- 作者:溝口郁夫
- 発売日: 2012/01/20
- メディア: 単行本
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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
ビルマは、西にインド・ムガル帝国、東北の中国・中華帝国、東南のタイ王国の3カ国と絶えず戦争を繰り返していた。
国内では、少数民族や少数派宗教勢力との内戦が繰り返され、幾つかの王朝が誕生し滅亡した。
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植民地支配とは、少数派に政治権力を持たせ武力と財力を与えて多数派を支配させる事である。
多数派は、少数派の下僕の地位に堕とされた。
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江戸時代の日本にとって、イギリスは脅威であった。
幕府や開明的な大名は、西洋キリスト教諸国は警戒すべき難敵であった。
国際情勢を知る下級武士や下層の庶民らは、外国の侵略から神国日本を如何に守るべきか真剣に考え、最悪、母国防衛戦争の覚悟を決めていた。
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天皇制度国家日本は、西洋の侵略に恐怖し、天皇中心の国體を自己犠牲的に死んでも守ろうとした。
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ウィキペディア
ミャンマー連邦共和国、通称ミャンマーは、東南アジアのインドシナ半島西部に位置する共和制国家。独立した1948年から1989年までの国名はビルマ連邦。ASEAN加盟国、通貨はチャット、人口は5,142万人(2014年)、首都はネピドー(2006年まではヤンゴン)。
南西はベンガル湾、南はアンダマン海に面する。南東はタイ、東はラオス、北東と北は中国、北西はインド、西はバングラデシュと国境を接する。インド東部とミャンマー南西部はベンガル湾をはさみ相対している。
多民族国家で、人口の6割をビルマ族が占め、ビルマ語が公用語である。他に、カレン族、カチン族、カヤー族、ラカイン族、チン族、モン族、ヤカイン族、シャン族、北東部に中国系のコーカン族などの少数民族がおり、独自の言語を持つ民族も多い(言語参照)。
民族
詳細は「ミャンマーの民族一覧」を参照
ビルマ族68%
シャン族 9%
カレン族 7%
ラカイン族3.5%
緬甸華人2.5%
モン族 2%
カチン族1.5%
緬甸印僑1.25%
カヤー族0.75%
他(チン族、ワ族、ナガ族、 ラフ族、リス族、トーアン族他)4.5%
言語
詳細は「ミャンマーの言語」を参照
公用語 : ビルマ語
少数民族諸語(シャン語、カレン語、ロヒンギャ語、チンポー語、クキ・チン諸語、モン語など)・・・
宗教
上座部仏教 90%
キリスト教 4%(バプテスト教会3%、ローマ・カトリック教会1%)
イスラム教 4%
精霊崇拝(信仰) 1%
その他(ヒンズー教など)1%
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イギリス統治時代
詳細は「英緬戦争」および「イギリス統治下のビルマ」を参照
植民地時代の旗 (1937?1948)
一方、コンバウン朝ビルマは、イギリス領インドに対する武力侵略を発端とする3度に渡る英緬戦争を起こした。国王ザガイン・ミン(在位:1819年?1837年)治下の初期には、英緬間に緩衝国家としてアーホーム王国(1228年?1826年)が存在していたが、ビルマのアッサム侵攻(1917年?1826年)によってビルマに併合され、アッサムの独立が失われると、英緬国境が直接接触するようになっていた。ビルマは、インドを支配するイギリスに対してベンガル地方の割譲を要求し、イギリス側が拒否すると武力に訴えて第一次英緬戦争(1824年-1826年)が勃発した。ビルマが敗れ、1826年2月24日にヤンダボ条約が締結され、アッサム・マニプール・アラカン・テナセリムをイギリスに割譲した。
イギリスの挑発で引き起こされた1852年の第二次英緬戦争で敗れると、ビルマは国土の半分を失い、国王パガン・ミン(在位:1846年?1853年)が廃されて新国王にミンドン・ミン(在位:1853年?1878年)が据えられた。イスラム教徒のインド人・華僑を入れて多民族多宗教国家に変えるとともに、周辺の山岳民族(カレン族など)をキリスト教に改宗させて下ビルマの統治に利用し、民族による分割統治政策を行なった。インド人が金融を、華僑が商売を、山岳民族が軍と警察を握り、ビルマ人は最下層の農奴にされた。この統治時代の身分の上下関係が、ビルマ人から山岳民族(カレン族など)への憎悪として残り、後の民族対立の温床となった。下ビルマを割譲した結果、ビルマは穀倉地帯を喪失したために、清から米を輸入し、ビルマは綿花を雲南経由で清へ輸出することになった。
