🗽7」─6・A─マーク・トウェーン仮説。ワシントンの挫折。アメリカは社会を正気に保つ為に宗教を必要とした。~No.27 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2021年12月号 Voice「『次』の歴史と人類の新軌道  長沼伸一郎
 世界の出口と宗教という『禁じ手』
 われわれが『自由と平等化』を過度に推進した結果、世界は『欲望』という名の短期的願望に食い尽くされよとしている
 米国の将来を占う『マーク・トウェーン仮説』
 前回までの議論で、現代に生じている環境問題や経済格差などの問題は、突き詰めればそのほとんどが、社会のあらゆる場所で人間の目の前の欲望を満たすための短期的願望が長期的願望を駆逐していくことに起因しており、そして、社会全体が短期的願望に飲み込まれて世界が完全に止まってしまう『コラプサー(縮退)状態』の一つの結末として、未来にはすべての人間が『快楽カプセルの中で一生をすごす「絶対的虚無」』というディストピア世界が訪れることが予想される、と述べた。
 ……
 それにしてもこの、世界の根本部分に居座る『世界全体のコラプサー化』という大問題は、きちんと正面から直視するほど、その進行を阻止するための処方箋や出口がまったく見当たらない、というのがほとんどの人の実感なのではるまいか。実際に資本主義や民主主義がたとえどんな問題を抱えていようとも、それにとって代わる制度はないし、民主主義を捨てて何かべつの制度に移行するなど想像することすらできない。では、米国が先頭を歩くこの現代社会に、先ほどのようなディストピアから逃れるような出口はどこかにあるのだろうか。以下にそれを検証してみたい。
 じつは筆者は、米国の将来を占うに際して一つの考えを参考にしている。それは『マーク・トウェーン仮説』というものであり、マーク・トウェーンとは『トム・ソーヤの冒険』で知られる米国を代表する作家である。ではその仮説内容はどういうものかというと、『マーク・トウェーンという人物は、その個人の短い一生において、米国が辿るべき精神史を最初から最後まで凝縮したかたちで体現した人間なのではないか』というものである。
 その彼が辿(たど)った精神史をみていくと、まず少年期から始まって若年期のいわば『第一期』は、トウェーンが描いたトム・ソーヤそのものの如く、彼自身も大自然のなかで自由快活に育ち、機智と活力に富んで人に対する優しさももって、何ものにも捉われないという、まさに米国人が理想とするような人間だった。そして彼の姿は米国の精神史における『古き良き、米国が理想として立ち返るべき原点』の像とぴったり重なるのである。
 やがて成人して大人になると、トウェーンは作家として大成功して世の中で絶大な人気を博し、地位と財産を手にしていく。ところがその満ち足りた生活の中で、彼は素朴と優しさを失って、次第に底意地の悪い人間になっていくのであり、これが『第二期』である。そして晩年の『第三期』に入ると、彼はどうしようもない人間不信と厭世(えんせい)観に沈みこみ、救いのないような虚無的な世界観のなかで一生を終えたのである。
 これを現在の米国の姿に重ね合わせるとどうだろう。多くのジャーナリズムでは、現在の米国の混迷状態を『一時的な病気』と捉え、その一時的な病が全快した後(のち)には、米国社会は再びマーク・トウェーンの『第一期』のような若き日の快活な精神状態に戻るはずだ、という結論で締めくくりがちである。しかしこの仮説のうえに立って眺めると、現在の米国はむしろ『第二期』の、トウェーンが成人になって底意地が悪くなった時期の終わりごろの状態にあり、だとすれば米国は近い将来、次の晩年の『第三期』の虚無の状態に移行する、と考えるべきではないか、という話になるのである。
 出口のみえない難題からの脱出法
 それにしてもマーク・トウェーンという人物の事例が現代文明の視点からも興味深いのは、それが『制度的に何ものにも捉われていない自由な人間が、生来の性格や良識だけで一生のあいだ、精神の健全さと活力を保ちうる』という問いの最大の事例だからである。
 『制度的に何ものにも捉われていない』という点からするならば、日本の武士などはさしずめその対極である。彼らは武士道という窮屈(きゅうくつ)な生き方を受け入れて自由を手放し、むしろ制度や規範に自ら進んで『捉われる』道を選んだ存在である。これはイスラム世界などのような宗教を基本とする社会でも同様で、そこでは各自が宗教の戒律という外からの規範に自らの意志で『捉われる』からで社会生活が営まれている。
