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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本軍部が、全ての日本軍兵士に対して「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」(戦陣訓)を軍人勅諭同様に強要したのにはハッキリした理由があった。
それは、幾ら地獄のような過酷な訓練を繰り返しても日本人兵士は卑しい庶民であって高貴な武士に改造できなかったからである。
武士は主君を死んでも裏切らなかったが、庶民は生きる為ならば味方さえ敵に売った。
つまり、日本軍は武士の集団ではなく庶民による烏合の衆であった。
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アメリカ軍は、日本の庶民兵士を捕虜にして利用した。
日本は将棋の国で、敵の駒は取れば自分の駒として攻撃に使う。
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庶民は、上官や軍隊を裏切ってもお天道様(女神・天照大神)と天皇・皇室だけは裏切らなかった。
対して、武士は殺されても「忠臣は二君につかへず」で上官や軍隊を裏切らなかった。
武士には仇討ち・敵討ち、復讐・報復が存在するが、庶民にはない。
現代のエセ保守やリベラル左派は、戦わず即降伏する。
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庶民は、白人の欧米諸国に憧れていたが東アジア人の中国や朝鮮半島国を嫌っていた。
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2023年9月1日7:33 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「日本兵捕虜がほしい米軍、捕虜は恥辱とされていた日本軍…日本兵捕虜獲得のため米軍が行った「作戦」
敵という〈鏡〉に映しだされた赤裸々な真実。
日本軍というと、空疎な精神論ばかりを振り回したり、兵士たちを「玉砕」させた組織というイメージがあります。しかし日本軍=玉砕というイメージにとらわれると、なぜ戦争があれだけ長引いたのかという問いへの答えはむしろ見えづらくなってしまうおそれがあります。
【写真】話し方から下着まで…米兵捕虜が分析した「日本人」の驚きの姿
本記事では、米軍が日本兵捕虜獲得のために行なっていた作戦について、みていきます。
※本記事は一ノ瀬俊也『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』から抜粋・編集したものです。
日本兵捕虜を獲得せよ
米軍のみた日本軍兵士たちはけっして超人などではなく、勝っていれば勇敢だが負けとなると怯えた。それにもかかわらず彼らの多くが死ぬまで戦ったのは、日本軍と日本兵』で引用した米軍軍曹の回想にもあった通り、降伏を禁じられ、捕虜は恥辱とされていたからである。
しかし米軍側は最新の軍事情報を集めるためにも日本兵を捕虜にしたがっていた。そのため彼らは、まず自軍将兵に捕虜獲得の重要性を繰り返し説くことからはじめた。
IB(Intelligence Bulletin『情報公報』米陸軍軍事情報部が1942~46年まで部内向けに毎月出していた戦訓広報誌)1943年7月号「日本兵捕虜」が「日本兵は投降するのか?」と問題提起する記事を載せたのは、「米軍はすでに数百人の日本兵を捕虜にしている……彼らは長く絶望的な抵抗の果てに補給を断たれ増援の見込みもなくなり、帝国陸軍が本当に無敵であるのかについて疑いを持ち始めた」、したがって「答えは明らかに『イエス』だ」と結論づけることで、読み手の自軍将兵に日本兵をもっと大勢捕虜にするよう奨励する意図があったからと思われる。
