🛲10」─2─中華帝国の領土拡大の侵略戦争。ベトナムのジャンヌ・ダルク=徴 (ちょう)姉妹。後漢の光武帝。~No.83No.84No.85 * 

儒教と中国 「二千年の正統思想」の起源 (講談社選書メチエ)

儒教と中国 「二千年の正統思想」の起源 (講談社選書メチエ)

  • 作者:渡邉 義浩
  • 発売日: 2010/10/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 中国の歴史は、4000年の昔から傲慢な侵略戦争と残虐な虐殺と強欲な強奪の歴史である。
   ・   ・   ・   
 高山正之「中国の歴史を振り返って言えるのは、漢民族が国を建てると民は大いに難渋するというジンクスがあるということ。野蛮で残忍、破壊の限りを尽くす。漢、宋、明、中国共産党・・・本当にロクでもない王朝ばかり。そういう王朝になると、当然、国は乱れる。そこの隙をついて、鮮卑(せんぴ)や匈奴(きょうど)などの夷狄(いてき)がやってきて、がやがややっているだけの漢民族をまとめ、それぞれに絢爛の文化を築いていた。古くは殷の青銅器文明、周の鉄器文明、隋や唐、金、元、清という王朝が誕生した。漢民族は強力な征服王朝に組み敷かれているときが一番いい時代に見える」
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 徴 (ちょう)姉妹 とは、1世紀に後漢の交州 (現在のベトナム北部など) で起こった反乱を首謀した徴側 (ちょうそく〔チュン・チャク〕、? - 43年)と徴弐 (ちょうに、? - 43年) の姉妹を指す。
 生涯
 前半生
 徴側は峰州麋?県の有力な貉将 (地域の軍事指導者) の娘として生まれ、朱?県 (現:ハタイ省ソンタイ) の有力者であった詩索(ベトナム語版) の妻であった。徴弐の出生地は伝わっていないが、姉と同様であると考えられる。
 前漢武帝期に中国の支配下に入ったベトナム(南越→交州) では、漢に支配される前まで貉将および貉侯(地域の領主)が有していた税の徴収権が中国側へと移管されていた。当時、南越を支配していた後漢に対して、国内の有力者であった徴側が取り纏める形で、徴税権を南越側に移管するよう、後漢政府に通告した。
 交趾郡太守・蘇定の悪政もあって、40年3月には南越内の合浦・九真・日南各郡65の県の貉将・貉侯がこれに賛同した。徴側の妹であった徴弐も加わって、徴側は自ら女王として「徴王」を自称し麋?県に宮廷を構えて徴税を強行する姿勢を示した。
 徴姉妹の乱
 詳細は「徴姉妹の乱」を参照
 これに対して、後漢光武帝は徴姉妹による一連の行動を後漢に対する「重大な反乱行為」と判断し、馬援を「伏波将軍」に任じ反乱鎮圧を命じた。馬援は扶楽侯・劉隆を副将として、兵20,000(正規兵8,000、現地兵12,000) を率いて42年4月に南越へ到着した。
 悪天候と疫病の流行によって行軍も進まず、馬援軍は苦戦を強いられたものの、南越兵の中で厭戦ムードが広がったことから徴姉妹は戦闘に訴えざるを得なくなり、馬援軍と浪泊で決戦を挑んだものの大敗を喫し、数千が戦死し、10,000人以上が捕虜となった。徴姉妹は麋?県・禁谿へ逃れたものの、馬援軍による追討は厳しく徴姉妹は共に捕らえられた末に殺害され、翌43年初めに徴姉妹の首は洛陽へと送られた。
 その後も馬援は残党を追って、中部ベトナム・ゲアンにまで進軍し、数千人の貉将・貉侯を殺害すると共に漢民族や親漢派の住民を交阯に屯田させて、反乱が起きた土壌の根絶を図った。しかし、趙嫗の反乱(248年) など、中国支配に対する反乱は断続的に続くこととなった。なお、一連の反乱は首謀者・徴姉妹の名を取って、「徴姉妹(ハイ・バー・チュン) の乱」と呼ばれる。
 伝承・影響
 なお、徴側の最期については「川に身を投げた」、「馬援に首を刎ねられた」、「雲の中に消えた」等の説があり、(事実はともかく)最初の説が一般的な徴姉妹の最期として伝えられている。
