🛲10」─1─ベトナムの歴史は戦争の歴史。人類の歴史には正義の戦争・正しい戦争が存在する。~No.80No.81No.82 * 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 理想的平和主義の現代日本は、全ての戦争に反対で、正義の戦争も正しい戦争も否定している。
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 ベトナムへの最初の侵略は、中華帝国漢王朝武帝であった。
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 ベトナムの隣国は、北の中華帝国・中国と西のカンボジアであり、陸続きであった為に戦争が絶えなかった。
 特に、中華帝国・中国は大軍で侵略し、北部を占領し領土にしたり属国・保護国にして支配していた。
 近代なってからは、南の海からフランスが侵略してきて植民地にした。
 現代では、東の海からアメリカが攻撃していた。
 そして又、中国共産党政府が侵略してきた。
 ベトナムの歴史は、外敵の侵略から祖国を守る防衛戦争であり、植民地支配に対する抵抗闘争と独立戦争であった。
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 ベトナムにとって、中華帝国・中国は敵であり侵略軍であったが、軍国日本は味方であり救援軍であった。
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 国土は南北に細長く、北は中華人民共和国、西はラオス、南西はカンボジアと国境を接する。東は南シナ海に面し、フィリピンと相対する。

 歴史
 紀元前207年に南越国が成立し甌?を併合。

 北属期
 詳細は「北属期」を参照
 北部 - 紀元前111年の漢・南越戦争で漢の武帝が遠征し南越国が滅亡。第一次北属期(en、紀元前111年 - 39年)に入り、交州(交趾郡、日南郡等9郡)と呼ばれた。40年チュン姉妹が蜂起したチュン姉妹の反乱が起こるが、後漢に制圧され第二次北属期(en、43年 - 544年)が始まる。6世紀の終わりごろ隋 (581-618) が中国を統一しベトナムに「交州総督府」を設けた。544年に李賁が前李朝を興し独立。602年、隋李戦争で隋が前李朝に侵攻し、第三次北属期(en、602年 - 938年)に入る。次代の唐 (618-907) に引き継がれ「安南都護府」となる(安南(アンナム)という呼称のはじまり)。755年に唐で安史の乱が起こると支配は動揺し始め、南詔ハノイ安南都護府を占領した(862年 - 866年)。
 中部 - 192年、オーストロネシア語族系統の古チャム人(後のチャム族)が日南郡でインド化されたチャンパ王国を形成して後漢から独立。734年に平群広成らの乗る遣唐使船第3船が暴風雨で難破し、崑崙国(チャンパ王国)に漂着して捕縛された。後に脱出して長安に戻り、渤海経由で日本に帰国した。

 南部 - 扶南国(1世紀 - 6世紀)、真臘(6世紀 - 8世紀)。

 越人王朝の形成
 北部 - 唐末五代の混乱で中国の支配が後退すると939年の白藤江の戦いで最初の民族王朝呉朝が成立(北属期終る)。965年に十二使君の乱が起こり、966年に丁朝が成立。980年に黎桓が前黎朝を興し、981年の白藤江の戦いで宋軍を追い返すことに成功。1001年に李朝の成立。宋は「安南国」を朝貢国として承認した。1054年国号を大越としたが、19世紀に至るまで中国は「安南」と呼んだ。国内では「大越」(ダイベト、大いなる「越」)であった。昇竜(タンロン、後のハノイ)に遷都。以後越人の王朝「大越」は南のチャンパと抗争を繰り返した。1225年、李朝との婚姻から陳太宗へ譲位させることに成功し、陳朝が成立。

 中部 - チャンパ王国
 南部 - クメール王朝

 モンゴルのベトナム侵攻
 13世紀にクビライは3度に渡るヴェトナム侵攻(元越戦争)を行った。1258年、第1次元越戦争。1283年、第2次元越戦争。1287年、第3次元越戦争。1288年の白藤江の戦いで敗北した元軍は敗走した。

