🛲11」─1─日本人が知ろうとしないカンボジア・ラオスの歴史。~No.93No.94No.95 * 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 東南アジア人を下等人・劣等人・野蛮人と見下す差別意識が強いのは、昔の日本人より現代の日本人の方が多い。
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 戦国時代から江戸時代初期にかけて、東南アジアには数多くの日本人町があり、多くの日本人が住んでいた。
 中世キリスト教教会と白人キリスト教徒商人達は、日本人を日本で買い込み各地で奴隷として売っていた。
 徳川家康の許可を得た御用商人は、主家を失て浪々の身となった武士達を契約傭兵として東南アジアに派遣していた。
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 現代の日本でアジアを重視すべきだとはいう日本人の本心は、アジアの人々の事も歴史にも興味も関心もなく、知ろうとしないし、知りたいとも思わない。
 そもそも、アジアを知らない。
 戦前の日本人は、アジアを詳しく知って同情し、アジアの為に命を犠牲にしようとした。
 現代の日本人は、アジアの事を知る気はなく、戦前の日本が犯したとされる戦争犯罪を探し回り、なければ捏造し、日本を貶める事に生き甲斐を感じている。
 昔の日本人と現代の日本人の別人のような日本人である。
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 アジアでは昭和天皇は憧れ、尊敬、崇拝する対象で、昭和天皇を悪く言うアジア人はいなかった。
 昭和天皇を嫌っていたのは、中国人と朝鮮人、そして一部の日本人であった。
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 カンボジアの歴史         

 カンボジアの暗黒時代
 詳細は「カンボジアの暗黒時代」を参照

 スレイ・サントー(1431年 - 年)
 詳細は「スレイ・サントー」を参照
 1431年、シャムの度重なる侵攻により、首都アンコールが陥落し、栄光の時代は終わりを告げた。時の王ポニャー・ヤットはアンコール・トムからコンポンチャム州のスレイ・サントーに遷都し、シャム(現在のタイ)に近いアンコールを含むトンレサップ湖の北部を放棄した。その後、首都は転々とした。

 プノンペン(年 - 1553年)]
 詳細は「プノンペン」を参照
 スレイ・サントーは河川の氾濫があまりにたびたび起こるのでプノンペンへ再遷都した。西洋の資料としては、1511年のポルトガル人による手記に記されるプノンペンカンボジアについての最初の記録である。既に日本人との貿易が始まっていたことが記されている。

 ロンヴェク(1553年 - 1618年)
 詳細は「ロンヴェク(クメール語版)」を参照
 プノンペントンレサップ湖の中間地点にあたるロンヴェク(クメール語:1553 - 1618)へ遷都した。1593年にKing Sattha(1576?94) は、フィリピンのスペイン人総督(フィリピン総督領)に保護国になる依頼をおこなった。フィリピンから120名の兵士が送られたが、到着する前年にシャムに占領されていた。1597年にスペイン兵たちは、King Satthaの息子を王位に付けることが出来たが、二年後にマレー系の傭兵にスペイン兵たちは殺害された。1607年頃、呂宋助左衛門が通商を開始した。