 また、徴側の夫である詩索が交趾郡太守・蘇定に処刑されたことにより徴姉妹が反乱に踏み切ったというのは後世の伝承であり、実際は反乱時にも詩索が処刑されたとの内容を記した文献は無い。
 いずれにせよ、徴姉妹の支配は3年に過ぎなかったが、その後も徴姉妹はベトナムの英雄として語り継がれ、彼女らを祀る寺院も数多く造られている。また、ハノイホーチミンをはじめとするいくつもの都市に「ハイ・バー・チュン」を称する大通りもある。
   ・   ・   
 光武帝(前6年 - 57年)は、後漢王朝の初代皇帝。南陽郡蔡陽県(現在、湖北省棗陽市)の人。
 王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた。廟号は世祖。諡号光武帝は漢朝を中興したことより「光」、禍乱を平定したことより「武」の文字が採用された。「隴を得て蜀を望む」「志有る者は事竟に成る」「柔よく剛を制す」(『黄石公記』(=『三略』)の引用)などの言葉を残している(『後漢書』本紀1上・下・本伝)。中国史上、一度滅亡した王朝の復興を旗印として天下統一に成功した数少ない君主である。「漢委奴国王」の金印を倭(日本)の奴国の使節にあたえた皇帝とされている。
 政策
 民政・財政
 前漢末以来の混乱で中国は疲弊し、前漢最盛期で約6千万人となった人口が光武帝の時代には2千万ほどに減少していた。この対策として光武帝は奴卑解放および大赦を数度にわたって実施し、自由民を増加させることで農村の生産力向上と民心の獲得を図った。徴兵制を廃止して、通常は農業生産に従事させ有事に兵となす屯田兵を用い、生産と需要の均衡が崩壊したことによる飢饉や、辺境への食料輸送の問題を緩和した。
 人民の身分に関する政策としては上記の奴卑解放令の他、35年(建武11年)には「天地之性、人為貴。(この世界においては、人であることが尊い)」で始まる詔を発し、奴婢と良民の刑法上の平等を宣言したことが挙げられる。また31年(建武7年)に売人法、37年(建武13年)に略人法を公布し人身売買を規制した。
 租税については、それまで王朝の軍事財政の不足を理由に収穫の1/10としていたのを30年(建武6年)に前漢と同じく1/30とし、人民の不満の緩和を図った。この減税が可能となった背景として、屯田の施行により兵士の糧食を確保できるようになったことがある。
 徴兵を帰農させた後、39年(建武15年)に耕地面積と戸籍との全国調査を施行し、人民支配の基礎を固め、国家財政を確立した。もっとも、この耕地・戸籍調査の際には首都のある河南郡や皇帝の郷里である南陽郡で不正申告がおこなわれた。両郡の豪族が権勢を有していたことを示す事件である。また調査に不満を抱いた地方豪族が農民を糾合して反乱をおこすこともあった。
 王莽が貨幣制度を混乱させたため後漢初期には粗悪な貨幣が流通していたが、40年(建武16年)には前漢武帝以来の五銖銭の鋳造が始められ、貨幣制度が整備された。以上により統一王朝としての後漢王朝の実体がほぼ備わった。
 統治機構
 光武帝期における統治機構の整備としては次のようなものが挙げられる。
 後漢前漢統治機構を踏襲して郡国制を採用したが、諸侯王・列侯の封邑は前漢に比してきわめて小さいものであった。諸侯王の封邑も1郡に過ぎず、功臣を封侯しても多くとも数県を与えるのみであった。王莽が廃した前漢の諸侯王で光武帝の即位時に地位を回復されたものも37年(建武13年)には列侯に格下げされ、その後に光武帝期に諸侯王とされたのはかれの同族たる南陽舂陵の劉氏一族と皇子たちのみであった。
 中央政府には大司徒・大司空・大司馬の三公を政治の最高責任者として設けた。もっとも、政治の実務上は皇帝の秘書たる尚書が重用された。その他、官制・軍制については役所を統廃合して冗官の削減を実現し、31年(建武7年)には地方常備軍である材官・騎士などを廃止して労働力の民間への転換を行うなどしている。混乱期の将軍も多くが解任され、小規模な常備軍を準備するに留め、財政負担の軽減を図っている。
 また財政機関の再編成として、前漢では帝室財政を所管していた少府の管掌を国家財政の機関たる大司農に移し、帝室財政を国家財政に包含させたり、前漢では大司農に直属していた国家財政の重要な機関である塩官・鉄官を在地の郡県に属させるなどした。
