☭33」─3─ソ連の崩壊は北方領土4島奪還の好機だった。~No.114 ㉘ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 江戸時代後期、徳川幕府は「国土は軍事力を用いて守る」の原則から、ロシアの侵略から北方領土4島・蝦夷地・南樺太を守る為に東北諸藩に派兵を命じていた。
   ・   ・   ・   
田沼意次蝦夷地・北方領土開発計画と対ロシア交易計画。
2022-05-07
☭5」─1─田沼意次蝦夷地・北方領土探索隊。立原翠軒の国難警告。米英露による北太平洋航路探検競争。1738年~No.11No.12No.13 * ④ 
   ・   ・   ・   
文化露寇事件。
2022-05-06
☭6」─1─文化露寇事件。徳川幕府はロシアの侵略から日本を守る為に東北諸藩に出兵を命じた。1807年~No.14No.15No.16 * ⑤ 
   ・   ・   ・   
 ソ連崩壊による冷戦の終結北方領土4島を取り戻す絶好のチャンスであったが、平和憲法によってチャンスを逃してしまった。
 ロシアがウクライナ侵略戦争に敗北しプーチン・ロシアが崩壊知った時が、自衛隊を派遣して北方領土4島を取り戻せる最後のチャンスとなり、実行して取り戻せなかったら北方領土4島は二度と日本には奪還でいない。
 現代日本には外交力がなく交渉能力が乏しい為に、外交交渉での北方領土4島返還はありえない。
   ・   ・   ・   
 2020年8月18日 exciteニュース「日本はなぜソ連崩壊の機に乗じて北方四島を奪い返さなかったのか=中国メディア 
 日本はなぜソ連崩壊の機に乗じて北方四島を奪い返さなかったのか=中国メディア 
中国メディアは、「日本はどうしてソ連解体直後で内憂外患状態にあったロシアから、北方領土を取り返さなかったのか」とする記事を掲載した。(イメージ写真提供:123RF)(サーチナ) 画像(1枚)
 中国メディア・騰訊網は17日、「日本はどうしてソ連解体直後で内憂外患状態にあったロシアから、北方領土を取り返さなかったのか」とする記事を掲載した。
 記事は、ソ連の解体は第2次世界大戦後における最大の事件であったとする一方で「どうして日本はソ連解体の混乱した局面の中で機を見出して北方四島を奪還しにかからなかったのか」と疑問を呈した。
 その上で、ソ連の解体により、連邦に参加していた15の共和国は分裂することになったものの、実際にはソビエト共産党が各共和国に対する統制権を失ったにすぎず、ソ連から受け継いだロシア連邦旧ソ連の大部分の軍事力を把握し、引き続き北方領土に睨みを利かせていたため、日本としても手を出すに出せない状態だったと説明。「仮に混乱に乗じて日本が北方四島を占有したとしても、ロシアは国内の危機を日本に転嫁して攻撃しただろう」としている。
 また、後日公開された文書では、ソ連解体時にロシア連邦が日本に北方四島のうち2島を返還し、日本から借款を受ける用意があったことが明らかになっていると伝えた。しかし、日本側は2島を返還してもらうことで問題が「解決」し、残りの2島を取り戻すチャンスを永久に失うのを恐れたこと、当時のロシアの厳しい経済状況を鑑みロシア側の譲歩を期待したことから2島返還プランには応じなかったと説明した。
 そして、結局ロシアは譲歩することなく、なおかつ経済も回復を果たし日本の支援を必要としなくなり、日本は2島を取り戻す機会を逸したと紹介。その後も日本は基本的に4島全ての返還を求め続け、プーチン政権は態度を徐々に硬化させていったのだと伝えている。
   ・   ・   ・   
 2021年2月7日 産経新聞「主張 北方領土の日 プーチン氏と交渉やめよ 「ソ連崩壊30年」で新戦略を
 北方領土交渉はいま、死の際にある。ロシアのプーチン政権は、うなぎのかば焼き(四島)の匂(にお)いだけ日本に嗅(か)がせて本体は一片たりとも渡さず、あわよくば経済的獲物をせしめようと交渉を続けてきただけだ-。こう喝破したのは、一昨年死去したソ連・ロシア研究の泰斗、木村汎氏だった。現実はその通りになりつつある。
 ≪「四島」国際化が肝要だ≫