この「日本兵捕虜」は、「ガダルカナルでかなりの数の日本兵が日本語の放送と宣伝ビラにより投降した。放送は両軍の戦線が近接し、かつそれなりに安定しているときを見計らって行われた」と前線での投降勧告の様子を報じているのだが、意外なことに当の米軍兵士がこれを妨害したと述べている。
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これに応え、日本側はまず一人を手を挙げて送り出した。もし彼が傷つけられなければ他の者も出てくる。しかし「すぐ撃ちたがる(Trigger-happy)」米兵が発砲すれば出てこなくなる。「撃ちたがる」米兵は前記のような状況のみならず、斥候に出ているときやその他「沈黙は金」とされているときにも盛大なへまをやらかすことがある(ガダルカナルで長期間を過ごしたある報道特派員が、下級将校や下士官兵に対するジャングル戦のアドバイスを求められ、開拓地のインディアンのように静寂を保つこと、ねずみを待ち受ける猫のように辛抱強くあることだ、と言った)。
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このように米軍側にも日本兵をみたらとにかく「撃ちたがる」者がいて、それが日本兵の投降を妨げ、結果的に自軍の損害を増やす一因となっていたことがわかる。
ガダルカナルの米軍は、捕まえた日本軍「労務者」のうち志願した者を一人、二人と解放してジャングルに向かわせ、他の者を米軍の戦線まで連れて来させるという計画を実行した。彼らは役目を完全に果たして他の者を一週間以内に米軍戦線まで連れてきた。かくして捕らえられた「捕虜たちの反応」は次のようなものだった。
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日本兵たちはおおむねよき捕虜である。彼らは厚遇に感謝し、実に協力的である。
ある日本の高級将校は米軍将校に日本語で話しかけられてもはじめは名前以外一切の情報を与えなかった。やがてアメリカの厚遇により信頼が生まれ、ためらいなく話すようになった。「拷問でも何でもやってみろ、何も話さないから」と彼は言ったものだ。「でも厚遇してくれるなら知りたいことは何でも話す」。
また、投降した日本軍の中尉は、退却する部隊の殿になれと命じられたことを明かした。「なんで俺が殿に?」と彼は問い返した。「他の奴らは逃げていったじゃないか、俺は貧乏くじを引くような間抜けにはならないぞ」。
ほぼすべての捕虜が、捕まれば殺されると思っていたと述べた。
数名の捕虜に「将校たちから米軍に虐殺されるぞと言われたか?」と聞いてみた。
全員が否定した。「いや、そんなことは全くない」と一人が応えた。「戦いの一過程としてそうなるだろうと思っていただけだ」。
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兵のみならず将校のなかにも、自分への評価や待遇に不満があれば寝返る者がいた。よく日本軍将兵が投降をためらった理由に「米軍の虐待」が挙げられるが、捕虜たちはこれを明確に否定している。
日本で「鬼畜米英」などの言葉が登場したのはガダルカナル敗退後に政府が国民の敵愾心昂揚のため、米軍兵士の残虐性を強調するキャンペーンを繰り広げてからの話である(前掲吉田裕『シリーズ日本近現代史6 アジア・太平洋戦争』)。日本兵にとって「米軍の虐待」が降伏拒否の理由となったのはこれが効き出して以降のことかもしれない。
これに似た日本兵捕虜の発言は、1942年ソロモン諸島で日本軍と戦った海兵隊員の話にも出てくる。IB1942年11月号「ソロモン諸島作戦」によると、ある米海兵隊将校は「〔日本兵〕捕虜はみなアメリカに捕まったら殺されると思っていたと述べた。しかし上官にそう警告されたわけではなかった」と語ったという。
日本兵捕虜たちが「全員が降伏という不名誉のため、絶対に日本に帰ることはできないと主張した」ことからみて、すくなくとも1942~43年ごろの日本軍将兵が降伏を拒否したのは、プロパガンダによる虐待への恐怖心よりもむしろ、自分や家族が被るであろう社会的迫害へのそれが主たる理由だったのではないだろうか。
