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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日清戦争、日露戦争、日韓併合、シベリア出兵を、日本の戦争犯罪として否定する歴史書は信用してはならない。
何故なら、全てが起きるべくして起きた必然であり、全ての戦争において日本は悪くないからである。
全ての戦争で、天皇と政府に戦争を決断し開戦を強要したのは軍部ではなく国民世論であった。
つまり、幕末に下級武士や庶民の間で盛り上がったポピュリズム的「攘夷」運動である。
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2022年7月号 歴史街道「イワンのバカ────────黒鉄ヒロシ
民間レベルではさて措(お)き、
彼(か)の国との接触は寛政4年(1792)、
ロシアは女帝エカチェリーナ2世の時代に始まった。
以来、今日(こんにち)に至る迄、彼の国との、約束、契約、条約──の多くが、
一方的に破られ、度毎(たびごと)に煮え湯を飲まされてきた。
すなわち、ロシアの異様は、
昨日や今日に始まったことではないと云(い)うコトである。
歴史の流れを見ると、外の律、すなわち法律、内の律、
すなわち正義を選択した国とロシアとは
その価値観に於いてハナから相容れない。
如何にして、どうして、ロシアはかような体質に成るに至ったか。
利他などの発送は思いも及ばず、どこまでも利己的、自己中心的で、
頼るは原始よりの暴力であり、
その前段として、虚言(きょげん)、偽証(ぎしょう)、恐喝、恫喝を駆使する。
寒かったのである。温暖な地の他国を羨(うらや)ましく思ったのだろう。
次に、では、どうすれば良いのか?
盗(と)ればよいのではないか、ウラー。
イワンのバカを思い出した。欲張りな兄2人は破滅して、
バカ正直で無欲な末弟イワンが、最後に幸福を得る話である。
このロシアの民謡を、プーチン大統領は知らなかったのだろうか。」
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「戦争と協調を経て・・・波乱の百五十年をたどる
国交が開かれた19世紀から終戦後の20世紀半(なか)ばまで、常に対立してきた印象のある日本とロシアだが、互いに協調を図った時期もあり、その歩みは決して平坦(へいたん)ではない。また両者の関係に迫ると、アメリカの存在が見え隠れすることも・・・。百五十年におよぶ日露関係史を解説しよう。
河合敦
【両国の出会い】 緊張緩和から国境取り決めへ
日本とロシアとの出会いは、18世紀の初め頃に遡(さかのぼ)る。
ウラル山脈以東のシベリアを東進してベーリング海に至り、そこから千島列島に南下したロシア人たちが、アイヌや和人の商人と密貿易を行った。これが最初の風景だ。
日露両国が正式に接触するのは、寛政4年(1792)、ロシアの女帝エカチェリーナ2世の派遣したラクスマンが、日本人漂流民の大黒屋光太夫らを伴って根室に来航し、江戸幕府に正式な通商を求めたときである。
幕府はラクスマンに長崎への廻航(かいこう)を指示し、入港許可書(信牌{しんぱい})を渡した。
このとき、ラクスマンは長崎へ向かわずに帰国したが、12年後の文化元年(1804)、皇帝アレクサンドル1世の国書とラクスマンに与えられた信牌を携えたレザノフが長崎に来航して、再び通商を求めてきた。
幕府はレザノフを軟禁状態に置き、半年たってから通商の拒絶を通告。するとレザノフは帰国後、部下たちに樺太南部や択捉島、礼文島、利尻島などを襲撃させた。
これに対して幕府は、東北地方の諸藩に蝦夷地への出兵を命じて防衛力の強化を図るだけでなく、文化4年(1807)には蝦夷地全土を直轄地として、松前奉行の支配下に置いている。
文化8年(1811)、国後島で測量を行っていたロシア軍艦の艦長ゴロウニンを、松前奉行が捕縛する。蝦夷地交易に携わる商人・高田屋嘉兵衛の尽力でこの事件が解決すると、日露間の緊張は緩和され、安政元年(1854)に和親条約が結ばれた。ここに、正式な国交が開かれたのである。
日露和親条約が日米和親条約などと大きく違うのは、国境の取り決めが盛り込まれた点だ。具体的には千島列島のうち、択捉島より南が日本領、得撫(うるつぶ)島より北をロシア領とし、樺太(サハリン)については両国人雑居の地とされた。
その7年後の文久元年(1861)2月、対馬に来航したロシア軍艦が兵を上陸させ、土地の租借など12カ条の要求を突きつけた。
幕府から相談を受けた駐日イギリス公使オールコットが、イギリス軍艦を対馬に差し向け強く抗議したため、ロシア船は退去するが、この時期のロシアには領土的ま野心が見てとれる。
もっとも、ロシアによる対馬不法占拠中の文久元年4月28日、箱館奉行は企図(きと)し、ロシアに向けて舟を出しているので、日本側がそれほど悪い印象をもっていたわけではない。幕末の志士のなかには、イギリスを警戒して『日露同盟を結ぶべきだ』と唱える者もいたほどであった。
【日露戦争】 清国・朝鮮をめぐる大国ロシアの脅威