 ロシアは昨年の憲法改正で唐突に「領土の割譲禁止」を明記した。「割譲行為は最大禁錮10年、割譲を呼び掛けても最大4年」とする改正刑法も成立した。露メディアは今月1日、国家安全保障会議の副議長を務めるメドベージェフ元大統領・首相が、憲法改正で日本と北方領土問題を協議するのは不可能になった、との認識を示し、「ロシアには自国領の主権の引き渡しに関わる交渉を行う権利がない」と述べたと報じた。日本側に一方的に「領土断念」を促す無礼千万な発言だ。
 北方領土で軍事基地化を進めるロシア軍は、7日の「北方領土の日」に冷水を浴びせるように、国後島で射撃訓練を始めた。
 「四島返還」という国家主権に関わる歴史的正義の旗を自ら降ろし、全体面積の7%にすぎない歯舞、色丹の2島返還をうたった1956年の日ソ共同宣言に基づいて平和条約交渉を加速させる-との安倍晋三政権時代の日露合意(2018年11月)は、日本側の全くの幻想にすぎなかったことがこれで明白になったといえる。
 この日露合意を継承すると公言した菅義偉政権だが、日本を愚弄し、翻弄し続けるプーチン政権との領土交渉はこちらから打ち切る決断をすべきときではないか。
 その上で、ソ連の独裁者スターリン終戦直後、日ソ中立条約を一方的に破って丸腰の四島を火事場泥棒的に奪取した国家犯罪と、それを受け継ぐプーチン政権の非道性、逆に「四島返還」の正当性を世界に粘り強く訴える、新たな国際戦略の構築に着手し、対露外交の全資源を投入すべきだ。
 91年のソ連崩壊から今年で30年。共産党独裁体制から「民主」国家への歴史的な転換期だった。一党独裁を放棄したゴルバチョフソ連大統領がこの年4月に初来日した。90年からヒューストン、ロンドン、ミュンヘンと続いたG7サミットでは毎回、「北方領土問題解決」を支持する議長声明や政治宣言を採択し、「国際化」への努力の一端もうかがえた。
 しかし、結局は政治、経済的に弱り切ったロシアに四島返還を決断させる切り札的な外交戦略を持たず、首脳の緊急訪露などの外交攻勢にも出ることなく、千載一遇の絶好機を生かせなかった。
 93年10月にはエリツィン大統領が来日、「四島の帰属問題を解決して平和条約を結ぶ」とした「東京宣言」に署名した。しかし、後任のプーチン大統領は就任6年目の2005年9月、突然、「南クリール(北方四島)は第二次大戦の結果、ソ連(ロシア)の領土となり、これは国際法で確定している」との虚説を唱え出した。側近のメドベージェフ氏は10年11月を皮切りに、大統領、首相として合計4回も国後島択捉島に不法上陸する暴挙を繰り返した。
 ≪次の絶好機に知恵絞れ≫
 プーチン政権は反体制派は容赦なく弾圧し、自らの出身母体の巨大な秘密警察・旧KGB(国家保安委員会)や軍の特権層の利益を最大限重視する。最近は猛毒の神経剤で殺されかけた反体制指導者ナワリヌイ氏を強引に拘束、全土での大規模な抗議デモに見舞われている。そのナワリヌイ氏に暴露された「プーチンの秘密大宮殿」は世界中の顰蹙(ひんしゅく)を買っている。対外的にはサイバー攻撃などで各国を揺さぶる。その謀略と強権ぶりはソ連共産党政権も顔負けだ。
 日本の領土問題の一方的譲歩は「中国の軍事的脅威に対抗してロシアを抱き込むため」との分析も政府内から聞こえた。
 しかし、現実は人権問題などで互いに内政干渉も制裁も心配がない中露を一層接近させる結果になった。現在は日米同盟を挑発するかのように合同軍事演習を繰り返し、「北方領土」「尖閣諸島」でも共闘しているように映る。
 ソ連崩壊時の対露外交の不首尾のツケはあまりに重い。しかし、全土の抗議運動の大波に洗われ、20年超のプーチン長期政権の足元も揺れ始めた。「次の絶好機」に国を挙げて知恵を絞るときだ。
   ・   ・   ・   
 Copyright(c), 北方領土返還要求運動神奈川県民会議 All Rights Reserved. since march. 31. 2005
 事務局: 〒231-8588 神奈川県横浜市中区日本大通
 神奈川県県民局総務室内 電話:045-210-3618
 北方領土に関する各種資料
 外務省 われらの北方領土 2010年版より抜粋
 ゴルバチョフ大統領の登場とソ連邦の崩壊
( 1 ) 外相間定期協議と平和条約締結交渉の再開