 第四次北属期
 14世紀に陳朝の都昇龍(タンロン)を2度攻略した制蓬峩(チェーボンガー、Ch? B?ng Nga)の死後、チャンパ王国では羅皚による王位簒奪が起こった。陳朝に代わった胡朝がチャンパ王国へ逆侵攻すると、羅皚の子である巴的吏が明の永楽帝に援軍を求めて干渉戦争明胡戦争(明・大虞戦争)が起こり、1407年に胡朝は滅亡。第四次北属期(1407年-1427年)となり、明よって「交阯」(Jiaozhi、Giao Ch?、交趾)との地名で呼ばれた。

 南進時代
 藍山蜂起(1418年 - 1428年)で明軍を追い出した黎利(レ・ロイ)により後黎朝が起こる(1428年 - 1788年)。地方王権の緩やかな連合体という形態だったチャンパ王国にはヴィジャヤとパーンドゥランガの2つの核となる地域があったが、1471年に後黎朝の侵攻(チャンパ・大越戦争)によりヴィジャヤが滅亡した。
 黎朝帝室が衰えると権臣の莫登庸による簒奪王朝莫朝が権力を掌握。黎朝復興勢力と莫朝が紅河を挟んで向き合う南北朝時代の戦乱を経て後黎朝は復興したが、北部は帝室を牛耳る東京鄭氏が支配し、中部には広南阮氏による半独立政権が成立し、両者の間で鄭阮戦争が起こった。このころ日本は広南阮氏と交易し、ホイアン日本人町ができ来遠橋などが建てられた。
 広南阮氏は、1611年からパーンドゥランガの領土を侵食し始める。鄭阮戦争の難民がメコンデルタへ流出すると、カンボジアのチェイ・チェッタ2世(在位:1618年-1628年)は、プレイノコール(英: Prey Nokor、現ホーチミン市)に難民を受け入れ及び徴税のために税関事務所を建設することを許可した。これによってメコンデルタベトナム化が進行したことで、広南阮氏の南下を呼び込む結果になる。1681年、ダナン沖に明朝遺臣を名乗る楊彦迪(ユオン・ガン・ディック、D??ng Ng?n ??ch)、陳上川(チャン・トゥオン・スィエン、Tr?n Th??ng Xuyen)らの率いる50隻余の艦隊が出現し広南国への亡命を申し出ると、広南国はメコンデルタへの入植に彼らを活用することとなった。
 1693年に広南阮氏の武将阮有鏡がパーンドゥランガを征服した。1708年に現在のキエンザン省カマウ省に勢力を伸ばしていた?玖の半独立国「港口国」がカンボジア王を裏切り広南阮氏に朝貢するようになる。広南阮氏は、阮福濶の時代にカンボジア領であったメコンデルタ下流クメール人居住領域の併合を行う。

 西山朝
 1771年に西山阮氏による西山党の乱が起こり1777年に広南阮氏を滅ぼした。1785年にシャムの支援を受けた広南阮氏の残党・阮福暎がメコンデルタ地帯に攻め込んだが(ラックガム=ソアイムットの戦い)、阮恵(グエン・フエ)率いる西山阮氏はこれを撃退した。阮恵は軍を北に向け鄭氏もまた滅ぼし、西山朝が成立した。1789年には、北部にかろうじて存在していた後黎朝の昭統帝が清の乾隆帝に援軍を求めて始まった干渉戦争のドンダーの戦いでも阮恵が勝利し、後黎朝も滅んだ。阮福暎は、フランス人宣教師ピニョー・ド・ベーヌを始めとする外国勢力やチャンパ遺臣の助けを得て西山朝と戦った。

 阮朝
 ベトナム中部の都市フエには、19世紀に越南阮朝の都と宮廷が置かれた。ユネスコ世界遺産文化遺産)に「フエの建造物群」として登録されている。
 西山朝に内紛の兆しがみえると、阮福暎が1802年に西山朝を滅ぼし、阮朝(1802年 - 1945年)を興こした。1830年代には港口国が阮朝支配下に入り、チャンパ遺臣の自治領も完全に阮朝に吸収され、現在の統一国家ベトナムの形がほぼ完成する。

