🐉12」─3─ロシア共産党はいかにして中国という共産主義国家を作ったのか。~No.46 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 明治後期から大正期に、日本に留学した数万人の中国人は、親日知日として日中友好の為に活動した中国人は数少なく、多くの中国人が敵日反日として日中戦争を戦った。
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 中国共産党結党当時の、毛沢東以外の幹部達は日本留学組であり、日本の最高学府でマルクス主義学者から人民暴力革命の共産主義を学んだ。
 その意味において、インテリ中国共産党は日本で生まれた。
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 レーニンは、世界人民革命戦略から、中国共産党日本共産党など極東アジア共産主義者に対して、日本とアメリカを戦争させ世界戦争に拡大し、西洋列強の富と力の源であるアジアの植民地を解放するように示唆した。
 コミンテルンは、世界人民革命の為に中国共産党日本共産党を作った。
 レーニンは、日中戦争を起こす為に、孫文蒋介石ファシスト中国(中国国民党)を反天皇反日の国際的共産主義陣営に引き込んだ。第一回国共合作である。
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 日本の軍部・陸軍・右翼・右派は、孫文共産主義という悪魔と手を組んだ裏切り者として支援を打ち切り、滅ぼすべき敵と見なした。
 中国共産党は中国を反日一色となし、反日有理・愛国無罪として在中国日本人に対する挑発行為、虐殺テロを続発させた。
 日本政府と外務省は、日中友好を第一として中国人に惨殺される日本人を見殺しにした。
 中国大陸で生活する日本人移住者は、生命財産を守るべく軍部・陸軍に保護と反日敵日派中国人の取り締まりを求めた。
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 日本人の共産主義者無政府主義者テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
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 32年テーゼ。
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 2024年6月21日 YAHOO!JAPANニュース JBpress「ソ連共産党はいかにして中国という共産主義国家を作ったのか?ソビエトロシアの世界戦略と毛沢東のキャリア形成
 天安門広場に掲げられた「毛沢東肖像画」(写真:ロイター/アフロ)
 2023年12月26日は、毛沢東の生誕130年だった。中国各地では記念の催しが開かれ、習近平指導部が功績を称えた。「建国の父」と呼ばれた毛沢東は、いかにして大学の図書館のアルバイトから大国の指導者にまで上り詰めたのか。背後では、いかにロシアが操っていたのか。『毛沢東 革命と独裁の原点』(中央公論新社)を上梓した、現代中国論が専門の、神田外語大学教授 興梠一郎氏に聞いた。(聞き手:長野光、ビデオジャーナリスト)
【写真】北京大学の学生や当時の知識人に共産主義ロシア革命を伝えたヴォイチンスキー。中国共産党の設立、その後のストライキ労働組合の組織化もロシア共産党が裏で糸を引いていた
 ──本書では、毛沢東の生涯とその実像、毛沢東が今日の中国をいかに形作ったのか、について書かれています。「この本の執筆におよそ30年かかった」とあとがきに書かれています。
 興梠一郎氏(以下、興梠):中国では1990年代に、毛沢東の若い頃の手紙や文章、本の書き込みなど様々な資料をまとめた公式文献が相次いで出版されました。
 そうした文献によって、毛沢東が実は若い頃は民主化運動をしていたとか、連邦制を支持し「湖南共和国」の樹立を目指していたとか、流血をともなう革命には反対していたなど、後年の毛沢東からは想像もできないような実像が明らかになりました。
 その時に、これまで知られていなかった毛沢東を書いてみたいと考えたのです。こうした史料を読み込むと、毛沢東を通して中国共産党がどのようにできて、そこにソ連がいかに関わっていたのかということも見えてきました。
 ──毛沢東と父親の関係にも触れられています。
 興梠:アメリカのジャーナリスト、エドガー・スノーが書いた『中国の赤い星』が毛沢東のイメージとして広く定着していますが、それとは異なる側面もいろいろとあります。毛沢東の出身地の湖南省韶山(しょうざん)では、様々な逸話が語り継がれており、地元の歴史家の描く毛沢東はもっと多彩です。
 たとえば、毛沢東がスノーに語った父親像は、子どもに厳しくケチな人といった印象ですが、実際の父親像はもっと複雑です。
 毛沢東は農家の長男でしたが、塾だけでなく、学校にも行かせてもらっていました。父は毛沢東に教育の機会を与えていたのです。毛沢東は最終的に師範学校まで行き、小学校の教師になる資格を得ています。
 毛沢東は農家の後継ぎでしたが、親戚を動員して父を説得し、都会の学校に通い、実家に戻ることを拒み続けました。毛沢東の父は半ば文句を言いながらも、それを容認していたのです。実家は、弟が切り盛りしていました。
 ──若かりし日の毛沢東に関する記述を読むと、作文がたいへん上手く、いろんな人を感動させていたという印象を受けます。この能力は後に彼が指導者になっていく上で重要だったのではないですか? 