 1985年3月の就任以来、ゴルバチョフ書記長は、INF全廃条約の締結、アフガニスタン撤兵、通常兵力の一方的削減など一連の「新思考外交」を展開する中で、アジア・太平洋地域に関しても、1986年7月のウラジオストク演説、1988年9月のクラスノヤルスク演説等において、同地域に対する関心を表明し、対日関係についても、その改善の必要性に対する認識を述べました。
 このような動きの中で、8年間中断されていた外相間定期協議が1986年1月に再開され、また、議員交流の再開、わが国要人の訪ソ等、日ソ間の政治対話は次第に拡大傾向を示してきました。シェヴァルナッゼ外相がソ連外相としては十年ぶりに我が国を公式訪問し、開催された第6回日ソ外相間定期協議では、両国外相間で3時間以上にわたり領土問題を含む平和条約交渉が行われ、さらに、その継続についても合意をみました。このように、ソ連側は北方領土問題につき話し合いのテーブルにつくことすら拒否するという理不尽な態度を改めましたが、北方領土問題についての厳しい立場そのものには変化はありませんでした。
 同年5月には安倍外相が訪ソし、モスクワにおいて第七回外相間定期協議が開催されました。
 この訪ソでは、領土問題を含む平和条約交渉が継続されたほか、ゴルバチョフ書記長との間で2時間にわたる会談が行われました。安倍外相から北方領土問題を解決し平和条約を締結することが日ソ関係の将来にとって最も重要である旨主張したのに対し、ゴルバチョフ書記長は、「あなた方は取り上げてはいけない問題を取り上げようとしている。すなわちこの問題は国境不可侵の問題に係るものである。これは第二次世界大戦の結果として既に合法性を与えられている問題である」と述べ、1月の際と同様ソ連側の厳しい立場に変化は見られませんでした。
 なお、1976年より中断されていた北方墓参については、1986年5月のモスクワでの日ソ外相間定期協議の際の話合いを受けて、同年7月2日、我が国の北方領土問題に関する立場を害さない形での合意が日ソ間で成立しました。その結果、北方墓参は、同年8月、11年振りに再開され、89年8月には19年振りに国後島への墓参が、また90年8月には1964年の北方墓参開始以来初めて択捉島への墓参が実施されました。
( 2 ) 平和条約締結交渉の継続と平和条約作業グループの設置
 その後、ココム問題、ソ連のスパイ事件などがあり、日ソ関係には冷却化の兆しがみられましたが、1988年に入り、再び対話の拡大がみられるようになりました。しかし、7月に中曾根元総理が訪ソした際、ゴルバチョフ書記長は、「戦後の現実から出発しなければならない。1956年にはソ連はその当時の現実を勘案し、善意によって二島を返還しようとの立場を取った。しかし、日本は四島の返還を要求した。」と述べました。
 88年12月にはシェヴァルナッゼ外相が訪日し、第8回日ソ外相間定期協議が行われました。この定期協議において外務次官レベルの平和条約作業グループが常設されました。(以後この平和条約作業グループの会合はソ連時代に8回、ロシアとの間で7回開催されています。その結果、北方領土問題をめぐる法的・歴史的議論は双方の間で既に尽くされ、残るはロシア指導部の政治的決断のみとなっています。)
 89年5月には宇野外相が訪ソし、第9回日ソ外相間定期協議が行われました。その中で日本側より、領土問題を解決して平和条約を締結することを最重要課題として日ソ関係全体を均衡のとれた形で拡大させるという「拡大均衡」の考え方を提示し、ソ連側の基本的理解を得ました。しかし、北方領土問題に関するソ連の立場は依然として固いものであり、シェヴァルナッゼ外相は「南の部分を含む『クリル列島』のソ連への帰属は、国際法上、歴史上、地理上確実なものである」との立場を繰り返しましたが、日米安全保障条約に対する評価については、「日米安全保障条約が存続している状況下であっても、ソ連側は、日ソ平和条約交渉を開始し、平和条約を締結することは可能である」との考え方を初めて表明しました。
 89年9月の国連総会の際での外相会談において、ソ連側より1991年のゴルバチョフ議長の訪日の意向が表明されました。90年9月にはシェヴァルナッゼ外相が訪日し、第10回日ソ外相間定期協議が行われました。
 領土問題については具体的な進展は見られませんでしたが、ゴルバチョフ大統領の訪日に関して、ソ連側より91年4月中旬の訪日の意向が表明されました。
