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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
現代日本人には、歴史力がなく、世界情勢の分析能力も低い。
その象徴が、靖国神社問題である。
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人類の歴史は、戦争の歴史であって平和の歴史ではない。
人間の進化、発展、豊かさは、戦争でもたらされ、平和は退化、後退、貧しさしかもたらさなかった。
西洋は、宗教、哲学・思想、倫理・人権・人道などで法律・国際法・万国法を定め、ルール・法規に従って理論的合理的論理的に戦争をし、戦争に勝つ為に経済を盛んにし、武器開発の科学や技術を発達させ、その結果として近代化に成功した。
戦争に勝利するのは総合力であった。
江戸の平和が足枷となっり、日本を近世に縛りつけた。
日本が、近代化できなかったのは鎖国ではなく平和だったからである。
事実、戦乱の世を平定した江戸時代初期の日本の国力(軍事力と経済力)は西洋に負けず劣らずの実力を持っていた。
数十万人の大軍団を乗せた大艦隊で海を渡って他国を侵略するのは、世界帝国しかできない軍事行動であった。
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世界史の窓
イスラームのヨーロッパ侵入
711年、イスラーム勢力がイベリア半島に侵入。732年にはフランク王国領に侵攻したが敗れる。その後、イベリア半島のイスラーム勢力は15世紀末まで続く。
610年にアラビアでムハンマドが起こしたイスラーム教団は、またたくまに西アジアを征服、661年からはウマイヤ朝のもとで勢力を北アフリカに進出し、西方征服を続けマグリブのイスラーム化が進んだ。 → イスラームのビザンツ帝国侵攻
イベリア半島
ついに711年には(つまりムハンマドがイスラームを始めてほぼ100年目で)ジブラルタルを超えてイベリア半島を征服し、ヨーロッパのキリスト教世界は深刻な脅威を受けることとなった。イスラーム勢力は西ゴート王国を滅ぼし、さらにピレネー山脈を越えてフランク王国の領土に侵入した。しかし、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いでメロヴィング朝の宮宰カール=マルテルの率いるフランク軍に敗れ、イベリア半島に撤退した。
その後もイベリア半島を占領し続け、756年からはコルドバを都に後ウマイヤ朝が支配する。後ウマイヤ朝は10世紀半ばにアブド=アッラフマーン3世がカリフを称し、全盛期となったが、内紛から1031年に滅亡、その後イスラーム勢力は多数の地方政権に分かれ、キリスト教勢力のレコンキスタ(国土回復運動)もあって次第に衰退し、11世紀のムラービト朝、12世紀のムワッヒド朝がそれぞれ一時期イベリア半島の支配を回復したが、13世紀にはグラナダのナスル朝を残すのみとなった。その後イベリア半島はスペインとポルトガルが成立するが、ナスル朝はさらに1492年まで存続する。
南イタリア、シチリア島
イスラーム勢力の伸長は、陸地だけでなく地中海世界の海上世界にも及んだ。南イタリアやシチリア島にはビザンツ帝国の支配が残っていたが、8世紀末、アッバース朝から北アフリカのチュニジアで自立したアグラブ朝は積極的に地中海に進出、827年以降はシチリア島に侵攻するようになり、ついに878年にはシラクサを占領してほぼ全島をビザンツ帝国から奪い、次いで南イタリアの海岸部を部分的に占拠した。こうして地中海はイスラーム勢力下にはいることになる。
シチリア島がイスラーム圏に入ったことで、この地はヨーロッパのキリスト教文明との接触の最前線となったことを意味しており、シチリア島のパレルモで開花したイスラーム文化がヨーロッパの文明に強い影響を与えることとなった。11世紀にはノルマン人の南イタリア進出によってシチリア島にはノルマン=シチリア王国が成立してイスラーム勢力は排除されることとなった。
イスラーム勢力の地中海進出の影響