 ウドン(1618年 - 1866年)
 詳細は「ウドン (カンボジア)」を参照
 ロンヴェクから南へ5Kmほどのウドン(1618 - 1866)へ遷都した。 17世紀から19世紀は、隣のシャムやベトナムの侵略や干渉がつづき、国内は混乱した。
 16世紀に黎朝がヴィジャヤ王朝(旧チャンパ王国のひとつ)を滅ぼしてチャンパの旧領を併合すると、大量のチャム族がクメール帝国領内に難民化して流出した。1623年、チェイ・チェッタ2世(在位:1618年-1628年)は、オランダ東インド会社の介入した鄭阮戦争で阮氏広南国から流出した難民のためにプレイノコール(英: Prey Nokor、現ホーチミン市)に税関事務所を建設したが、これがベトナムの南下を許すことになった。1643年のカンボジアオランダ戦争でオランダ人の虐殺がおこり、オランダはその後カンボジアから撤退した。1693年に広南国の阮福?(明王)がパーンドゥランガ王朝を征服。17世紀の終わり頃、ベトナムメコンデルタ上流からフーコック島対岸周辺までのクメール人居住地域を占領。カンボジアは海へのアクセスを断ち切られ、海上貿易にはベトナムの許可が必要になった。
 1765年から1769年にかけて清緬戦争や泰緬戦争が勃発し、1767年にアユタヤがコンバウン朝に占領されたが、戦後最も強勢になったのはタイだった。 1788年から1789年にかけて清越戦争が勃発し、西山朝が清の介入を撃退し、黎朝が滅んだ。しかし西山朝も数年で滅び、広南国の残党が阮朝を建てた。
 1831年、タイがカンボジアの支配を狙って起こした第一次泰越戦争では、タイはカンボジア北部に侵攻した後、南転してさらにベトナム南部のチャウドックとヴィンロンを蹂躙した。ベトナム(阮朝)が反撃に転じると、戦闘になる前にタイは撤退し、ベトナムカンボジア全土を掌握した。タイとの戦争でカンボジアが弱体化すると、Prey Nokurは徐々にベトナム化し、名前も嘉定、のちにサイゴン(現在のホーチミン市)となった。
1841年、タイがカンボジアの支配を狙って再び起こした第二次泰越戦争の結果、泰越両国でカンボジアを共有する平和条約が締結された。1848年にアン・ドゥオン王が即位し、ひそかにシンガポールのフランス領事を通じてナポレオン3世に援助を要請したが、事前にシャムに情報が漏れ、失敗に終わった。

 近代(植民地時代)
 フランス領インドシナ
 19世紀中頃からフランスによるインドシナ半島インドシナ)の植民地化が始まった。
 1863年8月11日、フランスはカンボジア王国との間に「修好、通商及びフランス国の保護に関する条約」を締結。カンボジア国ノロドム は同王国に対するフランスの保護権を認めた。この保護国化は、隣国タイやベトナムの圧力に堪りかねたカンボジア側からフランスに要請された側面がある。

 プノンペン
 詳細は「プノンペン」を参照
 1866年にウドンからプノンペンにあるチャドモックに首都が移転される。
 1867年7月15日、歴史的にカンボジア宗主国であった暹羅(シャム=現在のタイ)国が、カンボジアに対するフランスの保護権を承認。(「カンボジア王国の地位を定めるためのフランス国暹羅国間条約」)
 1887年にはカンボジアがフランス領インドシナ編入された。
 1907年3月23日、フランスは暹羅との条約により、バッタンバン、シェムリアップ、シソポンの各地域をクラット港一帯の島嶼と交換し、カンボジア全土を獲得した。 1916年には地方から集まった4万人もの農民がプノンペンの王宮前に集まり、シソワット王に直訴した。 1925年にはコンポンチュナン州の農民たちが徴税中の理事官パルデスを暗殺した。この事件はフランス人たちを震撼させた。
 1940年5月から6月にフランスはナチスに侵攻され、7月にヴィシー政権に移行すると、8月30日には日本との間に「政治軍事・経済協定」(松岡・アンリ協定)を締結し、9月からの日本軍によるフランス領インドシナ進駐を認めた。11月23日、カンボジアラオスの領土をめぐりタイ・フランス領インドシナ紛争が勃発。その後も紛争は拡大していったが、1941年5月9日、日本の居中調停によりタイ・フランス両国間で平和条約(東京条約)が結ばれ、カンボジアの一部、チャンパーサック県・バタンバン州及びラオスの一部、シェムリアップ州がタイに割譲された。 1941年11月、ノロドム・シハヌーク(18歳)が王位に就いた。 1945年3月12日、ノロドム・シハヌークシアヌーク)王は、日本軍の明号作戦に呼応する形で、カンボジアの独立を宣言。しかし、日本が連合国に降伏すると、1946年には再びフランスの保護下に戻り、独立は消滅してしまう。

