✞182」─4─イタリアのシンドラー。ローマ・ユダヤ人を救った架空のK症候群。~No.513No.514No.515 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 世界は、ユダヤ人をホロコーストから救った各国のシンドラーに関心があり、歴史に埋もれた功績を発掘して公表している。
 が、現代日本は人種差別・反ユダヤ、他人の命より自分の命が大事として、命を捨ててもユダヤ人をホロコーストから助けた物語には無関心である。
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 NHK
 BS世界のドキュメンタリー
知られざる世界の今を 独自の視点で リアルな息づかいとともに ー 世界の優れたドキュメンタリーを厳選。国際社会のさまざまな現実と向き合う人々や社会の深層に、各国の制作者が真摯に向き合って切り取った物語。熱いメッセージが、画面の向こうに新たな地平線を開くでしょう。
 「K症候群 ユダヤ人を救った謎の感染症
 ナチスが占領したローマ。ユダヤ人の間で謎の感染症“K”が広まり、バチカン近くの病院に収容された。しかし、すべては強制収容所送りから救うための偽装工作だった…。
 第二次世界大戦末期のテベネフラテッリ病院。ユダヤ人居住区から多くの住民がホロコースト送りとなる中、イタリア人や若いユダヤ人の医師団が「K症候群」という謎の感染症をでっちあげ、ドイツ軍のガサ入れから収容者を守った。ヒトラーに“そんたく”を続けた時のローマ教皇の姿も交えた、奇想天外な歴史の一幕を、再現ドラマやアニメを交えた演出で。    原題:Syndrome K(2020年 アメリカ・イタリア)
 (C)Fatebenefratelli Hospital(C)Insanely Practical Productions(C)AP photo
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 AFP BB NEWS
 ニュース 戦争・紛争
 「イタリアのシンドラー」、実はナチス協力者だった?
 2013年6月21日 20:03 発信地:ニューヨーク/米国 [ 北米 米国 ]
 イスラエルエルサレム(Jerusalem)のホロコースト追悼記念館「ヤド・バシェム(Yad Vashem)」で、「イタリアのシンドラー」とされるジョバンニ・パラトゥッチ(Giovanni Palatucci)氏の表彰式で演説するジュゼッペ・ピザヌ(Giuseppe Pisanu)伊内相(当時、2005年2月10日撮影)。(c)AFP/GALI TIBBON
 【6月21日 AFP】第2次世界大戦中にナチス・ドイツ(Nazi)によるユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)から5000人のユダヤ人を救ったとしてこれまで英雄視されてきたイタリア人警察署長が、実はナチスの協力者だったとする研究結果を、ユダヤ系イタリア人に関する研究機関「セントロ・プリーモ・レーヴィ(Centro Primo Levi)」が20日、発表した。
 1945年にドイツ南部のダッハウ(Dachau)強制収容所で36歳で死亡したイタリア人のジョバンニ・パラトゥッチ(Giovanni Palatucci)氏は、アドリア海に面した街フィウーメ(Fiume、現在はクロアチアの都市リエカ、Rijeka)で警察署長を務めていた当時、5000人のユダヤ人を救ったとされてきた。
 このためパラトゥッチ氏は、ユダヤ人労働者数千人をホロコーストから救ったとされるドイツ人実業家オスカー・シンドラー(Oskar Schindler)氏のイタリア版とみなされ、ピザから通りまでイタリア中のあらゆるものにその名を冠されてきた。先週末も中部のポリーノ(Polino)の公共広場にパラトゥッチ氏の名前がつけられたばかりだ。
 イスラエル政府のホロコースト追悼記念館「ヤド・バシェム(Yad Vashem)」もパラトゥッチ氏を表彰。ローマ・カトリック教会の故ヨハネ・パウロ2世(John Paul II)は同氏を殉教者として、聖人に次ぐ福者に列した。
■警察署長ですらなかった?