1856年から1873年にかけて中国の雲南省・シップソーンパンナーでパンゼー(英語版)と呼ばれる雲南回民(チン・ホー族)によるパンゼーの乱が起こり、雲南貿易が閉ざされた結果、米をイギリスから輸入せざるを得なくなった。1858年から1861年にかけて新首都マンダレーを建設して遷都。イギリス領インドと印僑の反対で雲南問題は遅れていたが、1885年7月にイギリス側も芝罘条約を締結して解決し、雲南・ビルマ間の国境貿易が再び許可された。1885年11月の第三次英緬戦争で王朝は滅亡。1886年6月、英清ビルマ条約(中国語版)でイギリスは清にビルマの宗主権を認めさせると、ビルマはイギリス領インドに併合されてその1州となる。国王ティーボー・ミン(在位:1878年?1885年)と王の家族はインドのゴア州ボンベイの南に近いラトナーギリー(英語版)に配流され、その地で死亡した。
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建国の父アウンサン
ビルマ人の対英独立運動は第一次世界大戦中に始まり、1929年の世界恐慌以後若い知識層の間に広まった。1930年には、タキン党が結成された。また、タヤワディ地方では農民が武装蜂起を行い、Saya San rebellionと呼ばれる反植民地運動が下ビルマ全域に広がったが、1931年半ばに鎮圧された。1937年、インドから独立してイギリス連邦内の自治領となり、アラカンは返還されたが、アッサム・マニプルはインド領(インド独立後に分割され、7姉妹州と呼ばれる)となった。1939年、タキン・ソーがビルマ共産党 (CPB)を結成。
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英緬戦争(えいめんせんそう)は、19世紀に起こったイギリスとビルマの戦争。イギリス・ビルマ戦争 (Anglo-Burmese Wars) の略。イギリス側からは単にビルマ戦争 (Burmese War) とも呼ぶ。
背景
イギリスは1600年に東インド会社を設立して以降、継続的にインド、特に東部のベンガル地方を植民地化してきたが、東インド会社は19世紀初めまでにインドの大半を支配下に置き、インドの盟主ムガル帝国の衰退は著しかった。一方のビルマは、1752年にアラウンパヤーが建てたコンバウン王朝が興って以降、領土拡張を目指して隣国シャムや清の雲南に侵攻を繰り返してきた。このため、西隣のインドをイギリスが駆逐する様子を見て、これに乗じて領土を西方へ伸張させようと試みた。1818年にビルマ王はベンガル地方の東半分までの割譲を要求、しかしイギリスが応じなかったことから、1822年にビルマ軍が越境してベンガルに侵入した。しかし、これは産業革命によって領土を一層欲していたイギリスを刺激する、非常に無謀な行為だった。
第一次英緬戦争
「en:First Burmese War」を参照
1824年にイギリスがビルマ攻撃を開始、1826年にヤンダボ条約を結んで、ビルマはベンガルを諦めた上、自国の最南部アラカンとテナセリムをイギリスに占領された(第一次英緬戦争)。
イギリスの貿易政策・拡張政策はさらに進み、アヘン戦争(1840年 - 1842年)の勝利によって中国(清)を開国させ、シク戦争(1845年から1846年にかけての第一次シク戦争、及び1848年から1849年にかけての第二次シク戦争)の勝利でインドのほぼ全域を掌握した。このためイギリスの目は再び隣国ビルマに及ぶことになる。(雲南問題)
第二次英緬戦争[編集]
「en:Second Burmese War」を参照
1852年、イギリスは再びビルマに侵攻してペグーを占領、海に面した下ビルマを自国領に併合した(第二次英緬戦争、Second Burmese War)。
イギリスはビルマ南部を手にすることで、より一層東アジアへの進出を目指し、アロー戦争(1856年〜1860年)でフランスと共に清をさらに圧迫、有利な交易を展開した。1857年にはインドのセポイの反乱を鎮圧してムガル帝国を滅亡させると、1858年に東インド会社を解散させて植民地経営と東方交易をイギリス政府の直轄とし、1867年にはマライ海峡植民地(en)を直轄領として制海権を手にした。フランスも同時期にベトナムへの侵略をはじめ、清仏戦争(1884年〜1885年)でインドシナの支配権を確立した。オランダはジャワ島からスマトラ島を攻略して一大植民地を建設した。
第三次英緬戦争
「en:Third Burmese War」を参照