 91年1月には、中山外相が訪ソし、保守派の台頭を警告して辞任したシェヴァルナッゼ外相に代わって就任したベススメルトヌィフ外相と第11回日ソ外相間定期協議が行われました。同会談において、ベススメルトヌィフ外相は、「色々な要因があってこの作業は非常に難しい。……この問題というのは、一回の最高首脳の会談で決まるような性質のものではない。」ということを強調しました。
 また、ゴルバチョフ大統領は、「この問題は、第二次大戦の結果として出てきた問題との側面を有している。……日ソの問題はどこから見ても非常に複雑であり、現実的に考えていく必要がある。いますぐに解決策が出てくるという性格のものではない。」と述べるに止まりました。
( 3 ) 日ソ首脳会談、ソ連邦崩壊とロシア連邦の登場
 その後3月にはベススメルトヌィフ外相が訪日して第12回日ソ外相間定期協議が行われ、4月のゴルバチョフ大統領訪日による日ソ首脳会談の開催に至りました。
 この日ソ首脳会談においても、残念ながら北方領土問題解決の突破口は開けませんでしたが、合計6回、12時間以上にわたる徹底した議論の結果署名された日ソ共同声明においては、「歯舞群島色丹島国後島および択捉島の帰属についての双方の立場を考慮しつつ領土画定の問題を含む」両国間の平和条約の話合いが行われたこと、及び「平和条約が、領土問題の解決を含む最終的な戦後処理の文書であるべきこと」が確認されました。これは、言い換えれば、歯舞群島色丹島国後島および択捉島の四島が平和条約において解決されるべき領土問題の対象であることが、初めて文書の形で疑義の余地なく明確に確認されたことを意味します。さらに、この共同声明においては、「平和条約の準備を完了させるための作業を加速することが第一義的に重要であること」が強調されており、領土問題の解決を含む平和条約の締結が持つ重要性が両国の最高首脳レベルで確認されました。
 なお、この首脳会談においては、合計15に及ぶ実務関係の文書が作成されました。91年4月の共同声明を出発点として、北方領土問題解決へ向けた新たな努力が開始されましたが、同年夏以降ソ連の国内情勢は急激に流動化し、8月のクーデター未遂と共産党支配の終焉を経て、ついに12月、69年間続いたソ連邦は名実ともに崩壊しました。
 しかし、新たに登場したロシア連邦ソ連邦と継続性を有する同一の国家であり、また、北方領土の地理的所在にかんがみ、以後の領土返還交渉の相手は当然ロシア連邦となりました。この間、新たな国家建設に乗り出したロシア側より、北方領土問題について従来より一歩進んだアプローチが示唆されるようになりました。
 91年9月、ロシア共和国よりハズブラートフ最高会議議長代行が、エリツィン大統領から海部総理にあてた親書を携え訪日しました。ハズブラートフ議長代行よりは、第二次世界大戦における戦勝国、敗戦国の区別を放棄すること、領土問題を「法と正義」に基づいて解決すること、問題の解決を先延ばしにしないこと等の考え方が表明されました。
 91年10月には中山外相がモスクワを訪問し、エリツィン大統領に対し、「法と正義」に基づき一日も早く北方領土問題を解決して平和条約を締結することの必要性を改めて表明しました。この間、ロシア国内において民族主義的立場から北方領土の日本への返還に反対する勢力が活発化し、また北方領土に在居住する住民の間で将来への不安が高まる等の新たな動きが出てきました。
 これに対しエリツィン大統領は、11月のロシア国民への手紙において、「法と正義」に基づく問題の解決と、日本との関係における最終的な戦後処理の達成の必要性を指摘しつつ、北方領土住民の懸念及びロシアの世論に配慮していく旨を述べました。
 92年1月、宮澤総理はニューヨークにおいてエリツィン大統領と会談し、エリツィン大統領は9月に訪日する意向である旨を表明しました。これを受けて9月までの間に平和条約作業グループが2回(2月モスクワ、7月東京)、外相間協議が3回(3月東京、5月モスクワ、9月モスクワ)開催される等、日露両国間で精力的な訪日準備作業が継続されました。
 交渉にあたり、我が国は、ロシア側が91年後半以降示してきた新たなアプローチを踏まえ、北方四島に居住するロシア国民の人権、利益及び希望は返還後も十分に尊重していくこと、また、四島の日本の主権が確認されれば、実際の返還の時期、態様及び条件については柔軟に対応する考えであることを明示しつつ、柔軟かつ理性的な対応を取りました。
