- 作者:西川 恵
- 発売日: 2016/10/10
- メディア: 新書
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
現皇室の皇統に繋がらない者には、皇室外交はできない。
同様に、祭祀や慰霊も、現皇室の血が流れない者にはできない。
天皇制度を否定する事は、皇室外交や祭祀や慰霊を否定する事である。
全てを否定する日本人には、日本民族日本人の心・志・誠・気概は無縁であり、そもそも持ってはいない。
華僑・華人や中国に協力する地元住民は反日派であったが、それ以外の地元住民の多くは親日派であった。
反対派は少数派で、親日派は多数派であった。
財力があり政治権力に近い特権階級は少数派であり、貧しく虐げられている下層階級は多数派である。
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日本軍は、白人のアジア植民地支配からアジア民族の独立を指導し、華僑・華人の経済支配から現地人の解放に協力した。
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天皇皇后、皇太子同妃、皇族が公式に訪問してはいけない国は、中国共産党政府、韓国・北朝鮮、ロシアである。
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2017年2月27日 産経ニュース「天皇、皇后両陛下 28日からベトナム・タイご訪問 残留元日本兵の家族「義に生きた父誇り」
父、和正さんに贈られたベトナムからの勲章を見ながら、思い出を語る正男さん。勲章は自宅の壁に飾られている=仙台市青葉区(伊藤弘一郎撮影)
天皇、皇后両陛下が28日から6泊7日の日程でベトナム、タイを訪問される。ベトナムでは先の大戦後も現地に残った「残留元日本兵」の家族と面会されることになっており、残留元日本兵の息子である仙台市青葉区の写真家、猪狩正男さん(60)はそれを心待ちにしている。2つの祖国の間で父の足跡と自らのルーツを追い求めてきた猪狩さんは、今回のご訪問を亡き父に報告し、日越友好が進むことを願っている。(伊藤弘一郎)
猪狩さんは2歳のとき、父の和正さん、ベトナム人の母とともに同国から帰国した。和正さんは現地でのことをあまり語らなかったが、テレビでベトナム戦争の映像が流れた際、戦車を指し「あの中に俺の生徒がいる」とつぶやいたことが記憶に残り続けていた。
帰国から20年余りが過ぎた昭和56年、肝硬変で入院した和正さんを見舞った際、猪狩さんは初めて父の足跡を聞いた。
■ベトミンに協力
和正さんは先の大戦で陸軍少尉、中尉として従軍し、フィリピンやインドネシアを転戦。ベトナムで終戦を迎えて間もなく、ベトナム独立同盟(ベトミン)から協力を求められた。「ベトナムにも新しい時代が来る。時代を切り開くのに自分の力をぶつけたい」。そう考え、求めに応じたという。
和正さんは士官学校の教官として、銃の扱いとともに、「源平の戦い」「川中島の戦い」など日本の合戦を例示しながら戦いの手法を教え、フランスとの第1次インドシナ戦争中、8期生まで兵士を育てた。各地に散った卒業生は後のベトナム戦争を戦った。歯科医免許を持っていたため、医学教育にも当たった。
和正さんが現地で結婚した後の1954年、残留元日本兵の帰国が許可された。だが、家族を伴うことは許されなかったため残留。帰国する同僚に、故郷の父への歌を託した。
《今さらに何をか言わん遅桜 故郷の風に散るぞうれしき》
「『今は何を言っても遅いが、故郷に戻りたい』という望郷の思いを歌にした。日本兵が協力していたことは当時は極秘。理由を書けば検閲にひっかかる。それでも、故郷を忘れていないということを伝えたかった」。和正さんはそう話したという。5年後に家族の同伴が認められて帰国した後は、和正さんがベトナムの地を踏むことはなかった。「病気が治ったら、また行きたい」。病床でそう話した和正さんは、間もなく亡くなった。
■「心震える喜び」
