🔯17」─3・E─ハンムラビ法典は報復を正当化する事ではなかった。~No.55 

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 2024年1月18日 YAHOO!JAPANニュース ダイヤモンド・オンライン「ハンムラビ法典「目には目を」は「やられたら、やり返せ!」ではなかった…本来の意味は?
 ハンムラビ法典は「目には目を、歯には歯を」というフレーズで知られる。今は「やられたら、やり返せ!」という意味で使われることが多いが、本来の意味は少しちがう(写真はイメージです) Photo:PIXTA
 近年、世界を取り巻く状況は目まぐるしく変化しています。現在進行中のウクライナ問題にしても、パレスチナ問題にしても、じつは歴史的背景を知っているかどうかで、理解度は大きく変わってくるのです。世界史はダイナミズムに満ちた壮大な物語、興味深いエピソードの宝庫です。もちろん、「大人の教養」としても、世界史の重要ポイントくらい頭に入れておきたいもの。『読み出したら止まらない 世界史の裏面』(青春出版社)から、興味深い世界史のエピソードをご紹介します。
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● 古代ギリシアの彫刻群が 大英博物館に大量にそろっている理由
 世界最大を誇るロンドンの大英博物館には、「エルギン・マーブル」と呼ばれる古代ギリシアの彫刻群を展示した一角がある。
 エルギン・マーブルは、アテネパルテノン神殿を飾っていた大理石のレリーフや彫刻のコレクションで、大英博物館の超目玉展示物。このコレクションを「エルギン・マーブル」(マーブルは大理石のこと)と呼ぶのは、今から約200年前、これらをアテネからイギリスに持ち込んだのが、エルギン伯(1766~1841)だったからだ。
 エルギン伯は、大英帝国の在トルコ大使をつとめていたとき、当時オスマン帝国支配下にあったギリシアを訪れて、パルテノン神殿を目のあたりにした。パルテノン神殿は、オスマン帝国の弾薬庫として利用されていた関係で、ヴェネチア軍の砲撃を受けて大破していたが、それでもその美しさは失われていなかった。
 エルギン伯は、たちまちその建築に魅了され、トルコ政府の許可を得て、神殿の周囲にある大理石の彫像やレリーフの模造品を作った。さらに、1801年、エルギン伯は、トルコ政府要人との人脈を使って「アクロポリスでの測量、調査、発掘、さらに彫刻や碑文の持ち出しを認める」という勅許状を手にし、模造品を作るためといって彫像を掘り起こし、壁面をはぎとった。そして、それらを強引にイギリスまで運んでしまったのだ。
 彼のやったことは泥棒同然の行為だったが、トルコ政府は、異民族・異教徒のギリシア文化を重視していなかったため、この略奪行為を黙認した。
 しかし、イギリスで「他国の重要な文化遺産を盗むとはけしからん」という声が高まり、エルギン伯はついに議会で非難されるにいたった。
 結局、彼は議会に命じられるままに、コレクションを大英博物館に売却せざるをえなくなった。買取価格は、わずか3万5000ポンド。大英博物館は、ずいぶんおトクな買い物をしたことになる。
 ちなみに、大英博物館は、このコレクションのほかにも、エジプトのミイラやロゼッタストーンなど、旧植民地などから持ち帰ったものが多数所蔵されている。
● ハンムラビ法典の「目には目を」は 「やられたら、やり返せ!」とは違う意味だった?