 しかし、この間ロシア国内における北方領土問題をめぐる議論は更に尖鋭化し、次第に不安定の度を強めつつあったロシアの内政状況も影響して、領土問題、ひいてはロシア政府の対日姿勢そのものが政争の対象とされるようになりました。
 こうした状況にあって、9月9日、エリツィン大統領は宮澤総理に対し電話にて、ロシア国内の事情により訪日を延期せざるを得ない旨を伝えてきました。訪日開始の4日前に至って、このような形で延期が決定されたことは極めて遺憾でしたが、我が国としては冷静に事態に対処し、その後のロシア国内の情勢を見極めつつ一連の実務関係を進めるとともに、外相レベルで2回(9月ニューヨーク、93年1月パリ)、外務次官レベルで1回(12月モスクワ)の協議を経て、エリツィン大統領の訪日準備作業の再開が合意され、訪日準備が進められました。
 なお、92年9月には日露両国外務省の協力により、「日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集」が完成しました。北方領土問題に関する客観的な事実を集めたこの資料集は、作成過程における日露双方の緊密な協力とともに、過去10回にわたる平和条約作業グループがもたらした大きな成果として意義のあるものです。
   ・   ・   ・   
 公益社団法人北方領土復帰期成同盟(略称:北方同盟)
 北方領土北方四島)の位置や歴史
 (1)北方領土の位置
 北方領土とは、北海道の北東に位置する択捉島(えとろふとう)、国後島(くなしりとう)、色丹島(しこたんとう)及び歯舞群島(はぼまいぐんとう)の四島を言い、北方四島とも言われています。このうち歯舞群島は、貝殻(かいがら)、水晶(すいしょう)、秋勇留(あきゆり)、勇留(ゆり)、志発(しぼつ)、多楽(たらく)などの島々からなる群島です。
 北海道最東端の市である根室市納沙布岬から、最も近い貝殻島歯舞群島)までは3.7㎞しか離れておらず、最も遠い択捉島でも144.5㎞で、伊豆半島から八丈島までよりも近い距離にあります。
 (2)北方領土の歴史
 平和的に結ばれた日魯通好条約
 わが国はロシアより早く、北方四島樺太及び千島列島の存在を知り、すでに1644年には「クナシリ(国後)」島、「エトホロ(択捉)」島等の地名を明記した地図(正保御国絵図)が編纂され、幾多の日本人がこの地域に渡航していました。松前藩は、17世紀初頭より北方四島を自藩領と認識し、徐々に統治を確立していきました。
 これに対して、ロシアの勢力は、18世紀初めにカムチャッカ半島を支配した後にようやく千島列島の北部に現れてわが国と接触するようになりました。
 1855年2月7日、わが国は、ロシアとの間に通好条約を結んで国家間の交流を開始しましたが、この条約は、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の国境をそのまま確認するものでした。当時のロシア皇帝ニコライ一世自身も、条約締結以前から両国の国境を「択捉島とウルップ島の間」と考えていましたし、ロシア側の全権代表プチャーチン提督も条約に調印するに際し、「将来の紛争を避けるため細心の調査を行った結果、択捉島は日本国の領土であることが証明された」と述べています。日露両国は、このように全く平和的・友好的な形で合意を達成したのです。
 樺太千島交換条約で譲り受けた「千島列島」
 1875年には、わが国は千島列島をロシアから譲り受けるかわりに、ロシアに対して樺太全島を放棄することを決定し、ロシアと樺太千島交換条約を結びました。
 この条約の第2条には、日本がロシアから譲り受ける島としてシュムシュ島からウルップ島までの18の島々の名を列挙しています。
 こうした事実は、択捉島国後島色丹島及び歯舞群島北方四島が、一度も他国の領土になったことがないことをはっきり示すもので、当時すでにこれらの島々が、ロシアから譲り受けた千島列島(The Kurile Islands)とは明確に区別されていたことを物語っています。
 ソ連軍の侵攻
