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2023年8月8日 YAHOO!JAPANニュース「8月2日は「ロマのホロコースト記念日」ユダヤ人が伝えるロマのホロコーストと進まない記憶のデジタル化
佐藤仁学術研究員・著述家
(英国のホロコースト博物館センター提供)
ナチスによるロマ殺害が正式に認められたのは1982年
8月2日は「ロマのホロコースト記念日」である。1944年8月2日から3日にかけてアウシュビッツ絶滅収容所に収容されていた2,897人の男女のロマ(ジプシーやシンティと呼ばれることもある)がガス室で殺害されたことから、8月2日は「ロマのホロコースト記念日(Roma Holocaust Memorial Day)」である。2023年8月2日で79年を迎えた。なお、ロマの言葉でホロコーストのことを、食いつくすという意味の「ポライモス」という。
ロマはユダヤ人と同じかそれ以上に欧州では差別、迫害されてきた。そのためナチスドイツのユダヤ人差別政策に反対する人は多くいたが、ロマの差別や迫害に対しては傍観していた人も多い。ドイツでは第一次大戦後に社会の混乱を招くという理由で警察はさかんにロマを取り締まった。そしてナチスが政権を掌握してから2年後の1935年にはドイツ国内のロマを排除するための法律、いわゆるニュルンベルグ法を公布した。欧州では歴史的にもナチスの登場以前からロマは差別されてきた。西欧に住んでいたユダヤ人は各国に同化していたので、見た目ではユダヤ人かドイツ人かの区別はできなかったし、ユダヤ人も宗教がユダヤ教で自分はドイツ人と思って生活をしていた。だがロマはどの国においても全く同化しないで、独自の生活習慣で生活していた。現在のようにテレビやインターネットのない時代に、浅黒い肌のロマの存在は不気味だった。欧州の人は、馬車で移動しながら生活をして動物の芸を見せたり、物を売ったり、ダンスを踊ったり、スリをしたりするロマを興味と恐怖の両方の目で見ていた。
そして「ユダヤ人は世界を牛耳っている」という根拠なき陰謀論があり、「ロマはスパイ」という説が欧州では流布されていた。そのため「国籍を持たないで移動しながら生活をするロマはスパイだ」という"なんとなく市民が納得してしまうような"議論によってナチスドイツによるロマの迫害と虐殺が正当化された。
ロマの被害者数は25万~50万人くらいと言われている。だが、戦後にユダヤ人がイスラエルという国家を樹立して裁判や補償を求めたりしたが、ロマは戦後になっても国を持たなかったため、補償などが行き届かず、実際にはロマの犠牲者数を正確に算出することはできなかった。また「死の天使」として悪名高かった医師のヨーゼフ・メンゲレは特にロマに高い関心を示して、ロマを使っての残虐非道な人体実験も行っていた。
戦後に、ナチスの戦争犯罪を裁く裁判においても、ナチスは「ロマは犯罪者として罰せられたのであり、ロマだから殺害したのではない」として、ロマの大量虐殺を正当化しようとして、成功した。実際にニュルンベルク裁判でロマの大量殺害は裁かれることなく、ロマの証言者は一人も召喚されなかった。第二次大戦が終わった後もロマのためにはほとんど何もなされなかった。戦後もロマの賠償などを支援する国家もなければ、ロマ自身による自主的な抗議運動も行われなかった。さらにナチスの収容所から解放されたロマが戻ってくると「厄介者がまた帰ってくる」とヨーロッパの全ての地域の地元住民に嫌がられていた。ロマに対するナチスの大量虐殺は1982年になってようやくドイツのシュミット首相によって公式に認められた。だがロマに対する対応は何も変わらなかった。
▼ロマのホロコーストを伝えるロマの生存者の証言を伝える貴重な動画
ユダヤ人に比べると非常に少ないロマによるホロコーストの記憶のデジタル化・ユダヤ人が伝えるロマのホロコースト
第2次大戦時にナチスドイツが約600万人のユダヤ人、政治犯、ロマなどを殺害した、いわゆるホロコースト。戦後70年以上が経過しホロコースト生存者らの高齢化も進み、多くの人が他界してしまった。当時の記憶や経験を後世に伝えようとしてホロコースト生存者らの証言を動画や3Dなどで記録して保存している、いわゆる記憶のデジタル化は積極的に進められている。またホロコーストの犠牲者の遺品やメモ、生存者らが所有していたホロコースト時代の物の多くは、家族らがホロコースト博物館などに寄付している。特に新型コロナウィルス感染拡大によるロックダウンで多くの博物館が閉鎖されてしまってからは展示物のデジタル化が加速されており、バーチャルツアーで世界中の人が閲覧できるようになっている。
