💟5¦─4・A─日本人は知らない、米軍がみた日本兵の「長所と弱点」~No.19 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2023年8月29日7:33 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「日本人は知らない、米軍がみた日本兵の「長所と弱点」
 敵という〈鏡〉に映しだされた赤裸々な真実。
 日本軍というと、空疎な精神論ばかりを振り回したり、兵士たちを「玉砕」させた組織というイメージがあります。しかし日本軍=玉砕というイメージにとらわれると、なぜ戦争があれだけ長引いたのかという問いへの答えはむしろ見えづらくなってしまうおそれがあります。
 【写真】話し方から下着まで…米兵捕虜が分析した「日本人」の驚きの姿
 ※本記事は一ノ瀬俊也『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』から抜粋・編集したものです。
 日本兵の長所と弱点
 米軍はその後、各戦場で遭遇した日本兵たちの士気や行動をどう観察し、長所と短所を見いだしていったのだろうか。
 IB(Intelligence Bulletin『情報公報』)1943年11月号「日本兵の士気と特徴」は、日本軍は口頭、文書上の指示において「軍紀」「士気の改善」「軍の改革」「戦闘力の改善」「天皇のための死」「兄弟のごときチームワーク」を個人、集団、多様な部隊、軍に対し非常に強調しているものの、「軍指導者の望むような士気、戦闘能力の状態は達成されないことが多い」と指摘している。
 しかし、「我が野戦観察者が文書上の証拠と捕虜によって証明した」日本兵の個人的長所として、「肉体的には頑健である、準備された防御では死ぬまで戦う(このことがけっして正しくないことはアッツ島の戦いでわかった)、特に戦友が周囲にいたり、地の利を得ている時には大胆かつ勇敢である、適切な訓練のおかげでジャングルは「家」のようである、規律(とくに射撃規律)はおおむね良好である」といった点が列挙されている。
 一方、日本兵の短所は「予想していなかったことに直面するとパニックに陥る、戦闘のあいだ常に決然としているわけではない、多くは射撃が下手である、時に自分で物を考えず「自分で」となると何も考えられなくなる」というものであった。
 IB「日本兵の士気と特徴」は以上の考察を踏まえ、「日本兵に「超人」性は何もない、同じ人間としての弱点を持っている」と結論している。確かに勝っている時は勇敢だが追い込まれるとパニックに陥るというのは人間としてあり得ることだ。また、個人射撃は下手だが射撃規律、すなわち上官の命令による一斉射撃は良好というのは「集団戦法」が得意だという戦後の日本社会に流行した日本人論を先取りする。IBが提示したのは「日本兵超人(劣等人)伝説」とは異なる、等身大の日本人像だったのである。
 IBは時にビルマ(現ミャンマー)戦線の英軍から得た日本軍情報も報じている。IB 1944年1月号「ビルマの戦いに対する観察者の論評」によると、同戦線の英軍将校たちも日本兵に対し、精神的に弱い、射撃が下手などと米軍と同じような評価を下していた。

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 「日本軍の虚を衝くと、奴らは全然戦う準備などしていない。奇襲するとパニックに陥り、叫び、逃げる。射撃して可能な限りすみやかに一掃すべきである。しかし日本兵がひとたび立ち止まると臆病ではなく、むしろ勇気ある戦士となる」
日本兵は射撃がひどく下手で、特に動いている間はそうだ。組織され静止しているときの射撃はややマシだ。しかし、陣地と偽装は優秀だ」
「日本軍は英軍の砲撃を憎み、かつ恐れている。偽の攻撃で簡単にいらつかせることが出来る。我が方が叫び、足を踏みならし、全方向へ発砲し、煙幕を張り、できる限りの騒音を立てる。すると日本軍はあらゆる火器を発砲して陣地の位置を暴露する」