 興梠:毛沢東が作文を書くのが上手かったという話は、最高指導者になってから語られている部分もあるのですが、彼が受験で書いた作文が教師に気に入られ、入学を認められたというエピソードがあります。
 塾に通っていた時代に古典を教え込まれたことが受験の時に役立ったと言われていますが、本人が一番好きだったのは『水滸伝』のような反逆をテーマにした文学作品でした。こうした読み物は「雑書」と呼ばれ、塾では認められていませんでしたが、彼はこっそり読んでいました。
 毛沢東がのちに新聞や雑誌に投稿した文章は、論旨が明快で、ジャーナリステックですが、これは新聞を読むのが好きだったことや、梁啓超(りょう・けいちょう)や陳独秀(ちん・どくしゅう)など、当時、論壇で活躍していた知識人の文章から大きな影響を受けていたからです。
 ──学生時代の毛沢東は、新聞や本などを、朝から晩までむさぼり読んでいたことが本書からうかがえます。どんな本を読んでいたのでしょうか? 
■ 若き毛沢東が日本に抱いていたイメージ
 興梠:塾では経書を読まされていましたが、農作業の合間に隠れていろんな本を読んでいました。最初は中国の古典や雑書を読んでいましたが、後に国際情勢に関する本を借りて読み、外の世界に目を開かれます。そういう本を通して、世界における中国の置かれた状況を理解し始め、農村から出て都会の学校で学びたいという気持ちが強まります。
 やがて都会の長沙に出た後は、革命思想に触れただけでなく、図書館に通って西欧思想の訳本を読み始めます。アダム・スミスモンテスキュージョン・スチュアート・ミルなどの著作を読むようになります。
 ──けっこう自由にいろいろ読める環境だったのですね。
 興梠:中国は当時、時代が大きく変わる激動の中にありました。辛亥革命によって、清朝が倒れて中華民国が樹立される頃です。各地で軍閥が台頭し、中国が分裂した状態で、一つの時代が終わり、次の時代が始まるタイミングです。今の中国と異なり、当時は統制がきかず、禁書になるような本もいろんなルートで出回っていました。
 また、当時の中国では、欧米の思想や技術を取り入れ、短期間で強国化した日本に学ぼうとする意識が強く、欧米の書籍が翻訳され、出版されていました。欧米の先進的な知識がないと世界で伍していけないという感覚がありました。
 日本留学も流行っており、彼の恩師・楊昌済(よう・しょうさい)だけでなく、中国共産党の創設メンバーである陳独秀や李大釗(り・たいしょう)などは、みな日本留学帰りです。
 ──毛沢東自身は海外の書籍から多くを学んでいたのに、自分が指導者になると、そういったものを国民が手に取る機会を封じていきますよね。
 興梠:そうです。これは、この本のテーマでもありますが、若い頃の毛沢東は欧米の民主主義が良いと考えていた。「中国は大きすぎるから連邦制にして、国を分割するべきだ」という思想さえ持っていました。
 「湖南省を湖南共和国にしたほうがいい」と主張していましたが、これは、当時の時代の風潮で、毛沢東が憧れていた日本留学帰りの陳独秀らも「連邦制」を提唱していたので、その影響は大きかった。
 ──毛沢東が日本を「勁敵(けいてき)」と考えていたと書かれています。毛沢東は日本に対して、どのような印象を持っていたのでしょうか? 
 興梠:毛沢東は当時、単純に日本が嫌いだったというわけではありませんでした。袁世凱(えん・せいがい)政権の時代に、日本は中国に対して「対華21カ条」(※)を突きつけ、中国で反日ブームが巻き起こった。
 その結果、毛沢東は「日本は勁敵だ」と主張しますが、同時に日本に留学したいと思っていました。「敵と戦うには、敵のことを知らなければならない」という意識があったと思います。日本はなぜあんなに強くなったのか知りたいと考えたのです。
 ※対華21カ条:1915年、第一次世界大戦中を機にドイツに宣戦布告し、山東省を占領した日本が同省のドイツ権益の譲渡や南満州などの利権確保を図り、袁世凱政権に突きつけた要求
 これは、陳独秀や李大釗など当時の中国の知識人たちの共通の感覚だったと思います。「なぜあんな小さな国が、日清戦争で大国の清を打ち負かしたのか」「強国ロシアに勝ったのか」という問題意識があった。日本は、短期間に欧米の知識を吸収し、富国強兵を成し遂げたので「明治維新」が一つのキーワードになっていたのです。
 毛沢東のいた師範学校のある、湖南省長沙市(ちょうさし)は大都市ですが、そこは一時期「小日本」と言われるほど、日本の影響が色濃く見られました。毛沢東も「日本に行きたい」と思っていました。日本への留学生も湖南省の出身者が多く、彼の恩師の楊昌済もその一人でした。
■ 中国の世論が欧米や日本からロシアに傾いた理由
 ──毛沢東は最初、アメリカや欧州、そして日本から影響を受けていますが、次第にロシアからの影響を強めていきます。なぜ最終的にロシアだったのでしょうか? 