 第二次世界大戦で日本の敗戦が濃厚となった1945(昭和20)年8月9日、ソ連は当時まだ有効であった日ソ中立条約を無視して対日参戦しました。そして8月14日に日本がポツダム宣言を受諾し降伏の意図を明確に表明した後の8月18日、ソ連軍が千島列島の占領を開始し、8月28日から9月5日までの間に択捉島国後島色丹島及び歯舞群島のすべてを占領してしまいました。
 サンフランシスコ平和条約
 1951年に結ばれたサンフランシスコ平和条約は、千島列島と南樺太について「日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」と規定しています。
 この規定によって、日本は千島列島と南樺太を放棄しましたが、平和条約はこれらの地域が最終的にどこに帰属するかについては何も定めていません。ソ連は、これらの地域を一方的に自国の領土に入れ、今日まで事実上これらの地域に施政を及ぼしてきましたが国際法上これらの地域がどこに帰属するかは今なお未定であるわけです。
 また、平和条約は「千島列島」(The Kurile Islands)の地理的な範囲をはっきりと定めていませんが、日本政府は、国後、択捉両島は日本固有の領土であって、この条約で放棄した「千島列島」には含まれていないという見解を繰り返し明らかにしてきています。
 平和条約の起草国である米国政府は、1956年の国務省覚書で、「択捉、国後両島は(北海道の一部たる歯舞群島及び色丹島とともに)常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり、かつ、正当に日本の主権下にあるものとして認められなければならないものである」という公式見解を明らかにして、わが国の立場を支持しています。
 (3)北方領土問題に関するわが国の考え
 1991年4月、ソ連ゴルバチョフ大統領が訪日して日ソ首脳会談が行われ、その共同声明において、北方四島が平和条約において解決されるべき領土問題の対象であることが初めて文書の形で明確に確認されるとともに、平和条約締結作業の加速化の重要性が強調されました。
 その後、ソ連は崩壊しましたが、それ以降、ソ連との間で行われてきた領土返還交渉は、ロシア連邦との間で継続されています。
 ロシア政府は、ソ連よりロシアが引き継いだ領土問題につき新たなアプローチを提示しました。この新たなアプローチにおいては、第一に、今日の世界における肯定的変革により、もはや第二次世界大戦における敗戦国、戦勝国との区別など存在しない新たな国際秩序が現出しつつあるとの認識が強調され、第二に、過去に締結された国際合意を尊重することを含め、領土問題の解決に当たっては「法と正義」が重要な原則となることが強調されています。
 わが国は、このようなアプローチを歓迎しています。
 政府は、北方領土問題の解決に当たってこのようなロシア政府の姿勢にかんがみ、柔軟でかつ理性的な対応をとっていく考えを示しています。
 第一に、北方領土に現在居住しているロシア国民については、彼らの人権、利益及び希望は北方領土返還後も十分に尊重していくこと。かって北方領土の日本人の島民はスターリンにより強制退去させられました。その悲劇を経験した日本人は、現在北方領土に居住している人々が同じ悲劇を味わうことのない解決を、ロシア政府とともに講じていく考えです。
 第二に、択捉島国後島色丹島及び歯舞群島の日本への帰属が確認されることを条件として、実際の返還の時期及び態様については、柔軟に対応する考えです。
   ・   ・   ・   
 2023年2月7日 産経新聞「主張 北方領土の日 G7で「四島返還」共有を 日本外交は露の衰退に備えよ
 ロシアのプーチン大統領によるウクライナ侵攻から間もなく1年となる中、2月7日の「北方領土の日」を迎えた。
 日本固有の領土である北方四島は1945(昭和20)年夏の終戦直後、今のウクライナと同様にソ連の独裁者、スターリンに侵略され、不法に占領された。いずれも紛れもない国際的暴挙である。
 日本は今年、主要7カ国(G7)の議長国である。岸田文雄首相は5月の広島サミットなどの外交機会を捉えて「四島返還」の正当性をG7首脳に主張し、認識を共有すべきだ。ロシアが過去も現在も他国の領土を平然と蹂躙(じゅうりん)する無法国家である事実を国際社会に訴えなければならない。
 政策を転換したならば