日本軍の士気――亀裂拡がる
1945年秋に日本本土上陸を控えた米軍は、IB1945年9月号に「日本軍の士気──亀裂拡がる」と題し、日本軍将兵の士気状態とその変化に関する詳細な分析記事を掲載した。これは米軍が戦争を通じて蓄積してきた対日心理戦研究のエッセンスであり、その水準を知るうえでも非常に重要と思われる。
この記事はまず、「戦争初期のころ、生きて捕まる日本兵はまれで、戦死者100人に1人の割合であった」が「沖縄、フィリピン作戦の後半では死者10人に1人の割合で捕虜になっている」こと、「自発的に投降して無傷で捕まる兵、将校(隊長の者もいる)の割合も増加している」ことを強調している。これは何も人道精神の発露などではなく、「日本兵を最後の一人まで根絶やしにする必要がなければ、それだけ米兵の命も助かるのでよい傾向といえる」からに過ぎない。
確かに日本兵たちは「捕虜になる不名誉と、それが本人や家族に及ぼす結果を怖れている。さらに、敵手に落ちれば虐殺されると宣伝されている」が、心理作戦を適切に行えば彼らの士気を低下させ、投降させることも可能である。
では、実際の心理作戦ではどこにつけいるのか。
日本兵は「他国の兵と同じように、自軍の上官に対して疑いを持つ。多くの体罰を受けているし、上官が兵よりたくさんの食べ物、酒、女性を得たり、兵が戦っているのに上官は後退を命じられる(しばしば起こる)のを見れば差別されていると感じている」し、上官の方も「〔部下への〕指導力を失うと断固たる行動も、変化する状況に自分を合わせることも難しくなると感じている」。だから、そこを衝いて両者を分断すればよい。
また、日本兵は「ホームシックにかかり、家族を心配している。彼は精神の高揚を保つ手紙をほとんど受けとっていないし、この数か月間、自らは体験していなくとも、周囲の者から日本本土への猛爆撃の悲惨さについて聞かされている」から、そこへつけ込むことでも士気を低下させられる。
では、いかなる具体的手法で日本兵の思考を変えさせてゆけばよいとされたのか。
ず第一に、それまでの人生における思考習慣を変えさせること。日本兵の士気に亀裂を入れるため、米軍(記事では連合軍)はこれまで次の「くさび」を入れてきたという。
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くさび1 直属の隊長および上位の指揮官の能力に対する疑いを持たせる。
くさび2 個人に死を要求する、最高軍事指導者の究極的目標の価値に疑いを持たせる。
くさび3 日本の戦勝能力について疑いを持たせる。日本は同盟国がみな敗北し、アジアの人々には離反され孤立している。さらに、連合軍の戦略、物量、精神上の優勢に直面している。
くさび4 戦死の意味に疑いを持たせる。日本兵にとって、無駄死によりも生きて新日本を再建し、大和民族を維持することのほうが尊い〔はずだ〕。
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さらに、日本兵の恐怖を取り除くため二つの攻略法がとられてきた。まず「米軍に捕まったら虐待される」という恐怖を取り除くために、「捕虜はよい待遇──適切な食事、衣服、煙草など──を米兵の手より受けられる」と教えること。次に、将来の不名誉への恐怖を取り除くために、「お前はこの戦争を幸福にも免れた数千人の一人に過ぎない」と教えること。多くの捕虜は自分だけが捕虜になったと思い込んでいるのでこれを否定し、「アメリカの勝利は明白なので戦争が終わったら家に帰って家族と普通の社会生活を営める」と保証してやるのである。
心理戦の手法
IB1945年9月号「日本軍の士気──亀裂拡がる」は、日本兵に「降伏」の言葉は厳禁、日本人の心理に照らせば「我々のほうへ来い」「名誉ある停戦」などとしたほうが効果的であるとも指摘している。
「日本人の心に深くしみこんだ『面子を守る』という性質から、受け入れがたい現実を覆い隠すに足る言葉が見つかる。思いも寄らなかった行動も、適切な慣用句が見つかれば、一つの言葉で受け入れられるようになるのだ」。つまり、これは降伏ではなく停戦なのだと自分に言い訳するための理屈を教えてやればよいというのである。