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 さらに、ある英軍将校は「日本兵は「L」の発音が苦手なので、合い言葉には「L」を多く入れよう。数日間にわたるパトロールには、日替わりの合い言葉を与えねばならない」とアドバイスしている。ビルマでも「L」が発音できない日本兵は容赦なく撃たれるのである。
 英軍将校たちは対戦した日本軍の戦法について、「過去の作戦において敵は我が戦線内への浸透や側面への移動を採った。側面部での抵抗が始まると、より広く側面を衝こうとしてくる。高い地歩と厚い遮蔽物の確保に熱心だ」、つまりとにかく敵の側面に廻って包囲を試みると報じている。
 接近戦が怖い
 『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』「はじめに」で述べたように、我々は日本陸軍といえば「白兵主義」、すなわち銃剣突撃→肉弾戦に長けた軍隊とのイメージを持っているが、同時代の米軍側の印象はどうだったのか。ニューギニアで実戦を経験した米軍将兵たちの言葉を紹介しよう。
 IB1944年4月号「戦闘における日本軍の特性と反応」において、東部ニューギニア・ブナ作戦の従軍者は「平均的な日本兵」について「奴は決定的な特徴を持っている。勝ち目がないと明らかに死ぬのを嫌がり、総崩れになると豚のように喚いた。ずる賢く、有利な地位を占めるため環境を最大限利用する。偽装は優秀だ。よく木に登ってある目標を何時間も待っている。我が射撃を誘い出したり陣地を見つけるためにおとりを使う。経験の浅い部隊を混乱させるためのいろんな策略に明るい。勝てそうだとなると粘り強く戦う」と評している。ビルマなどと同じく勝っているときは勇敢だが、負けそうになるととたんに死を恐れ、弱くなったというのである。
 また、ソロモン諸島・ニュージョージア作戦に参加した米軍情報将校も、同じ記事で日本兵は接近戦を恐れ、敵部隊が近づくと逃げたと報告している。「奴らは接近戦を恐れており、よく偽装されたタコ壺か要塞化された陣地にいない限り、我が部隊が近づくと逃げた。射撃は下手で、50ヤード〔45.7メートル〕かそこら離れていても安全だった。しかし偽装の専門家で、ジャングル戦の完全な教育を受けていた。命令によく服従し、夜間攻撃と艀を操る能力を示した。将校がしばしばその士気を高めた。英語が話せる者は100人中1人もいない……」。
 ただし、すべての日本兵がこれらの証言のように接近戦を恐れていたわけではない。IBには「日本軍と南西太平洋で戦っていた米軍兵士たちが敵である日本軍の戦術、および兵士個人について最近内々に議論を交わし」た際の発言集が掲載されており、その中には「日本軍小銃の銃剣は偽装されていない。奴らはそれをぎらつかせながら攻撃してくる」という米兵の証言もあるからだ(1944年9月号「米軍下士官兵、日本軍兵士を語る」)。
 日本軍の銃剣は反射防止のため黒染めされているはずだが、米兵の脳裏に接近戦を挑んでくる日本兵の銃剣や軍刀が強い印象として刻まれたため、この証言になったのだろう。
 将校を撃て
 先に日本兵は個人射撃は下手だが射撃規律は良好、つまり集団で指揮官の命じた目標に一斉発砲するのは上手だという米軍側の評価を紹介した。
 先のIB記事にも「日本の射撃法は我々より明らかに劣る。狙撃兵は上手なようだが、それでも狙撃兵に取り囲まれて一発も命中しなかったことがある」「日本の将校を倒すと、部下は自分では考えられなくなるようで、ちりぢりになって逃げてしまう」という米兵たちの発言が掲載されている(44年9月号「米軍下士官兵、日本軍兵士を語る」)。
 ここでも日本兵は個人の技能や判断力に頼って戦うよりも、上官の命令通りに動く集団戦のほうが得意と評価されていたのである。
 私はこのような事態に至った歴史的背景に、日本陸軍の教育を挙げたい。陸軍はいわゆる大正デモクラシー期の1921年に軍隊内務書を改正して兵に「自覚的」な「理解」ある軍紀服従を求めたのに、満州事変後の1934年になるとそれは「誤れる『デモクラシー』的思想」への迎合に過ぎぬとして、その「綱領」から「衷心理解ある」や「小事に容喙して自主心を萎靡せしむるか如きある可らす」などの文言を削除し、兵の自発性を否定してしまったのである(遠藤芳信『近代日本軍隊教育史研究』1994年)。日本兵たちが将校を撃たれるやばらばらになったのは、こうした軍教育と関係があるかもしれない。
