💣10」─3・B・②─ロシア軍によるウクライナ人捕虜に対する性的虐待・地獄の拷問。~No.37 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 ロシア人の人間性が激変し邪悪になったのは、ロシア共産党の暴力と死の恐怖支配されてからである。
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 2024年12月6日 YAHOO!JAPANニュース ニューズウィーク日本版「捕虜の80%が性的虐待の被害に...爪に針を刺し、犬に噛みつかせるロシア軍による「地獄の拷問」
 人目の届かない拘置所は無法地帯。ウクライナ兵が2年半の捕虜生活で最も絶望した瞬間とは
 今年6月、雨のキエフで行われた「アゾフ兵士の解放」を求めるデモ TAKASHI OZAKI
 2年半にわたりロシア軍の捕虜となっていたが、今年9月に解放されたウクライナのアゾフ兵士の1人、キリル・ザイツェバが語った過酷な捕虜生活と、彼らの帰りを待ち続けた家族たちの様子を3回に分けて紹介する。本記事は第2回。
 【動画】北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参加で「ネットの自由」を得た兵士が見ていた動画とは?
 ※第1回はこちら:朝晩にロシア国歌を斉唱、残りの時間は「拷問」だった...解放されたアゾフ大隊兵が語る【捕虜生活の実態】
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 捕虜拷問の証拠を隠滅か?
 拘置所の見取り図を描くキリル。23年6月に移されたカムイシン拘置所には63の監房があり、ウクライナの捕虜368人が収容されていた。キリルのいた22番監房からは看守部屋のテレビが見え、そこから外部の情報を得ていた。 TAKASHI OZAKI
 ドネツク民共和国の過激派やロシアの民間軍事会社ワグネルの傭兵、そしてFSBは入れ墨をしたアゾフの兵士を見つけては木づちで殴ったり、犬にかみつかせたりした。高い塀に囲まれた敷地にうめき声が響いた。誰もが精神に支障を来し、感情がなくなっていったという。2カ月半が過ぎた7月29日未明、キリルが遭遇したのがあの事件だった。
 「爆発が3回あって人々の狂ったような悲鳴を聞いた。僕は別のバラックにいたが、火薬の臭いのあと、揚げた肉のような臭いがした。あれはロケットによる攻撃ではなく、内部で仕込まれた爆発だった」
 53人が殺され、130人以上が負傷したとされるオレニフカ捕虜殺害事件。米マクサー・テクノロジーズ社が撮影した衛星画像を見ると、刑務所の北側中央にある建物だけが破壊されている。
 激しく拷問した捕虜を集め、加害の証拠を隠滅しようとした説が有力だ。一方、ロシア政府はウクライナ軍による砲撃だったという主張を変えていない。
 キリルたち生存者はロシア領タガンログの拘置所に移された。10月3日、キリルはそこで23歳の誕生日を迎えた。その直後、彼は絶望の淵に追いやられることになる。
 キリルがアゾフ大隊に参加した理由
 7月5日、ウクライナ西部の古都リビウのバスターミナルにアンナとスビャトスラフ、ラリーサがいた。持ってきたのは10個の荷物。1人では運べないほど重いかばんをベルリン行きの長距離バスに押し込んだ。
 国境ではポーランドの入国審査が入念で、長時間待機することになった。アンナはベンチに座り、最近キリルから来たメールを見せてくれた。
 キリル〈ハニー、僕は元気だ。君と僕たちの恐竜(息子)を愛している。そこへ行って、抱きしめたい〉
 アンナ〈こちらは大丈夫よ。脚はどうしたの?〉
 キリル〈問題ない。いつも君のことを考えている〉
 キリルは仲間が隠し持っていた携帯電話を借りてメールを送った。その携帯電話もオレニフカを出る時に没収され、この6月20日のメールが最後のやりとりになった。
 2人が出会ったのは21年。母親同士が知り合いで、お見合いのような形で紹介された。翌年2月、ロシア軍による侵攻が始まったとき、キリルは製鉄所の工員として働いていた。