欧米では主要都市のほとんどにホロコースト博物館があり、ホロコーストに関する様々な物品が展示されている。そして、それらの多くはデジタル化されて世界中からオンラインで閲覧が可能であり、研究者やホロコースト教育に活用されている。いわゆる記憶のデジタル化の一環であり、後世にホロコーストの歴史を伝えることに貢献している。
だが、そのほとんどがユダヤ人の生存者で、ロマの生存者の体験は非常に少ない。収容所でのロマの様子を語るのも、収容されていたユダヤ人が伝えることも多い。ホロコースト映画も毎年制作されているが、その多くがユダヤ人を主人公にしたもので、ロマを扱ったものはほとんどない。ロマを扱ったホロコースト映画やドキュメンタリーは当時の情報も少ないことから、これからもほとんど制作されないだろう。
2023年8月2日の「ロマのホロコースト記念日」には英国のホロコースト博物館センターがホロコースト時代にロマの迫害や差別、収容所での扱いなどを見てきたユダヤ人らが当時のロマの様子を証言を伝えるというイベントが開催されていた。迫害されていたユダヤ人らが強制収容所にいた当時のロマの様子などを伝えていた。ユダヤ人はホロコーストの悲惨な歴史を後世に伝えるために記憶のデジタル化に積極的である。そのためホロコースト時代の証言をあらゆるところでしてきている。
ロマの生存者自身による「記憶のデジタル化」はユダヤ人生存者に比べると、ほとんど進んでいない。新たな生存者がこれから動画などで当時の様子を証言することはもうないだろう。現在のロマのホロコーストの記憶をデジタル化して伝えている動画、映画、ドキュメンタリーのほとんどが歴史家が当時の様子を文献や写真を元に語っている。南カリフォルニア大学のショア財団ではホロコースト時代の生存者の証言のデジタル化やメディア化などの取組みを行っている。そのなかにはロマの生存者の子どもが親から伝えられたホロコーストの体験や記憶を動画で語るものもいくつかあるが非常に少なく貴重だ。
ロマのホロコーストをテーマにした代表的な映画は1988年に制作されたポーランドとアメリカの映画で、ポーランドにいたロマの実話を元に制作された「And the Violins Stopped Playing」だ。支配したナチスの親衛隊がロマに対して「外で用をたすな。家の中にトイレを作れ」と指示するシーンなど当時のロマの生活や習慣などがうかがえる。
▼英国のホロコースト博物館センターでは2023年8月2日の「ロマのホロコースト記念日」にユダヤ人らがホロコースト時代のロマを語るイベントを実施
▼「And the Violins Stopped Playing」トレ―ラー
▼2020年の「ロマのホロコースト記念日」を紹介する動画
▼ロマの子息が親世代のホロコーストを伝える動画
佐藤仁
学術研究員・著述家
グローバルガバナンスにおけるデジタルやメディアの果たす役割に関して研究。科学技術の発展とメディアの多様化によって世界は大きく進化してきました。それらが国際秩序をどう変化させたのか、また人間の行動と文化現象はどのように変容してきたのかを解明していきたいです。国際政治学(科学技術と戦争/平和・国家と人間の安全保障)情報社会学(ホロコーストの歴史の記憶と表象のデジタル化)。修士(国際政治学)修士(社会デザイン学)。近著「情報通信アウトルック:ICTの浸透が変える未来」(NTT出版・共著)「情報通信アウトルック:ビッグデータが社会を変える」(同)「徹底研究!GAFA」(洋泉社・共著)など多数。
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何故、世界が、国連が、旧連合国諸国が、日本に消える事のない戦争犯罪国という烙印を押し、日本人に子々孫々まで極悪人という十字架を背負わせているのか、それには理由があった。
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江戸時代から大正時代頃まで、日本人は、隣人愛信仰と絶対神の福音を説く白人キリスト教徒が宗教的人種差別主義者としてキリスト教徒であってもロマ(ジプシー)、アフリカ人、ユダヤ人、アジア人、インディオ、インディアンなどの非白人種に対して偏見と差別で暴力を振るい虐待し迫害し虐殺する事が理解できなかった。
が、大正時代の日本人は、アメリカなどの欧米列強の黄禍論による排日移民法や反日法で人間性を否定されて、人種として欧米人との違いを再認識し、愛と平等と博愛を謳う国際社会の欺瞞を自覚した。
昭和前期、軍国日本の昭和天皇と軍部・陸軍・A級戦犯達は、親ユダヤ派として、世界から見捨てられ、日本を頼って逃げてきた数万人のポーランド・ユダヤ人難民達を助けた。