 フランス植民地支配
 1847年4月15日、フランス軍艦がダナンを砲撃し、フランスの侵略が始まる(ダナンの戦い)。1858年9月、フランス・スペイン連合艦隊、ダナンに進行(コーチシナ戦争、1858年-1862年)。1862年6月、第1次サイゴン条約でフランスに南部3省を割譲。1867年6月、フランス領コーチシナ成立。1874年3月、第2次サイゴン条約でフランスに紅河通商権を割譲。1882年4月、フランス、ハノイ占領。
 1883年6月、トンキン戦争(1883年6月 - 1886年4月)が勃発。8月、癸未条約(第1次フエ条約、アルマン条約)でアンナンとトンキンがフランスの保護領となる。1884年5月、天津停戦協定(李・フルニエ協定)を締結。6月、甲申条約(第2次フエ条約、パトノートル条約)でベトナムは清への服従関係を絶つ。
 1884年8月、清仏戦争(1884年8月 - 1885年4月)が勃発。1885年6月、天津条約で、清はベトナムに対する宗主権を放棄すると共に、癸未条約と甲申条約で定めたフランスのアンナンとトンキンへの保護権限を承認した。1887年10月、フランス領インドシナ連邦(トンキン保護領、アンナン保護領、コーチシナ直轄植民地に分割統治、カンボジア保護国と併合、1889年4月にはラオス保護国を併合)の成立(フランスによる植民地化)

 反仏独立運動
フランス支配に対して北部を中心に多くの抵抗運動が起きた。初期の代表的なものに大陳起義、安世起義などがあり、指導者としてホアン・ホア・タム(黄花探/通称:デ・タム)などが知られる。
 1904年、ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)とクォン・デが維新会を結成。1905年、ファン・ボイ・チャウが反仏独立の支援を求めて、大日本帝国に来日(東遊運動)。1907年、en:Gilbert Tr?n Chanh Chi?uとFrancois-Henri SchneiderらによってL?c T?nh Tan V?n(六省新聞、1907年 - 1908年)がサイゴンで発行される。1912年、広東でベトナム光復会を結成。
 1913年、Nguy?n V?n V?nhとFrancois-Henri Schneiderらによって初のクオック・グー新聞の?ong D??ng t?p chi(東洋雑誌、1913年 - 1919年)がハノイで発行される。1916年、コーチシナ蜂起。1919年、ホー・チ・ミンが安南愛国者協会(Association des Patriotes Annamites)を組織。1923年、Di?p V?n K?によってクオック・グー新聞Dong Phap Th?i Bao(東法時報、1923年 - 1928年)がサイゴンで発行される。1930年、ホー・チ・ミンが香港でベトナム共産党インドシナ共産党)を設立。1930年に、イエンバイ省でグエン・タイ・ホックらベトナム国民党によるイエンバイ蜂起、ゲアン省ハティン省でゲティン・ソヴィエト(ベトナム語: Xo Vi?t Ngh? T?nh、Nghe-Tinh soviet)の蜂起が起こった。
 1939年、フランス植民地政府がインドシナ共産党を禁止。

 国民
 憲法第5条に「ベトナム社会主義共和国ベトナムの地に共に生活する各民族の統一国家である」と、多民族国家であることを規定している。ベトナム政府が公認しているだけでも54の民族がいる。ベトナム国民は、身分証明書を一定年齢以上に達すると発給され、身分証明証には民族籍を記入する欄が設けられている。

 民族構成
 詳細は「ベトナムの民族一覧」を参照
 ベトナムでは公式に認められている民族が54あり、そのうちキン族(ベトナム族)がもっとも多く、全人口の85%から90%を占める。キン族の言語であるベトナム語はムオン族・セダン族などと同じオーストロ・アジア(モン・クメール)語族に属する。ムオン族はホアンビン省、タインホア省の山間部に住み、ベトナム語のゲアン方言などとの近似性が指摘されている。
 その他に少数民族としてホア族(華人)、タイ系のタイー族・ターイ族・ヌン族、クメール族、ムオン族、モン族(ミャオ族)、ザオ族などがある。少数民族のうち、ホア族とクメール族以外の大半は山地に住む。

 言語
 言語はベトナム語(越語)が公用語である。その他にも、漢字文化圏の影響で華語(主に広東語、台湾語、北京語)、クメール語なども使われており、フランス領インドシナ時代の影響から、少数のエリート層や高齢者の間ではフランス語が理解できる人もいる。また、ソビエト連邦など共産主義国とのつながりがあったため、ロシア語を理解できる人もいる。ただし、最近の若年者の教育は英語教育が一般的になり、町の看板などを見渡してもベトナム語以外では、欧米人観光客向け(観光客相手に生活していく上でも、英語ができないと生活が成り立たないため)に英語が目立つのが、現在の状況である。