 ハンムラビ法典は「目には目を、歯には歯を」というフレーズで知られる。
 この「目には目を」、今は「やられたら、やり返せ!」という意味で使われることが多いが、本来の意味は少しちがう。
 紀元前1770年頃のバビロニアでは、暴力行為が互いの報復によってエスカレートすることがしばしばあった。とくに、殺人に対する報復は、むしろ神聖な行為とみなされたので、報復が報復を呼び、互いに当事者がいなくなるまで繰り返された。
 そこで、ハンムラビ王は、社会秩序を維持するために、「同害報復」の原則を定めた。報復する相手は当事者のみとし、同等の処罰を与えるというものだ。つまり、「やられたら、やり返せ!」ではなく、「やられても、必要以上にやり返したらダメですよ」というのが、「目には目を」の本来の意味である。
 ハンムラビ法典は、すべての条文が完全なかたちでのこっている法典としては、世界最古のものだ。
 ということもあって、さぞ立派な法律と思っている人も多いだろうが、それは誤解に近い。なにしろ、4000年も前の社会通念・モラルに基づいて成立した法律、現代の目からみれば、驚くような条文が並んでいる。
 たとえば、全237条の第1条は、「人を死刑に価すると訴えて立証されなければ、死刑に処す」。まるで、トランプゲームの「ダウト」のようなシステムだ。しかも、立証する手段がないときは、被告者を水に投げ込んで溺れて死ねば有罪。生きて浮かんでくれば無罪で、逆に原告が死刑になる、というように、現代の目からみれば、乱暴きわまる法律が並んでいる。
● 「黄巾の乱」「赤壁の戦い」… 三国時代の人口を激減させた『三国志』の背景
 後漢末から、魏、呉、蜀が分立して晋が統一をはたすまでの三国時代は、大勢のヒーローが登場した時代である。蜀の劉備、魏の曹操、呉の孫権のほか、諸葛孔明関羽張飛らの活躍は、『三国志』でおなじみだろう。
 彼らが登場した後漢末は、外戚と宦官の勢力が大きくなり、大土地所有が進行して、農民の生活がひじょうに苦しくなった時代だった。そして、184年に「黄巾(こうきん)の乱」と呼ばれる農民反乱が起きると、各地で立て続けに反乱が起こるようになり、地方の治安はメチャクチャになった。
 だが、すでに末期症状を呈していた漢王朝には、その反乱を鎮圧するだけの力はなく、兵力をもつ豪族に官位を与えてこの事態を乗り切るしかなかった。
 そのなかから、頭角を現したのが魏、呉、蜀の3国である。とくに、華北を支配した魏は3国のうち最大最強で、曹操は天下統一まであと少しのところにいた。
 ところが、208年の「赤壁の戦い」で、蜀の劉備と呉の孫権の連合軍に、曹操は大敗を喫する。
 もし、曹操がこの戦いに勝っていたら、まちがいなく天下を手にしていただろうが、歴史はそうならなかった。この敗北で曹操は中国統一をあきらめ、中国の分裂は決定的になった。
 220年、曹操が没して息子の曹丕(そうひ)が跡を継ぐと、細々とつづいていた後漢の皇帝から帝位を譲られ、魏王朝が成立する。
 だが、劉備孫権はそれを認めず、翌年、劉備は蜀の皇帝に、229年には孫権は呉の皇帝に即位した。以後、三つ巴の戦いが続くが、一国が抜きん出ると、他の二国がそれを阻止する格好になったため、結局この中から天下をとる者は現れなかった。
 戦乱が続くなか、飢饉による餓死者があいつぎ、後漢末には約5000万人だった人口が、この頃になると、魏・呉・蜀あわせても500万人までに激減していたという説もある。
 三国時代とは、それくらい厳しい時代だったのである。
● ロシアの歴史は侵略の歴史か 広大な国のはじまりは北海道ほどの広さのモスクワ大公国
 ロシアの国土面積は、約1710万平方キロメートル。日本の国土の約45倍、世界の陸地の8分の1に相当する広さを誇る。
 そのロシアの歴史は、面積わずか8万平方キロメートル、北海道ほどの広さのモスクワ大公国からはじまった。
 モスクワ大公国は当初、東方から侵攻してきたモンゴルのキプチャク・ハン国支配下にあったが、イワン1世が他のロシア諸侯国に対する宗主権を獲得し、イワン3世の時代の1480年、キプチャク・ハン国から独立した。
 そして、同3世は、東ローマ帝国最後の皇帝の姪と結婚し、自らをローマ帝国の後継者という意味で、「ツァーリ」(皇帝)の称号を用いた。1453年、東ローマ帝国が滅び、ギリシア正教の中心もロシアへ移ってきていた。
 このイワン3世の孫にあたるのが、「雷帝(らいてい)」こと、イワン4世だ。彼は「全ロシアのツァーリ」を自認し、東方へ勢力を伸ばし、モンゴルの残存勢力から、シベリアの土地を次々と奪いとっていく。
 そして、不凍港を求めて、黒海地方にも進出する。そうして、ロシアは東、そして南へと、国土を拡大していった。いずれも、強力な勢力がいないエリアだったので、かつて東方から攻めこんだモンゴルが大帝国を築いたように、今度はロシアが西から侵略を開始して、世界最大の国を築くことになったのだ。
 歴史の謎研究会
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