明治時代に入ると、『ロシアの侵略から国を守ること』が、日本の大きな命題となった。それは、『樺太問題』が大きなきっかけになったと考えられる。
日露和親条約で雑居地とされた樺太に、ロシアは軍人や囚人を送り込み、彼らが日本人の村を襲撃するようになった。この状況を日本は、『ロシアは日本人を圧迫して樺太の実効支配を目論んでいる』と捉(とら)えた。
しかし、当時の日本は北海道を守るだけで手一杯であり、明治8年(1875)、樺太・千島交換条約を締結して、得撫島以北の千島列島を得る代わりに、樺太を放棄せざるを得なかった。
その一方で、ロシアの北海道接近を危惧(きぐ)し、明治7年(1874)に屯田兵制度を導入している。これは士族を北海道に入植、開拓させるとともに、北辺の防備を任せるというもので、家禄(かろく)を停止された士族を助ける目的もあった。
また、ロシアの南下を防ぐため、朝鮮を宗主国の清国から引き離して、日本の影響下に置くという方針をとった。これにより日清両国の間で軋轢(あつれき)が生じ、日清戦争に発展するが、日本が清国に圧勝したことで、日本の思惑とは真逆の動きが生じた。
筆頭に挙げるべきは、三国干渉である。
明治28年(1895)、日本は下関条約により清国から台湾と遼東半島を割譲されるが、その直後、ロシアがフランスとドイツを誘って、『極東の永久的な平和を考え、遼東半島の返還を希望する』と要求してくる。
その対応について、『国際会議で遼東半島問題を決する』『拒否する』『受け入れる』の3つの選択肢が日本政府で話し合われ、『国際会議案』が一時、有力視された。
しかし、『国際会議にはイギリスを招かなければいけないが、台湾を支配したがっているイギリスは、台湾の割譲にも口をはさむだろう』と伊藤博文が反論。さらに『国際会議はロシアが拒否する』との判断もあって、遼東半島を返還することが決まった。
ところが、遼東半島を返すと、ロシアが大連と旅順を清国か租借して影響下に置き、ロシアの脅威がいっそう強まってしまう。
また、日本にとって朝鮮国の親露化も想定外だった。
日本に嫌悪感を抱いていた朝鮮は、清国に代わりにロシアを頼るようになり、軍事・財政顧問を送り込んだロシアは、日本の影響力をしのぐようになってしまった。
そもそも、ロシアの国力は強大だ。その国土は日本の約62倍、人口は約2.6倍で、陸軍の兵力も2倍にあたる200万人を有していた。
加えて当時、欧米では、白人が黄色人種に負けるはずがないという感覚も強かった。
それでも、日本は『臥薪嘗胆』をスローガンに、政府と国民が一体となって対ロシア戦のための軍備拡張を進めていく。
明治35年(1902)に日英同盟が結ばれると、対露戦への世論も盛り上がる。
もっとも、日本政府はロシアと戦って勝てるとは考えていなかった。だが、ロシアが朝鮮半島に基地をつくったり、満州から撤兵する約束を守らなかったりと、日本人の心を逆なでする状況が生じたこともあり、最終的には世論に押し切られる形で、明治37年(1904)、ロシアとの戦争になだれ込む。
国力の差が大きいため、日本はロシア軍の戦力が整わないうちに大きな打撃を与えたが、陸戦では決定的な打撃は与えられなかった。講和に持ち込めたのは、日本海海戦の勝利が大きい。
明治38年(1905)、アメリカの斡旋により講和条約が開かれ、ポーツマス条約が締結された。
この条約により、大韓帝国に対する指導監督権を認めさせ、ロシアが朝鮮半島から引くという第一目的を達成できたので、日本は十分な成果を手にしたといっていい。
しかし、日本の勝利を新聞が煽りたてた結果、賠償金を得られなかったことに国民は納得しなかった。そのため、日比谷焼き討ち事件に代表される暴動が、約1カ月間、全国各地で続発することとなる。
【シベリア出兵】 社会主義国の脅威と日本の思惑
日露戦争後、日本とロシアの関係は意外にも好転していく。明治40年(1907)に日露協約が結ばれ、これ以降、しばらく良好な関係が続いた。その背景には、中国に進出したかったアメリカの存在がある。
イギリスやフランスと比べて中国進出に出遅れていたアメリカは、戦時中は日本を支援し、ポーツマス条約締結後、日本に満州の鉄道の共同経営をもちかけ、いったんは約束を取りつけた。ところが、それを日本が破棄したので、日米関係は一気に冷え込んだ。
アメリカは中国に働きかけて、日本の権益である南満州鉄道と並行する路線をつくろうとするなど、妨害を始める。日本はアメリカに警戒心をいだくとともに、同じくアメリカの満州進出を嫌うロシアとの提携を重視した。いわば『満州共同利益者』として、ロシアと手を結んだのである。
日露協約は第四次まで続き、4回目はアメリカに対する同盟というるほど強固な内容だった。
しかし、第一次世界大戦中の大正6年(1917)にロシア帝国が瓦解し、ソ連という社会主義国家ができることで、日本とロシアの良好な関係が崩れる。
ソ連が広大な旧ロシア領を全て制するまで、約5年の内戦が続いたが、そのときに起こったのがシベリア出兵である。
シベリア出兵は、もともとチェコスロバキア軍救援のための軍事行動だった。
