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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
中国共産党は、大虐殺時代であった毛沢東時代へと先祖帰りし、台湾や沖縄など周辺諸国へと勢力圏の拡大を測っている。
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2024年6月22日 YAHOO!JAPANニュース 夕刊フジ「映画「キリング・フィールド」から学ぶ中国・習近平政権の脅威 毛沢東主義による最大200万人の大量虐殺描く
キリング・フィールド
【大人のエンタメ】
最近、中国の習近平政権による近隣諸国への覇権主義と浸透工作が、ますますエスカレーションしている。
わが国の尖閣諸島への日常的な領海侵入をはじめ、台湾への軍事的恫喝(どうかつ)、台湾の野党を利用した頼清徳政権への揺さぶり、南シナ海でのフィリピン、ベトナムへの威嚇行為など、それこそ数えあげたらきりがない。
つい先日話題となった日本国内での中国人の傍若無人な振る舞いも、無論それらと連動している。すべて、毛沢東主義者である習主席の思惑から生じていることを肝に銘ずべきだ。
そこで同じ毛沢東主義が、かつて隣国に恐るべき災いをもたらした現代史を映像化した臨場感あふれる傑作映画を紹介し、今の時代と照らし合わせてみよう。
1970年代のカンボジアを舞台とした「キリング・フィールド」(84年)は、カンボジア共産党(ポルポト派)によって首都プノンペンが「解放」された際に起きた革命派による大虐殺を、史実に基づき描いたものである。
物語はニューヨーク・タイムズの記者シャンバーグと現地通訳ガイドとして雇われたディス・プランとの絆を中心に展開していく。
作品が公開された当時、日本の左翼から「共産主義を誤解させる」といった批判を受けたが、国連が支援したカンボジア特別法廷が「ポルポト派」の行った最大200万人ともいわれる大量虐殺を証明しているため、左翼側の同種の革命派弁護論は完全に破綻した。
またポルポト派指導者たちは、すでに終身刑などが確定している。
忘れてはならないのは、ポルポト派が大虐殺を行った背景には中国の毛沢東や文革派の存在があったことである。
映画の中でポルポト派を攻撃してくる戦闘機が出てくるシーンにご注目を。機体に赤い星のマークがはっきりと確認できる。これはベトナム軍を示すマークだが、映画公開時に、その意味を解説する批評はなかった。
当時は、まだベトナムのカンボジア侵攻を批判する中国のプロパガンダが、日本のマスコミに浸透していたせいである。
だが、今ではベトナムがカンボジア国境を越え、ポルポト派を攻撃した理由は明らかだろう。今また毛沢東主義の恐怖が、近隣諸国に迫りつつあるのだ。 (瀬戸川宗太)
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日本のリベラル左派は、「共産主義を誤解させる」といった批判からカンボジア共産党(ポルポト派)がおこなった映画「キリング・フィールド」を批判した。
日本の反米派・反安保派・反自衛隊派とカンボジア共産党、中国共産党。
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中国共産党は、日本から尖閣諸島・沖縄、沖ノ鳥島、北海道を強奪しようとしている。
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2022年12月23日 毎日新聞「200万人虐殺の裁判終結 キリングフィールド包む癒やしと無念
高木香奈
ファン元国家幹部会議長(左)=9月22日、同法廷のホームページから
極端な共産主義思想を信奉する政権によって、当時の国民の4分の1に当たる200万人以上が命を落としたとされる大量虐殺が1970年代後半のカンボジアで起きた。その後、当時の政権幹部らの責任を問う特別法廷が開かれ、今年9月に最後の判決が言い渡された。日本や国連なども関わった法の裁きは、「キリングフィールド」(殺りくの大地)と呼ばれたカンボジアの再建に何をもたらしたのか。当事者たちを訪ねた。
91歳の政権元幹部に終身刑
プノンペンに住むチュン・メイさん(91)は9月22日、郊外にある特別法廷に足を運び、傍聴席に座った。起訴されたポル・ポト政権元幹部ら5人の中で唯一存命のキュー・サムファン元国家幹部会議長(91)の判決を聞くためだ。新型コロナウイルス対策で傍聴席の数は限定されたが、建物外には法廷内部を中継するモニターが設置され、各地から訪れた市民が様子を見守っていた。
白っぽい上着とマスク姿で車椅子に座ったサムファン元議長。政権の序列5位だった人物には、ベトナム人や少数民族チャム族の虐殺などについて最高刑の終身刑が言い渡された。2016年には分割審理された住民の強制移住や政治的迫害などに関する罪で終身刑が確定している。