心理戦第一の宣伝手法は宣伝ビラを飛行機から撒くことである。「日本兵によく読まれ、効果があったのは、フィリピンで使われた落下傘(パラシュート)ニュースのような新聞〔形式のビラ〕を撒くことであった。最近の米軍ビラは捕らえた捕虜に試してみることで用法に多大の改善が加えられている」。
第二の手法は拡声器で、「多くの場合、日本兵捕虜がもとの所属部隊に呼びかけることで、アメリカ軍は日本兵を殺さないという絶対的な保証が得られた」。
第三の手法は、「捕虜を捕まえた地域に戻して戦友に投降を勧誘する」ことである。「この手法を拡声器と組み合わせたことで一定数の捕虜が得られた。この任務に出た日本兵で戻らない者はなかった」とされる。
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さらに【つづき】〈日本人は捕虜になっても、米軍の「助命」に対し「お返し」をしていた…米軍が研究した「日本人の心理」〉では、対米戦争下の日本兵の士気・心理状態についてくわしくみていきます。
一ノ瀬 俊也(歴史学者)
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9月1日 現代ビジネス「日本人は捕虜になっても、米軍の「助命」に対し「お返し」をしていた…米軍が研究した「日本人の心理」
米軍報告書は語る
一ノ瀬 俊也歴史学者 プロフィール
敵という〈鏡〉に映しだされた赤裸々な真実。
日本軍というと、空疎な精神論ばかりを振り回したり、兵士たちを「玉砕」させた組織というイメージがあります。しかし日本軍=玉砕というイメージにとらわれると、なぜ戦争があれだけ長引いたのかという問いへの答えはむしろ見えづらくなってしまうおそれがあります。
本記事では、〈日本兵捕虜がほしい米軍、捕虜は恥辱とされていた日本軍…日本兵捕虜獲得のため米軍が行った「作戦」〉にひきつづき、対米戦争下の日本兵の士気・心理状態についてくわしくみていきます。
※本記事は一ノ瀬俊也『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』から抜粋・編集したものです。
捕虜は米兵の命を救う
IB(Intelligence Bulletin『情報公報』米陸軍軍事情報部が1942〜46年まで部内向けに毎月出していた戦訓広報誌)「日本軍の士気──亀裂拡がる」によると、米軍対日心理戦担当者たちの最大の仕事の一つは、実は味方の「第一線将兵たちに捕虜獲得の必要性を納得させること」であった。担当者たちは味方に次のように呼びかけねばならなかった。捕虜から得た情報は戦術上も戦略上も大変役立つし、「我々のビラを書くのを手伝い、拡声器で話し、野外へ出て他の捕虜を連れてくる。
加えて、戦友に生きて捕まったところをみられた捕虜は、米軍が捕虜を虐待しないことの生きた証である」と。こう言わねばならなかったのは、逆の事態が多発していたからに他ならない。
そうして投降者を一人でも殺してしまえばどうなるだろうか。「日本兵の間に生きている、捕まれば殺されるとの確信を深めてしまう。日本陸軍における噂の伝達が我が方のそれと同じくらい速いのは間違いない。捕虜一人は何千枚ものビラを上回る価値がある。そして、潜在的捕虜を一人殺せばそれ以上の破壊的効果が生じるだろう」。
米軍がここまで捕虜獲得にこだわったのは、いったん捕らえた日本兵捕虜は実に御しやすく、有用だったからである。「日本軍の司令官が出した膨大な命令は、彼ら自身が、陸軍の大部分を占める単純な田舎者(Simple-Countrymen)は連合軍の尋問官がうまく乗せれば喜んで何でも喋ってしまう、と十分認識していることの証である」。何でも、というのは捕虜たちが「日本軍の築城計画を図に描き、我が方の地図を修正し、日本軍の戦術的弱点を論じ、味方の陣地占領のため用いる戦術までも示唆」したことを指す。
日本兵捕虜たちがかくも協力的だった理由を、米軍は次のように理解していた。