 家族と共に地下壕で過ごすうち、「自分だけここで座っているわけにはいかない」と考え、アゾフ大隊に参加した。アンナは強く反対したが、キリルの意思は固かった。
 国境で待つこと6時間。日付が変わる頃にやっと検問所を越えることができた。アンナは憔悴し「まるで『イカゲーム』ね」とこぼした。当時話題の韓国ドラマのように、進むも地獄、残るも地獄と感じたようだ。ドイツに入る頃に朝日が昇り、アンナは車内で授乳をした。
 「いつもこの子が私に力を与えてくれる」。そう、自分を励ましていた。
 アゾフ海に面したタガンログにあるロストフ州立第2拘置所路面電車が走る通りから塀を隔てた内側で、キリルたちに試練が待ち受けていた。
 「タガンログに到着したとき僕たちは疲れ切っていたが、待っていたのは厳格な『接待』だった。初日は8人、2日目は6人が殴り殺された」
 オレニフカの爆殺事件が世界中で報道されるなか、人の目が届かない拘置所は無法地帯と化していた。「2年半の捕虜生活で、あなたが最も絶望を感じたのはいつですか」との問いかけに、キリルはこう答えた。
 「体に電気を流して尋問されたときだ。タガンログで迎えた誕生日の2日後だった。負傷していた膝を電極で挟まれた時の痕は消えない」
 元捕虜の80%が性暴力被害
 拘置所で起きた性暴力について証言した元捕虜でアゾフ大隊のエルダー TAKASHI OZAKI
 拷問の頻度に規則はなく、週に1度、隔週などさまざまだった。看守が使う道具は木づち、バット、塩ビのパイプなどで、爪の内側を針で刺すこともある。拷問による傷痕はキリルの肩や腰、腕など全身にあった。
 性的虐待を受けた捕虜もいた。キリルと同じ日に解放されたエルダー・メノメログ(34)は、軍用車KRAZで戦っていたアゾフ大隊の兵士だ。彼はオレニフカ、カムイシンを経由して、ボログダ州のパチーノにある刑務所に送られた。そこで今年8月、ロシア人の囚人から極めて非人道的な行為を受けたという。
 「彼らは私の後ろでズボンとパンツを脱ぎ捕虜の顔や尻に男性器を挿入し始めた。刑務官はそれを見て勃起していた。私は挿入のまねをされただけだった。捕虜の恐怖をあおることが目的だったと思う」
 イラクアブグレイブ刑務所であった拷問を想起させる。話を聞いた時、そばにいたキリルは「彼らは僕たちの唇と背中にも同じようなことをした」と言った。
 この問題についてヒューマン・ライツ・ウォッチのクセーニャ・クイトカ研究員は10月3日、キーウ・インディペンデントに以下のような寄稿をした。
 「元捕虜のために働く軍事心理学者によれば元捕虜の約80%が性暴力を経験していた。ロシアによる本格的な侵攻開始以来、ウクライナ検察庁はロシアの拘束下にあった市民・捕虜の男性114件、女性202件の性暴力を記録している」
 ロシアとウクライナによる捕虜交換は、昨年8月に48回目を実施後、ロシアによって長く停止されていた。22年に解放されたアゾフ大隊の司令官デニス・プロコペンコらが第三国のトルコにとどまるという約束をほごにし、昨年7月にウクライナに帰還したことも影響した。ロシア政府はこれを「合意違反」と指摘した。
 そんな状況を打開するため捕虜になったアゾフ兵士の家族が立ち上がったのは昨年12月、雪の首都キーウだった。「アゾフ兵士を解放せよ」と書いたプラカードを掲げ、約200人がデモを始めた。
 「Жінки зі сталі(鉄鋼の女たち)」という団体で活動していたキリルの母スベットラナも世論の高まりを期待した。捕虜の捜索でマリウポリの検察に協力を求めても、「ロシアは変わらない」などと言われ相手にされずにいたからだ。
 ※第3回:2年半の捕虜生活を終えたウクライナ兵を待っていた、妻の「思いがけない反応」...一体何があったのか に続く
 尾崎孝史(映像制作者、写真家)
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 2024年11月22日 YAHOO!JAPANニュース AFP=時事「共産主義時代の政治犯刑務所 忌まわしい記憶を「遺産」に ルーマニア