 とはいえ、兵が基本的には将校の命令に従って動くのはどの国の軍隊でも共通のことであり、日本軍兵士だけが特にその自発性において劣ったという話でもない。
 というのは、日本軍のほうでも米軍の将校を特に狙い撃ちしていたからである。
 IB1945年6月号「将校が撃たれている」は、味方将兵にそうした日本軍戦法への注意を喚起した記事である。フィリピン戦で負傷したベテラン米軍下士官が新米将校に宛てたアドバイスの手紙という体裁をとり「日本軍は指揮官を狙う習性があります。偵察隊を捕捉するや、指揮官を狙ってきます」と警鐘を鳴らしている。
 ちなみにこの米下士官も「同じことはあらゆる軍隊で起こり得ます。日本軍の将校は恐ろしく有能です。彼を欠いた兵たちなど取るに足りません。奴らの射撃規律は最優秀です」と書いて日本軍の集団的規律の優秀さを称揚、その裏返しとしての個人的敢闘精神、自発性の低さにつけ込むよう友軍に勧めている。
 ここで興味深いのは、米軍側が自軍下級将校の能力をけっして信用していなかったことだ。手紙の米下士官は「将校がかくも早く撃たれてしまう理由」として次の四点を挙げている。

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一、ポイント制の多用が敵から丸見えとなっています。
二、将校は〔隊列の〕三番目、四番目に付きます。日本軍は将校が斥候の後をついていくのを知っています。斥候はめったに撃たれません。
三、将校は兵の向かうべき方向を全然指示できません。たぶん上官からもそうされていない。そのせいで偵察中に多くの会話が交わされることになります。
四、いまだに階級章を付けている人がいます。私たちが階級に従って会話すべきなのは会敵中以外のみです。しかし将校がそうしたがるせいで交替がうまくいかなくなる。

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 「一」の「ポイント制」の内容は正確にはわからないが、将校の昇進や帰還の順序を出動回数など何らかの「点数」によって決める制度かもしれない。その場合、公平を期すために偵察への出動などが毎回同じ面子で固定化され、誰が将校なのかが日本軍にばれてしまっていたとも想像される。「二」は偵察時の油断を、「三」は指揮能力不足を戒めている。
 興味深いのは「四」で、「形式主義」といえば日本陸軍の専売特許のような印象がある。しかし米軍将校のなかにも、上下関係にこだわって階級章を隠さなかったり形式張った会話を部下に要求したばかりに、日本軍に将校だと見抜かれ撃たれてしまう無能な者がいたことがうかがえる。
 手紙の主の下士官は「私の中隊には延べにして10人の将校がいました。作戦の開始時にいた将校は一人も残っていません。中隊長は4回替わりました。下士官は5人いましたが戦線に残っているのは1人だけです。今や中隊全体で将校は2人しかいません」という。この数字自体はおそらく注意喚起のための創作だろうが、米軍のほうでも下級将校の指揮能力・意識改善が喫緊の課題となっていたことがみてとれる。
 一ノ瀬 俊也(歴史学者
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 2023年8月7日 現代ビジネス「話し方から下着まで…米兵捕虜が分析した「日本人」の驚きの姿
 米軍報告書は語る
 一ノ瀬 俊也歴史学者 プロフィール
 敵という〈鏡〉に映しだされた赤裸々な真実。
 日本軍というと、空疎な精神論ばかりを振り回したり、兵士たちを「玉砕」させた組織というイメージがあります。しかし日本軍=玉砕というイメージにとらわれると、なぜ戦争があれだけ長引いたのかという問いへの答えはむしろ見えづらくなってしまうおそれがあります。
 『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』は、戦争のもう一方の当事者である米軍が軍内部で出していた広報誌を用いて、彼らが日本軍、そして日本人をどうとらえていたかを探ります。
