🔯37」─3─イスラム勢力は西欧キリスト教世界を2度も救った。~No.128 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 イスラム教世界の超エリート階層であった賢者・イスラム法学者ウラマー)は、日本の武士ではなく朝鮮の両班に似ていた。
 イスラム世界が弱体化したのも、朝鮮が衰退化したのも、その原因は同じで自分とは異なる他者を認めず不寛容に排除する事を絶対正義とする「変わる事を嫌う原理主義」であった。
 イスラム教の原理主義とは、イスラム法学である。
 朝鮮の原理主義とは、朱子学儒教である。
 それに対して、日本には原理主義は存在せず、武士は狂信的猟奇的原理主義者ではなかった。
 近代化できた日本と、近代化できなかった朝鮮・イスラム教世界の違いはここにあった。
 朝鮮で近代化を成功させる可能性があったのは、金玉均ら開化派・独立党などの憂国の志を持った親日派知日派両班達だけであった。
 そして、イスラム教世界でも朝鮮でも原理主義者はテロリストになっていた。
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 2021年10月号 Voice「『次』の歴史と人類の新軌道 長沼伸一郎
 イスラム史の決戦場だった微積分学
 かつては西欧を救い、羨望の目で見られていたイスラム社会が、近代テクノロジーの世界から没落した理由とは
 イスラム社会への誤ったイメージ
 前回のエルサレムを巡る話では、この地方でいくつもの世界的宗教が生まれた理由は、砂漠という環境の商業的な退廃のなかで社会秩序を守るための〝ワクチン〟として宗教が求められたことが一因だったと述べた。しかし、とくにイスラム教の場合は顕著(けんちょ)なのだが、世界には歴史への誤解が非常に多い。たとえばイスラム教の起源についても、『砂漠の遊牧民族ベドウィンが、大自然への畏敬に祈ることから始まった』という誤ったイメージが存在し続けている。そうした誤解を正すことは将来の日本にとって重要なので、今回はそれについて述べたい。
 さてイスラム教誕生にはどのような国際情勢が大きな原因となったのかというと、それは西暦600年ごろに東ローマ帝国ササン朝ペルシャ帝国のあいだで勃発して、長く続いていた戦争である。この戦争によって、両国の国境が閉ざされて、2国間にまたがる交通路がすべて通れなくなり、通商ルートが南方に大きく迂回(うかい)して、一斉にアラビア半島を通るようになったのである。
 そのため、アラビア半島は思いがけず世界の通商路の大動脈になったのであり、そのルートの途中にあったメッカの町には、突如として巨大な世界の富が流れ込んできてしまった。
 ところがここで前回にも述べたような事態が起こってしまった。この地域はもともと農村地帯でもあれば、川沿いに生まれた王様や軍事貴族が治める都市だったわけでもなく、社会秩序を守る強力な番人がいない場所だった。そこに突如として巨大な金が流れ込んできてしまった。社会は『金の力がすべて』という状態になって、その力を社会的にコントロールする十分な経験や習慣も存在していなかったため、一足飛びに『何でもあり』の現代的な資本主義的社会にも似た状態に陥(おちい)ってしまったのである。つまり意外にもイスラム教誕生のゆりかごになったのは、じつは金さえあれば世界の最先端のどんなものでも手に入る、金銭万能の自由な都会とその富がもたらす退廃だったのである。
 さらにここでわれわれの常識的なイメージを覆(くつがえ)す端的な話を挙げると、それは当時のメッカの女性たちの社会的な立場である。たとえば預言者ムハンマドの最初の妻であったハディージャは、彼と結婚する前には意外にもいまでいう女性経営者だった。彼女は亡くなった前夫の財産と事業を受け継ぐかたちで、潤沢(じゅんたく)な資産を元手に隊商(砂漠地方などで隊を組んで旅する商人の一団)を組織してビジネスを行っていた。そもそも2人の出会いも、ムハンマドがその隊商の一つを率いて有能に切り盛りしたことを彼女に注目されたためだった。つまり両者はいわば女性社長と男性社員の関係にあったことになるが、こうした女性実業家はイスラム教誕生前のメッカではとくに珍しいものではなかったのである。
 西欧が『常識』として19世紀から世界に植え付けてきたイメージによれば、当時のイスラム世界の女性は、未開社会のなかでろくに読み書きもできない無知な存在として、完全に隷属状態に置かれているとされていた。それゆえにイスラム教などという抑圧的な制度を男性社会側が押し付けてきたとき、ただそれを盲従して受け入れるしかなかった、というストーリーになっている。
