🔯36」─1・B─ローマ帝国は経済格差の拡大で衰退し滅亡した。〜No.123  

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2024年3月15日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「ますます豊かになる貴族や騎士、没落する一般市民…ローマ市民社会に広がる格差
 前2世紀中葉頃、ローマ帝国が誕生した。
 巨大な帝国社会全体の頂点に位置したのは、ローマ市民のなかでもエリートである貴顕貴族であり、その貴顕貴族が成員の大部分を占める元老院が、共和政の政治体制のもとでローマの国政を動かした。
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 しかし、元老院は、帝国の巨大化ゆえにさまざまな難題に直面するようになる。
 元老院の危機的状況は、やがて帝国の政治危機へと通じていく。その引き金となったのはなによりも、ローマに生きる人びとの抱えていた諸問題・諸矛盾であった。詳しく見てみよう。
 【本記事は宮嵜麻子『ローマ帝国の誕生』(2月22日発売)から抜粋・編集したものです。】
 経済格差の拡大
 貴顕貴族成員は、今や帝国社会の頂点に立っていた。彼らは政務官として、また元老院議員としてかつてなかったほどの政治権力を握ったが、経済的にもかつてないほどの豊かさを得ることになった。
 属州総督として、あるいは戦場に出た命令権保持者として勝利を収めれば、時に莫大な富が彼ら個人の掌中に入った。これら貴顕貴族成員の多くは、今や広大な広がりを持つローマの国土において農地を買い、ないしは公有地を借りて、農業経営を行うようになった。
 これと並んで騎士層成員からも、商業・金融業等で得た利益を農地に投下する者が現れた。彼ら富裕者は広壮な農園(ウィッラ)で多くの奴隷を使役して大規模な農業経営を展開する。こうした形態の農業経営は、当然市場向けの作物栽培を主眼とした。
 ウィッラ villa というラテン語を語源とする現代のヴィラは、どちらかというと贅沢なしつらえの保養用別荘のイメージがある。ローマ時代のウィッラにもそういったものもあるが、農園としてのウィッラは、所有者の邸宅、農場、生産品加工用の作業場、倉庫、厩舎、奴隷居住棟などの設備が備わった農業経営用の複合施設であった。こうした農園で地中海の気候・土壌等に適した農作物──ぶどう、オリーブ、柑橘、麦など──が生産・加工されて輸送・販売される。
 富裕者によるこうした大規模農業経営は、ローマ史研究では「大土地所有制(ラティフンディア) latifundia」と呼ばれ、それが帝国形成期以降に地中海の農業全体を変えるまでに展開した、と説明されてきた。最近の研究では、かつて信じられていたほどローマの農業が大規模農園経営のみとなってしまったのではないと考えられている。
 しかし貴顕貴族ら一部の富裕者が、帝国形成期以降の農業経営で大きな富を得たことは疑う必要がなかろう。彼らがさまざまな農業生産品をローマ市ばかりでなく、帝国各地に輸送・販売していたことが知られている。
 また農園だけでなく、各種の手工業品の生産も専用の作業所で行われるようになり、その製品も交易の対象となった。クラウディウス法が、元老院議員とその息子の大規模商業活動を禁止したが、じつは元老院議員は代理人を用いて、遠距離交易にも事実上従事していた。帝国の形成は富裕者の経済活動の幅を広げ、彼らの富を増したのである。
 他方、多くのローマ市民には帝国化による経済的な恩恵はなかった。そのため一部富裕者層とその他の市民の経済格差は拡大した。いや、むしろ一般の市民たちのなかには、帝国化の過程のなかで経済状態が悪化した者たちも多かったと考えられる。帝国の支配者となったはずのローマ市民であるが、彼らの生活はむしろ困窮したという側面もあったのだ。中小農民の没落
 ローマ市民社会は中規模・小規模農民によって大半が占められていた。つまり、市民の多くは都市内に住んではおらず、農村部に住んでいたのである。
 都市国家ローマは市民軍団制をとっていた。ここまで見てきたローマの対外戦争その他の軍事行動の主軸は、市民によって編制されたローマの市民軍団であった。
 しかしローマの帝国化の過程のなかで、この軍役の負担が市民に重くのしかかるようになった。かつて、戦争はローマ周辺の都市国家や共同体との間に起こった。このため、兵士として戦う市民たちは農閑期に戦場に出向き、数日から長くても数ヵ月戦って農繁期までには家に戻ることができたのである。
 ところが多くの戦争がイタリアの外で起こるようになった。すると兵士たちは故郷を遠く離れて長期にわたって戦地で戦うことになった。たとえばヒスパニアでの戦いに従軍した兵士たちは、平均して6年間戻ってくることができなかった。また先住民との戦いの有無にかかわらず、属州には軍が常駐していた。つまり属州の数が増えれば、その分多くの兵士が必要となったのである。
 家族のみ、またはわずかな奴隷をそれに加えての中小農業経営で、おそらく最大の労働力であったろう成人男性が、長い年数を留守にするのだ。むろん、なかには結局帰って来なかった兵士もいよう。残された家族にとって農業を続けるのは至難だったということは想像にかたくない。
 さらに富裕者の大規模農園経営との競争に、中小農民は負けていった。大農園での農業労働者としての機会も、大量に使役された奴隷によって奪われた。その程度についてはさまざまな説があるが、大規模農園経営の出現によって、中小農民の自立した農業経営が困難となったこと自体は疑う余地があるまい。
 この事態が農村出身者のローマへの流入を招いた。この頃、ローマ市では二度にわたって新たな水道の建設が進められた。これは都市で生活することを選んだ人口の増加が起因していると考えられる。
 しかし都市に住みついた人びとが容易に職に就き、新生活を打ち立てられたわけではない。前二世紀中葉以降、ローマではしばしば穀物を入手できない住民が騒乱を起こすようになっている。貧民の増加が、このことの背後にある。
 ローマがマケドニアカルタゴアカイア同盟といった敵に勝利し、富を獲得したといっても、その富は一般市民の手にはほとんど入ってこなかった。豊かになったのは貴顕貴族や騎士層であり、実際に戦場で命を賭けて戦った市民はむしろ困窮に陥りさえした。しかしこの状況は、市民の生活の窮状という問題のみには終わらなかったのである。ローマ軍の主力は市民であった。市民の困窮はローマ軍の問題でもあった。
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 古今東西稀に見る巨大な版図を広げた帝国。
 地中海世界を「グローバリゼーション」が覆ったとき、人びとは未知の世界とどのように向き合ったのか? ローマ化する属州で暮らしていた人びとの「選択」は? 貴族と平民の格差はなぜ拡大したのか? 元老院政治が動揺した理由……。
 ハンニバルとの戦い、グラックス兄弟の改革、カエサルの死、アウグストゥスの出現など、ローマ建国から皇帝誕生まで、最新の知見に基づき、ローマと属州を生きた人びとの実像を描く。
 宮嵜麻子『ローマ帝国の誕生』(2月22日発売)は小さな都市国家が地中海を支配するまでが一冊でわかる決定版です! 
 宮嵜 麻子(歴史学者
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