 一方現代の米国の社会に『何ものにも捉われていない』ということを人間としてもっとも尊敬されるべき資質だとみて、むしろ自由と多様性の名のもとに、そうした前時代的な規範体系を人間にとって害になるものとして消滅させることを是(ぜ)としている。そしてフランスの思想家のアレクシス・ド・トクヴィルは、民主社会のもとでは人びとは心情的にも『制度や習慣に捉われない』人間や価値観を『格好良い』として尊ぶ傾向にあると指摘しており、そうした心情がこの傾向をさらに加速するのである。
 しかしそうだとすれば、これは考えるほど出口のない問題で、制度的にも心情的にもそこから抜け出すことは抵抗が大きすぎて到底不可能だろう。
 このように出口のみつからない問題の場合、唯一可能な対応として通常採られるのは、次のような方法論である。それは、現在の制度そのものには手を加えずそのまま維持するが、許容される範囲内で制度を拡大解釈してぎりぎりまで変形させ、それによって現在直面している難題を何とか包み込んでしまうということである。
 これは政治などに限らず世の中全般の話としていえることだが、しかし一般的にこういた方法論は所詮は一時しのぎにすぎず、結局はうまくいかない。そういう拡大解釈や変形は大抵どこか無理をしており、しばらく続けるうちに皆がその無理に疲れて、もとへ戻ろうとしてしまうからである。
 ところがここで科学の世界を眺めると、そのように何か新しいシステムに移行する場合にどうすればよいのかヒントになりそうな方法論がある。科学の世界では、ある理論が袋小路に陥ってどうにも出口がなくなってしまったときには、しばしばこれまで『禁じ手』とされてきた考え方が本当に禁じ手だったんかを、新しい視点から検討し直す、というやり方が採られてきたのである。
 そして両者を虚心坦懐(きょしんたんかい)に眺めて、もしその禁じ手を使うほうが従来のやり方よりましだと判断されたなら、軸足はむしろ禁じ手の側に移してしまう方で、周囲に語るときに、あたかも従来の方法を僅(わず)かに変えるだけのようにみえるよう、うまく修正する。つまり先ほどとはちょうど逆に、軸足は新しい禁じ手の側に置き、もう一方の足を伸ばして従来の側まで届かせるのである。
 そのようにして、周囲を新しい考え方に十分馴染ませておいて、足を広げた無理な状態を続けることに周囲が疲れてもとへ戻ろうとするとき、従来の位置のほうではなく軸足のほうに戻るよう全体を仕向けるのである。
 そしてこういう場合にはもう一つ、次のような方法論を併用する効果が大きい。それは先ほどのような状況下で、『禁じ手』と従来の方法の両方に共通して適用できる何らかの強力な『指導原理』というものがどこにないかを探す、ということである。
 いまのわれわれの『文明のコラプサー化からの脱却』を巡る議論の場合、その指導原理は明確で、『悪い政体状態とは、短期的願望が長期的願望を駆逐している状態のことであり、これは表面的な制度が何であるかに優先する』ということである。またこの指導原理は、『「文明」とは、人間の短期的願望が長期的願望を圧倒して食い尽くすことを阻止するために、社会のなかのさまざまな場所に人為的に設けられたハンディキャップの体系のことである』という表現もできるだろう。
 そしてたとえば先ほどの『現在の民主主義にとって代わりうる政体はない』という話にしても、じつはこの話自体が逆にその指導原理から導かれてくるのである。たしかに現在の自由な民主主義社会では、文化、政治、経済の随所で短期的願望が末端部分から増殖して止まらないが、それを何らかの政治権力の力で上から抑え込もうとした場合、その政治権力の力は、それらの末端の下からの力よりもっと強力で、よりスピードと即効性の高い力を備えたものでなければならない。ところがそんな権力があると、それ自体のなかに短期的願望が侵入してきやすくなる。つまり『短期的願望の侵入率の少ない政体を採る』という指導原理に照らすと、こういう上からの権力のほうがむしろその危険が大きいことになり、それゆえに『現在の自由な民主社会にとって代わりうる政体』は存在し得ないという理屈になるのである。
 ただし米国の文明はこの指導原理を採用せずにべつの指導原理でそれを説明しており、以前の議論でも述べたように『人びとの短期的願望は、無数に集めれば長期的願望に一致する』という教義のもと、しばしば短期的願望を多様性という言葉で積極的に肯定し、むしろ先ほどの『文明』の定義にあった。『短期的願望を抑えるためのハンディキャップ』は不要な邪魔物として、そのハンディキャップの体系をまるごと除去するのが『自由の推進』だということを、彼ら流の指導原理に据えてきた。