 人名
 詳細は「ベトナムの人名」を参照
 主要民族であるキン族を中心に、ベトナムの人名の多くは、漢字文化圏に属しており、人名も漢字一字(まれに二字)の漢姓と、一字か二字(まれに三字)の名からなる構造は中国と共通している。婚姻の際には基本的に夫婦別姓となる。しかし各字の機能は漢名とは異なっており、名のうち一字目は「間の名」(ten ??m、ミドルネーム)と呼ばれ、末字の名と一体化しておらず、また中国の輩行字、朝鮮の行列字のような世代の区別に使われることもない。目上や目下に対しても、呼びかけに使われるのは末字の名のみであり、間の名は含まれず、また姓を呼びかけに使うことはほとんどない。
 名付けに使われる語は必ずしも漢字由来のものに限らず、庶民の間では固有語による名付けがかなり存在している。また少数民族の名前には、上記の説明にあてはまらない固有のシステムをもつものがある。

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 フランス領インドシナ(フランスりょうインドシナ、フランス語: l'Indochine francaise、ベトナム語: ?ong D??ng thu?c Phap / 東洋屬法, 中国語: 法属印度支那)は、1887年から1945年まで、大日本帝国により占領された一時期を除きフランスの支配下にあったインドシナ半島インドシナ)東部地域である。現在のベトナムラオスカンボジアを合わせた領域に相当する。仏印(ふついん)とも略する。

 成立までの歴史
 総督府の設置
 詳細は「エルネスト・コンスタン」を参照
 1887年10月17日、インドシナ総督府が設置され、海軍植民地省の一元的管轄下にアンナン・トンキン保護国とコーチシナ植民地を統括した。1899年4月15日にはフランス大統領令ラオス編入し、インドシナ連邦が成立した[1]。以下に各地域の成立史を記述する。

 コーチシナ植民地
 詳細は「コーチシナ戦争(英語版)」および「en:Conquest of Cochinchina」を参照
 フランス領インドシナ植民地の起源はナポレオン3世がフランス宣教師団の保護を目的に1858年に遠征軍を派遣したのに始まる。遠征軍はまずベトナム中部のダナン(ツーラン)に上陸、ついでサイゴンに転じた。その後アロー戦争のために一時的な大規模撤兵があったが、1861年に再度フランス艦隊はサイゴンに上陸し、コーチシナ一帯を攻略した。1862年6月5日、フランス政府と阮朝サイゴン条約を締結。阮朝はコーチシナ東部3省(ビエンホア、ジャーディン(サイゴン周辺)、ディントゥアン(現在のミトー)、プロコンドール島を割譲し、またダナンの開港、布教の自由、カンボジアへの自由通行権など認め、これがコーチシナ植民地の始まりとなった。フランスは海軍植民地省の管轄下にコーチシナ総督を設置した。

 カンボジアは1863年の条約でフランスの保護国となったが、それによりコーチシナ西部の3省(チャウドック、ハティエン、ヴィンロン)はカンボジア保護国とコーチシナ東部植民地に挟まれる状態となっていた。1867年6月にフランスは東部3省の警備上の不安を解消するために西部3省を攻略し、6月25日にこれを植民地として一方的に宣言した。このコーチシナ6省およびコプロコンドール島がコーチシナ植民地である。

 フランス保護領カンボジア]
 詳細は「en:rench Protectorate of Cambodia」および「フランス保護領カンボジア」を参照
 カンボジアは、ベトナムとタイに侵略されつつあった(第一次泰越戦争、第二次泰越戦争)。1863年8月11日にフランスはタイからの保護を名目にノロドム国王に保護国条約を結ばさせ、1865年4月1日にはカンボジアの保護権をタイに認めさせた。その後1867年のフランス・タイ条約、1884年の新条約にてノロドム王は実権を完全に失い、フランスの保護国となった。