チェコスロバキア軍はオーストリア゠ハンガリー帝国からの独立を目指し、第一次世界大戦ではロシア軍とともに戦っていたが、そして革命時にロシア国内にいたが、ソ連に命じられた武装解除を拒み、西シベリアで反ソ政権を打ち立てたのだ。これを助けるために、日本は1万2,000、アメリカは7,000、イギリスとフランスは5,800の兵を、ウラジオストクに送ったのである。
日本が出兵した理由として、天皇制と相容(あいい)れない社会主義国の成立に大きな脅威を感じたことが挙げられる。同時に、ロシア帝国が消滅した混乱に乗じて、シベリアを押さえようという領土欲も否定できない。
アメリカ、イギリス、フランスが撤兵した後も日本は兵を引き揚げなかった。国際社会から『領土的野心があるのではないか』と疑われても、大正11年(1922)まで居座ったのは、それを証明しているといえる。
もっとも、この間に日本とソ連の国交正常化交渉が始められている。
各国がソ連を承認していくなかで、日本も国交を樹立しなければならないと考えたことや、仮想敵国としてアメリカに対抗するうえで、ソ連と友好関係を結んでおくのが得策との判断が、そこにはあった。
また、大正13年(1924)にアメリカが日本人移民を禁じたため、ソ連に移民の受入れを期待したとの味方もある。
【ノモンハン事件】 衝突から一転、中立条約へ
大正14年(1925)、日ソ基本条約が調印され、正式に日本とソ連の国交が開かれ。しかし、それは友好的な関係を意味するものではない。
この時期、ソ連は中国に手を伸ばしていた。
中国国民党の指導者だった孫文、孫文の死後は蔣介石を支援し、同時に大正10年(121)につくられた中国共産党も当然ながらバックアップした。ソ連としては、中国に社会主義革命を起こしたのである。
結果、中国をめぐって日本とソ連の対立が強まり、昭和10年(1935)頃から両国間には緊張感が高まっていく。
昭和11年(1936)、日本は日独防共協定を結び、ソ連包囲網の一角に加わった。一方、昭和12年(1937)に日中戦争が始まると、ソ連は蔣介石の国民政府と相互不可侵条約を締結して、軍需物資を輸送するとともに、極東地域で軍備増強を進めていく。
こうしたなか、翌13年(1938)7月、ソ連・満州国の国境地帯である張鼓峰(ちょうこほう)で、日本とソ連の軍事衝突が起こった。 さらに昭和14年(1939)5月、ソ連の影響下に置かれたモンゴル人民共和国と、満州国との国境地帯にあるノモンハンで、関東軍がソ連軍と衝突した。
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【日ソ戦とシベリア抑留】 ソ連軍は国際法を無視し・・・
……
【北方領土】 今日(こんにち)に続く問題
……」
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昭和7(1932)年 ソ連・コミンテルンは、社会ファシズム論から日本共産党に対し32年テーゼ「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を送った。
「帝国主義戦争の内乱への転嫁を目標とする日本共産党」に、暴力革命勝利の為の「統一戦線戦術」を命じた。
日本人共産主義者は、人民の正義の為に昭和天皇や皇族を殺すべく活動を本格化させた。
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三十二年テーゼ
1932年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパ・ビューローによって決定された「日本における情勢と日本共産党の任務に関する方針書」のこと。日本の支配体制を絶対主義的天皇制とみなし,きたるべき日本革命は天皇制を打倒し,地主制を廃止するブルジョア民主主義革命であり,社会主義革命はその次の段階とする二段階革命論の立場を明確にした。日本では河上肇翻訳で同年7月 10日『赤旗』特別号に掲載され公にされた。同種のものには 27年,31年のものがある。これらのテーゼは当時の日本の経済理論,社会主義運動理論に大きな影響を与え,活発な論争を引起した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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日本人の共産主義者や無政府主義者のテロリストは、キリスト教系朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
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世界の常識では、ロシアと日本が戦争すれば、大国ロシアは弱小国日本に圧勝し、日本はロシアの植民地となり、日本人はロシア人の農奴になる、であった。
ロシア軍の強さは、天才的軍司令官ナポレオンが率いる常勝軍団フランス軍を撃退した事である。
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北海道開拓とは、ロシアの侵略戦争に備えての北海道を重層な戦略防衛陣地化が目的でって、蝦夷地をアイヌ人から強奪して植民地化する為ではなかった。