 しかしこの西欧の常識はどうも真実とは矛盾するのであり、当時のメッカの女性や女性実業家は、むしろ同時代の西欧キリスト教圏の女性立ちより強い立場にあって、もし意に染まぬかたちでイスラム教の制度を強要されたとすれば、それに抵抗するための社会的な力をある程度もっていたはずなのである。そのため女性が隷属的な立場でイスラム教の制度を押し付けられたというより、むしろ自分たちの意志でビジネス社会を捨てて、イスラム社会のなかに入ってきたと考えたほうが理屈に合う。
 それどころか、先述したような『砂漠の資本主義化』がもたらす退廃を目(ま)の当たりにした彼女たちが、その社会的な毒を中和する解決策としてイスラム教を認識し、自分たちから進んでそこに入るという点で、逆に現代より一歩進んだ高い見識に基づくものではなかったか、という想像すら成り立ってくるのである。
 だとすれば現代の西欧キリスト教側のリベラル勢力などが『自分たちが積極的に介入して、イスラム女性たちを無知と隷属から解放しなければならない』と考えたとしたならば、これほど馬鹿にした話はあるまい。それは短絡的な善意ではあるかもしれないが、根底には西欧絶対優位主義に凝(こ)り固まって、イスラム世界を高みから見下す態度が隠されており、無知で劣った田舎者を賢いわれわれが啓蒙して導いてやる、という一種の差別思想だとすらいえなくもないからである。
 つまり本来なら現代では多様性を連呼するリベラルこそ、こうした100年も前から続く頑迷な西欧至上主義に基づく固定観念を打破して、その差別思想的な側面を率先して暴(あば)く義務があるはずなのだが、実情をみるとどうも逆なのであり、逆にいえば、これはリベラルのいう『多様性』が本物か偽物かを判定する最大のリトマス試験紙であるといえるかもしれない。
 イスラム勢力に救われた西欧世界の泥沼的退廃
 歴史的に眺めると、イスラム教が国家の商業的・資本主義的退廃に対する『ワクチン』としての側面をもっていたことで、じつは西洋側は少なくとも過去に2度、コラサプサー化(縮退{しゅくたい})の危機をイスラムに結果的に救ってもらっていることは確かなのである。
 まず第1回目は、西ローマ帝国滅亡後の時期であり、教科書では西ローマ帝国は西暦476年に、ヨーロッパの東の辺境の、森の奥からやってきたゲルマン人たちと、その傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされたとされているが逆にいえばそれは当時の西ローマ帝国が軍事的に退廃していて、ゲルマン人にも簡単に滅ぼされるほど弱体化していた証左でもある。しかしゲルマン人たちもすぐに資本主義的な退廃に染まって、次のような一種の泥沼のサイクルに陥(おちい)っていた。
 つまりゲルマン人たちがローマの廃墟に入城してくると、そこにはまだ地中海の商業システムと共に魅惑的な商業文明とその退廃も残っており、ゲルマン人たちはすぐに資本主義の魅惑に染まって軍隊の規律も熔解し、彼らの力の源泉であった軍事力そのものが、自ら滅ぼしたローマの軍隊と同レベルまで弱体化してしまう。
 そうなると、彼らは次にやってきた別のゲルマン人部族に滅ぼされて、ローマの廃墟の主人が入れ替わるのだが、その新しいゲルマン人もすぐに退廃に染まって、次のさらに別のゲルマン人部族に滅ぼされる、というサイクルが延々と繰り返される格好になっていたのである。
 そしてローマ帝国の廃墟にやってきたゲルマン人の最後の部族が、ランゴバルト族(イタリアの『ロンバルディア地方』の名はそこからきている)だったが、逆にいえばもうこれで新しいゲルマン人部族のストックも弾切れになり、彼らが退廃に染まった時点で次のゲルマン人部族はもはやどこからもやってこず、西欧世界のどこをみても腐って弱体化した勢力しかいない状態になる。そうなると誰も状況全体を動かすような大きな歴史的原動力をつくり出すことができず、世界全体がボトムの位置で停滞状態に陥ったまま恒久的に続くことになってしまう。これはまさに以前から議論してきた『コラプサー状態』そのものであり、ローマをはじめとした西欧世界はそこに追い詰められていたのである。
 ところがここでこの泥沼のサイクルに終止符を打って、結果的に西欧世界をコラプサー状態から引き出したのが、イスラム勢力の台頭だった。イスラム文明は先ほどから述べているように、宗教の力で商業的退廃に対する強い耐性を備えており、ローマ帝国の廃墟に残っている商業文明に接触しても、その退廃に染まって軍隊の腐敗や弱体を起こすことなく、腐ったゲルマン人の軍隊を一掃してたちまち地中海全体を勢力圏内に収めてしまったのである。
