🔯10」─3─人類の歴史叙述の源流は三つしかない。旧約聖書、唯物史観、『古事記』の共通点。~No.34 ③ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2023年5月1日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「人類の「歴史叙述」の源流は三つしかない。古代ギリシアと、あとの二つとは?
 アテネパルテノン神殿。photo/gettyimages
 二人の天才歴史家の実像を描いた『歴史学の始まり ヘロドトスとトゥキュディデス』(桜井万里子著、講談社学術文庫)は、古代ギリシアでの「歴史学誕生のドラマ」を鮮やかに蘇らせてくれる一冊だ。しかし、古代ギリシア史が専門の橋場弦氏によれば、「歴史を記述する」という営みは、世界のあらゆる地域に普遍的にみられるわけではないという。古代ギリシアでこそ生まれた「歴史叙述」の特殊性を、日本や中国、インド、ユダヤと比較しつつ、橋場氏が解説する。
 【写真】古代ギリシア歴史学
 人間だけが、「歴史」から未来を考える
 人間は過去を背負う動物である。人間以外の生き物は、歴史を知ることができない。人間だけが、歴史というものを意識することができる。
 過去を振り返り、未来に希望を持ったり不安を感じたりすることは、人間のみに許された特権であると同時に、逃れられぬ業(ごう)でもある。人間は、過去にひどい目に遭った恨みを容易には忘れないし、また将来への不安に押しつぶされそうになると、それを少数派への憎悪にすり替えたりもする。それに比べると、現在の瞬間だけを生き、死ぬ時もじたばたせず、当たり前のように最期を迎える犬猫の生き方が、うらやましく思われることさえある。
 未来は、過去と合わせ鏡の関係にある。「過去にこういうことが起きたから、将来も起こるかもしれない」とか、「過去にこういうことがなかったからと言って、将来もないとは限らない」という形で、人は未来をさまざまに思い描く。過去の世界と全く無縁な純粋未来というものを、人間は想像することができない。
 だから、どんな人間でも過去の世界と向き合って生きてゆかざるをえない。ふだん歴史などに全然無関心な人でさえ、そうなのだ。歴史を知ることは、現在を生きる営みと、それほど深い関わりを持っている。
 桜井万里子『歴史学の始まり ヘロドトスとトゥキュディデス』(講談社学術文庫。旧版は『ヘロドトスとトゥキュディデス 歴史学の始まり』山川出版社、2006年)は、歴史を探究し叙述するという知的な営みを、人類がどのように手に入れたのかという問いに、2500年前のギリシア文明にさかのぼって答えてくれる。得がたい良書の復刊を、まずは慶びたい。
 「神話」は世界中にある。しかし「歴史」は…
 「原罪と楽衛追放」。旧約聖書のアダムとイブの物語をミケランジェロが描いた
 さて、人間は過去を背負う動物であるが、では過去の歴史を記述するという営みは、世界のどの人間集団や地域にも見られるものだろうか。実はそうではない。世界の成り立ちや祖先の偉業を語り伝える広い意味での神話は、人類に普遍的に見られる。だが過去の出来事を、ただ羅列するのではなく、特定の観点から整理し、全体として意味のある語りにまとめ、文字にして書き記すこと、つまり歴史叙述という文化は、どこにでも生まれるものではない。
 イギリスの古典学者O・マリーによると、人類の歴史叙述にはわずか三つの源流しかない。すなわち、(1)ユダヤ旧約聖書、(2)中国諸王朝の正史、そして(3)古代ギリシアの歴史叙述、であるという。
