係なく~イズムを大義とする血に飢えた虐殺魔であった。
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1920年3月から5月 ニコライエフスク住民虐殺事件(尼港事件)。赤軍パルチザン部隊約4,300人(ロシア人3,000人、朝鮮人1,000人、中国人300人)は、反革命派ロシア人住民約8,000人と日本人民間人735人を虐殺した。
朝鮮人テロリストは、裕仁皇太子や皇族を殺すべく狙っていた。
日本民族日本人の全ての敵がそこにそろっていた。
それは、ロシア、中国、朝鮮である。
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1920年7月 勝田銀次郎と陽明丸。
シベリア出兵時。日本人軍国主義者は、報酬がなかったが、シベリアの激戦からロシア人避難児童779人(男児・428人。女児・351人)と婦人・87人を救い出し、無事にヨーロッパ側のペトログラード(現サンクトペテルブルク)に送り届けた。
世界は、日本人軍国主義者の人道貢献を絶賛した。
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日本軍は、ポーランド人学童を赤軍の攻撃から戦死者を出しながら助け出し、祖国ポーランドに送り届けた。
戦死した日本軍兵士は、靖国神社の軍神として祀られた。
日本軍と日本人軍国主義者は、人道貢献としていい事もした。
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日本は、天皇の御稜威から人道貢献として、武器を持たず戦う意思のない女性・子供・老人さらに怪我人・病人などを弱者を助けた。
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1939(昭和14)年8月23日 スターリンとヒトラーは、独ソ不可侵条約(モロトフ・リッペントロップ条約)を結んで同盟を組み、ポーランドを分割する秘密議定書を取り交わした。
9月1日 ドイツ軍は、ポーランドに侵攻した。
イギリスとフランスは、ナチス・ドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が勃発した。
9月17日 ソ連軍は、英仏がポーランドを救う為の救援軍を派遣しない事を確認して、ポーランドに侵攻して東半分を占領した。
12月12日 ソ連・ロシア人は、自国民が軍国日本に助けられても決して感謝しない。
宗谷岬で、ソ連貨物船インディギルカ号が猛吹雪の中で座礁して遭難した。
猿払(さるふつ)村の漁民や村人と稚内の警察や漁業協同組合の救助隊は、乗客1,500人の内400人程を救出したが残りは死亡した。
乗客は、700人の漁業労働者とその家族、約800人の囚人であった。
日本では死者一人一人に名前があり親兄弟や故郷があるが、ソ連の死者は無名で親兄弟も故郷もわからなかった。
無名兵士の墓とは、敬意の対象ではなく単なる石の碑にすぎなかった。
9月 ソ連とナチス・ドイツは密約を交わしてポーランドを侵略して第二次世界大戦が勃発した。
ロシア人共産主義者は、人民の正義によって、ポーランド人の民族主義者、民主主義者、自由主義者、政治家、軍人、資本家、学者、宗教関係者などを反共産主義者・反革命分子として虐殺した。
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ソ連が、ナチス・ドイツとの大祖国戦争で勝利できたのは日本軍のお陰であった。
ナチス・ドイツは、日本に対して、アメリカの対ソ支援輸送路ウラジオストック・ルートの遮断を要請した。
日本軍は、拒否し、アメリカの輸送船団の通過を黙認した。
ドイツ軍は、ロシア軍の大攻勢で敗北し敗走し始めた。
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日中戦争も太平洋戦争も、ソ連の陰謀である。
日本は戦争をしたくなかったが、ソ連の工作で戦争へと追い込まれていった。
レーニンが企画し、スターリンが命じ、毛沢東とルーズベルトが実行した。
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昭和天皇と東条英機らA級戦犯たちは、ヒトラーから逃げて来た数万人のポーランド・ユダヤ人難民を無償で助け、ナチス・ドイツからの圧力を無視し、彼らを安全地帯に逃がした。
上海ゲットーホロコースト阻止事件。松岡洋右や松井石根らA級戦犯と日本陸軍は、ゲシュタポと反ユダヤ主義者が上海ゲットーでホロコーストを行おうとしたのを阻止し、数万人のユダヤ人難民を助けた。
アメリカ・イギリスなどの連合国、バチカン、国際赤十字は、ホロコースト情報を得ていても否定して、ユダヤ人達を見殺しにした。
ワルシャワ蜂起。ソ連軍は、ワルシャワゲットーのユダヤ人を助けず見捨てた。
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ロシア人共産主義者は、日本を共産化する為に、天皇制度を廃絶し、昭和天皇や皇族と天皇主義者を全員虐殺する為に暴力的共産主義革命=敗戦革命を起こそうとした。
日本人共産主義者テロリストは、昭和天皇や皇族を殺そうとしていた。
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ロシア人共産主義者は、満州や樺太で数十万人の逃げ惑う日本人の女性や子供を虐殺した。
日本人女性は、ロシア人共産主義者によって強姦され、そして惨殺された。
ソ連軍戦車は、日本人の女性や子供達を生きたまま轢き殺しながら日本に向かって侵略を続けた。
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日本は戦争を止めるべくソ連に連合軍への停戦交渉の仲介を依頼したが、ソ連は日本の領土を強奪すべく陰険か手段を使って騙した。
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ソ連(ロシア)は不法行為を承知で北方領土四島を武力で強奪した。
ソ連(ロシア)は、強欲で、国際法を無視し、人としての信義も情理も踏みにじって日本の領土を暴力で奪った。
ロシア人に、人権、人道、道理、分別、道義、信義、情義など、日本人が思いつく限りの人の道を話した所で無意味である。
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ロシアは、戦争犯罪国家日本に対する全ての行為は合法で正当性があるり、戦勝国の当然の権利だと主張している。
戦勝国には、敗戦国及び敗戦国の国民に対する生殺与奪の権利は国際法で認められていると。
つまり、敗戦国は文句を言わず、戦勝国の言う事を無条件で聞き受け容れるべきであると。
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北方領土四島返還を二島返還や面積2分の1分割案は、ロシア人共産主義者による日本人女性の強姦や殺害を不問に付す事である。
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1988(昭和63)年1月29日 日本の外相は、国連にアイヌを日本の少数民族であると報告した。
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1992(平成4)年1月2日未明 島根県隠岐島沖の日本海でナホトカ号重油流出事故。
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地球温暖化で北極海航路が可能となれば、中国、韓国、北朝鮮が北方領土4島問題に介入してくる事になる。
日本の目の前に立ちはだかるは、ロシア、中国、朝鮮(韓国・北朝鮮)であった。
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日本人は、お人好しのバカであった。
しょせん、ロシア人は中国人や朝鮮人同様に信用できない。
ロシア人を助けようとして戦死した靖国神社の英霊は、無駄死に、犬死に、バカな死に方をした愚か者である。
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