メイさんは「被告の姿には衰えを感じたが、私も同年齢。あの時代から長い時がたったと感じた」と語る。
秘密収容所への連行
75年4月、プノンペンを占領したポト派の兵士たちは人々を農村へと移動させ強制労働に従事させた。メイさん一家は数日間目的地を告げられないまま歩かされ、3歳だった長男は道中で高熱を出して死亡した。
その後プノンペンの繊維工場で働かされたメイさんは78年10月、ポト派党員に車に乗るよう促された。「ベトナムで修理の仕事をする」。だが実際には車は市内で止まり、党員に目隠しをされ手を縛られた。連行された先は当時、存在自体が秘密とされた政治犯収容所「S21」。後に1万2000人以上が拷問の末死亡したことが判明する、虐殺の象徴的な施設だ。
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2007年8月25日 しんぶん赤旗 日本共産党中央委員会
米大統領の侵略正当化発言
ベトナム外務省が反論
戦争の事実が逆さま
【ハノイ=井上歩】ベトナム外務省のレ・ズン報道官は二十三日、ブッシュ米大統領が前日のミズーリ州でのイラク政策演説で米国のベトナム侵略戦争を正当化したことに対し、「戦争はベトナム人民に非常に大きな損害を与えた」「私たちは祖国防衛のための戦争をし、それはベトナム人民の正義のための戦争だった」と反論しました。
ブッシュ大統領は米軍のイラク駐留継続をはかるため、ベトナムからの「米国の撤退の代償は、再教育キャンプ、ボートピープル、キリングフィールド(大量殺人現場)といった新しい言葉とともに数百万の無実の市民の苦痛で支払われた」と述べました。
さらに、「オサマ・ビンラディンは、米国民がベトナム戦争で政府に反対して立ち上がった、今日も同じようにすべきだと言っている。これもベトナムからの撤退の代償だ」などとも主張しました。
レ・ズン報道官は「戦争の傷跡はいまに至るまで残っており、戦争を忘れるベトナム人民はいないといえる」と強調。同時に、「ベトナム人は平和を愛するため、過去を忘れることはないが、現在を重視し、未来を志向し、すべての国と良好な関係を持っている。米国もその一つだ」と述べました。
ベトナム戦争で米国は、後にウソだったことが明らかになる一九六四年の「トンキン湾事件」を口実に侵略を拡大。この戦争でベトナム人三百万人、米兵六万人の命が奪われました。米軍が大量に散布した枯れ葉剤は三百万人といわれるベトナム人に被害を与えました。
ブッシュ大統領はまた、「(朝鮮やベトナムの共産主義者が)イデオロギーを他者に強制することにわれわれが立ちふさがったため、彼らはアメリカ人を殺した」と、かつてのドミノ理論を正当化しました。
ドミノ理論は、ベトナムなどが共産主義化すれば周辺諸国も「ドミノの列のように倒れてしまう」(アイゼンハワー大統領)というもので、侵攻の口実にしました。しかし、ベトナム戦争を推進したマクナマラ国防長官自身が、ドミノ理論は「強迫観念」「ものの見方の誤り」だったと認めています。
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株式会社扶桑社
カンボジアに行ったら中国共産党のひどさがわかった!大陸に飲み込まれないためにインドシナの歴史から日本人が学ぶべきこととは?
『米中ソに翻弄されたアジア史 カンボジアで考えた日本の対アジア戦略』(著者:江崎道朗、福島香織、宮脇淳子)株式会社扶桑社より9月28日発売。
株式会社扶桑社
2020年9月18日 15時35分
中国共産党による各国への〝共産主義浸透工作”は今なお続いている!
それは日本にとって決して他人事ではない。
『米中ソに翻弄されたアジア史 カンボジアで考えた日本の対アジア戦略』表紙
この度(株)扶桑社より、『米中ソに翻弄されたアジア史』を9月28日に発売いたします。
タイやベトナムほど観光地としても市場としてもメジャーではない、しかし、東南アジアで今もっとも中国の"植民地化”が進み、中国人客があふれているカンボジア。本書は現地を取材した3人の論客が、その歴史・政治、ひいては日本と中国との関係について分析と議論を重ね、多角的かつコンパクトにまとめた一冊です。
【概要】
カンボジアを訪れるたいていの観光客が見学するキリング・フィールド、虐殺博物館。
拷問の限りを尽くされ亡くなった、罪なき人々の断末魔が聞こえるような展示に、クメール・ルージュ(カンボジア共産党)の残虐性を伺い知ることのできる場所である。
こうした残忍な「革命」は、中国とカンボジアだけでなく、当時(1970年代)、世界各地で行なわれた。
カンボジアは特に、1958年の大躍進政策から文化大革命(1966年~1976年)の頃の中国とおぞましいほどに似ている。拷問のやり方までそっくりであった。
・文化レベルが高く豊かなカンボジアで、なぜポル・ポト派による大虐殺が起きたのか?
