💞12」─1─不朽の名著『夜と霧』が問う「生きることの意味」 究極の絶望で見出した「人生を決める決定要因」~No.35No.36No.37 

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 西洋と日本は、「発想の転換」歴史で動いていた。
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 2023年7月18日 MicrosoftStartニュース 東洋経済オンライン「不朽の名著『夜と霧』が問う「生きることの意味」 究極の絶望で見出した「人生を決める決定要因」
 堀内 勉
 古来より歴史を動かしてきたのは「発想の転換」(写真:Rhetorica/PIXTA
 © 東洋経済オンライン
 現在、学校教育のみならずビジネス社会においても「教養」がブームになっている。その背景には何があるのか。そもそも「教養」とは何か。
 ベストセラー『読書大全』の著者であり、「教養」に関する著述や講演も多い堀内勉氏が、教養について論じる、好評シリーズの第3回目。
 不朽の名著『夜と霧』
 前回の記事「「教養」を習得すべき"たった1つ"の本質的理由」に続いてもう1冊、ユダヤ精神科医ヴィクトール・フランクルの世界的ベストセラー『夜と霧』を紹介したいと思います。
 フランクルは苛酷なユダヤ強制収容所生活を生き抜き、解放された翌年の1946年にこの本を著しました。
 本書の原題“trotzdem Ja zum Leben sagen:Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager”は、「それでも人生に然りと言う ある心理学者、強制収容所を体験する」というものです。
 英語版は "Man's Search for Meaning" で、こちらは「人間が生きる意味を求めて」です。
 これが、日本語版でなぜ『夜と霧』になったのかですが、1956年にフランスで公開されたアラン・レネ監督の映画のタイトル”Nuit et brouillard”(夜と霧)から持ってきたようです。
 これは、1941年12月7日に出されたヒトラーの総統命令「ライヒおよび占領地における軍に対する犯罪の訴追のための規則」、通称「夜と霧」(Nacht und Nebel)に由来していて、ヒトラーが愛したワーグナーラインの黄金』の第3場「ニーベルハイム」からの引用だそうです。
 この命令が当初意図したのは、ナチスドイツ占領地域において、すべての政治活動家レジスタンス擁護者の中からドイツの治安を危険にさらす人物を選別し、収監することでした。
 この対象となった者は、密かにドイツへ連行され、まるで夜霧のように跡形もなく消えてしまったそうです。
 まさにこの本の中で綴られている内容を象徴するかのような書名ですが、その中でフランクルは、次のように語っています。
 「経験からすると、収容所生活そのものが、人間には「ほかのありようがあった」ことを示している。その例ならいくらでもある。感情の消滅を克服し、あるいは感情の暴走を抑えていた人や、最後に残された精神の自由、つまり周囲はどうあれ「わたし」を見失わなかった英雄的な人の例はぽつぽつと見受けられた。一見どうにもならない極限状態でも、やはりそういったことはあったのだ。(中略)人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない、実際にそのような例があったということを証明するには充分だ。」
 「ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。」
 「人生は自身の振る舞いで決まる」
 私たちは、人生が思い通りになる、ならないで一喜一憂します。まるで人生の主人は自分であり、人生という従者は自分の思い通りになるのが当たり前であるかのように。
 しかし、フランクルはそうした考えを真っ向から否定します。それはあなたの勘違いだと。あなたの人生というのは、あなたがどう振る舞うかによって決まるのであり、まず問われるべきなのはあなた自身の姿勢なのだと。だから、問いの順番が逆なのだと。
 ここでフランクルが言っている「コペルニクス的転回」というのは、地動説を唱えた天文学者ニコラウス・コペルニクスに因んで、「近代哲学の祖」イマヌエル・カントが自らの発想に対して名付けたものです。
 カントは、『純粋理性批判』に代表される批判哲学において、まず外部の対象があり、それを人間が認識するという従来の認識論を180度逆転させ、初めに人間の認識能力があり、それが現象を構成するのだと考えました。
 私たちは現象を認識することはできても、それは私たちの認識能力(主観)に依るものだから、現象の向こう側にある物の本質、つまり「物自体」は直接認識できないというのです。
 ここから、「発想を180度逆転させる」ことを広く「コペルニクス的転回」と呼ぶようになりました。
 たとえば、社会学者のマックス・ウェーバーは、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、資本主義誕生の背景には禁欲主義というプロテスタント特有の職業倫理があるとしました。
 人間の欲望を解き放つ資本主義と、その真逆の禁欲主義がどう関係するのかといえば、そこには「金を稼ぐことが神の恩寵の証になる」というプロテスタンティズム、とくにカルヴァニズム特有のロジックが介在しています。
 「富の蓄積」と神の救済
 フランスの神学者ジャン・カルヴァンが唱えた予定説では、「神の救済に与る者と滅びに至る者は予め決められている 」とされています。
 したがって、初めから決まっていることに対していまさらじたばたしても仕方がないのですが、その結果は予め知っておきたいというのが人情です。
 そこでプロテスタントの人々は、禁欲的労働(世俗内禁欲)によって自分は神に救われる人間だという確信を持つことができると考えたのです。
 禁欲的労働をしたかどうかは、その結果としての富の蓄積に現れます。したがって、一生懸命に働いて富を得ることができれば、それ自体がまさに神の意志に適っている証拠であり、神の救済の確信につながるというロジックです。
 この場合の金儲けは「結果」であって「目的」ではないのですが、こうした禁欲的な職業倫理が、金儲けを目的とする資本主義の精神的支柱になったというのがウェーバーの結論なのです。
 ここでは、「善行を積めば(因)、神によって救われる(果)」という常識的な因果律とは真逆の、「神によって救われている人間であれば(因)、神の意思に従った行いをするはずだ(果)」という、因と果を逆転させた思考方法になっているのです。
 これはまさに、発想のコペルニクス的転回と言えます。
 この話は、浄土真宗の開祖親鸞が『歎異抄』で唱えた悪人正機説を思い起こさせます。
 『歎異抄』には、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」とあります。
 これは、「善人(善行によって往生しようとする者)は自己の能力で悟りを開けるが、煩悩に囚われた悪人(善悪の判断もつかない凡人)は仏の救済に頼るしかないのだから、悪人こそが阿弥陀仏に救われる対象である」という逆転の発想です。
 また、新約聖書には、『マタイによる福音書』5章の「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」や、『ルカによる福音書』6章の「汝の敵を愛せ」などの言葉があります。
 これらの教えも、同じような逆転の発想と言えます。
 新約聖書から遡ること2000年ほど前に、古代バビロニアの王ハムラビによって制定されたハムラビ法典には、「目には目を、歯には歯を」とあります。普通の感覚からすれば、ハムラビ法典のほうが常識的な判断だと思えるのではないでしょうか。
 「発想の転換」が歴史を動かす
 しかしながら、浄土真宗にせよキリスト教にせよ、それまでの思考の枠組みを根底から覆す逆転の発想を提示した当時の新興宗教が、その後大きな飛躍を遂げることになったのです。
 このように、カントの「コペルニクス的転回」は、その後のヘーゲル弁証法における「止揚アウフヘーベン)」と同じように、私たちを取り巻く閉塞感をブレークスルーするうえでの重要な手掛かりとなったのです。
 私たちを捉えている思考の枠組みを一回ずらしてみる、外してみる、そして新たな地平線の上で眺めてみるということです。
 こうした発想の転換については、もう一度機会を改めて議論したいと思います。
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