 ベトナム保護国
 1882年にフランス軍がトンキン地方を占領し(トンキン戦争)、1883年の癸未条約(第一次フエ(ユエ)条約)・1884年の甲申条約(第二次フエ(ユエ)条約)によってベトナム(フランス保護領トンキン、フランス保護領アンナン)を保護国化すると、ベトナム宗主国である清国の介入を招き、清仏戦争(1884年 - 1885年)が勃発した。フランス軍はトンキン各地で清朝軍と戦う一方、海軍が中国沿岸部を攻撃したため、清国は1885年の天津条約によってベトナムに対する宗主権を放棄した。この年が暮れる頃から、インドシナ銀行がその既得権をめぐりソシエテ・ジェネラルと政治を争った。
 1886年フエに阮朝宮廷を置いたままアンナン、トンキンはフランスの保護国とされ、フランス外務省の管轄下でそれぞれ理事官が駐在した。南部のコーチシナはフランスの直轄地であり、フエの阮朝宮廷が中部のアンナンの行政を支配し、阮朝から任命されたハノイ総督が北部のトンキンの行政を支配する形であったが、いずれも形式に過ぎず、実際にはトンキン・アンナンに配置されたフランス人理事官が実質的にコントロールしていた。名目的な保護国の形を残した巧妙な支配といえる。

 ラオス
 1872年頃よりラオスは複数のチン・ホー族(赤旗軍、黄旗軍、Stripe Flags、黒旗軍)による来襲を受けていたが(ホー戦争)、宗主国のタイは自国を守るのに精一杯で、国王ウン・カムがフランスのオーガスト・パヴィに守られるという事件が起こった。1888年にフランスがタイ保護領シップソーンチュタイ(ディエンビエン省ライチャウ省ソンラ省)を保護国化した。
 併合を不服としたタイは、1893年に仏泰戦争を起こしたが、フランス保護領ラオス(旧ルアンパバーン王国ヴィエンチャン王国)の併合が確定した。この結果、シャン州に進出していたイギリス領インドと領土を接することになり、雲南問題が発生したが、1896年にシャムとメーコーン上流域に関する英仏宣言を発表して戦争を回避した。
 1889年、シエンクワーン王国(シエンクワーン県、ゲアン省)が、フランス保護領ラオスルアンパバーン王国とフランス保護領トンキンに分割併合された(地図には描かれていない)。

 植民地の経営
 フランス領インドシナでの搾取構造を描いた絵画。カントーホー・チ・ミン博物館にて。
 詳細は「ポール・ドゥメール」を参照
 インドシナにおけるフランスの植民地支配を完成させたのは、1897年から1902年にかけてインドシナ総督に就任した大物政治家ポール・ドゥメールである。ドゥメールはインドシナ連邦の財政と行政機構を整備し、強権的な手段によって同化政策を推進した。その後、ポール・ボー総督やアルベール・サロー総督らはフランスの文明的使命を正面に掲げ、教育の普及や富の増大、医療救済制度の充実、現地人の公務員採用などを通じて「精神の平定化」をめざす協同政策に転換した。
 インドシナ植民地に対するフランスの投資は当初、ホンゲイ炭鉱(現ハロン市)を中心とする鉱山業に集中した。メコンデルタ紅河デルタでは欧州人大地主による米作プランテーションも広く行われ、ハイフォンから輸出される石炭や米が植民地経済を潤した。一方、フランスからは主として繊維製品が輸入された。
 インフラ建設としては昆明ハノイを結ぶ?越鉄路(雲南-ベトナム鉄道、1910年)やハノイサイゴンを結ぶ南北縦貫鉄道(1899年着工、1936年完成。海運と競合したためさほど役にたたなかったが)さらに道路建設が積極的に推進された。