 そのため地中海を奪われた西欧キリスト教勢力は、もっと北の内陸部に勢力の中心を移さざるを得なくなったが、商業的繁栄の中心地から切り離されたことで、結果的に彼らは立ち直りのきっかけも摑(つか)むことになった。西欧は質素な農業社会のなかで、キリスト教的な道徳と封建制度で社会秩序と軍事力を立て直し、さらに『イスラム勢力の外からの圧迫にみなで対抗しよう』という共通意識が加わることで、シリンダーのなかの気体が圧縮されるように、新しい文明として再出発することができたのである。
 具体的には732年のツール・ポアチエの戦いがその契機となり、フランク王国イスラム軍を食い止めたことが、それに続くカール大帝による最初のヨーロッパ国家の成立を促すとともに、西欧全体がついにローマ帝国末期からのコラプサー状態から脱出することができたのである。
 しかし西欧世界は、必ずしもそれでコラプサー化の危機と永久に縁が切れたわけではなく、ルネッサンス末期、宗教改革の直前の時期に再びそれに直面する。先ほど見たように、西欧世界は中世時代にはイスラム勢力の台頭で地中海を失って商業の中心地から切り離されていたが、その後十字軍の時代に力をつけて地中海に再び進出し、商業的繁栄をとり戻した。しかし農業社会で育ったカトリック教会と西欧社会は、依然として商業的退廃に対する免疫が弱く、カトリック教会がいわゆる『免罪符(罪を免罪する証書)』の販売に染まったことに代表されるように、金銭による腐敗に蝕(むしば)まれていったのである。
 そして今回は前回とは逆に、ローマ教皇庁は世俗権力である神聖ローマ帝国の軍事力とタッグを組んで、十分な軍事力によってその状態を維持する能力を備えていった。つまり教会側はその気になれば、腐敗を正そうとして教会権力に逆らった改革者を、片端から異端者として火刑台に送って、宗教改革のすべての動きを芽のうちに摘み取るということが、本来ならできたのである。その一方で、金銭に染まり切ったカトリック教会は自分を改革する意志などさらさらなく、やはり歴史はどちらへも動けずに完全に停止することになり、西欧世界全体がコラプサー化の2度目の危機に直面していたのである。
 ところがこのときに、その逃げ場のない強固な体制の一角を崩して、結果的に宗教改革が生き残れる余地をつくったのが、イスラム勢力であるオスマン・トルコ帝国による東方からの圧迫だった。当時オスマン・トルコの軍隊は西欧の国境に迫って、その最前線はウィーン付近にまで達しており、神聖ローマ皇帝は手もちの軍隊をその迎撃に振り向けねばならず、新教圧殺のために十分な力を集中できなかったのである。たしかにそれは一種の結果論にすぎなかったが、それでもこのときに再び西欧がコラプサー化の危機に陥っていて、それがイスラム勢力のダイナミズムによって救われたという2回目の出来事であったことは否定できない。
 そしてわれわれの周囲を眺めると、現代世界は核兵器とコンピューターのなかで、再び短期的願望が繁茂(はんも)して、社会の価値観が溶解するようなコラプサー化の危機に接しており、そう考えると、現代世界はあるいはその『3回目』に差し掛かりつつあるのではないか、という想像が成り立たなくもないのである。
 立法権を掌握していた知的集団『ウラマー
 ところで現在の日本(というより一般に民主主義国)では、基本的に『主権在民』つまり『主権は一般市民がもっている』という建前になっている。この『主権』というのは、要するに、最終的に『立法権』をもっているのは誰か、ということである。立法権は、国や社会の姿を規定する権限として、国内社会の最終的な力であり、それをもつ者が国の主人である。中世国家や独裁国の場合、立法権は君主がもっているが、民主国では民衆が自身の代理人として選んだ議員や代議士が議会や国会で法律をつくるのであり、それゆえ立法権は最終的には民衆がもっていることになるわけである。
 その意味で、立法権を誰がもっているのかは、その国の社会構造をみるうえでもっとも重要なポイントとなるが、ではイスラム社会では誰が立法権をもっているのだろうか。原則論としていうならば、イスラム社会において立法権は人間の手にはない。イスラム法シャリーア)の場合、憲法制定に相当する作業は、ムハンマドによってイスラム法が定められたときにすべて行われたのであり、その根幹部分を人間が変えたりつくったりすることは許されていない。