 儒教の振興
 光武帝の施策の政治的・思想的特色のひとつとして儒教を振興し、学制・礼制を整備したことが挙げられる。29年(建武5年)、洛陽に太学を設けて儒学を講じさせたり14名の五経博士を設けた他、時期を同じくして各地に私学が設けられ、当地の学者が門弟を集めて経書を講義するようになった。
 また、官吏登用制度たる郷挙里選においては孝行・廉潔を旨とする孝廉の科目が重視され、36年(建武12年)には三公らが毎年一定数の孝廉を推挙するよう規定された。さらに56年(建武中元1年)には洛陽に教化・祭礼の施設として明堂・霊台・辟雍を設置した。
 光武帝が統治の根拠とした儒教は讖緯説と結合したものであった。前漢後期以来盛んに行われた讖緯説は予言などの神秘主義的な要素が濃いものであり、王莽もこれを用いた。光武帝は即位時に上述の『赤伏符』の予言に拠った他、三公の人事や封禅の施行の根拠として讖文を用いたこともあり、讖緯説を批判した儒学者は用いられなくなった。最晩年の57年(建武中元2年)には図讖を天下に宣布することを命じた。
 対外政策
 対外関係においては次のような施策をおこなった。
 東方では朝鮮半島楽浪郡後漢初頭以来の自立勢力を30年(建武6年)に討ち、郡県制による直接支配をおこなう一方、半島東方の首長を県侯に封じたり半島南部からの入貢者を容れて楽浪郡に属させるなど、直轄することを放棄した地域では間接支配をおこなった。王莽が侯に格下げした高句麗は32年(建武8年)に後漢朝貢し、前漢末以来の王号が復活された。また57年(建武中元2年)には倭の奴国(委奴国という説もある)の使者に対し金印を授けている。これが江戸時代に志賀島で発見された漢委奴国王印だと考えられている。
 西方では35年(建武11年)に侵攻してきた羌族を馬援に撃たせ、降伏した者を天水・隴西・右扶風の内郡に移住させて郡県の管轄下に置いた。
 南方では40年(建武16年)に交趾(ベトナム)で生じた徴姉妹の反乱に対し、馬援を派遣してこれを鎮圧している。馬援は武力行使の一方で城郭の修復や灌漑用水の整備による農業の振興などをおこない、また当地の慣習法を漢法に優先させるなどし、郡県制の整備にあたって現地の習俗を尊重した。
 北方では匈奴が王莽の強硬な外交政策に反発して以来勢力を増していた。光武帝は30年(建武6年)に和親の使者を送ったが、匈奴の侵寇は続いた。ところが48年(建武24年)に匈奴が内部抗争により南北に分裂し、南匈奴後漢に帰順した。この分裂により烏桓鮮卑匈奴から離脱した。光武帝は49年(建武25年)に烏桓の酋長を侯王に封じ、鮮卑朝貢も受けた。北匈奴後漢と和親して南匈奴を弱体化させるべく51年(建武27年)に使者を遣わした。光武帝は和親を認めず、一方で北匈奴を討伐する策もしりぞけ、絹帛などを与えて懐柔するにとどめた。
 評価
 南朝梁・元帝の『金楼子』は、諸葛亮の見解として「光武帝の部将は韓信・周勃に引けを取らず、謀臣は張良・陳平に劣らないが、光武帝が神の如き知謀を持ちみずから深謀遠慮を有していたため臣下は難事を未然に防ぐという賞賛されにくい功を挙げることとなった。いっぽう高祖は粗略であったために張良・陳平・韓信・周勃が(奇策や攻略といった)賞賛されやすい功を挙げることとなった」と記す。
 『資治通鑑』の著者司馬光は、「武力による天下統一から日を置かずして儒学を振興した光武帝の志は明帝・章帝に受け継がれ、200年後の曹操すら恐れて簒奪できなかったとし、夏・殷・周の三代が滅んで以来、教化による美風は後漢において最も盛んであった」と論じている。
   ・   ・   ・   

   ・   ・   ・  

光武帝(上) (講談社文庫)

光武帝(上) (講談社文庫)

光武帝(中) (講談社文庫)

光武帝(中) (講談社文庫)

光武帝(下) (講談社文庫)

光武帝(下) (講談社文庫)

王莽 (講談社文庫)

王莽 (講談社文庫)

張騫 (講談社文庫)

張騫 (講談社文庫)