A級戦犯達は有罪とされ、東条英機・松井石根らは処刑され、病死した松岡洋右は人間否定・人格否定されている。それが、靖国神社問題である。
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何故、日本人が中世キリスト教・キリシタンを認めず許さなかったのか? それは隠す事なく優秀な人種により下等・劣等な人種に対する当然の権利として行っていた、長崎出島でオランダ人が奴隷のアフリカ人を鞭を打ち嘲笑しているのを目の当たりにし、高杉晋作ら長州人が上海で西洋人がアジア人を人間以下の家畜のように酷使するのを見たからである。
心ある日本民族は先祖が奴隷として売られた史実を忘れないが、現代日本人は民族の心を捨てた為に奴隷として売られたという現実に起きたていた事実が理解できない。
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昭和天皇は、太平洋戦争の原因は「人種差別にあった」と証言している。
それ故に、アメリカ・イギリス・カナダは日本で原爆投下実験を行い、日本人一般市民を実験動物のイエロー・モンキー(黄色い猿)として生きたまま焼き殺した。
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ホロコースト百科事典
ヨーロッパ在住ロマ族(ジプシー)のジェノサイド、1939〜1945年
ナチス政権とその枢軸同盟国がいわゆる人種的な理由で迫害の対象とした集団の1つにロマ族(ジプシー)がありました。
ロマ族に対して社会的偏見を抱いていた多くのナチス以外のドイツ人の支持を得て、ナチスはロマ族を「人種的に劣った集団」と判断しました。ロマ族の運命は、ある意味でユダヤ人の運命と似ていました。ナチス政権のもとで、ドイツ当局はロマ族に対して独断的な拘留、強制労働、および大量殺戮を行いました。ドイツ当局はソ連およびセルビアのドイツ軍占領地区において数万人のロマ族を殺害し、アウシュビッツ・ビルケナウ、ヘウムノ、ベウジェツ、ソビボル、およびトレブリンカの絶滅収容所でさらに数千人を殺害しました。親衛隊と警察は、ベルゲン・ベルゼン、ザクセンハウゼン、ブーヘンヴァルト、ダッハウ、マウトハウゼン、およびラーフェンスブリュックの強制収容所にロマ族を収容しました。いわゆるドイツ帝国および総督府において、ドイツ人民機関はロマ族を収容した数か所の強制労働収容所を管理していました。
1939年9月21日、国家保安本部を率いるラインハルト・ハイドリヒはベルリンで保安警察(Sipo)および親衛隊保安部(SD)の高官と会合しました。ドイツによるポーランド侵攻の勝利が確実となったところで、ハイドリヒは3万人のドイツおよびオーストリア在住のロマ族をドイツ帝国から総督府(ドイツに直接併合されていないドイツ軍占領下のポーランドの領土)に移送することをもくろみました。総督府における民間占領機関の最高位高官であったハンス・フランク総督は、1940年春に大勢のロマ族およびユダヤ人を総督府に受け入れることを拒否し、この計画を阻止しました。
それでもドイツ当局は1940年と1941年に、一部のロマ族をドイツ帝国から占領下のポーランドに移送しました。1940年5月、親衛隊と警察は、主にハンブルクとブレーメンに居住していた約2,500人のロマ族およびシンティ族を総督府内のルブリン地区に移送しました。親衛隊および警察当局は、彼らを強制労働収容所に収容しました。その生活や労働条件は、彼らの多くを死に至らしめるものでした。生存者の行方はわかっていません。親衛隊が、ベウジェツ、ソビボル、またはトレブリンカのガス室でまだ生き残っていた人々を殺害した可能性があります。1941年の秋に、ドイツ警察当局は5,007人のシンティ族およびラレリ族のジプシーをオーストリアからウッチのユダヤ人専用ゲットーに移送し、そこの隔離地区に彼らを住まわせました。ロマ族の半数近くはそこに到着してから数か月以内に、食料、燃料、収容施設、および医薬品の不足により死亡しました。ドイツ親衛隊および警察当局は、このような恐ろしい条件で生き延びた人々を1942年初期にヘウムノの絶滅収容所に移送しました。そこでロマ族は、ウッチゲットーにいた数万人のユダヤ人と共に、ガストラックで一酸化炭素ガス中毒により死亡したのです。