 しかし先ほどの『マーク・トウェーン仮説』によれば、社会にそういう人為的なハンディの仕掛けが何もない場合、いかなる健全で強力な精神のもち主(ぬし)といえども、個人の精神の力だけではコラプサー的な終焉に向かうことを食い止められないことになり、その米国流の『自由の推進』の指導原理に対する大きな疑問符となっている。
 建国の父らの望んだ『禁じ手』
 しかし米国の民主主義社会の歴史を振り返ると、建国間もない時期には、この『自由と平等化の推進』という指導原理に米国自身が真っ向から抵抗しようとしていたことである。ちょうっと意外なことだが、ジョージ・ワシントン大統領は『デモクラシー』ちう概念を、人類社会にとって忌(い)むべきものと考えていた節があり、彼はデモクラシーよりもう少し穏やかな『共和制』という言葉にすら、嫌悪感を隠そうとしなかったといわれる。
 これはワシントン大統領の頭脳の役割を務めていた初代財務長官のアレクサンダー・ハミルトン(10ドル札の絵柄は彼の象徴である)にもいえることで、彼は共和制では当然の権利とされる、国民全員が投票権をもつ普通選挙の制度について『それは結局のところ、より富んだ49%の人間の財産を、より貧しい51%の人間が収奪する制度にしかなり得ない』として反対していた。
 これはいわゆる『建国の父たち』の多くに共通する認識で、そして下層大衆の発言権をさらに重視する『デモクラシー』などは、それをもっと過激化させた、一種の無政府主義のようなものだというのが彼らの見解だった。実際に建国の父たちのなかでは、トーマス・ジェファーソンなどのほんの一握りだけが『デモクラシー』を肯定する立場をとっており、ワシントンらはそのジェファーソンらの動きを阻止しようとして、結局は果たせなかった、というのが意外な歴史の事実なのである。
 そう考えると、現代では絶対的正義であるデモクラシーを危険視していたワシントンやハミルトンが理想としていた状態は、どうやら何らかの『禁じ手』だったことになるが、では実際はどんなものだったのだろうか。それは制度それ自体に手を加えるというより、むしろどういう階層がそこで主導権を握るか、ということがメインだったように思われる。
 じつはこの問題に関しては、洋の東西を問わず次のような経験則が存在している。それは社会を上から『君主』『上級貴族』『下級貴族』『民衆』の4つに分けた場合、上から3番目の『下級貴族(下級エリート)』が力をもっている状態にあるとき、社会はもっと活力に満ちているということである。
 この法則は中国でも同様で、中国社会の場合、先ほどの4つに相当するものは『王』『卿大夫(けいたいふ)』『士大夫(したいふ)』『庶人(しょじん)』などの名称で呼ばれているが、ここでは上から3番目の『士大夫』が下級エリートで、この層が伝統的な中国の社会だった。なおここでなぜ下級貴族が良くて上級貴族では駄目かというと、上級貴族は宮廷のなかに生きていて、そこでの権勢争いやゴシップにどっぷり漬かりやすいためである。日本の幕末などをみても、西郷隆盛をはじめとする志士たちのほとんどが下級武士だった。(また、以前の議論で述べたイスラム社会の法学者=『ウラマー』などもこの上から3番目の層に属する存在である)
 そして『なぜこの下級貴族・下級武士層が主導権を握る状態が一番ましなのか』の理由も、やはり先ほどの指導原理から説明されうるのであり、その理由はこの4つの階級のなかではま上から3番目の下級エリート層が、短期的願望に侵入される危険が相対的にもっとも少ないからである。それに対してこの層より上の2つ、君主と上級貴族層では個人の権勢欲や宮廷内の自己顕示欲による短期的願望の侵入率がより高く、逆にこれより1つ下の民衆・大衆層では、匿名性や規範のなさゆえに集団的な無責任状態のなかで短期的願望が侵入しやすい。
 つまりワシントンやハミルトンは、社会の主導権を下層大衆に全面的に委ねず、上から3番目の『下級エリート=ジェントルマン階級』が主導権をもつ社会にしたかったのであり、それを守るための社会的なハンディキャップの体系を維持しようと努めたのである。しかし先述したように、一番下の民衆が主導権をもつべきだとするジェファーソンらに敗れてしまったのである。