 しかし、米ニューヨーク(New York)を拠点とするセントロ・プリーモ・レーヴィは、最新調査の結果「パラトゥッチ氏がナチスの下で働いており、フィウーメに住んでいた少数のユダヤ人の情報を提供していた」ことが明らかになったと発表した。
 この発表を受け、米ワシントンD.C.(Washington D.C.)のホロコースト記念博物館(Holocaust Memorial Museum)は、今夏の企画展「Some Were Neighbors: Collaboration and Complicity in the Holocaust(隣人だった者たち:ホロコースト下の協力と共謀)」からパラトゥッチ氏に関する資料の展示を外し、公式ウェブサイトからも同氏に関する事例研究を取り下げた。
 セントロ・プリーモ・レーヴィのナタリア・インドリミ(Natalia Indrimi)所長が6月7日付でホロコースト記念博物館に送った書簡によると、パラトゥッチ氏がフィウーメの警察署長だったことはなく、また当時フィウーメにいたユダヤ人は500人程度で、その8割はポーランドアウシュビッツ(Auschwitz)にあった強制収容所送りとなっていたという。
 また従来説では、パラトゥッチ氏は大勢のユダヤ人を、自分の叔父がカトリック教会の主教として影響力を持っていたイタリア南部カンパーニャ(Campagna)州に送って保護させたとされていたが、そのような事実はなかったという。書簡は「イタリアに抑留されたユダヤ人のデータベースによれば、カンパーニャへ送られたユダや人はわずか40人で、それはパラトゥッチ氏の命令によるものではなかった」と指摘している。
 パラトゥッチ氏がフィウーメに住むユダヤ人に関する書類を破棄し、強制収容所へ送られることがないよう配慮したという説もインドリミ氏は否定。「それらの書類こそ、過去5年間の歴史家たちの主要な情報源となっている。全てリエカのクロアチア政府公文書館で閲覧可能で、関心のある歴史家なら誰でも参照できる」と述べている。
 インドリミ氏はパラトゥッチ氏について、「ユダヤ人迫害というシステムの歯車として働いた公務員の1人」に過ぎず、イタリア・ファシスト政権の人種差別的な政策の「自発的な執行者」として独裁者ベニト・ムソリーニ(Benito Mussolini)に忠誠を誓いナチスに協力した人物だと述べている。(c)AFP/Brigitte Dusseau
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 岩波書店
 イタリア・ユダヤ人の風景
 苦難に生き,闘い,斃れたイタリア・ユダヤ人の足跡をローマ・ヴェネツィアなど4都市に訪ねる.
 イタリア・ユダヤ人の風景
 著者 河島 英昭 著
 ャンル 書籍 > 単行本 > 文学・文学論
 刊行日 2004/12/10
 ISBN 9784000221450
 Cコード 0097
 体裁 四六 ・ 上製 ・ 382頁
 在庫 品切れ
 第2次大戦下のイタリア.ファシズムとナチズムが交錯する都市の片隅で,戦火とは異なる暴力が多くの命を奪おうとしていた.どんな運命がイタリアのユダヤ人たちを待ちうけ,何が彼らの命運を分けたのか.苦難に生き,闘い,斃れた彼らの声を沈黙する街路から聞き取るために,ローマ,ヴェネツィアトリエステ,フェッラーラを訪ねる.
■著者からのメッセージ
 前著『ローマ散策』(岩波新書,2000年11月刊)は,小著とはいえ,積年の旅の経験をそのなかに注ぎ込んで,《永遠の都》ローマの魅惑の秘密をほぼ明るみに出すことができた.安堵の胸を撫でおろすとともに,他方で新書の制約上,どうしても盛りきれなかった項目がいくつかあり,心が落ち着かなかった.そのひとつが,イタリア半島における古くからのユダヤ人問題であり変貌するゲットーの現在であった.
 2001年9月11日,ニューヨークで事件は起こった.背後にユダヤ人国家イスラエルの問題が蟠っていることは明らかであろう.目を閉じれば,巨大なビル爆破の残映が生々しく浮かんでくる身を,座席にゆだねながら,私は成田空港を飛び立ち,ローマへ向かった.そしてたちまちにユダヤ人街区の外れに赴き,古代ローマの廃墟に近い草むらの前に佇んだ.あの日,家畜の群れのようにそこに集められた,1000名以上のユダヤ人のなかの,10歳の子供のひとりの気持になって,それからは列車に揺られながら,私は半島の鉄路を北上した.
 ヴェネツィアトリエステ,またフェッラーラの各都市で,ユダヤ人街区の小路の奥に私が見届けた彼らや彼女らの現在は,そして幻影のように浮かび上がってきた私の思念のうちの彼女らや彼らの過去は,どのように読者に伝えられたのであろうか.