捕まった日本兵は通常虐待された後で殺されると思っているが、「命が救われたと知ると、彼は好意を受けたと感じる。日本人は誰かの好意や贈り物を受けたら最低でも同等のお返しをしなければ顔(face)──自尊心、自信の同義語──がつぶれてしまう。捕虜たちにとって命という贈り物にお返しをする唯一の方法は、我々が彼に求めている物、特に情報を与えることであるようだ」。日本人は貸し借りに生真面目な性向だから、まずは「助命」という恩を着せよ、というのである。
よって、捕虜への乱暴な扱いはその面子をつぶして情報価値を失わせる最短の道であり、「彼の上官がしばしば耳に吹き込んでいるところの、白人は野蛮人であり、捕虜を虐待した後でためらいなく殺すという宣伝を裏書きする」。しかし「親切、公正な扱いは白人の威信を高め、捕虜にその捕獲者への新たな敬意とともに、自らの顔を取り戻したいという欲求をもたらす」。つまり米軍という他者に自分は役に立つ、有用な存在だと認められたい日本人の心理をうまく利用せよ、とのアドバイスである。
今日、日本兵捕虜が米軍の尋問に対し戦艦大和や零式戦闘機の性能などの最高機密をいとも簡単に喋ってしまった事実が知られている(中田整一『トレイシー 日本兵捕虜秘密尋問所』2010年)。その背景には、米軍側が日本人の心理をかくも詳細に分析し、しかもIBなどの閲覧容易媒体を通じて末端まで周知させていたことがあろう。もちろん、こうした啓発記事の存在は、捕虜をとりたがらない米兵が最後までいたことの証拠でもある。
戦後に書かれたもと日本軍捕虜の体験記を読むと、米兵が非常に親切であったとの記述を目にすることがあるが、その背後に実はこうした冷徹なる「計算」が隠れていたと言わざるを得ない。実際、IB「日本軍の士気──亀裂拡がる」は自軍将兵に対し、次のような損得勘定そのものと言うべき呼びかけをしていたのだ。
前線将兵は捕虜にしうる日本兵に対し、私情を交えぬ態度をつちかうべきである。捕虜に対する侮蔑と嫌悪という自然な感情を許せば、それは必要のない嫌がらせにつながり、我々の得られる情報は減ってしまう。一方、正しい扱いは、連合軍将兵の命を救い作戦の完了を早めるであろう、時宜にかなった価値ある情報をもたらす。
日本軍の尋問は腕力
対する日本軍部内の情報漏洩防止策はどうなっていたのだろうか。以下に掲げるのは米軍が掴んだ日本側の対策である(IB1945年9月号「日本軍、防諜を強化」)。
日本軍も敵に情報をとられていることは気づいており、防諜に敏感になっていたが「防諜の機運は最初にレイテで起こり、沖縄で高まった」というから対応は後手後手である。
具体的な防諜策は各部隊の将校、下士官兵が相互に、あるいは民間人と接する際の規則を定めること、部隊が作成した機密書類は高い格付けを与えて地名・部隊名は記号で表示し、役割を終え次第処分すること、暗号化された文を電話で平文に置き換えたり、部隊の移動・装備・組織などに関する事項を電話で話すのを禁止することなどである。
兵たちの郵便についても「我が方のそれと同じくらい厳重な検閲が行われ」「葉書は抜き取り検査だが、封書やその他封筒入りのものはすべて、中隊長か高位の将校により開封、検閲される」という。注目すべきは「沖縄戦の終わりに至るまで、日本兵の死体から個人を特定できる物が何一つ見つからなかったとの報告が多数なされている」ことだ。
前出のIB1945年9月号「日本軍の士気──亀裂拡がる」も「最近の日本軍の命令は、もし兵が不運にも連合軍の手に落ちたとき、その親切な扱いに騙されてはならぬと強調している」と述べている。これらの報告をみるに、日本側も戦争の最終段階では自軍将兵が捕虜となる可能性を否定できず、一定の対策は講じていたようだ。
ところで、逆に日本軍が捕らえた連合軍捕虜から情報を引き出す際の手法はどうだったのか。「日本軍、防諜を強化」の一年ほど前に出た、IB1944年6月号「日本軍の諜報と防諜の手段」は「敵〔日本軍〕のある海軍少尉が捕虜を扱う際の観点」として、次の心得を挙げている。この少尉はおそらく捕虜で、記事はその尋問結果であろう。