 ※本記事は一ノ瀬俊也『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』から抜粋・編集したものです。
 米兵捕虜のみた皇軍兵士
 まず最初に、日本陸軍を構成する兵士たちの振る舞い、身体的特徴とは何だったのかを問いたい。このことは、日本陸軍それ自体の特徴にも深くかかわるだろう。
 IB(Intelligence Bulletin『情報公報』米陸軍軍事情報部が1942〜46年まで部内向けに毎月出していた戦訓広報誌)には日本軍戦法・兵器の解説以外にも、従軍米兵の回想や座談など、日本軍に関する多種多様な情報が収録されている。そのひとつに「日本のG.I.(The Japanese G.I.)」(1945年1月号所収、G.I.は米軍兵士の一愛称)と題する記事がある。これは日本軍の捕虜となり、戦争中に解放されたある米陸軍軍曹が1年以上共に暮らした日本軍兵士の日常生活や風習を〈他者〉の視点で細かく観察、報告したもので、たいへん興味深い。
 彼がなぜ、どこで捕まっていたのかは機密保持のためか書かれていないが、内容から推察するに、航空兵で搭乗機を撃墜されてフィリピンの捕虜収容所に連行され、現地の抗日ゲリラに助けられるなどして解放されたのではないかと思う。記事の書き出しは次のようなものだ。
 15か月間日本軍の捕虜になっていた米軍のある軍曹が、日本陸軍の日常生活についての目撃談を寄せた。トラック運転手の仕事を強要されて敵の将校や下士官兵たちとつきあい、日本語を勉強して理解できるようになった。彼の話は陸軍航空隊ですでに若干紹介されているが、Intelligence Bulletinにも掲載して日本陸軍の日常生活を知り、その基本的特徴を学ぶことにした。
 最初に接した日本兵の一団は「日支事変」で3〜5年間戦った歴戦者だった。彼らは華北で戦っていた。将校の多くは英語が話せた。日本兵たちは中国軍の戦いぶりに賞賛を惜しまなかった。最も印象に残ったのは、中国兵が長刀だけでしばしば突撃してきたことだった。日本軍はどこに宿営しようとも中国軍に悩まされて困った、とこぼしていた。
米軍軍曹が最初に体験を語ったのが陸軍航空隊であったことが、彼を航空兵ではないかとみた理由である。彼が日本人と日本語で会話したときの内容が中国軍との戦争体験であり、そこで中国兵に対する評価が決して低くなかったのは興味深い。では個々の日本兵はどのように観察されていたのだろうか。
 多くの日本兵は農村出身で、そのためわずかな教育しか受けていなかった。だがほとんどの者は読み書きができる。彼らは21歳になると兵役の義務を負うが、学校に行っている者は25歳まで延期してもらえる。訓練はたぶんどの国の陸軍よりも厳しいものだ。彼らを頑健にするためであり、たいていの者はそうなる。日本兵たちは私に、訓練期間の終わりに多くの名誉あるハラキリが行われる、なぜなら厳しい懲罰に耐えられないからだと語った。体罰はひどいものだ。兵は上官に殴られ、蹴られている間直立していなくてはならない(図1)。もしビンタを受け損なえば立ち上がって直立し、再び罰を受けねばならない。私は兵が殴られて気を失い、宿舎へ運ばれていくのを見たことがある。あるときなどは大尉が兵の睾丸を蹴るのを見た。上級の者はそれがささいな怒りによるものでも、いつでも罰を加える権限を持っている。
 日本軍の最下級兵は一つ星の兵、すなわち二等兵である。彼は他の者の服を洗い、食事を作り、寝床や荷物を整え、その他のあらゆる嫌な仕事をしなくてはならない。からかわれ、何か間違いがあれば身代わりとされる。6か月野戦を経験すると自動的に二つ星の一等兵に進められる。彼の生活に二等兵を殴ってもよくなったこと以外の喜びは特にないため、熱心に殴っている。しかし、もし二等兵がいなければ相変わらず殴られている。
 図1。
 農村出身であるが読み書きができる。訓練は殴打を含む過酷なもので脱落者も多い。軍隊内から暴力がけっしてなくならないのは、殴られている者もやがて下級者が来たら彼らを殴れる立場になるからだ。この場合、戦局悪化による輸送の途絶などで下級者が来ないと実に悲惨なことになりそうだ。
 日本人とは?