 (「あとがき」より)
■編集部からのメッセージ
 〈シンドラーのリスト〉〈戦場のピアニスト〉など映像作品からも明らかなように,ホロコーストは今も世界的に大きなテーマであり続けています.それはなぜでしょうか.ナチスの人種絶滅政策という時間的にも空間的にも特殊限定的に見えるこのテーマの投げかけるものが,宗教や民族といったいわば大上段の問いだけでなく,嫌悪や差別,裏切りや密告,あるいは犠牲的精神や連帯,個人の信念や家族愛など,人間の本質的なありようを映しだす強烈な鏡だからではないでしょうか.本書は,ホロコーストとは一見無縁に思いがちなイタリアの四都市への旅を通じて,ゲットーの歴史や大戦下イタリアの姿と今日の日常風景とを見事に重ねあわせ,「生還者」やパルチザンの証言,ナチス側の記録,市民の記憶にさまざまな文学作品も加えて,もう一つのイタリアを立体的に描き出す,稀有な作品です.ユダヤ人非ユダヤ人を問わず,また歴史であろうと文学であろうと,「過去」とどう向き合い,どのように自身の生を生き続けていくか.多くの登場人物の生と死から浮かび上がるこうした人間の営みへと向かう強烈な意志が,厖大な資料と長年格闘しつづけてきた著者の奥行きある文章とともに鮮やかに甦り,読む者の胸を打ちます.
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 NewSphere
 Society
 ユダヤ人を救った架空の感染症「シンドロームK」
 Sep 10 2020
 ファーテベネフラテッリ病院|leventina / Shutterstock.com
 独裁者ヒットラー率いるナチスは欧州各地でユダヤ人を迫害、虐殺したが、イタリアのローマのユダヤ人コミュニティもその標的となった。ユダヤ人たちを救うため、ローマのある病院の医師とスタッフが偽の感染症「シンドロームK(K症候群)」を作り出した。数々のユダヤ人を救った逸話の一つだが、コロナ禍のいま再注目されている。
ナチス占領下のローマ、ユダヤ人が連れていかれる
 科学・理系サイトのIFLサイエンスは「シンドロームK」の背景を説明している。1943年の7月、イタリアではファシズムによる独裁を行っていたムッソリーニ政権が倒れた。新イタリア政府は連合国側と協力し、以前の同盟国であったナチスドイツに宣戦布告したが、国の北部と首都ローマはイタリア社会共和国として、ナチス支配下にあった。
 反ユダヤ主義1920年代にムッソリーニが政権を取って以来、国中に広がっていたが、ドイツの占領下で激しさを増した。当時ナチスの支配とホロコーストの恐怖はほぼ欧州全土に広がっており、1943年10月16日にはローマのユダヤ人コミュニティへのナチスによる手入れが始まり、数百人がアウシュヴィッツに送られたという。
 恐怖を感じた一握りのユダヤ人家族たちが、自分たちの居住区に近いローマのティベリナ島にあるカトリック系のファーテベネフラテッリ病院に助けを求めた。そこで医師たちとスタッフは、彼らを患者として受け入れた。そして実在しない感染症「シンドロームK」を病名として彼らのカルテに記し、特別病棟を作ってユダヤ人を保護した。
◆実在しない病名 ドイツ人を騙せ
 ヒストリー・トゥデイ誌によれば、「シンドロームK」は、医師であり反ファシスト活動家のジョバンニ・ボッロメオ氏によって名づけられた。本物の患者と隠れているユダヤ人を区別するための暗号名で、Kはドイツ軍のイタリア戦線司令官だったアルベルト・ケッセルリンクと、ナチスローマ警察長だったヘルベルト・カプラーを意味したとされる。2人は後に戦犯として裁かれ、有罪となっている。
 いかにして医師たちがユダヤ人をかくまったかには諸説あるが、ボッロメオ医師の息子によれば、10月終わりにナチスがファーテベネフラテッリ病院にユダヤ人と反ファシストを探しにやってきたという。ボッロメオ医師は「シンドロームK」の患者を収容していた病棟に一行を案内し、いかに恐ろしい病気であるかを説明したあと、病棟内の捜索を許可した。しかし一行は、中に入ることを拒否し、それ以上何も尋ねず去って行ったという。IFLサイエンスは、「シンドロームK」がドイツ人将校たちに「コッホ病」とも呼ばれた結核を想像させたせいもあると見ている。