 しかしそれでは時代や状況の変遷に対応できないことになるが、その際にはどうするかというと、法律の基本そのものには手を加えず、それを『どう解釈するか』によって、時代や状況の変化に対応している。その意味では『法の解釈権』が、立法権に準じる権限であり、それをもつ者が『主権者』にもっとも近い立場にあることになる。そして法の解釈権をもつものは、意外なことに、イスラム社会では伝統的に、君主ではなくイスラム法学者で、最盛期には彼らがその役割を担(にな)っていたのである。
 彼らイスラム法学者は『ウラマー』と呼ばれるが、彼らを『宗教家』ち呼ぶのは必ずしも妥当ではなく、むしろ彼らは一種の知識人なのであり、さらにいえば彼らは数学者や天文学者、地理学者などと同等のカテゴリーに属する存在である。イスラム世界では現代の産業社会と違って、単一の分野だけに職人的に精通しているだけの専門家は、必ずしも知識人としての高い地位を得ることはできず、いくつかの分野を修(おさ)めた者でなければ『賢者』や知識人とはみなされなかったが、ウラマーというのは、本来そうした知識人全般を指すものなのである。
 つまり言葉を換えればイスラム法学者は、それら複数の学問分野の一つとしてイスラム法学を修めた人物なのであり、現実にはさすがに天文学者イスラム法学者を兼ねている人物は稀(まれ)だったようだが、もしそういう人物がいたとしても何ら奇異なことではなかったのである。
 そして現代の科学用語のなかには、アルジェブラ(代数)、アルコール、アルゴリズムなど、アラビア語起源のものが多く残っており(これらの単語の頭の『アル』は英語の定冠詞の『the』である)、中世にはアラビア科学は西欧より高いレベルの世界最高水準の地位にあった。つまりイスラム法学もそれと同レベルの学問分野の一つであり、当時は世界最古の大学であったカイロのアズハル大学などで、それらをまとめて扱っていたのである。
 こうしてみると、彼らは西欧の知識人からみても羨(うらや)むべき立場にあった。西欧では知識人といえどもしばしば君主の主権に逆らうことはできず、その一方で大衆の圧迫からも脆弱である。ところがイスラムの最盛期には、じつは高度なレベルの知識人階層が、法の解釈権を手にすることによって、長期的には君主の上に立つという点で、より『主権者』に近い立場にいたのである。
 『微積分学』がイスラム文明を打ち負かした
 そしてこのウラマーという存在は『国や社会が何か未経験の危機に陥ってとき、それを担おうとする気概をもったエリートは誰か』という問題とも密接に関連している。それは国の存続の鍵であり、そういった良質のエリート集団や階層をもっている国だけが、いくつもの危機を乗り切って繁栄を手にしていくことができるのである。西欧の場合には軍事貴族がそれだが、日本の場合もその一種のバリエーションとして、武士階層というものがそれに相当しており、その存在があったればこそ、19世紀の西欧列強の力の圧迫下で国を守ることができたのである。ただ日本の場合、もしその武士階層が、伝統文化にしがみつく保守的な体育会系の武士だけで構成されていたとすれば、おそらくそれは何の役にも立たず、西欧のテクノロジーへの対応能力を備えた理数系武士団が存在していたことが、ほかのアジア諸国と違って日本が独立を守ることができた最大の要因である。
 そういう観点からみると、イスラム世界の場合、ウラマーこそがその点で日本の武士階層に相当する社会的立場にあるエリート階層だったというえる。そこでは伝統的に、単純な軍人階層や民衆は『主権者』であった経験をもたず、それを中心にして社会を構成しようとしても、真のエリートとしての経験がないため、どうしてもそれがうまくいかないのである。
 ところがそのウラマーは、現実には西欧の新しいテクノロジーに対応することができなかった。彼らは代数学などでは高いレベルを誇っていたが、西欧が生み出した画期的な新兵器である『微積分学』を受け入れることができなかったのである。その際には皮肉にもむしろ彼らが高いレベルの数字をもっていたため、そのプライドが逆に災(わざわ)いしたともいえるが、とにかく西欧の微積分学はそれまでの数学とはレベルの違う、新しいテクノロジーの決定的な鍵であり、それに乗り損ねたことは、イスラムのが近代テクノロジーから脱落する致命的な要因となってしまったのである。
 その点では日本の理数系武士団のほうが従順に最新技術を習得することができたが、とにかくここで日本の事例を参考に眺めることで、次のことがよくわかる。つまり日本の場合、たしかに武士階層というエリートの存在は大きな鍵だったが、もしそれが理数系武士団という特殊な集団をもたなかった場合、武士階層は単ある反動的な保守主義者で終わって、下手をすればテロリストに堕(お)ちて国の足を引っ張る存在になりかねなかったということである。