 それはともかく、こうしてみると、この『短期的願望の侵入率で良し悪しを判定する』という指導原理がかなり有効であることがよくわかる。実際に広く歴史全体を眺めても、ある社会が健全で活力があるかどうかに関して、表面的な政体が何であるかより、むしろこの指導原理のほうがより決定的な影響を及ぼしている。
 たとえばローマ帝国が衰退していく過程でも、下級エリート層が中央集権化のなかで主導権を失うことと同時進行するかたちで、社会全体は短期的願望に歯止めがかからずコラプサー化していった。その廃退の過程では表面上の政体がどのうな体制をとっていたかというよりも、むしろそのなかで『短期的願望を抑え込むことにどう失敗していったか』ということのほうが遥かに本質的である。そしてその視点から眺めると、現代社会はメディアとマーケットのなかに発生して短期的願望を世界に広める『仮想的な巨大権力』(以前の議論ではそれを『オーバロード』と呼んだ)が皇帝のように君臨する一種の帝政に移行している、とみることもでき、表面上の制度は異なるものの、短期的願望を巡る状態はむしろローマ帝国のときと遥かによく似ているのである。
 こうしてみると、これらの一連の方法論をうまく活用できたならば、現在の混迷状態からの脱出口がみつからない、とはいい切れないようにも思えてくる。というより、そもそも現在の世界では指導原理自体が別々の2つの間で対立しており、先ほど述べたように、米国が主導する世界基準の指導原理は、長期・短期の区別をせず、物事を『個』に分けてその短期的願望を積極的に推進するというものである。
 これが揺るげば世界が動くことになるのだが、ところがそれは『部分(短期的願望)の総和が全体(長期的願望)に一致する』という、一種の信仰(前回の議論ではそれを『調和的宇宙=ハーモニック・コスモス信仰』と呼んでいた)に基づいたものである。そのためもし三体問題から発する議論を糸口にその大前提が否定されるという事態になった場合、世界が本当にどこかへ向けて動き始める可能性もゼロではないことになるだろう。
 宗教なき人類はどこまで社会を保てるか
 しかし、である。たとえ政治や社会の指導原理が入れ替わって制度が変わり、また社会の主力を担う層が多少望ましい方向にシフトしたところで、それは人びとの短期的願望が無制限に増殖する『コラプサー状態』から脱するためにほとんど役に立たないのではないか、という疑念を読者の多くは抱かれているのではあるまいか。
 その疑念はまったく正しいのであり、そもそも世界のあらゆる場所で短期的願望が繁殖していることの根源には人間の欲望があり、人間は現世においては誰しもが少しでも金を欲しがり、少しでも他人より高い地位につきたがる。そして現在を少しでも安楽・怠惰(たいだ)にすごしたいと願うものであり、そうした欲求自体は止められない。それをもっとも受け入れる社会として、現在の短期的願望と平等化を推進する社会が選ばれているわけで、たとえ表面的に制度を変えたところで、その根本の欲望を止める肝心の力は調達できないからである。
 そして過去の歴史においては、そうしたコラプサー化から脱却に関しては、前回までの議論で何度もみたように、人類は結局、『宗教』というものに頼らざるを得なかったのである。それは当然の話で、現世は所詮先ほどのような富や地位を奪い合う椅子取りゲームで埋まっていて、そうしたものから縁遠い長期的願望のための何かを突っ込む余裕はない。そのため、後者が息をつけるためのスペースを確保するためには、結局は人びとの精神が生きる世界を、現世だけでなく来世にまで拡大する以外に手はないのである。これに関してはトクヴィルが、『人間は永遠に生きることを断念した瞬間に、たった1日しか生きられないように行動するようになる』と述べ、社会が霊魂の不滅を認めなくなった時点で、コラプサー化への一本道は食い止めようがないと示唆(しさ)している。またナポレオンなども『社会は財産や地位の不平等なくしては可能ではあり得ず、不平等は社会的規範なくしては耐え難く、社会的規範は宗教がなければ人民には受け入れられない』と述べ、宗教を何らかのかたちでうまく使う以外に社会を保つ手段がないことを指摘している。
 しかし筆者自身、この論理に直面せざるを得なくなったときに素直いって思い悩んだ。まず、彼らのいっていることは基本的に正しい。むしろ現代のいわゆる『合理主義者』のほうが、トクヴィルやナポレオンよりも遥かに浅い考えで甘い結論をだしているとしか思えなかった。しかし筆者は何といっても根は科学者なのである。たしかに科学の歴史において、それが明確に無神論的な唯物主義と手を組んで来世の存在を否定するようになったのは、つい最近の200年ほどのことにすぎず、それ以前はむしろ科学は宗教と共存していた。しかしだからといって、たとえ社会に宗教が必要だということになったとしても、自分自身がこれから何か宗教の布教活動に入っていくなどというこよは、筆者の精神の根本からいってできないのであり、それは現代を生きる多くの科学者にとっても同じだと思われる。