 興梠:第一次大戦の後に開かれた「パリ講和会議」が原因です。中国は戦勝国であったにもかかわらず、敗戦国のドイツが山東省に有していた権益が日本に譲渡されることになりました。
 この時に、欧米に期待していた人々は裏切られたと感じ、欧米に批判的になりました。憧れの対象だった西欧が日本に妥協したことで、陳独秀毛沢東は欧米を違った目で見るようになったのです。
 そこにすかさず、ソビエトロシア(1922年からソ連)が「私たちは、過去に奪った利権を無償でお返しします」とアプローチします。これが「カラハン宣言」です。結局、返還は実現しなかったのですが、この宣言で中国の世論は一挙に親ソに傾きました。
 そして、カラハン宣言と同じタイミングで、ソビエトロシアが中国共産党の設立を画策します。まず、世論を親ソにして、そこから共産主義を広めていくのです。このように、中国共産党の形成過程におけるソビエトロシアや日本の影響はたいへん大きなものがあります。
 ──若き思想家だった毛沢東に、革命運動を起こすようアドバイスした最初の人物に、蔡和森(さい・わしん)というフランスに留学していた毛沢東の友人がいます。毛沢東にとって、蔡和森はどのような存在だったと思われますか? 
 興梠:蔡和森は、毛沢東師範学校で学んでいた時の友人です。「新民学会」という学生団体を立ち上げた仲間でもありました。蔡和森は働きながら学ぶプログラムで、フランスに留学しました。
 蔡和森は、フランスで共産主義のパンフレットを読みまくっていましたが、その頃の毛沢東は中国で湖南自治運動など共産主義とは関係のないことをやっていました。まだ、平和的なデモで軍閥を説得して政治を変えられると思っていた頃です。
 しかし、毛沢東は湖南自治運動が失敗して絶望します。「平和的な民主化運動はダメだ」「結局は力なのだ」「血が流れても革命しかないのだ」と考えた毛沢東は、フランスで共産主義運動に触れていた蔡和森と共鳴していくのです。文通を通して二人は意見を交換していました。
 「(革命活動は)秘密にすべきだ」など、蔡和森は毛沢東に様々なアドバイスをしています。蔡和森はフランスで、共産主義の文献などを読んでいたからです。
 ちょうどその頃、陳独秀がグリゴリー・ヴォイチンスキーというソビエトロシアの使者と会って、共産党設立の準備をしていました。こうした流れがつながっていくのです。
 ──中国に共産主義が導入されていく過程で、ヴォイチンスキーという人物が活躍した経緯が本書に書かれています。
■ ロシア共産党が糸を引いていた暴動
 興梠:ロシア共産党(1952年にソ連共産党に改名)の極東局ウラジオストック分局から中国に送り込まれてきたのが、ヴォイチンスキーでした。彼は、通信社設立の名目で中国に入り込みました。そして北京大学に行き、早稲田大学で学んだ李大釗に接触したのです。
 李大釗は日本留学時代、京都帝国大学の経済学者・河上肇(かわかみ・はじめ)の影響を受け、マルクス主義に傾倒し、中国でその思想を広めました。
 毛沢東は、湖南第一師範の恩師・楊昌済が北京大学に栄転になったので、そのつてで、北京大学の図書館でアルバイトをしていました。その時に北京大学の図書館長だったのが李大釗です。こうして、毛沢東と李大釗の間に接点ができます。
 毛沢東北京大学の学生ではありませんでしたが、聴講を許可され、様々な研究会にも参加するようになりました。そこで学んだ新聞発行のテクニッは、湖南に戻って新聞を発行する時に役立ちました。
 李大釗と接触することに成功したヴォイチンスキーは、学生たちにロシア革命の話をしました。皆が欧米に失望し、ソビエトロシアに親しみを覚え始めたタイミングです。ヴォイチンスキーは、ロシア語を読めない中国人が多いことを想定し、わざわざ英語やドイツ語で書かれた共産主義ロシア革命に関する文献を持参していました。
 李大釗はヴォイチンスキーに陳独秀を紹介しました。陳独秀は当時、北京大学を去り、自分が刊行していた「新青年」という雑誌も上手くいかなくなり、行き詰っていました。
 以前は論壇のスターだったのに、投獄されるなどして悶々としており、上海に逃れていた。ちょうど欧米に失望し、ロシアに憧れを抱き始めた時に、ヴォイチンスキーがすっと接近してきたのです。その後、「新青年」もソビエトロシアの資金が提供され、共産党機関誌として発行されるようになりました。
 ──誰にアプローチすべきか、ソ連はよく調べていたのですね。
 興梠:ロシア共産党に入党した華僑が、誰が狙い目かを教えていました。北京大学の李大釗の同僚のロシア語の教師だったセルゲイ・ポレヴォイも、共産党の連絡員だったと言われています。
 しかし、そんなことは誰も知りません。李大釗だってヴォイチンスキーが共産党から送り込まれてきたとは知らず、新聞記者と思っていたらしい。まさに地下工作です。そうやってターゲットを取り込み、世論を作り、すっと入っていくんですね。
 ──中国共産党は、コミンテルン共産主義インターナショナル。1919年、レーニンらの指導の下、ロシア共産党が中心となって設立した国際共産主義を推進するための組織)から多大な支援を得ています。コミンテルンはどれくらい深く中国共産党に関わっていたのでしょうか? 