 独立運動
 ベトナム
 初期の独立運動としては、即位の翌年に抗仏勤皇大蜂起の檄を発し王都を脱出し、各地で抵抗を続けた阮朝8代皇帝の咸宜帝と、それを支えた大臣の尊室説、咸宜帝に呼応し、北中部のゲアン・ハティン・タインホア・クアンビンでゲリラ活動を展開し、勤皇独立運動の先駆けとなったファン・ディン・フンとカオ・タン、北部バクザン省に根拠地を築き、大都市ハノイを幾度も脅かした安世起義の指導者ホアン・ホア・タムなどが存在する。
 1904年には、ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)とクォン・デ侯が中心となり、ベトナム維新会を結成した。ファン・ボイ・チャウは翌年に反仏独立の支援を求めて来日(東遊運動)したが、フランスとの衝突を恐れる明治政府の意向により、日本がベトナムに強く加担することはなかった。チャウは1909年に日本から追放されると、1912年に広東でベトナム光復会を結成した。同時期の活動家としては、暴力革命と他国への支援要求に反対し、国民教育及びフランスの民主主義思想への訴えによる国土解放を主張したファン・チュー・チンがいる。
 1916年、コーチシナ蜂起が起きた。
 1919年、ホー・チ・ミンが安南愛国者協会(Association des Patriotes Annamites)を組織。
 1930年、ホー・チ・ミンが香港でベトナム共産党インドシナ共産党)を設立。
 1930年、イエンバイ省でグエン・タイ・ホックらベトナム国民党によるイエンバイ蜂起(英語版)、ゲアン省ハティン省でゲティン・ソヴィエトの蜂起。
 1939年、フランス植民地政府がインドシナ共産党を禁止。

 第二次世界大戦
 詳細は「仏印進駐」および「第二次世界大戦下のフランス領インドシナ」を参照

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 フランス植民地帝国(仏:Empire colonial francais)は、16世紀から20世紀にかけてフランスが海外に建設した植民地の集合体である。この場合の「帝国」とは、フランス本国の政体が王政・帝政・共和政のいずれであるかにかかわらず、海外の多民族の領域を支配したことを指す。

 最初の植民地帝国
 「フランスによるアメリカ大陸の植民地化」も参照
 フランスの最初の海外進出は16世紀初め、フランソワ1世の時代に行われたジャック・カルティエ北米大陸カナダ・セントローレンス川探検以降のヌーベルフランス領有宣言からである。この頃、フランスの漁民も北米のニューファンドランド島周辺海域にしばしば出漁していた。しかし16世紀後半のユグノー戦争による国内混乱のため海外進出の企ては一時頓挫した。

 第二の植民地帝国
 ナポレオン戦争後ブルボン・フランスが復活したため、多くのフランス植民地はフランスに返還された。西インド諸島グアドループとマルティニクを始め南米の仏領ギアナセネガルの交易拠点、インド洋のレユニオン及びインドのポンディシェリなどである。しかし第二のフランス植民地帝国の真の始まりは1830年から17年間続いたアルジェリアの征服であった。ナポレオン3世はアメリカの南北戦争に乗じてメキシコに保護国を樹立しようとしたが、アメリカ内戦の終結により失敗に終わった。ナポレオン3世はまたサイゴンを首府とするコーチシナを直轄植民地とし、カンボジア保護国として組み入れた。
 フランスの植民地の大部分が獲得されたのは普仏戦争(1870年 - 1871年)後のことである。コーチシナの基地からフランス人は1883年にトンキンとアンナンを獲得し、フランス領インドシナを形成した。1893年にはラオス、1900年には中国南部(清)の広州湾租借地もこれに加えられた。1881年にはチュニジア保護国としている。
 20世紀始めまでにフランスはアフリカ北部、西部、中部に次第に植民地を拡大していった。この一連の動きをアフリカ横断政策といい、アフリカ西岸から、東岸のジブチまでを接続することを試みた。同時期にイギリス帝国が取ったカイロからケープタウンを結ぶアフリカ縦断政策と対立し、スーダンでファショダ事件を引き起こした。結局ドイツの進出に対抗するために、フランスが譲歩し英仏協商でスーダンにおけるイギリスの優越権を認めた。また、イギリスはモロッコに対するフランスの優越権を認めた。
 この広大な植民地には現代のモーリタニアセネガルギニア、マリ、コートジボワールニジェール、チャド、中央アフリカ共和国コンゴ共和国マダガスカルジブチが含まれる。1911年にはモロッコ保護国とされた。第一次世界大戦では約55万の植民地兵がフランス戦線に動員され、特に勇猛なセネガル兵は最前線に送られて数万の戦死者を出した。また人手不足となったフランス国内に植民地は20万人以上の労働者を送っている。大戦後にはオスマン帝国領であったシリアとレバノン及び元ドイツ植民地であったトーゴカメルーンを獲得した。
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ベトナムから来たもう一人のラストエンペラー

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