 思い悩んだ筆者は、古典のどこかにその難題の答えとなるものがないかを探した。その結果、1つの言葉を見つけたのであり、それを教えてくれたのはトクヴィルだった。彼は先ほど述べたように、宗教や武士道のような強い規範のない社会は、結局は(マーク・トウェーン仮説のように)虚無的な価値観に陥ってコラプサー化への一本道を辿るしかないことを認識していた。ところが一方で、彼は決して『そのためには宗教を社会に根付かせるための布教活動が必要である』とは一言も述べていないのである。むしろ彼は宗教の布教活動を効果がないものとみなし、そのかわりの答えとして次のような言葉を残している。その大義を意訳して紹介しよう。
 トクヴィルの残した宝物の言葉
 まず現代の合理的な無神論的社会では、科学などが宗教の代替物としてその代わりを務めており(19世紀の一時期には国家もそういう存在で、日本も国家主義の時代には愛国心が宗教の代替物となっていた)、それによって人びとはある程度まで神なしですませることができている。そのため一見すると科学などは宗教の対立物なのだが、ところが皮肉なことに、結局のところはそうしたものを重視して社会の上方に置く態勢を貫くことが、人間社会が『本来の信仰の世界』に非常に大回りをして戻っていくための唯一の道なのであり、自分はそれを信じて疑わない、と彼は述べているのである。
 一見すると『?』だが、彼がいいたいことの本質は、社会が金銭とビジネス万能の現世的傾向を強めるほど、社会のなかから長期的な物事を尊ぶ習慣が失われる傾向にあり、むしろその習慣の有無こそがこの問題の決定的な鍵を握るということである。そしてこの観点からすると、しばしば皮肉なことに宗教の布教活動もそれを性急強引に行なった場合、途中の複雑な社会的メカニズムを無視していきたい結論に飛びつくという点で、手法の面ではむしろ短期的な方法論となってしまうのであり、おそらくトクヴィルはそれを見抜いていたのである。
 これは政治活動にもいえることで、たとえ人びとの『国をよくする』という目的自体は長期的願望に基づく正しいものであっても、実際の行動面ではそれをスローガンにして正義の名のもとにメディアで悪役を叩く、ということに終始している場合、全体としてみればそれは正義感のカタルシスを満足させたという短期的願望に基づく活動だということになり、結局はその活動全体が世の中の短期的願望の餌食になってしまうのである。
 一方、現代世界で宗教の代役を務めている科学の場合には、とにかく結論を導くまでのショートカットが一切許さず、そこではすべての場所で性急な短期的態度を捨て去ることが徹底して要求される。トクヴィルも『表面的なお題目よりも、手法や習慣の面で長期的な世界に属するものに囲まれていく』ことが必要だと考えていたようで、それによって『人間は次第に「不滅性」ということに価値を置くようになって、最終的に一種の宗教的な道に自然に引き込まれていくのであり、現代世界ではそれ以外に社会を正しく宗教を導き入れる有効な道は存在しない』と、といっているのである。
 筆者は彼のこの言葉こそが、悩んでいた問題の答えであると思った。トクヴィルの言葉に従うならば、たとえ現代の世界が宗教の力を借りなければ結局は保っていけない、という事態になったとしても、科学者にべつに何かの宗教に入信して布教活動を行うことなどはまったく必要ではない。むしろ一見宗教の対立物のような科学のなかにそのまま留まって、彼の言葉のとおりに『非常に遠回りをして社会を健全な宗教のなかに戻していく』ことの役に立つように留意しつつ、過渡期の人間として現代を生きればよいうのである。そして考えてみると、このスタンスはまさに『禁じ手の側に軸足を移す一方、もう一方の足を伸ばして現在の体制まで届かせる』方法論の好例なのであり、筆者はこれを知って以来、片時もこの言葉を忘れたことがない。
 ともあれ筆者は理数系武士団をはじめ、すべての科学者・技術者にこの宝物のような言葉を知ってほしいと願っている。そしてそれを踏まえて動くなら、先ほどの指導原理に、天体力学を通じてもっと近くから関わるという点で、理数系武士団のもつ可能性はどの政治集団よりもおそらく大きいのである。」
   ・   ・   ・