 興梠:中国共産党は当時、「コミンテルン中国支部」であり、モスクワの指示は絶対で、服従しなければなりませんでした。ロシア共産党は活動資金を拠出しただけでなく、人も派遣し、指揮しました。公開された旧ソ連の史料を見れば、コミンテルンがいろいろと細かい指示を出していたことがわかります。
 ソビエトロシアの目的は、中国に親ソ政権を樹立し、衛星国にすることでした。暴動やストライキから革命を起こそうとしますが、こうした活動は、コミンテルンが裏で指揮していました。
 中国では、ソビエトロシアが指揮した暴動は「起義」と呼ばれていますが、実際は、ロシア革命の手法を踏襲し、政権を奪取するために起こした「暴動」でした。モスクワが後ろで組織していたのです。
■ 毛沢東中国共産党で大抜擢された背景
 ──ストライキをたくさん起こしたと書かれていました。
 興梠:はい。ストライキ労働組合の組織化も、モスクワが中国共産党に指示したものであり、ノルマでした。
 ──現場に不満があって、自然とストライキが起きたのではなかったのですね。
 興梠:不満を見つけ、それを利用し、組織化するのです。労働運動を利用して党員を増やし、党組織を拡大し、政権を奪取するのが最終目的です。
 たとえば、中国に夜学という学校を作り、学びたい労働者を集めます。当時、字を書けない人が多かったので、字の書き方などを教えましたが、これは、党組織を拡大するための第一歩でした。
 それは共産党の学校で、そこで「階級意識」を植え付け、ストライキに動員し、めぼしい人間をリクルートして入党させていく。経済的利益もエサでした。労働者の教育の他にも、労働者が安く買い物ができる場所を提供したりしました。
 労働運動は、コミンテルン中国共産党に課したノルマでした。労働者を取り込む時には、「賃金が安い」などの不満を見つけて、そこに火をつける。いきなり煽動しても立ち上がりませんから、勉強を教える形をとって、思想教育を行い、階級意識を植え付け、革命に動員するわけです。
 当時、コミンテルンから指示を受けていたのは、中国共産党トップの陳独秀です。彼がその指示を地方のトップに伝えましたが、ノルマを上手く達成したのが毛沢東でした。湖南省は特に成績が良かったので、コミンテルン陳独秀から評価され、毛沢東は党中央に大抜擢されます。
 コミンテルンが出資し、中国で発行していた共産主義の文献なども毛沢東は売りさばきました。毛沢東は「文化書社」という書店も経営しており、そこでもそうした文献も販売しました。
 彼は、ビジネスセンスがあり、売り上げも好調でした。毛沢東は子どもの頃、農家でありながら、手広く商売もしていた父親に帳簿を付けるよう教え込まれています。その後、文化書社は、共産党の拠点となっていきます。
 このように、中国共産党設立の背景には、当時のソビエトロシア(後のソ連)の世界戦略があり、中国共産党政権の誕生もソビエトロシアの存在なくしては語れません。
 中国革命は、中国共産党が単独で成し遂げたのではなく、当時のソビエトロシアの国策と深く関わっていました。毛沢東の初期のキャリア形成もそうした背景の中で見る必要があります。
 長野光(ながの・ひかる)
 ビデオジャーナリスト
 高校卒業後に渡米、米ラトガーズ大学卒業(専攻は美術)。芸術家のアシスタント、テレビ番組制作会社、日経BPニューヨーク支局記者、市場調査会社などを経て独立。JBpressの動画シリーズ「Straight Talk」リポーター。YouTubeチャンネル「著者が語る」を運営し、本の著者にインタビューしている。
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