「父が生き、自分のルーツでもあるベトナムを撮りたい」。猪狩さんは写真家の道を進み、91年、ベトナムで個展を開いた。
ある日突然、ベトナム建国の父、ホー・チ・ミンの側近だった軍最高司令官、ボー・グエン・ザップ将軍が個展会場に現れた。「日本軍を(ベトミンに)入れたのは自分だ。ファンライ(和正さんのベトナム名)の息子に会いたかった」。将軍はそう言って写真を見て回った。3年後、ベトナムでの功績が認められ、和正さんに勲章が贈られた。
勲章以上に猪狩さんが誇りに思うのは、常に人のために尽くす父の人柄だった。和正さんは材料不足を補うため、現地の竹で作った入れ歯を考案。ベトナム国内で広まったことを和正さんの死後に知った。故郷の福島県三春町の竹で、和正さんがいろいろな竹細工を作っていた記憶と重なった。
帰国後、歯科医として働いた和正さんは「貧乏人から金は取れない」と無料で治療したこともある。猪狩さんは言う。「人との関わりを大切にする姿勢は変わらなかった。父の誇りでもあり、私の誇りでもあります」
両陛下がベトナムで残留元日本兵家族と面会されることを知り、猪狩さんは「心が震えるような喜び」を感じた。「父は時代と時代の流れに揺れながら決断し、国、イデオロギーを超えて懸命に生き抜いた。両陛下のご訪問には涙を流し、私以上に喜んでくれると確信しています」
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ベトナム残留元日本兵 1940年に当時フランス領だったベトナムに進駐した日本軍は45年3月、ベトナムを事実上、軍政下に置いた。だが、同年8月の敗戦により、多くの日本兵は日本へ帰国した。一方、一部は現地にとどまり、約600人がホー・チ・ミンらが率いるベトナム独立同盟(ベトミン)に参加。再統治を狙うフランスとの第1次インドシナ戦争に加わった。「ディエンビエンフーの戦い」で敗れたフランスは54年7月にジュネーブ協定を締結。元日本兵はその後、順次、日本に帰国したとされる。」
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3月3日 産経ニュース「【両陛下ベトナム・タイご訪問】「長い間、ご苦労さまでした」 両陛下、残留元日本兵家族とご面会
残留元日本兵家族と言葉を交わされる天皇、皇后両陛下 =2日午後、ベトナム・ハノイ(代表撮影)
【ハノイ=伊藤弘一郎】天皇、皇后両陛下は2日、ハノイの宿泊先ホテルで、先の大戦終結後もベトナムに残り、フランスとの第1次インドシナ戦争で指導にあたるなどした残留元日本兵家族と面会された。両陛下は「ご苦労もあったでしょう」などとねぎらわれた。
両陛下と面会したのは、残留元日本兵の妻でハノイ郊外に住むグエン・ティ・スアンさん(93)と、その長女ら15人。天皇陛下はスアンさんらに「こちらでの生活はいかがでしたか。いろいろなご苦労もあったでしょう。お察ししています」「平和というのは本当に大事だと思います」などと言葉をかけられた。皇后さまは家族の手を取りながら「長い間、ご苦労さまでした」といたわられた。
父が残留元日本兵のゴー・ザ・カインさん(72)が「感動して、何を言っていいのかよく分かりません。われわれは常に日本のことを考えています」と話すと、陛下が「大変心強いです」と応じられる場面もあった。
両陛下は同日夜、駐ベトナム日本大使夫妻主催のレセプションで、ベトナム戦争で米軍が散布した枯れ葉剤の影響とみられる結合双生児として生まれた「ベトちゃんとドクちゃん」の弟、グエン・ドクさん(36)らと懇談された。
これに先立ち、陛下が新種を発見し、昭和51年にベトナム側に寄贈した「ウロハゼ」の標本が展示されている「自然科学大学生物学博物館」も訪問された。」
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- 作者:佐藤 考一
- 発売日: 2007/02/01
- メディア: 新書
- 作者:坂本 多加雄
- 発売日: 2014/04/10
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