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 民族
 詳細は「カンボジアの民族集団」を参照
 カンボジアの民族分布(1972年)
 クメール人が86%、ベトナム人が5%、華人が5%、その他4%がチャム族などの少数民族である。日系カンボジア人も少数ではあるが存在し、著名なものとして猫ひろし後藤忠政が挙げられるが、その多くは起業や投資のためにカンボジア国籍を取得した元日本国籍者である。

 言語
 カンボジア国内で最も話されている言語はクメール語カンボジア語)である。公用語は1993年公布のカンボジア王国憲法第5条で規定され、同6条では「王国は、必要に応じカンボジア語を擁護し、発展させる義務を有する」となっている。少数民族が話す言語にはチャム語などがある。高齢者や特別な職業(医師など)の間ではフランス語がある程度通じるが、若者の間で最もポピュラーな外国語は英語となっている。

 宗教
 詳細は「カンボジアの宗教」を参照
 上座部仏教憲法で国教と定められているが、信教の自由が保障されている。人口の9割以上が上座部仏教の信徒であり、チャム族を主とする4%ほどがイスラム教徒(カンボジアイスラム教)である。
 クメール・ルージュ政権時代には宗教活動が禁止され、多くの仏教寺院やモスクなどの宗教関係施設が破壊され、多くの僧侶が還俗させられ、或いは虐殺された。

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 ラオスの歴史

 ラオスの歴史では、ラオス人民民主共和国の歴史について記述する。
 ルアンパバーン王国
 詳細は「ルアンパバーン王国」を参照
 1791年にスリニャ・ウォンサーが死亡すると、インタソーム王の第二子であるアヌルッタが王位に就いた。ヴィエンチャン王国との紛争が原因でアヌルッタ王は1792年に一時シャムに逮捕されたが、4年後には復位し、1817年に死亡するまで王位に就いた。その後はマンタトウラートが即位、1827年、マンタトウラートはヴィエンチャン王国のチャオ・アヌウォンから独立の決意を秘密裏に打ち明けられるも、この情報をシャムへ流し、ヴィエンチャン王国の独立を阻んだ。1852年、チャンタラートが即位した翌年にシェントンで民衆の反乱が勃発。これを制圧したことをシャムより高く評価され、1779年にシャムに押収されたプラバーン金仏像がルアンパバーン王国へと返還されている。
 ルアンパバーン王国の統治はおおむね平和に行われていたが、1872年より、突然複数のチン・ホー族による来襲が始まった(ホー戦争)。チン・ホー族の襲撃は2年間に渡り続けられ、シップソーン・チュタイ地方(Sip Son Chu Tai)、ムアン・タン(現在のディエンビエンフー)などルアンパバーン王国の北東部を占拠されるに至った。1874年にはいったん沈静化したが、翌年より再びシエンクワーン、ヴィエンチャンなどでチン・ホー族の襲撃が行われている。これらの襲撃はシャム軍による掃討作戦により一応のおさまりを見せたが、1885年に再度ヴィエンチャンが襲撃に遭い、1887年にはルアンパバーン王国太平天国の乱の後ベトナムの傭兵としてフランスと戦っていた黒旗軍に襲撃された。この襲撃により当時国王であったウン・カムとその家族は危機に晒されたが、フランス副領事館のオーガスト・パヴィによりパークラーイまで救出され、さらにバンコク(シャム)への逃亡に成功している。
 長きに渡ったチン・ホー族の反乱と黒旗軍の襲撃は、ルアンパバーン王国の住民に初動が遅れたシャムへの不信感を植え付け、逆に国王を救出したフランスへの信頼感を産み出す契機となった。
 