 ユダヤ人をかくまった医師の一人であるVittorio Sacerdoti氏は、2004年のBBCのインタビューで、偽の患者たちはナチスが来たら、咳をたくさんするようにと教えられていたと話した。恐ろしい病気をうつされたくないので、病棟には入ってこないと読んだからだという。案の定、ナチス一行はウサギのように逃げていったと当時を回想している。
◆医師たちはヒーロー 嘘が支えた善
 その後もナチスの病院捜索はあったようだが、1944年6月5日に連合国軍がローマを解放し、ナチスによる迫害は終わった。「シンドロームK」のおかげで助かったユダヤ人の数は、十数人から数百人とされ、正確にはわかっていない。しかしファーテベネフラテッリ病院の役割と医師たちの機転はナチスの恐怖に対する勇敢な行為として高く評価されている。2019年には、ドキュメンタリー映画『Syndrome K』が製作され、2020年1月に公開された。最近NHK BS1でも放送されており、コロナ禍で再び注目が高まっているようだ。
 一方で、この事件はファシズムのもとでのカトリック教会のあいまいな役割を示すことになったとヒストリー・トゥデイ誌は指摘する。当時の教皇ピウス12世はナチスユダヤ人迫害に対し明確な非難をしておらず、戦後も批判を受けてきたという事実がある。同誌はまた、ナチスの将校たちは「シンドロームK」が架空の病気とは気づかなかったとし、偽りの情報、恐怖、無知が善のための力になることもあると指摘している。
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 ウィキペディア
 ピウス12世(Pius PP. XII、1876年3月2日 - 1958年10月9日)はローマ教皇(在位:1939年3月2日 - 1958年10月9日)、第260代ローマ教皇。本名はエウジェニオ・マリア・ジュゼッペ・ジョヴァンニ・パチェッリ(Eugenio Maria Giuseppe Giovanni Pacelli)。ピオ12世とも表記される。
 第二次世界大戦期の教皇
 「第二次世界大戦下のバチカン(英語版)」および「ピウス12世と反ナチ運動(英語版)」も参照
 欧州大戦の危機迫る1939年3月2日、パチェッリは教皇に選出され、「ピウス12世」を名乗った。戦争が始まると、第一次世界大戦時のベネディクトゥス15世のやり方に倣って、バチカンは「不偏」を主張した。しかし、バチカンナチス・ドイツユダヤ人迫害に対してはっきりと非難しなかったことは、戦後激しく批判されることになる。 一方でナチス政権下で行われた障害者安楽死政策「T4作戦」には「自然道徳律に反し、また、神の掟にも反するからである」と度々非難を行っている。

 ナチスユダヤ人迫害への対応
 「ピウス12世とホロコースト」も参照
 バチカンの戦争中のユダヤ人への対応については賛否両論がある。
 賛同者はピウス12世は積極的にユダヤ人を保護していたという。実際、イタリアの降伏(1943年)に伴ってドイツ軍がローマを占領すると、多くのユダヤ人がバチカンで匿われ、バチカンの市民権を得ることができた。これによって戦後、イスラエル政府は「諸国民の中の正義の人」賞をピウス12世に贈っている。ヒトラーカトリック教会やピウス12世を快く思っていなかった。イタリアの降伏後、ヒトラーはピウス12世の拉致を計画したが、イタリアに進駐していた親衛隊大将カール・ヴォルフは悪影響が大きすぎるとして実行しなかった。
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 ヒュー・オフラハーティ(Hugh O'Flaherty、1898年2月28日 - 1963年10月30日)は、アイルランド出身のカトリック教会の司祭。教皇庁職員として、第二次世界大戦中に4000人のユダヤ人および連合軍兵士をドイツ軍の手から守り、命を助けたことで知られる。大英帝国勲章(CBE)など多くの賞を受け、その活躍はグレゴリー・ペック主演の『赤と黒の十字架』で映画化されている。
 第二次世界大戦