 日本の『古事記』や『日本書紀』は、言うまでもなく(2)の伝統を引き継いでいる。他方、あれだけ古くから深遠な思想を発達させ、紀元前1000年紀に花開いた南アジアのインド古典文化には、なぜか歴史叙述の伝統は生まれなかった。すべてのものが輪廻するという思想からは、一回限りの歴史的事実をわざわざ記述しようという意思が、そもそも生まれなかったらしい。「インドに史書なし」と言われるゆえんである。南アジアで本格的な歴史書が登場するのは、デリーにムスリム王朝が誕生し、イスラーム世界の歴史叙述がもたらされてからであるが、こちらは(3)の伝統を継承している。
 これら3つの歴史叙述の伝統はそれぞれに独自の発展を遂げたが、それは、それぞれを生み出した国家や社会のあり方と切っても切れぬ関係にあった。ともかく、歴史を叙述するという発想は、世界中のどこにでも見られるものではなく、むしろ特異なアイデアであったと言えよう。
 そのなかでも、のちの近代歴史学の源流になったのが、本書で取り上げられる古代ギリシアの歴史叙述である。著者は、ともに「歴史の父」と呼ばれるヘロドトスとトゥキュディデスが達成した偉業を、丹念に解き明かす。彼らは、それまで神話という形でしか語られなかった過去の出来事を、神々の意思(と信じられていたもの)から切り離し、ヒストリアという独自の叙述スタイルによって再構成することに初めて成功したのである。
 彼らが著述を始めた頃には、「「歴史家」という言葉も「歴史」というジャンルもまだ存在していなかった」(『歴史学の始まり』20頁)。19世紀に生まれた近代歴史学は、歴史学を「科学」と規定し、いわゆる文学との間に一線を画したのだが、そのような区別は彼ら二人のあずかり知らぬところであった。ホメロス以来の文学の伝統は、彼らの意識の深みに濃い影を落としていたのである。
 しかしながら、だからこそ、ヘロドトスとトゥキュディデスがその文学的伝統から「新しい一歩を踏み出そうという意気込みをもっていたことも間違いない」(同書26頁)。彼らの偉業の意義については本書を読んでもらうことにして、ここでは二人から始まるギリシア的歴史叙述に特有の性格を、他の二つの伝統と比較しながら考えてみたい。
 「大きな歴史」を一人の「自己」が語る
 ヘロドトスとトゥキュディデスの像。ナポリ国立後学博物館蔵。photo/gettyimages
 ユダヤや中国と比べた場合、ギリシア的歴史叙述の最大の特徴は、叙述の主体である作者個人の「自己」が明瞭に意識されていることである。ヘロドトスは、ペルシア戦争の記録である『歴史』の冒頭を次のように書き始める。
 「これは、ハリカルナッソスの人ヘロドトスの調査・探究(ヒストリエー)であって、人間の諸々の功業が時とともに忘れ去られ、(略)やがて世の人に語られなくなるのを恐れて、書き述べたものである。」(第1巻、同書21頁)
 これはトゥキュディデスも同様で、ペロポネソス戦争を記述した『戦史』冒頭に、作者として自分の名前を明記する。彼らは、あたかも画家がキャンヴァスの隅にサインを書くように、作品に自署を残しているのである。
 なぜ彼らはそうしたのか。名誉を求め他に抜きん出ようとする競争意識がことのほか強かったギリシア人にとって、自分の名を作品に刻印することが何より大事であったことは理解できる(ギリシアの陶器画には、しばしば本当に画工のサインが見られる)。だが、それ以上に彼らが強調したかったのは、それが自分の情報収集と判断力によって創造された仕事であること、つまり歴史を認識し記述する主体が、他ならぬ「自己」である、ということだった。
 ヘロドトスが近年ますます評価され、かつてに比べて「復権」著しいことについては、本書2~4章にくわしく論じられている。ヘロドトスをよく読んでみると、彼は神話や伝承など複数の情報源を明らかにし、そのなかで自分にとって信用できるものを採用し、そうでないものを退ける、という知的作業のプロセスを、あちこちで開示している。判断がどちらともつかない場合は、正直に「どちらの言い分が正しいのかよくわからない」と言って判断を留保する。