 これをイスラム世界のウラマーに重ねると、彼らは本当ならば、テクノロジーに対応できる『テクノ・ウラマー』と呼ぶべき集団を、理数系武士団に相当する存在としてもっているべきだったのである。そういう集団を実装しない限りイスラム世界は立ち直ることができず、表面的に西欧の民主社会を持ち込もうとしても、結局はそれは根無し草に終わり、むしろ攘夷浪士のようなテロリストを生み出す結果だけを招いてしまうのである。
 こう考えると、現在の中東世界の混乱もよくわかる。つまりこの種の『テクノ・ウラマー』を育成してそれを中核にする以外、やはりイスラムは立ち直ることができないという理屈になるのだが、欧米のこれまでの中東政策はその根本をまったく理解せず、そういった方針を実行したこともない。そのため失敗するのは当たり前の話だったのであり、筆者はこれを踏(ふ)まえていないうわべだけの中東の民主化は、今後もすべて失敗するであろうと断言してはばからない。
 日本はイスラム社会と手を組め
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 もともとアラブ諸国親日的で、それを考えると両者が手を組まない手はないと思われるが、もしここで『立ち直った』イスラム社会と手を組める可能性が出てくるならば、じつはこれは中国に対する最強のカードとなりうるのである。
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 イスラム教世界の立法権を持つ主権者は、君主、大統領、政治家、官僚ではなくイスラム法学者である。
 イスラム法学者は賢者であるが、聖職者・宗教家・宗教指導者ではなく、イスラム法を学問として修め、時代に合わせて研究し解釈しそして判定し運用する専門家である。
 よって、イスラム法学者は世俗の君主、大統領、政治家、官僚や神聖な宗教家や宗教指導者の上に立つ。
 イスラム法は、人間が取り決めた全ての法律よりも上位法で、国家憲法であろうが、国連憲章であろうが、国際裁判所の判決であろうが、国家間の条約や協定だろうが、個人的な約束や商取引だろうが、如何なる俗世にも制限される事はない絶対な存在である。
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 イスラム法の最大の敵は、異教のユダヤ教キリスト教ではなく、神を殺そうとする反宗教無神論マルクス主義つまり共産主義であった。
 その意味で、戦前のイスラム教勢力は、ソ連共産主義の侵略から信仰を守る為に、親天皇親日派となって軍国日本・日本陸軍と手を組み満州中央アジア・トルコに至る大陸縦断の防共回廊を形成していた。
 シベリア出兵時。日本陸軍・日本軍部は、赤軍に捕らえられていたイスラム教徒トルコ軍兵士捕虜を救出し責任を持って本国に送り届けた。
 昔の日本人は、現代の日本人に比べて地球規模で高度な世界戦略を立案し実行していた。
 日本の軍国主義は、天皇否定・皇室破壊でない限り如何なる宗教も弾圧せず、天皇に忠誠を誓えば個人の信仰の自由を認めていた。
 それ故に、昭和天皇や皇族を惨殺しようとした日本人共産主義者テロリストやキリスト教朝鮮人テロリストは捕らえ拷問にかけて仲間を聞き出し、そして未遂であろうと話を聞いただけでも「問答無用」で処刑した。ために中には無実の冤罪者もいた。
 その例が、幸徳秋水大逆事件である。
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 イスラム圏で親日派が多いのは、戦争放棄平和憲法を持ったいるからではなく、共産主義勢力と戦争していたからである。
 が、現代日本で反宗教無神論・反天皇反民族のリベラル派・革新派が増える事で反日派も増え始め、イスラム原理主義テロリストによる日本人殺害事件が起き始めている。
 つまり、イスラム世界では、日本人で神を信じない、自分は無宗教などと公言するリベラル派・革新派は悪魔の一味として嫌われ、殺しても罪に問われないどころか賞賛される。
 それは、如何に人の為、社会の為、平和の為に貢献しようと、日本人と言っても関係なく、信仰がなくてもコーランの一節を現地語で唱えなければ確実に殺される。
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