それは日露の間に位置する朝鮮や中国でも同様であったが、当時の両国の国内情勢からすれば大国ロシアに味方して弱小国日本を攻撃してくる危険性が大であった。
それ故に、日露戦争開戦前に清国(中国)と朝鮮を戦争で屈服させる必要があり、そして起きたのが日清戦争であった。
つまり、日清戦争と日露戦争は積極的自衛戦争であった。
その意味で、日韓併合も正当な合法行為であった。
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対露防衛戦略で最も重要ですぐに解決すべな緊急課題は、日本とロシアの間で蝦夷地(北海道)・樺太に広く住んでいるアイヌ人であった。
アイヌ人を味方にするか敵にするかが、日本の生死の別れであった。
ロシアは、戦場になるであろう千島列島に住んでいたアイヌ人等をカムチャツカ半島に強制移住させて無人島にした。
強制移住させられた千島アイヌは地上から消えた。
日本はロシアとの戦争に備え、自由意思で、日本に留まるアイヌ人を日本国民=味方とし、ロシアに移るアイヌ人をロシア人=敵と決めつけ、日本を嫌うアイヌ人を無理して日本国民にするとロシアとの戦争でロシア軍に味方する危険性があるのとして日本への移住を拒絶した。
時代は、敵か味方かの二者択一しかなかった。
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日本の大陸戦争とは、ロシアの軍事侵略から日本天皇・日本国・日本民族を軍国主義と民族主義で暴力的に守る積極的自衛戦争であった。
中国や朝鮮は、日本の敵として、日本を攻撃するロシアに味方し協力していた。
後に、日本侵略の主敵は、ソ連・共産主義勢力による反宗教無神論、反天皇反民族反日本、反歴史反文化反伝統反言語のイデオロギー侵略に入れ替わった。
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戦国時代ではキリスト教による宗教侵略が存在し、中世キリスト教会、イエズス会などの修道士会、白人キリスト教徒商人らによる日本人奴隷交易が盛んに行われていた。
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何れの時代においても、それは現代でも同様だが、日本国内には私利私欲で外国勢力の日本侵略に協力する反天皇反民族反日的日本人が少なからず存在していた。
日本民族は、国内外の敵から天皇・国土・民族、歴史・文化・伝統そして宗教や言語などを、死ぬのを覚悟して一人孤独に戦い守ってきた。
それが、日本の民族主義であり軍国主義であった。
これが、歴史の現実・事実であり、日本における「歴史の教訓」であった。
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因みに、シベリア出兵時、日本軍の撤退が遅れたのは友軍として共に戦ったチェコスロバキア軍が徹底抗戦を貫いて戦い続けたからであり、共産主義パルチザンによる尼港(にこう)事件の再演を防ぐ為でもあった。
日本軍は、戦場に取り残されたロシア人避難学童やポーランド人戦災孤児、強制収容所から解放されたトルコ人兵士捕虜、戦争避難民であるユダヤ人、白系ロシア人らを助け出して安全な日本に送るという人道貢献を幾つも行っていた。
昔の日本人は現代の日本人とは違い、親友・戦友と認めた友・友人を決して見捨てず、死を覚悟して友に助けた。
それが、武士道であり、日本軍人であった。
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シベリア出兵時。日本軍がなかなか撤退せず戦い続けたのは、領土拡大の野心からではなく、シベリアの地に親日的傀儡国家を樹立させて攻守同盟を結び、侵略してくるであろうロシア・ソ連・国際共産主義勢力を日本から寸土でも遠ざけたいという、江戸時代後期からの望みがあったからである。
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アメリカは、ロシア共産主義暴力革命を成功させるべく、国内にいたトロツキーらをロシアに送り込んだ。
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日本民族の友・友人には2種類あって、深い所で交わり生死を共にする刎頸の友と浅い所で流す当たり障りのない友=知人である。
日本民族には、窮地に追い込まれ逃げ出せず困っている友・友人、親友・戦友を見捨てて自分だけ助かる為に逃げる、という選択肢はなく、生き残る為に共に戦うか、助かる為に共に逃げるかの二択しかなかった。
が、それが日本の悲劇の原因であった。
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戦後民主主義教育で、日本人は変わってしまい、現代日本は昔ながらの日本ではなくなり、現代の日本人は昔の日本人とは違う。
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