1885年11月、イギリスはビルマの完全支配を目指して三度目の侵攻を開始、翌1886年にはビルマ王がイギリスに降伏し、上ビルマもイギリス領に併合され、イギリス領インドに組み込まれた。一部の将兵がイギリスの占領に反攻して戦闘を続けたが、1890年に完全に鎮圧され、戦争が終結した(第三次英緬戦争、Third Burmese War)。 ビルマ王朝は滅亡し、1886年にイギリス領インドに併合されてその1州となる。ビルマ国王夫妻はイギリス領のインドのボンベイに流刑になり、その地で死亡。また王子は処刑され、王女はイギリス軍士官の従卒に与えられた。
そして1886年7月、イギリスは北京にて清朝と「ビルマとチベットに関する条約」を締結した。本条約では、ビルマについては清朝はイギリスのビルマ併合を認めビルマへの宗主権を主張しないこと、清朝とビルマ間の朝貢貿易は引き続き行われることを取り決めた。同時に、清朝側のビルマに絡むこれらの譲歩の代わりに芝罘条約で取り決められたチベットへの使節派遣特権及び通商権をイギリスが放棄することを取り決めた。
ビルマは1937年にイギリス領インドから分離して自治領となったが、完全な自主独立が回復したのは1948年1月4日にイギリス連邦を離脱してからである。
イギリス統治時代
詳細は「英緬戦争」および「イギリス統治下のビルマ」を参照
植民地時代の旗 (1937?1948)
一方、コンバウン朝ビルマは、イギリス領インドに対する武力侵略を発端とする3度に渡る英緬戦争を起こした。国王ザガイン・ミン(在位:1819年?1837年)治下の初期には、英緬間に緩衝国家としてアホム王国(1228年?1886年)が存在していたが、ビルマのアッサム侵攻(1817年?1826年)によってビルマに併合され、アッサムの独立が失われると、英緬国境が直接接触するようになっていた。ビルマは、インドを支配するイギリスに対してベンガル地方の割譲を要求し、イギリス側が拒否すると武力に訴えて第一次英緬戦争(1824年-1826年)が勃発した。ビルマが敗れ、1826年2月24日にヤンダボ条約が締結され、アッサム・マニプール・アラカン・テナセリムをイギリスに割譲した。
イギリスの挑発で引き起こされた1852年の第二次英緬戦争で敗れると、ビルマは国土の半分を失い、国王パガン・ミン(在位:1846年?1853年)が廃されて新国王にミンドン・ミン(在位:1853年?1878年)が据えられた。イスラム教徒のインド人・華僑を入れて多民族多宗教国家に変えるとともに、周辺の山岳民族(カレン族など)をキリスト教に改宗させて下ビルマの統治に利用し、民族による分割統治政策を行なった。インド人が金融を、華僑が商売を、山岳民族が軍と警察を握り、ビルマ人は最下層の農奴にされた。この統治時代の身分の上下関係が、ビルマ人から山岳民族(カレン族など)への憎悪として残り、後の民族対立の温床となった。下ビルマを割譲した結果、ビルマは穀倉地帯を喪失した為、清から米を輸入し、ビルマは綿花を雲南経由で清へ輸出することになった。
1856年から1873年にかけて中国の雲南省・シップソーンパンナーでパンゼーと呼ばれる雲南回民(チン・ホー族)によるパンゼーの乱が起こり、雲南貿易が閉ざされた結果、米をイギリスから輸入せざるを得なくなった。1858年から1861年にかけて新首都マンダレーを建設して遷都。イギリス領インドと印僑の反対で雲南問題は遅れていたが、1885年7月にイギリス側も芝罘条約を締結して解決し、雲南・ビルマ間の国境貿易が再び許可された。1885年11月の第三次英緬戦争で王朝は滅亡。1886年6月、英清ビルマ条約(中国語版)でイギリスは清にビルマの宗主権を認めさせると、ビルマはイギリス領インドに併合されてその1州となる。国王ティーボー・ミン(在位:1878年?1885年)と王の家族はインドのゴア州ボンベイの南に近いラトナギリに配流され、その地で死亡した。
建国の父アウンサン
ビルマ人の対英独立運動は第一次世界大戦中に始まり、1929年の世界恐慌以後若い知識層の間に広まった。1930年には、タキン党が結成された。また、タヤワディ地方では農民が武装蜂起を行い、下ミャンマー全域に広がったが、1931年半ばに鎮圧された。1937年、インドから独立してイギリス連邦内の自治領となり、アラカンは返還されたが、アッサム・マニプールはインド領(インド独立後に分割され、7姉妹州(英語版)と呼ばれる)となった。
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謎の仏教王国パガン―碑文の秘めるビルマ千年史 (NHKブックス)
- 作者:大野 徹
- 発売日: 2002/11/01
- メディア: 単行本
閉ざされた国ビルマ―カレン民族闘争と民主化闘争の現場をあるく
- 発売日: 2010/01/01
- メディア: 単行本