 そこから得られた結論は、かならずしもギリシア人一般のイデオロギーと一致するものではなかった。しかし、世間が信じているもろもろの伝承を、いちど自身の知性のふるいにかけるという手続きを経て、自己の問題関心に納得の行く答えを見いだそうとしたその指向性にこそ、ヘロドトスの革新性があった。
 先駆者ヘロドトスに対抗意識を燃やし、彼とは異なるスタイルの歴史叙述を目指したトゥキュディデスも、歴史を記述する「自己」を自覚していた点では、同じ道を歩んだ。ただ彼の場合、情報の吟味と取捨選択(近代歴史学風に言い換えれば、史料批判)のプロセスを、一切表に出さず、叙述の背後にいわば吸収させていることが、ヘロドトスと異なっているだけなのである。
 彼ら二人から始まる歴史叙述のジャンルは、ポリス内部やポリス間の闘争、さらにはギリシア人世界と異民族世界との交流と戦争、といったテーマをあつかうスケールの大きなものであった。近年欧米での歴史叙述研究をリードするJ・マリンコラは、これを「大きな歴史叙述(Great Historiography)」と呼ぶ。それほど大きな叙述でありながら、それがたった一人の「自己」の知的作業から編み出されたものだということを、ギリシア人歴史家たちはよく自覚していた。これは、自分自身の知性に信を措くことこそ知的探究の出発点であるという暗黙の了解に基づいている。ピュタゴラスの言葉として伝わる「万事に先立って汝自身を尊敬せよ」という箴言とも響き合う。
 旧約聖書唯物史観、『古事記』の共通点
 アテネアクロポリスのエレクテイオン神殿。photo/gettyimages
 ひるがえって、旧約聖書に見られるユダヤ的歴史叙述の伝統では、書き手の「自己」が前面に出るということはない。もちろん『列王記』『歴代誌』をはじめ旧約聖書に収められた歴史書のそれぞれは、実際には一人ないし複数の作者の手になるものであったが、ユダヤ人(ヘブライ人)にとって歴史が神との契約の記録である以上、それらは基本的に神の言葉を記したものであって、どこの誰という個人の創作に帰されるものではなかった。
 歴史が神に属するゆえに、ユダヤ的歴史叙述は、ただ一通りにしか書けないものであり、けっして複数のバージョンの存在を許すものであってはならなかった。『列王記』など諸々の歴史書は、けっして個々別々に並び立つものではなく、単一の連続した記述と考えられた。この単線発展論的な歴史観は、やがて中世のキリスト教的歴史叙述に引き継がれ、ひいてははるか後世、マルクス主義唯物史観に流れを注ぐのである。
 「ただ一通りにしか書けないもの」という点では、中国の正史の伝統もこれに近いだろう。現王朝の正統性を主張するという明確な目的がある以上、それに異を唱えるオルタナティブな歴史叙述に存在の余地はないからである。中国の正史の場合、前王朝が易姓革命によって倒された経緯をたどることで現王朝の正統性を示すという建て前を取る。他方『日本書紀』や『古事記』は、太古から今日まで現王朝が途切れず存続することの正統性を誇示するのである。
 これに対しギリシアの歴史叙述では、作者が特定の個人である以上、同じ時代を扱ったものであっても、さまざまに異なる叙述が並び立つ(そして競い合う)のは当然のことであった。トゥキュディデスの『戦史』は、前411年アテナイに起こった寡頭派革命の顛末を記したところで未完のまま終わるが、その直後からの歴史を、クセノポンが『ギリシア史』によって引き継ぐ。しかしトゥキュディデスの継承者は彼だけではなかった。小アジアのキオス出身のテオポンポス、同じくキュメ出身のエポロス、そして、クセノポンなどよりもはるかに質の高い叙述を残した「オクシュリンコスの歴史家」などが知られている(この経緯については本書134~140頁にくわしい)。さまざまな歴史観が並び立ち、それぞれにすぐれた点を主張するのが、ギリシア的歴史叙述の際だった個性である。