 第二次世界大戦が勃発すると、オフラハーティはピウス12世の命を受けてドイツ軍が管理していた北イタリアの捕虜収容所をめぐり、戦死とされていた連合軍捕虜がいないか調べて回った。実際に「戦死」扱いされていた捕虜が生きていることを発見すると、バチカン放送を通じて生存を知らせ、家族を安堵させた。
 イタリアが1943年に降伏すると、数千人のイギリス人戦争捕虜が解放された。彼らは収容所をまわっていたオフラハーティの姿を忘れず、ローマへやってきて彼に助けを求めた。ほかにアイルランド大使館を訪れた者も多かった。それは、当時ローマで開いていた英語圏の大使館が、中立国のアイルランドしかなかったからである。当時のアイルランド大使の妻だったデリア・マーフィーは、オフラハーティの活動を助けた。当時のローマにはドイツ軍が駐屯し、ユダヤ人を捕らえては収容所へ移送していた。また逃走中の連合軍捕虜も、つかまれば収容所へ送られた。
 ユダヤ人や捕虜を助けるオフラハーティの活動は、ドイツ軍への敵対行為であったため、上長の許可を待たずに行動することも多かった。彼は司祭や一般市民の中から協力者をスカウトした。オフラハーティの運動を支え、主導的立場を果たしたのはフランス大使のフランソワ・ド・ヴィアル卿、スイス公使のサルフィールド・サラザール公爵と駐バチカン英国大使のダーシー・オズボーン卿、そしてオズボーンの執事であったジョン・メイであった。ほかにも英軍のサム・デリー(Sam Derry)大佐もオフラハーティの協力者として影から支えた。オフラハーティは協力者たちと共に、4000人以上の連合国捕虜およびユダヤ人を、ローマ周辺の農場や修道院などにかくまった。隠れ家の中には、ナチス親衛隊本部の近くにあるものさえあった。これらの隠れ家をオフラハーティは変装してまめにまわっていた。
 多くの司祭や修道者、一般信徒たちもオフラハーティに協力し、自らの住居に避難民をかくまった。その中にはマルタ出身のアウグスティノ会司祭エディジオ・ガレア、アウレリオ・ボルグ、ウゴリーノ・ガットおよびロバート修道士がおり、さらに一般女性のチェッタ・チェバリエも逃亡者たちを自宅にかくまい、ドイツ軍の探索を免れた。ユダヤ人のためにユダヤ教の儀式がひそかにサン・クレメンテ大聖堂のトビアスの絵の元で行われていた。同聖堂はアイルランド大使館の保護下に置かれていた。
 ローマ駐留のドイツ軍は当然、オフラハーティの動きを快く思わず、彼こそがドイツ軍の目をあざむくネットワークの中心人物であることまでつきとめた。特に親衛隊中佐でローマのゲシュタポ長官であったヘルベルト・カプラーは地下組織の摘発に本腰を入れており、その冷酷さゆえに人々から恐れられていた。カプラーはかつてベニート・ムッソリーニ救出作戦にも携わり、イタリアのユダヤ人を捕らえて収容所に送っていた辣腕の軍人であった。カプラーは幾度かオフラハーティその人を確保しようかとも考えたが、さすがにバチカンの中で教皇庁の司祭を捕らえることができなかった。1943年3月23日、パルチザンによってドイツ軍兵士が殺害されると、カプラーは報復として翌24日に335人ものイタリア市民を殺害した(アルディアティーネ虐殺)。その中には司祭やオフラハーティの重要な協力者も含まれていた。オフラハーティはカプラーが自分をマークしており、危険が迫っていることに気づいていたが、それでもバチカンに逃げ込むユダヤ人や捕虜たちにすぐ対応できるよう、サン・ピエトロ大聖堂前の階段に立つのをやめなかった。
 1944年6月4日、ドイツ軍はローマを撤退し、後を追うように連合軍が入城した。こうして助かった避難民は3925人に上った。オフラハーティは南アフリカへわたってイタリア人捕虜に会い、エルサレムではユダヤ人難民に対面した。ローマにいたユダヤ人9700人のうち1007人がアウシュビッツ強制収容所に送られたが、それ以外の者が各地でかくまわれた。教会当局が保護したのが5000人、そのうちカステル・ガンドルフォの教皇別荘にかくまわれたのが3000人、200から400人がパラティーノ宮殿の「衛兵」としてかくまわれ、1500人が修道院や大学にかくまわれた。残りの3700人は個人の住居にかくまわれていた。
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