 そもそも米軍は、このような生活をしていた日本兵たちを、どのような〈人間〉として認識していたのだろうか。まずはIBで〈日本人〉がどう語られていたのかをみよう。
 戦争初期に出たIB1942年10月号「日本人の特徴」は、日本人の「人種的起源」について「彼らが信じている人種的純潔性とは異なり、実際は少なくとも四つの基本的人種の混血である。マレーから来たマレー系、華北から来たモンゴル系、朝鮮から来た満州・朝鮮系、そしてアイヌのような日本固有の部族」と述べている。
 米軍将兵が戦うべき平均的日本兵は背が低くがっしりした農民、漁民たちで、この形質の発現にもっとも強く影響するのは、初期にマレーから渡来してきた人々の血統である。日本人と中国人の一部は人種的背景が同じであるため、日本の農民と華南人、さらに生粋マレー人との相違もごくわずかである。一方、日本の農民=兵士と「ほっそりしていて肌の色が明るい」華北人(モンゴル系)とは正反対の外見である。
 図2。
 なぜ米軍が日本人の「人種的」起源や外見にかくもこだわったかというと、同盟国軍たる中国軍兵士との区別をつけねばならなかったからだ。【図2】はIBの挿図で「左が農民階級の日本兵、右が華北人の兵士。外見的特徴に注目」との説明書きがあるが、日本人たる私からみるとどちらも〈日本人〉にいるような気がする。
 戦時中の米軍もそう考えたらしく、日中両軍の兵士は外見とは別のポイント、つまり次のような「文化的な特徴、癖」で区別しなくてはならないという。
 話し方 日本語には英語の「l」に相当するものがないので日本人の生徒はこれを発音するのがとても困難であり、よく「r」に置き換える。一方、中国人は通常「r」を「l」に換える。よって英語で短い話をさせると判別上有効である。例えば「Robins fly」と言わせれば、英語をほとんど知らない日本人は「Robins fry」と言うし、中国人に言わせれば「Lobins fly」と言う。
 歩き方 日本人が歩くとき、姿勢は悪く、足を引きずって歩きがちである。家では足の親指と人差し指の間の革ひもで足に固定する木のサンダル(ゲタ)に慣れ親しんでいる。このサンダルの基部は小さく、歩くとき、足は地面から完全には離れない。ゲタを履くと歩き方がだらしなくなる。日本軍兵士の足の親指と人差し指の間には、ときに〔ゲタの鼻緒のため〕異様な隙間がある。親指側にはゲタの鼻緒で圧迫されてできたたこがある。
 歯 日本人の歯の質は悪い。そのため歯を完全に治療すると人々の間で目立つ。出っ歯はありふれている。中国人はよりましな、真っすぐで歯学的特徴のない歯を持っている。
 個人の清潔さ 日本人は可能であれば必ず一日一回風呂に入る。清潔さが無視されることはほとんどまれである。兵士は入浴設備のない所では即製で温浴設備を作る。
 下着 実に多くの日本兵を下着の二つの特徴で区別できる。(1)下帯──厚い、毛で織った畝模様のある帯が夏と冬を問わず、特に農民や労働者の間でよく腰に巻かれている。日本人はこの帯の暖かさが体力を高めると信じている。加えて兵が多数の赤い糸の結び目を付けた黄色い布〔千人針を指す〕を、戦いの「お守り」の印として巻いていることがある。この幸運の印は、故郷の女性たちが別れの贈り物として用意する。(2)腰布──軍服を着た兵が腰布を、外国式の下着を付けるのと同じ場所に巻いている。これは軽い木綿でできていて、腰に巻く細ひもで支えられている。下帯はゆるく折りたたまれる。裏に武器や爆発物を隠すポケットが付いているとされている。小型ナイフくらいなら隠せるかもしれないが、小火器まで隠すことはないだろう。