・中共の革命輸出がどのようになされたのか。
・カンボジアだけでなく東南アジアすべてにおいて、華僑・華人がどのような役割を果たしてきたのか。
私たちはこれらについてもっとよく知らなくてはいけないと、著者たちは力説する。
それは、決して他人事ではなく、今、日本が直面している出来事でもあるからである。
米中新冷戦を軸にした新たな国際秩序の枠組みへの転換を伴う激動の時代が幕を開ける、第三次世界大戦前夜ともいえるような不確実性のなかで、今後、日本と日本人が何をすべきか、どんな未来を描くべきかを問う。
■内容・目次
第一章 歴史編 現代カンボジアを知るための東南アジア史概説/宮脇淳子
─地理に始まり、古代から現代にいたるインドシナ半島の歴史を、カンボジアに焦点を当てて解説
第二章 政治編 カンボジアの反仏独立闘争と日本/江崎道朗
─前編:日本敗戦のあと復員せず、カンボジアの独立運動を助けた日本人、只熊力氏を通して反仏独立戦争を解説。
─後編:米中ソの間で自己の権力確立だけを画策して内戦を引き起こすことになったシハヌーク国王の実態を描く。
第三章 国際関係編 中国化するカンボジアのゆくえ/福島香織
─カンボジア生まれの華人工作員、周徳高のオーラル・ヒストリーに基づいて、華人視点からクメール・ルージュと中共の関係を考察。中共の革命輸出がどのようになされたのか、カンボジアだけでなく、東南アジアすべてにおいて華僑・華人がどのような役割を果たしてきたかを解説する。
第四章 鼎談編 中共の暴虐とインドシナの命運
今、気鋭の執筆陣による画期的な“真実のインドシナ史”
■著者プロフィール
江崎道朗(えざき・みちお)
評論家。1962(昭和37)年、東京都生まれ。九州大学卒業後、月刊誌編集、団体職員、国会議員政策スタッフを務めたのち、安全保障、インテリジェンス、近現代史などに幅広い知見を有する。論壇誌への寄稿多数。2019年第20回正論新風賞受賞。著書に、『インテリジェンスと保守自由主義 新型コロナに見る日本の動向』(青林堂)、『日本は誰と戦ったのか』(KKベストセラーズ、第1回アパ日本再興大賞受賞)、『日本外務省はソ連の対米工作を知っていた』(育鵬社)、『言ってはいけない!? 国家論』(渡部悦和氏との共著、扶桑社)など多数
福島香織(ふくしま・かおり)
ジャーナリスト。1967(昭和42)年奈良県生まれ。大阪大学文学部卒業後、1991年、産経新聞社に入社。上海復旦大学に業務留学後、香港支局長、中国総局(北京)駐在記者、政治部記者などを経て2009年に退社。以降は月刊誌、週刊誌に寄稿。ラジオ、テレビでのコメンテーターも務める。月刊誌『Hanada』、WEBニュース『JBプレス』で連載中。ウェブマガジン「福島香織の中国趣聞(チャイナゴシップス)」毎週月曜発行。Twitter: @kaori0516kaori
宮脇淳子 (みやわき・じゅんこ)
東洋史家。1952(昭和27)年、和歌山県生まれ。京都大学文学部卒、大阪大学大学院博士課程満期退学。博士(学術)。専攻は東洋史。故・岡田英弘(東京外国語大学名誉教授)からモンゴル語・満洲語・シナ史を、山口瑞鳳(東京大学名誉教授)からチベット語・チベット史を学ぶ。東京外国語大学、常磐大学、国士館大学、東京大学などの非常勤講師を歴任。著書に『満洲国から見た近現代史の真実』『皇帝たちの中国史』(ともに徳間書店)、『世界史のなかの蒙古襲来』(扶桑社)、『日本人が知らない満洲国の真実』『朝鮮半島をめぐる歴史歪曲の舞台裏』(ともに扶桑社新書)、共著に『清朝とは何か』(藤原書店)、『中央ユーラシアの世界』(山川出版社)などがある。
■書誌情報
タイトル:『米中ソに翻弄されたアジア史 カンボジアで考えた日本の対アジア戦略』
著者:江崎道朗、福島香織、宮脇淳子
発売日:2020年9月28日
判型:四六判
定価:本体1500円+税
ISBN:978-4-594-08601-5
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日本国際問題研究所