 こうして考えると、ギリシア人の歴史叙述は、それを生み出したポリス社会の特性を色濃く反映している。それは、神々を除けば超越的な権力や権威が存在せず、政治的平等を原則とするポリス市民が対等な議論の中から生み出した、市民的言説の一つと言うべきなのである。
 著者は本書を、「二十一世紀が開幕した現在、(略)二人の天才歴史家に再び教えを請う時が到来しているのかもしれない」(同書146~7頁)という言葉で締めくくった。それから十数年、世界は激しく変貌して今日に至る。歴史的事実と信じられていたことが「フェイク」の一言で簡単に葬り去られるかと思えば、およそ荒唐無稽な「陰謀論」がSNSを介して飛び交う世の中になった。
 人間は歴史を知る唯一の動物である。人間の知性を信じて過去への探究の道を切り拓いたヘロドトスとトゥキュディデスに、たしかに私たちはもう一度学ぶべきなのだろう。
 ※ここで取り上げた『歴史学の始まり ヘロドトスとトゥキュディデス』(桜井万里子著)の内容については、〈偉大な「ヘロドトス先輩」を乗り越えて、トゥキュディデス「歴史学」への第一歩! 〉でさらに紹介しています。
 橋場 弦(東京大学教授)
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 4月18日 YAHOO!JAPANニュース「偉大な「ヘロドトス先輩」を乗り越えて、トゥキュディデス「歴史学」への第一歩!
 古代ギリシア「二人の天才」のドラマ
 学術文庫&選書メチエ編集部
 ヘロドトスとトゥキュディデスって――何だったっけ? たしか古代ギリシア? どっちかがペルシア戦争の歴史を書いて……と、うろ覚えの読者が多いだろう。そう、この二人は紀元前5世紀のギリシアに生きた「歴史家」だ。しかし、ここで「歴史家」と言い切ってしまうことには「少々のためらいを感じる」と東京大学名誉教授の桜井万里子氏はいう。二人の天才の対照的な個性が生んだドラマを、桜井氏の著書『歴史学の始まり ヘロドトスとトゥキュディデス』(講談社学術文庫)から見ていこう。
 「歴史」も「歴史家」もまだ存在しない
 紀元前5世紀の初め、アジアの大国ペルシアが、ギリシア征服をもくろみ大軍を派遣してきた。ギリシアの人々は、都市国家アテナイを中心に結束してペルシア軍を撃退、なんとかギリシアの自由を守る。これがペルシア戦争で、この戦争を記録したのがヘロドトスだ。
 この戦争のあと、強大化するアテナイに脅威を感じた都市スパルタがペロポネソス同盟を組み、アテナイを中心とするデロス同盟と戦った。紀元前404年、アテナイの敗北で終結したこの戦いをペロポネソス戦争と呼び、この戦争を記録したのがトゥキュディデス。
 ヘロドトスとトゥキュディデスによる作品は日本語にも訳され、それぞれ『歴史』『戦史』の書名で岩波文庫にも収められている。しかし――、
 〈その書名のゆえに両者の作品が歴史であると最初から思い込んでしまうことには、「待った」をかけたい。なぜなら、二人が著述を始めた当時、世界には「歴史家」という言葉も「歴史」というジャンルもまだ存在していなかったのだから。そして、当時はまだ作品に書名を冠するという慣習もなかったからである。〉(『歴史学の始まり ヘロドトスとトゥキュディデス』20頁)
 ヘロドトスはその作品冒頭で、自らの著述の方法として「ヒストリエー」という語を使っている。これが英語のヒストリーの語源であるギリシア語「ヒストリエー」の最初の用例だという。しかし、それは「調査・探究」という意味でつかわれており、現在の「歴史」とぴったりとは一致しないのだ。
 アテナイで出会った可能性も否定できない二人の著述家――ヘロドトスにもトゥキュディデスにも、いまだ「歴史家」という自覚はなく、ギリシアの文学的伝統の上で執筆をしている、という意識だったようだ。
 「嘘つきヘロドトス」を批判?