 岸田首相は1月の米国での演説で、「私は外交・安全保障政策で2つの大きな決断をした。1つはロシアのウクライナ侵略に際しての対露政策の転換だ。厳しい対露制裁を導入し、ウクライナ人道支援でも先陣を切った。もう1つは安保3文書の策定による戦後の日本の安保政策の転換だ」と述べた。
 欧米の経済制裁の隊列に加わったことは評価できる。ならば、ウクライナ侵略が自由・民主主義陣営の存亡を懸けた国際問題であるのと同様、北方領土の不法占領問題も日露2国間だけにとどめ置いてはならない。首相が対露政策の転換を語るなら、北方領土問題を世界が共有すべきこととして「国際化」するための戦略転換も説くべきではないか。
 四島の不法占拠は、スターリンが日ソ中立条約を一方的に破り、「領土不拡大」をうたった大西洋憲章(41年)とカイロ宣言(43年)にも違反した国際犯罪だ。
 日本外交には、ソ連崩壊前後だった90年からの3年間、ヒューストン、ロンドン、ミュンヘンと続いたG7サミットで、北方領土問題の解決を支持する議長声明や政治宣言を採択させた実績がある。しかし、その後はこの問題を国際化する戦略がみえない。
 ウクライナのゼレンスキー大統領はこの1年間、無辜(むこ)の国民に多くの犠牲をもたらしたロシアの暴虐を耐え抜くとともに、9年前に強制併合されたクリミア半島を含む「全領土の奪還」に不退転の覚悟を示している。
 ゼレンスキー氏が北方領土問題にも目を向けていることを忘れてはならない。昨年10月には「北方領土はロシアの占領下に置かれているが、ロシアには何の権利もない。私たちはもはや行動すべきだ」との大統領令に署名した。
 日本はこの心強い援軍に全く応えていない。ゼレンスキー政権は昨年8月、クリミア奪還をテーマとするオンラインの国際会議を開き、約60カ国・機関の代表が参加した。ここで演説した岸田首相は北方領土問題にひと言も触れず、世界に共闘を働きかける絶好の機会を逃した。不作為による失態である。
 「不作為」を繰り返すな
 同様に猛省すべきこととして想起されるのは、福田康夫政権時の2008(平成20)年に開かれた北海道・洞爺湖サミットだ。このときはロシアも含むG8だったので当時のメドベージェフ露大統領も参加した。だが、四島の目と鼻の先でのサミットだというのに議長国の日本は全体会合で北方領土問題を提起せず、日露首脳会談でも何の成果も得られなかった。
 腰の据わらない日本外交はクレムリンに完全に見透かされ、2年後の菅直人政権時には、同大統領がソ連・ロシアの指導者として初めて北方領土国後島)に足を踏み入れる暴挙に至った。
 ウクライナからの連帯の意思に応えることは、こうした負の歴史を断ち切ることになる。岸田政権には四島返還をテーマとする国際会議やシンポジウムなど具体的な行動を起こしてもらいたい。
 現在のプーチン政権は憲法改正で「領土割譲禁止」をうたっている。ウクライナ侵攻後は日本との平和条約交渉を一方的に中断してビザなし交流も打ち切り、国後、択捉では大規模軍事演習を行うなど強硬姿勢をとっている。
 一方で長引くウクライナ侵略はロシアの国際的孤立を深め、国内の経済・社会を疲弊させた。ソ連が崩壊したときのように国家的な衰退へと向かうことは十分にあり得よう。「そのとき」にどう備えるか。日本はあらゆる事態を想定し、領土を取り戻す戦略を練り上げなくてはならない。
   ・   ・   ・  
 2021年10月30日 YAHOO!JAPANニュース ダイヤモンド・プレミアム「北方領土をロシアが絶対に手放さない明白な理由
 冬、国後島を望む
 近くて遠い、国後島を望む Photo:PIXTA
 今、世界は対立や紛争にあふれている。米中の覇権争い、中東での内戦や衝突、ミャンマーアフガニスタン、そして友好とは言い難い近隣国に囲まれた日本の緊張など、キナ臭さは高まる一方だ。この緊迫した世界情勢を解説した新刊書『世界の紛争地図 すごい読み方』からの一部抜粋で、世界各地の対立と紛争の背景をわかりやすくコンパクトに伝えていく。今回は、日本が抱える北の国境問題、北方領土返還への遠い道のりについて解説する。
 ソ連は「日ソ共同宣言」で
 二島返還に同意したものの…
 日本が周辺国との間に抱えている領土問題は、尖閣諸島竹島に加えてもうひとつある。北方領土問題だ。