コラム
カンボジアの悲劇を生んだ国際的背景-ポル・ポト裁判の今日的意味を考える-
2006-07-21
友田 錫(所長)
1970年代後半に当時のカンボジアの人口の四分の一、170万人から180万人を虐殺したとされるポル・ポト政権*。その「人道に対する罪」を裁くポル・ポト裁判が9年におよぶ紆余曲折の末、ついに開始の軌道に乗った。7月はじめプノンペンの王宮で裁判官と検事の宣誓就任式が行われたからだ。実際にこの特別法廷が開かれるのはほぼ1年後、2審制の裁判が結審するまでには3年かかるといわれる。この裁判で問われる問題はあまりにも多いが、この稿では、ポル・ポト政権という妖怪を生み出し、肥大化させた国際的背景、とりわけインドシナで繰り広げられた国際政治の対立・抗争の影響に絞って考えてみたい。
第一に、そもそもポル・ポトが権力への道に踏み出すきっかけを与えたのはベトナム戦争だった。ポル・ポトとその一派はクメール人民革命党、次いでカンボジア共産党を名乗っていたものの、1970年までその実態は、当時の国家元首、シアヌーク殿下の政権に弾圧されて地下に潜っていた一握りの左翼過激分子の集まりにすぎなかった。ところが1970年3月、右派ロン・ノル将軍(首相)が北ベトナム寄り中立を掲げるシアヌーク国家元首を追放するクーデターを起こし、その結果、中国と北ベトナムの肝煎りで、北京にシアヌーク=ポル・ポトという呉越同舟の反ロン・ノル連合政権、すなわちカンボジア王国民族連合政府が生まれた。
それまでカンボジアのジャングルにひそむ小規模なゲリラ勢力に過ぎなかったポル・ポト一派は、この反ロン・ノル連合政権を足がかりに、とりわけ国民の声望の厚いシアヌーク殿下と組んだことで、カンボジアジア国内でみるみる勢力を広げた。クーデターの背後には、シアヌーク殿下の親北路線を敵視したアメリカの情報機関、あるいは保守的な旧フランス植民地勢力の手が動いていたという説がある。真相はいまだに謎のままだが、いずれにしてもベトナム戦争をめぐる「中越対アメリカ」という国際的対立のメカニズムが、結果としてポル・ポトにその後の権力への道を用意したことは確かだ。
第二に、ポル・ポトらがプノンペンに政権を樹立し、虐殺への道を邁進する過程でも、新たな大国間の対立関係が大きく影を落としていた。1975年4月にベトナム戦争とその副産物であったカンボジア内戦がいずれも共産側の勝利で終わった。ところが、昨日まで同じ共産主義の同志だったベトナムとカンボジアは、一夜にして「ブラザー・エネミー」(敵対する同志)になった。なぜか。最大の理由は、ポル・ポトらが長年秘めていた、ベトナムに領土を浸食されてきたことに対する歴史の怨念が、政権獲得を機に噴き出したからだ。同時に、この地域的な対立の火種を、もっと大きな中ソ対立という国際的な抗争が煽りたて、炎として燃え上がらせたのだった。
ベトナム戦争が東西冷戦の「熱い戦い」の性格を持っていたとすれば、ポスト・ベトナム戦争期のインドシナ半島は、1950年代末に始まった中ソ対立の最も熾烈な舞台となった。ソ連は中国に警戒心を持つベトナムと手を握った。中国は、ソ連がベトナムをテコにその「やわらかい下腹」、インドシナ半島に影響力を拡げるのを断固として阻止すべく、反ベトナム民族主義に燃えるカンボジアのポル・ポト政権を徹底して支えた。たとえばポル・ポト政権の国内建設を支援するために4,000人以上もの顧問や技術者を送りこみ、また10億ドル以上もの財政援助を注ぎ込んだ(D.チャンドラー『ポル・ポト伝』=邦訳)。もちろん軍事面での援助も惜しまなかった。
ベトナムとカンボジアの抗争は1978年末ベトナムのカンボジア侵攻でついに全面戦争となった。ポル・ポトらはタイ国境付近のジャングルに逃げ込み、中国やタイの支援を得て、実に13年にわたってゲリラ戦を繰り広げた。このカンボジア紛争は、いってみれば中ソの代理戦争でもあった。