ドイツ当局は、近い将来に通称ドイツ帝国から移送する目的で、ロマ族全員をいわゆるジプシー収容所(Zigeunerlager)に収容しました。1940年にはロマ族の移送が保留されたため、これらの施設は長期的な留置所となりました。ベルリンのマルツァーンは、オーストリアのラッケンバッハおよびザルツブルクと共に、これらのうちでも最悪な収容所でした。数百人のロマ族が悲惨な条件により死亡しました。地元のドイツ人は収容所に関する苦情を何度も申し立て、公衆道徳、公衆衛生、および治安を「保護」するために、そこに収容されていたロマ族の移送を求めました。地元の警察はこれらの苦情を利用して、Reichsführer-SS(親衛隊全国指導者)であるハインリヒ・ヒムラーに対し、東方へのロマ族の移送の再開を正式に訴えました。
1942年12月に、ヒムラーはすべてのロマ族をいわゆるドイツ帝国から移送するように命じました。ただし特定のカテゴリーに分類された人々は例外とされました。例外とされた人々には、古代から続く「純血のジプシー」の人々、ドイツ社会に溶け込んだため、「ジプシーのように振る舞わない」と見なされたジプシーの子孫、ドイツ軍功を上げて人々(およびその家族)が含まれていました。最低でも5,000人、多くて1万5,000人がこのような例外集団に属していましたが、地元当局では、一斉検挙でこのような区別を無視することがよくありました。警察当局は、休暇中に家にいたドイツ国防軍(Wehrmacht)のロマ族兵士でさえも捕らえて移送したのです。
Persecution of Roma (Gypsies), 1939-1945 [LCID: eur72110]
ロマ(ジプシー)の迫害、1939〜1945年
ロマ族(ジプシー)は、人種的な理由でナチス政権による迫害の対象に選ばれた集団 1つでした。 ロマ族は、抑留、移送、および強制労働の対象となり、絶滅収容所に送られました。 また、アインザッツグルッペン(移動虐殺部隊)は、ドイツ支配下の東部の領地で何万人ものロマ族を殺害しました。 ロマ族の運命はユダヤ人の運命と非常に似ていました。 ホロコーストの際に殺害されたロマ族の数を特定するのは困難です。 戦前にヨーロッパに住んでいた約100万人のロマ族のうち、200,000〜500,000人が殺害されたと推定されます。
US Holocaust Memorial Museum
通常、ドイツ警察はドイツ帝国内のロマ族をアウシュビッツ・ビルケナウに移送しました。そこの収容所当局は、「ジプシー専用収容所」と呼ばれる特別な収容施設に彼らを収容したのです。2万3,000人に及ぶロマ族、シンティ族、およびラレリ族が、まとめてアウシュビッツに移送されました。通称ジプシー専用収容所では、家族全員が一緒に生活していました。親衛隊の大尉と医師であるヨーゼフ・メンゲレをはじめとする、アウシュビッツ収容所に配置されていた親衛隊医療研究者たちは、アウシュビッツ強制収容所の囚人の中から疑似科学的な人体実験のための被験者を選別する許可を得ていました。メンゲレは自分の実験の被験者として、双子や発育障害者を選びました。被験者の一部はジプシー専用収容所に収容されていました。他のドイツの強制収容所には、約3,500人の大人と若者のロマ族が収容されていました。医療研究者たちは、ラーフェンスブリュック、ナッツヴァイラー・ストリュトフ、およびザクセンハウゼン強制収容所に収容されていたロマ族の中から被験者を選び、収容所内の実験室または近くの施設で実験を行いました。
アウシュビッツ・ビルケナウのジプシー収容所内の環境は、発疹チフス、天然痘、赤痢などの感染症や伝染病の蔓延の原因となり、収容所の人口は大きく減りました。3月の終わりに、親衛隊はビャウィストク地区出身の約1,700人のロマ族をガス室で殺害しました。この人々は数日前に到着したばかりで、そのほとんどが病気を患っていました。1944年5月に、収容所の指揮官たちはジプシー収容所の住人を殺害することを決定しました。親衛隊の護衛兵は収容所を取り囲み、封鎖しました。外に出てくるように命じられたロマ族の人々は、事前に警告を受けて、労働に使用していた鉄パイプやシャベルなどの道具で武装して命令を拒否しました。
親衛隊のリーダーたちはロマ族に直接対抗することをあきらめて退却しました。親衛隊は、1944年の春の終わりから初夏にかけて、アウシュビッツ第1強制収容所やドイツの他の強制収容所の労働力となる3,000人近くのロマ族を移送した後、8月2日に残りの2,898人の収容者を処刑しました。犠牲者のほとんどは、病人、老いた男性、女性、および子供たちでした。収容所員は、ほぼ全員をビルケナウのガス室で殺害したのです。この作戦中に隠れていたわずかな子供たちは後日捕らえられ、殺されました。アウシュビッツに送られた2万3,000人のロマ族のうち、少なくとも1万9,000人がそこで死亡したのです。