a.捕虜は可能な限り個別に分けるべきだ。
b.捕虜間の会話、意思の疎通は制限すべきだ。
c.捕獲した文書、メッセージなどの情報価値を持つ物は、捕虜からの聴取と組み合わせて用いるべきだ。それらは調査に便利な手法で分析、整理されねばならない。肝心なのは捕虜を得て文書を可能な限り完全に分析することだ。
d.尋問にあたっては腕力が指針とならねばならない。敵の言葉は我々とは違うからだ。口をすべらせて詳細な分析を引き出したり、遠回しな尋問法〔特に尋問者が語彙に乏しい場合〕を用いて成果を挙げるのは困難である。だから〔特に尋問側にとっては〕正式な聴取のほうが容易である。尋問中は勝者は優れていて敗者は劣るという空気をみなぎらせるべきだ。必要があれば質疑に筆談を用いてもよい。
e.尋問の目標が定まるまでは、捕虜に将来の不安を覚えさせ、精神的に疲弊させるのがよい。その宿舎、食べ物、飲み物、監視についてしかるべく考慮せよ。
私は、日本軍の捕虜尋問は言語の壁もあってか力に頼った強引さ、拙速さが目立ち、先にみた米軍の柔軟で手の込んだ尋問手法にはとうてい及ばないとみる(ただしこの日本軍少尉は「米兵〔捕虜〕の話し好きな性向に気付いて」いるとIB同記事は付記、注意喚起している)。
金銭的待遇
日本兵の士気・心理状態を考えるうえで、実は給料や留守家族への生活援助といった物質的待遇も見逃せない。
『日本軍と日本兵』でたびたび引用しているIB1945年1月号「日本のG.I.」に出てくる米軍軍曹は、戦地の日本兵の金銭事情について「民間人に売れると思った物は何でも盗む。彼らの賃金は世界中の陸軍でおそらく一番低い。最下級の兵は日本では月に三円もらう。戦地に出ると月に約三ドル相当の金をもらう。しかし占領地では物価が2000パーセント値上がりしているため、ほとんど何も買えはしない」と書いている。
葉書一枚が三銭だから小遣い程度の額に過ぎず、これではあまり士気も振るわなかったろうと私は思う。
かくも給料が安いのに、兵士たちの留守家族はどうやって生活していたのか。米陸軍省軍事情報局が1943年3月に出したパンフレット『諸外国陸軍の士気向上活動(Special Series No.11 Morale-building Activities in Foreign Armies)』は、日本軍兵士の留守宅に行われた生活援助について、次のようにかなり的確な解説をしている。
日本兵の「出征」にあたってはそれぞれ厳粛な行事を行って敬意を払い、国のみならず村の大切さ、ありがたみを深く感じさせる。留守宅に関する兵士の安心感は、隣人たちが家族の農作業を手伝うことにより高められる。婦人、在郷軍人など多様な団体もまた留守宅の面倒をみる。
これをみるに、日本兵が留守家族の生活困窮について抱いていた心配の解消は政府ではなく「村」すなわち近隣社会の手に委ねられていたといえる。万一兵士たちが敵の捕虜となり、卑怯にも自分だけ生き残ったとすれば「村」は家族への農作業援助を打ち切るだろう。私は、これこそが彼らが投降を忌避した最大の理由のひとつとみるし、米軍もそれを知っていた。
そのような日本兵家族に対する物質的待遇の低さは、『諸外国陸軍の士気向上活動』がドイツ軍について「徴兵兵士の妻に夫が民間人だったときの収入の30〜40パーセントを保証し、将校、下士官兵の子育てのため21歳未満の子どもには一人月額10ライヒスマルク(約4ドル)、二人20マルク、三、四人25マルク、四人以上30マルクの手当を支払っている」と解説しているのとは対照的である。
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本記事の抜粋元『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』では、戦争のもう一方の当事者である米軍が軍内部で出していた広報誌を用いて、彼らが日本軍、そして日本人をどうとらえていたかを探ります。
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