 チャンパーサック王国
 詳細は「チャンパーサック王国」を参照
 チャンパーサック王国では1791年、シェン・ケーオによる反乱が発生し、当時の国王サイニャ・クマーンが死亡するという事態が発生している。この反乱はシャム軍により鎮圧され、バーン・シンターに駐屯していたチャオ・ファイナーが反乱鎮圧の功を認められ、新しい国王に就いた。その後、1813年に王位に就いたチャオ・マー・ノーイと副王タンマキッティカの間で権力闘争が勃発したが、シャムによる副王解任で大きな被害はなく混乱は収まった。
 チャオ・マー・ノーイの時代に超能力者を自称する高僧サーが、住民を扇動してチャンパーサック王都を占拠するという事件が発生。チャオ・マー・ノーイはこの事件がきっかけで逃亡先のバンコクで死亡し、1819年、チャオ・アヌウォンの息子であるチャオ・ニョーが新しく国王に就いた。チャオ・ニョーは城壁の修復や税制改革などで敏腕を発揮し、名君と謳われたが、1825年、父親チャオ・アヌウォンが起こしたヴィエンチャン王国の独立戦争に賛同して挙兵したためシャムによって逮捕され、獄中死した。
 チャオ・ナーク王の1837年にチャンパーサックは大火事に見舞われ、王都をバーン・ヒートホート郊外に移した。その後コティタムトーン王の1863年に再び遷都が行われ、メコン川西岸、ポーンポックとラコーン寺の間に移された。この時の遷都により作られた都が今日のチャンパーサックの基礎となっている。

 フランス植民地時代
 詳細は「::en:Franco-Siamese War of 1893|:en:Franco-Siamese War of 1893」および「フランス領インドシナ」を参照
 帝国主義時代になると、ヨーロッパ列強がアジア各地を次々と植民地にしていった。ラオスもその例外ではなく、列強の侵略に巻き込まれた。1885年、清仏戦争の結果、清はベトナムに対する宗主権を失う。すでに、フランスは、1863年カンボジア保護国化し、植民地化の標的をラオスに定めた。1887年に黒旗軍ルアンパバーン王国に侵攻し、壊滅的な打撃を受けたがフランスに助けられた事件をきっかけに、ルアンパバーン王国はフランスの保護を受け入れる道を選択した。1893年、タイ王国との間でラオスをめぐり仏泰戦争が起き、フランスはタイを圧倒し、1905年には保護国化を完了し、フランス領インドシナが完成した。1902年から6年間に渡ってオン・ケーオによる反乱がターテーン(セーコーン県)で起こった。
 1940年11月、タイとフランスとの間で仏印国境紛争が起こり、タイは反仏宣伝の一環として対ラオス工作を開始した。ラジオ放送や宣伝ビラ、パンフレットの活用、工作員の潜入などを通して行われ、「ラーオ人もタイ人も結局は同じタイ系民族である」との民族同胞性を強調することによって、抑圧者フランスに対して協力することを訴えた。このタイの反仏抵抗に対してフランスがとった政策は、ルアンパバーン王国の強化と文教政策、ラオス刷新運動であり、フランスのラオス植民地維持政策であった。学校教育を重視し、小学校が各地に新設され、「勤勉・家族・祖国」をスローガンに「母なる祖国・フランス」への奉仕が説かれた。このような政策を広めるために大きな役割を果たしたのは1941年1月に発刊されたラーオ語紙であった。しかし、ラオス人のなかに「ラオス」という祖国・国民を構想するものが現れてきた。そして1954年3月9日の日本軍による仏印武装解除後、祖国・国民を構想する動きが活発になっていった。
 第二次世界大戦中、日本の占領下にある1946年、ラーオ人の民族主義者らはフランスからの独立を宣言した。
 日本の敗戦後、シーサワーンウォン王は、ラオスの独立宣言を撤回した。独立派はラオ・イサラ(自由ラオス)を結成し、臨時政府を樹立した。しかし、1946年4月には再びフランス軍ラオスを制圧し、第一次インドシナ戦争が起きた。ラオ・イサラはタイに亡命政府を樹立した。
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ラオスは戦場だった

ラオスは戦場だった