第三に、ポル・ポト政権が自国民の虐殺に奔った理由の一つに、異常なまでに膨れ上がったベトナムへの猜疑心があった。ポル・ポト政権の極度の圧政の犠牲となった約180万人の内訳をのぞいてみると、二種類に分かれている。一つは、ポル・ポト指導部が中国の文化大革命にならって徹底的な集団化をはかり、その過程で病死や衰弱死、あるいは粛清された人たち。数ではこの範疇の犠牲者が最も多い。もう一方には、中央、地方の権力機構の内部とその周辺における粛清の犠牲者がいた。この人たちは「ベトナムと通じた裏切り者」の容疑をかけられ、その大部分は拷問の末に処刑された。プノンペンの高校を改造してつくったS21と呼ばれるツオルスレン監獄では、プノンペン陥落までの3年間で1万4,000人以上が処刑された。地方の監獄で処刑されたものは約10万人にのぼった(山田寛『ポル・ポト<革命>史』)。ポル・ポトが党内権力闘争の手段として「ベトナムの手先」というレッテルを貼った例もあったが、実際にベトナムの息のかかった党内勢力も存在し、ポル・ポト中央に反抗しようとしていたことも事実だ。
ベトナムはカンボジアに侵攻するとすぐ、プノンペンに、カンボジア人民共和国政府、通称ヘン・サムリン政権をつくった。その指導幹部らは、いずれもベトナムと接するカンボジア東部地域のポル・ポト派地方幹部だった。彼らはポル・ポト中央から「親ベトナム勢力」と目されたため、粛清の手をかいくぐってベトナムに逃れた。そこでベトナムの共産党と軍によって訓練され、組織されて、ベトナム侵攻軍とともにプノンペンに戻ったのだった。いまの与党、カンボジア人民党の幹部の多くはフン・セン首相も含めてこのときベトナムから送り返された旧ポル・ポト派の地方幹部たちだ。
◆◆◆
ポル・ポト政権がカンボジアを「キリングフィールド」に変えてから30年が経った。虐殺の最高責任者と目された当時の首相、ポル・ポトは、1998年に謎の死をとげた。この7月21日には、かつてポル・ポト政権の軍参謀総長をつとめ最強硬派として虐殺を主導したとされるタ・モクも、プノンペンの病院で80歳の生涯を終えた。こんど任命された検事たちは7月10日から訴追対象とする旧指導幹部を特定する作業に入ったが、存命中の指導幹部らも70歳代から80歳代の高齢で、裁判開始まで、あるいは裁判が終わるまで、何人が生きながらえているか危ぶまれている。「遅すぎた裁判」の実効性に疑問を持つものも多い。
この疑問はさておいて、ポル・ポト裁判は、大国のパワーポリティクスの非情なメカニズムが、ときとして専制と圧制の権力を生み、温存し、肥らせるという国際政治の現実に、あらためて目を向ける機会になるだろう。そうしたメカニズムはカンボジアだけでなく、他のアジア、中東、アフリカ、はたまた中南米でも働いていたし、いまもなお働いている。国際関係が国益という名のエゴイズムを主要なバネにして動いている以上、この現実をいたずらに嘆いても解決にはつながらない。しかしいまの国際社会は、少なくとも「人道に対する罪」に対しては、たとえ年月が経っても糾弾するという原則を貫くようになった。これは、非道な圧政に苦しんだ人たちにとってわずかといえども福音である。
たとえばポル・ポト裁判は、カンボジア国民の心の奥底にいまも残る国民的トラウマを軽減する心理的区切りになるにちがいない。30年前、国民の4人に1人が虐殺の犠牲になったということは、いまの30歳以上のカンボジア人のだれもが、この虐殺で家族、縁者、友人のだれかを失い、また自身も筆舌につくせぬ恐怖と辛苦の年月を経験したことを意味する。これがカンボジア人の心に残した傷は外部からうかがい知れぬほど深いはずだ。ポル・ポト政権という非道な権力を裁くことの意味は、やはり大きいといわなければならない。
* 国際的にはポル・ポト派をクメール・ルージュ(「赤いクメール」の意)と呼んでいるが、日本では指導者のポル・ポトの名を冠してポル・ポト派と呼ぶのが通例となっているので、本稿ではこの例にならった。
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