🕎61」─1─紀元前1000年頃から中米で栄えたマヤ文明の最大・最古の公共建築。〜No.142No.143 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 原始南北アメリカ大陸の先史人は、縄文人との血の繋がり濃い。
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 2020年7月1日 読売新聞「文化 歴史
 マヤの大基壇 文明の起源
 最大・最古の公共建築発見
 造営工事率いた指導者 存在か
 紀元前1000年頃から中米で栄えたマヤ文明において、『最大・最古』の公共建築物とされる大基壇が発見された、アグアラ・フェニックス遺跡(メキシコ・タバスコ州)。英科学誌ネイチャーで発表され、世界的にも注目された大基壇発見の意義について、国際調査団の一員として発掘に参加した茨城大の青山和夫教授(マヤ文明)に聞いた。 
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 マヤ文明と言えば、世界遺産『チチェン・イツァ』(メキシコ)の神殿ピラミッド(底辺約60メートル四方、高さ約30メートル)を思い浮かべる人が多いだろう。王権の象徴ともされる壮大なピラミッドと比較しても、今回発見された大基壇(舞台上の広場)は南北約1.4キロ、東西約400メートル、高さ約15メートルと大きさは際立つ。
 熱帯雨林帯の河岸段丘に位置する遺跡は草木に覆われていたが、上空からの高精細なレーダー探査によって、長方形の遺構の姿が浮かび上がった。2018年からの発掘調査を行い、最下層から定住の証拠となる紀元前1200年頃の土器を発見。同1000年頃に大基壇が造られ、以降約200年間、増改築を繰り返していたことが判明した。権力者の姿をかたどった遺物などはなく、王権の確立には至っていないものの、基壇を造る大工事を率いた指導者はいたとみられる。
 大基壇の上の広場を発掘すると、グアテマラ高知産の緑色の翡翠(ひすい)製磨製石斧(せきふ)が見つかった。マヤ文明では緑色は世界の中心を示す色とされ、洗練された石器文化が発達したマヤ文明でも、特別の品だったとみられる。セイバル遺跡(グアテマラ)で発掘した紀元前950年頃の公共祭祀建築でも、同様の磨製石斧の埋納例が見つかっている。共同体の団結を図る上で、大基壇での祭祀が重要な役割を担っていたことがうかがわせる。
 今回の調査は、同じく中米で発展し、紀元前1400年頃から約1000年間続いたオルメカ文明との境界を探る上でも意味があった。オルメカ文明の特徴である巨石人頭像は出土しなかったが、河岸段丘に大量の盛り土で人工の山(基壇)を造る方法は、紀元前1400年頃から約1150年頃のオルメカ文明のサン・ロレンソ遺跡(メキシコ)などと共通する。オルメカ文明の影響の有無は、マヤ考古学の重要な視点であり、オルメカ的要素が発展したかも検討していきたい。
 マヤ文明は17世紀末に最後の王国がスペイン人に滅ぼされるまで継続した。広い地域を統治する王が存在したインカやアステカなど中南米の他の文明に比べ、各地に独立した多数の王国が栄えて発展したことが、文明が長続きした理由とされてる。
 最大・最古の発見は、こうしたマヤ独特の文明の起源を知る上でも非常に意義深い。(談)」
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 世界的権威ある科学雑誌は、南北アメリカ大陸で発掘された古代遺跡の科学調査結果を発表している。
 科学技術が、消えた古代文明や失われた先史人の歴史を現代に蘇らせる。
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 縄文時代は、原始朝鮮とは違い、出土した古代遺跡の科学調査で新しい発見がなされている。
 つまり、先史時代における日本の歴史は科学的合理的だが、朝鮮の歴史は思い込みである。
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 海洋民の縄文人は、数人で艪(ろ)を漕ぐ舟で北米大陸の北部太平洋沿岸に渡って住みついていたが、争いを嫌う草食的性格、変見・差別・排他のない寛容的性格、誰とでも結婚して子供を産む雑婚性が強いする為に、先住民と共生し乱婚を繰り返し同化して消えた。
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 日本の縄文時代は平和な時代で、縄文人同士の殺し合いはなかったといいほどに少なかった。
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 縄文人の子孫は、日本民族日本人・琉球人・アイヌ人であり、戦争と殺戮、侵略と略奪を好んだ黄河流域漢族系中国人や朝鮮人とは血の繋がりは薄い。
 が、現代の日本人が縄文人の子孫かどうかは疑わしい。
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 縄文人は、勇気ある冒険家、向こう見ずな探検家、困難を乗り越えた開拓者といった自慢できる人間ではなかった。
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 日本列島は、甚大な被害をもたらす雑多な自然災害が複数同時多発的に発生する災害多発地帯であった。
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