 政治的理由で亡命生活を送っていたヘロドトスは、ペルシアやエジプトを旅し、一時はアテナイにも滞在した。その作品には、各地での見聞が散りばめられ、しばしば荒唐無稽なエピソードも収められている。
 たとえばイタリア沖で船から身を投げた竪琴弾きの名手が、イルカに救われてギリシアに帰還した話。また、幸運続きの自分の人生が恐ろしくなり、大事にしていた指輪を海に捨てたが、5日後に届いた魚の腹からその指輪が出てくるなど、どう手をつくしても幸運から逃れられなかった僭主の話…。こうした伝承や神話を事実に織りまぜて語るヘロドトスは、後世の歴史家からもたびたび「嘘つき」と批判される。
 ウィーンのオーストリア国会議事堂前に建つヘロドトス像。photo/gettyimages
 一方、一世代ほど後輩のトゥキュディデスは、「事実」にこだわり、史料にも厳密な姿勢で臨むタイプだった。
 〈彼は情報の選択に慎重であったばかりでなく、叙述の対象を禁欲的に同時代に限定し、自分が行ったことのないギリシア以外の世界についての言及は避けている。したがって、彼の著作は同時代史であるとともに、主題であるペロポネソス戦争と関係がないと彼自身が判断する事柄は、それを自分で知っていても記述しなかった。たとえば、ヘロドトスの作品ではしばしば登場する女たちは、ほとんど出てこないし、恋物語の一つもない。〉(同書94頁)
 トゥキュディデス自身も「事柄の一つ一つについてできるだけ正確に検討を加えて記述することを重視した。」「私の著述には神話伝承が含まれていないため、耳にした際におもしろくないと思われるかもしれない。」と記したほどである。
 従来、このトゥキュディデスの弁は暗にヘロドトスを批判したものだ、と言われてきた。実際トゥキュディデスは、ヘロドトスの名も、ヘロドトスのキーワードというべき「ヒストリエー」という語も、自分の作品の中には一度も出していないのだ。
 尊敬のあまり、名指しを避ける?
 しかし、本当にそうだろうか。トゥキュディデスはヘロドトスの作品を否定し、その名を記すことさえ避けたのだろうか。
 〈尊敬する対象については、直接名指しすることは遠慮して避ける、ということがある。古代ギリシアの場合、神々、とくに女神デメテルを指すときに、デメテルという名を呼ぶのは恐れ多いという理由からか、たんに「女神」とだけ呼びかける場合があった。トゥキュディデスも、彼なりの先輩に対する尊敬の念からヘロドトスの名前を出さなかったのかもしれない。〉(同書97頁)
 ウィーンのオーストリア国会議事堂前に建つトゥキュディデス像。photo/gettyimages
桜井氏によれば、トゥキュディデスは過去の歴史を叙述するときには「伝説によって知られるかぎりは」というヘロドトスが用いた語法を使用し、明らかにその記述法を踏襲しているという。やはりトゥキュディデスは偉大な先輩の著作を熟読し、それを批判的に継承しているというのだ。
 〈二人は文学と歴史が未分化で混沌とした時代にあって、歴史叙述の成立に貢献し、次の世代における歴史学の誕生を準備した。トゥキュディデスがヘロドトスを批判したというのは、考えてみれば当然のことで、それは、先輩を乗り越える後輩の苦闘だった。〉(同書144頁)
 そして、近代歴史学の祖とされる19世紀のドイツの歴史家、ランケが指針としたのがトゥキュディデスの厳しい史料批判の姿勢だった。トゥキュディデスの苦闘は、近代歴史学への遠い一歩となったのである。
 〈ギリシア世界のなかに留まって骨太のペロポネソス戦争の歴史を叙述したトゥキュディデスと、軽々と飛翔するかのように東地中海世界のあちこちを訪れながら、自己と他者のアイデンティティを探索しつつペルシア戦争を叙述したヘロドトス。二人の天才歴史家に再び教えを請う時が到来しているのかもしれない。〉(同書146-147頁)
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