 では、IBの読者たる米兵がいずれ戦場で相対する日本兵の体格はどうだろうか。いうまでもなく米兵の方がよい。「平均的なアメリカ兵は日本兵よりも背が高く重い。彼の身長はおよそ5フィート8インチ〔172.7センチ〕、体重は150〜155ポンド〔68.0〜70.3キロ〕である。平均的日本兵は身長5フィート3.5インチ〔161.3センチ〕、体重116〜120ポンド〔52.6〜54.4キロ〕である。よって米兵は身長で4.5インチ〔11.4センチ〕、体重で30〜35ポンド〔13.6〜15.8キロ〕勝っている」とされている。
 なぜ体格を分析したのか
 私は、IB1942年10月号「日本人の特徴」が日米兵士の体格差をかくも詳しく考察したのは、今後の戦いにおける両軍将兵間の格闘戦生起を見越して、日本兵の肉体上の劣位を味方に周知しておくためではなかったかと思う。
 実際、IB同記事は日米両軍兵士の身体能力について、
 日本人農民の手足は短くて太く、アメリカ人の手足を測定すると通常彼らより勝っている。これらの身体的特徴は偉大な筋力と持久力の証ではあるが、敏捷さではおそらくアメリカ兵にかなわない。すべての日本人は柔道(柔術)、自衛術を習っていて比類なき格闘戦の能力を持っているとされてきた。間違いなく多くの日本兵が学校での訓練を通じてこの技量を身に付けている。しかし、柔道の価値を外国人は過大評価しがちである。それに、平均的な農民は筋力の鍛錬は積んでいたとしても、身体の動きはぎこちない。
 と優劣の観点から比較分析している。こうした一種のレッテル貼り的な説明がなされたのは、当時の米軍内に日本人を「比類なき格闘戦の能力」を持った一種の超人(superman)とみなす風潮があったため、これを否定し去る必要があったためだろう。
 なぜ日本人はそのようにみられていたのか。アメリカ人が戦前、「劣等人」と見下していた日本人に東南アジア一帯の占領を許したことは、彼らを非常に驚愕・恐怖させ、日本人は実は得体の知れない「超人」だったのではないか、という思い込みを米軍内に生み出した。古い黄禍論の一変種ともいうべき「日本兵超人伝説」の誕生である(ジョン・W・ダワー『容赦なき戦争』1986年)。つまり開戦当初の米兵たちは、普通の日本人がいったいどんなものかすらもよく知らないがゆえに、途方もない不安を抱えていたのだ。
 これとは別のIB記事は、英軍将兵80人が「中国軍であるかのように装い、友軍の信号を送ってきた日本軍に騙され」て捕虜になり、「連合軍に日本軍と中国軍の区別を付けるのが難しいことを、将来日本軍は利用してくるであろう」(1942年12月号「英軍捕虜の報告」)と警告している。実戦で日中両軍兵士の区別ができず実害が出た(とされる)ことも、大まじめに日本人の〈識別法〉が論じられた理由であったろう。
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 さらに【つづき】〈米軍が宣伝していた、日本兵が「超人」ではない「興味深い」根拠〉では、米軍の日本軍と中国軍との兵士識別法や、日本兵超人神話の崩壊について、くわしくみていく。
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