 共産主義時代に自ら収監されていたルーマニアのジラーバ刑務所を訪れたニクリナ・モイカさん(2024年2月14日撮影)。【翻訳編集】 AFPBB News
 【AFP=時事】ルーマニアの首都ブカレスト郊外のジラーバには、かつての共産主義時代の刑務所がある。さびた鉄製の門を押し開けながら、ニクリナ・モイカさん(80)は歴史の重みを感じていた。モニカさんは10代の頃、ここに収容されていた。
 【写真18枚】穴蔵のような当時の懲罰室や、監房に展示されている囚人服など
 1945~1989年の共産主義体制下の犯罪調査を行っている研究所によれば、ルーマニア全土では当時、44の刑務所と72の強制労働収容所に15万人以上の政治犯が収容されていた。ジラーバもその一つだった。
 ジラーバは現在も一部は刑務所として使用されているが、敷地内の多くの建物は閉鎖され、取り壊されるか、廃虚と化している。
 「残念だ。(ジラーバは)共産主義時代の事実を示している場所なのに。囚人が拷問を受け、ひどい食事と寒さを味わわされ、いかに悲惨な環境に置かれていたかが分かる」とモイカさんはAFPに語った。
 ジラーバはもともと19世紀後半にブカレスト周辺の要塞(ようさい)として建設され、その後、刑務所に改築された。1948年から1964年にかけて、大勢の政治犯が過密状態で収容された施設の一つとして悪名をはせた。
 かつての監房は、地下10メートルの暗く湿った場所にあった。
 「まるで穴の中に入っていくような気分だった」。モイカさんは16歳でここへ連れて来られた時のことを振り返った。クリスマスイブで、霧雨が降っていた。
 反共団体に参加したとして1959年に有罪判決を受けたモイカさんは、5年間を獄中で過ごした。ジラーバには数か月間収容されていた。
 ルーマニアの元政治犯に関する協会の代表を務めているモイカさんは、ジラーバ刑務所の劣化が進み、忘却のかなたに消え去ってしまう前に博物館にするための運動を長年続けてきた。
 共産主義時代のルーマニアの刑務所で、民間資金で博物館に改築されたものは今のところ2か所しかない。
 そのうちの一つが、ブカレストから車で2時間の場所にあるピテシュティ刑務所博物館だ。昨年、歴史的建造物に指定され、年間約1万人が訪れている。
 建物に入ると天井から、当時の被収容者の顔写真が多数つるされている。ここでは、600人以上の学生が拷問を受けた。中には、後に拷問する側に回ることを余儀なくされた人々もいた。
■ようやく世界遺産申請へ
 政府はようやく重い腰を上げ、ピテシュティを含め5か所の旧刑務所について、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産登録を目指し、申請に乗り出した。
 2014年にピテシュティ刑務所博物館を立ち上げたマリア・アクシンテさん(34)はその動きを歓迎しつつ、政府の対応は遅過ぎるとして、過去の問題に対する「無関心と無理解の表れ」だと批判した。
 物価高騰が続くルーマニアでは、共産主義時代を懐かしむ風潮も強まりつつある。
 最近の世論調査では、共産主義体制は「ルーマニアにとって良かった」とする回答が1100人のうちほぼ半数(48.1%)に上り、10年前より3ポイント増加した。
 共産主義政権を率いた独裁者、故ニコラエ・チャウシェスク元大統領の誕生日を祝い続ける国民も少なからず存在する。
 モイカさんは、地元の高校でルーマニア共産主義体制について語り継いでいる。生徒から、「共産主義時代の方が暮らしは楽だったとママがよく言っていました」と聞くこともあるという。
 そんな時にモイカさんは「おじいちゃんに聞いてみてごらんなさい」と答え、ジラーバの「監房の悲惨さ」について話をしている。【翻訳編集】 AFPBB News
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