ドイツ軍占領下のヨーロッパ各国では、ロマ族の運命は国の状況によって異なっていました。ドイツ当局はロマ族を収容し、ドイツ国内の強制労働に従事させるか、強制労働または殺害の対象としてポーランドに移送しました。ドイツおよびオーストリア在住のユダヤ人に対するドイツの政策では、いわゆる混血の人々は移送政策から除外されていましたが(ただし強制労働は除外なし)、それとは異なり、しばらくの間あいまいで混乱した期間を経た後、親衛隊や警察は「純血」の「ジプシー」は無害であるが、「混血」はその「混血」の割合がどうであっても危険であるため移送する必要があると決断しました。
ドイツ軍および親衛隊や警察の部隊も、バルト海沿岸諸国で少なくとも3万人のロマ族を射殺しました。また占領下ソ連の他の場所では、アインザッツグルッペンをはじめとする移動虐殺部隊がユダヤ人や共産主義者と同時にロマ人を殺害しました。占領下のセルビアでは、ドイツ当局は1941年から1942年の初期にわたって行われた射殺作戦において男性のロマ族を殺害し、その後1942年には女性や子供たちをガストラックで殺害しました。セルビアで殺害されたロマ族の合計人数はわかっていません。予測では、1,000人〜1万2,000人の間とされています。
フランスでは、1940年に裏切り者政権が設立された後、ヴィシー政権下のフランス当局がロマ族に対する規制策や迫害を強化しました。1941〜1942年にフランス警察は、占領下のフランス地区および占領されていないフランス地区のどちらかに住んでいた3,000人から6,000人のロマ族を収容しました。フランス当局は、比較的少ないロマ族をブーヘンヴァルト、ダッハウ、ラーフェンスブリュックなどのドイツ国内の収容所に移送しました。
ドイツの枢軸同盟国であるルーマニア当局は、ルーマニア領に住んでいたロマ族を組織的に絶滅させることはしませんでしたが、ルーマニア軍や警察当局は1941年から1942年にかけて、約2万6,000人のロマ族を主にブコヴィナやベッサラビア、さらにモルダヴィアやその首都であるブカレストから、ルーマニア管轄下のウクライナ南西地区にあるトランスニストリアに移送しました。移送された人々のうち数千人は、病気、飢餓、および残酷な扱いにより死亡しました。
Nazi police round up Romani (Gypsy) families from Vienna for deportation to Poland. [LCID: 16016]
ウィーンからポーランドに移送するためにロマ族(ジプシー)の家族を一斉検挙するナチス警察。
Dokumentationsarchiv des Oesterreichischen Widerstandes
ドイツのもう1つの枢軸同盟国で、過激派分離主義組織でテロ組織のウスタシャによって運営されていた通称クロアチア独立州の当局は、同国の約2万5,000人に及ぶロマ族人口のほとんどすべてを物理的に絶滅させました。ウスタシャ民兵とクロアチア高等警察によって運営されていたヤセノヴァツ強制収容所では、1万5,000〜2万人のロマ族の命が奪われました。
ホロコーストで殺害されたロマ族の正確な人数は把握されていません。正確な数字や割合は確認できませんが、歴史家は、ドイツおよびその枢軸国によってヨーロッパ在住の全ロマ族の約25%が殺害されたものと推定しています。戦前にヨーロッパに住んでいたロマ族の人口は百万人近くだったと考えられていますが、そうなると、ドイツとその枢軸同盟国は22万人近くを殺害したことになります。
戦後、中央および東ヨーロッパではロマ族に対する差別が継続されました。ドイツ連邦共和国では、1943年より前にロマ族に対して取られた処置はすべて、人種偏見による政策の結果ではなく、犯罪者に対する合法な公的措置であると判断しました。この判断により、犯罪を犯したわけでもないのに収容され、強制的に不妊手術を受けさせられ、ドイツ国外に移送された何千人ものロマ族被害者に対する賠償の道は事実上閉ざされました。戦後のバイエルン刑事警察は、ドイツ帝国に在住していたロマ族の登録簿を含むナチス政権の調査ファイルを引き継ぎました。
1979年後半になって初めて、西ドイツ連邦議会はナチスによるロマ族の迫害を人種差別的動機によるものと認め、ナチス政権下での苦痛や損害に対する損害補償を請求する資格をほとんどのロマ族に与えました。この時点までに、資格を得たロマ族の多くは既に亡くなっていました。
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