 北方領土とは、北海道根室半島沖に位置する歯舞諸島色丹島国後島択捉島の四島を指す。第二次世界大戦前には四島に1万7000人あまりの日本人が住んでいたが、終戦間際のどさくさにまぎれて侵攻してきたソ連軍に占領されてしまった。日本人は1949年頃までに追い出され、ソ連が実効支配を固めた。それ以来、四島はソ連支配下に置かれ続け、現在はロシアが支配を継続している。
 日本は四島の返還を求めているが、ロシアは聞く耳をもたず、解決への道はいまだ定まっていない。長年にわたり日本とロシアの間に立ちはだかってきたこの問題を「北方領土問題」というのである。
 アメリカとの安保条約締結で
 返還の気運は立ち消えに
 世界の紛争地図 すごい読み方
 本コラムの元本『世界の紛争地図 すごい読み方』
 いまや日本外交の最大級の目標となっている北方領土問題。それがはじめて国際社会で注目されたのは1951年のことだった。
 この年、日本は「サンフランシスコ平和条約」で千島列島と南樺太の領有を放棄する一方、北方四島は千島列島に含まれず日本の領土であると主張した。ところが、ソ連は四島が千島列島に含まれると主張したため、日本と対立することになったのである。
 その後、日本とソ連は四島の領有権をめぐり交渉を重ねていく。そのなかで何度か返還を実現するチャンスが訪れた。
 最初のチャンスは、日本とソ連が事実上国交を回復した1956年の「日ソ共同宣言」のときである。この宣言にはソ連歯舞諸島色丹島を日本に引き渡すことに同意する旨が明記されていた。日本は二島のみの返還では不満だったが、ソ連としては大きな譲歩だった。
 しかし、1960年に「日米新安全保障条約」が結ばれると、ソ連の態度は一転する。
 当時は東西冷戦の真っただなかだった。日本がソ連と敵対するアメリカと同盟を結んだことで、ソ連は警戒を強め、「領土問題は解決済み」と通告してきたのである。これで領土返還の可能性は立ち消えとなってしまった。
 ソ連からロシアとなっても
 日本は足元を見られ続ける
 それでも冷戦終結前後に大きなチャンスが訪れた。
 当時、ソ連の経済は崩壊していたこともあり、バブル期の日本では期待が膨らんだ。実際、2019年に公開された外交文書からは、1988年の中曽根首相(当時)とソ連ミハイル・ゴルバチョフ書記長との会談で、ソ連が態度を軟化させていたことがうかがえる。
 ソ連が崩壊してロシアになり、日本の交渉相手がボリス・エリツィン大統領になってからも、ロシアの状況は変わらなかった。
 ただ、日本の期待はまったく根拠のないものだった。当時、ロシアが日本の経済協力を求めていたのはたしかだが、それと引き換えに領土返還に応じる考えはなかったといわれているのである。
 その後、日本とロシアは1993年の「東京宣言」で四島帰属の平和的解決を目指すことに合意したり、1997年の「クラスノヤルスク合意」で2000年までの平和条約締結目標に合意したりした。しかし、具体的な進捗はみられず、長いこう着状態が続いた。
 そうしたなか、安倍晋三首相(当時)がロシアのウラジーミル・プーチン大統領と会談を重ね、2013年には「引き分けの精神」で解決を目指すことに合意する。2019年には「日露平和条約」の締結交渉がスタートした。
 しかし、安倍首相が二島返還での早期解決をはかったのに対し、ロシアは「四島は第二次世界大戦の結果、正当にロシア領になった」と主張し、交渉は停滞。解決への道はみえなくなってしまった。
 軍事戦略的に重要な拠点を
 簡単に手放すわけにはいかない
 そうしている間にも、ロシアは北方四島の実行支配を固めている。そもそもロシアが四島に固執する理由のひとつは軍事面にある。
 四島は太平洋への出口に位置しており、アメリカ軍と対峙する場所でもある。ロシアにしてみれば、この地を基地化することで太平洋でのアメリカ軍の活動を抑止することができる。だから、大国の隅にある小さな島々とはいえ、そうやすやすと手放すわけにはいかないのだ。
 実際、国後島択捉島にはすでに艦艇攻撃用ミサイルや新型戦闘機が配備されているし、ロシア軍による北方領土での軍事演習も増えている。
 ロシアのこうした動きの背景には、北方領土を自国の領土だと誇示するとともに、アメリカを牽制する目的もあると考えられている。北方領土の戦略的な重要性が高まり、ロシアの実効支配が強まれば強まるほど、日本への返還の望みは小さくなっていくのである。
   ・   ・   ・