このイスラーム勢力の地中海(特に西地中海)制圧は、ローマ帝国が地中海を「われらの海」として盛んに海上貿易を展開し、高度な貨幣経済を発展させた時代を終わらせることとなった。ローマ帝国に替わり西ヨーロッパに登場したゲルマン系諸国家はカロリング朝フランク王国によって統合されていくが、その支配は大陸内にとどめられ、地中海の海上制覇には向かうことはできなかった。そのことが西ヨーロッパの農業を基本とした封建社会である中世社会の成立の背景となっていたと考えられている。
重要
「マホメットなくしてシュルルマーニュなし」
14世紀のイスラームの歴史家イブン=ハルドゥーンはそのありさまを、キリスト教徒は「もはや地中海上に板子一枚浮かべることは出来ない。」と表現した。また、イスラーム勢力の地中海への進出という情勢のもとでフランク王国が成立したことを、20世紀初めのベルギーの歴史家アンリ=ピレンヌは、「マホメット(ムハンマド)なくしてシュルルマーニュ(カール大帝)なし」と評した。
西ヨーロッパ世界の経済圏で遠隔地貿易がふたたび盛んになるのは、11世紀以降の三圃制の発達などを背景とした十字軍運動の時期以降のこととなる。
イスラーム文明のヨーロッパへの影響
イベリア半島では11世紀ごろからキリスト教勢力によるレコンキスタ(国土回復運動)が盛んになり、イスラーム勢力は次第に後退するが、後ウマイヤ朝の都であったコルドバや、西ゴート王国の都だったトレド、イスラーム勢力が最後まで拠点としたグラナダなどでは、後までイスラーム文明の影響が強く残存した。シチリア島や南イタリアでもイスラーム勢力は11世紀ごろまでに排除されたが、シチリア島のパレルモはイスラーム文明の要素が長く存続し、そのもとでイスラーム文化とギリシア=ローマ文明、ゲルマン文明が融合していった。
特に、11世紀末の十字軍道の時期以来、中世キリスト教カトリック教会の世界観に行き詰まりが感じられるようになると、ヨーロッパの修道士や神学者のなかに、新しい知見を求めてトレドやパレルモを訪れ、その地でアラビア語に翻訳されたギリシア語文献などに接することによって、ヒューマニズムの萌芽などが見られ、その動きは12世紀ルネサンスとして評価されるようになってきている。
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ウマイヤ朝のガリア侵攻では、ウマイヤ朝が711年のターリク・イブン・ズィヤードによるヒスパニア征服に続いて、8世紀に行った一連のガリア(現在のフランス)遠征について述べる。
南ガリアに侵攻したウマイヤ軍は、セプティマニアを占領して残存していた最後の西ゴート王国政権を滅ぼした。721年、ウマイヤ軍はトゥールーズの戦いでアクィタニア公ウードに一旦敗れたが、アヴィニョン、リヨン、オータンなどの諸都市がウマイヤ軍の略奪にあった。732年のトゥール・ポワティエ間の戦いでウマイヤ軍を破ったフランク王国は、アクィタニアの宗主権を認めさせることに成功した。セプティマニアがフランク王国の統治下に戻るのは759年のことであった。
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フランク王国(ラテン語: Regnum Francorum, フランス語: Royaumes francs, ドイツ語: Fränkisches Reich)は、5世紀後半にゲルマン人の部族、フランク人によって建てられた王国。カール1世(カール大帝・シャルルマーニュとも)の時代(8世紀後半から9世紀前半)には、現在のフランス・イタリア北部・ドイツ西部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・スイス・オーストリアおよびスロベニアに相当する地域を支配し、イベリア半島とイタリア半島南部、ブリテン諸島を除く西ヨーロッパのほぼ全域に勢力を及ぼした。カール1世以降のフランク王国は、しばしば「フランク帝国」「カロリング帝国」などとも呼ばれる。
この王国はキリスト教を受容し、その国家運営は教会の聖職者たちが多くを担った。また、歴代の王はローマ・カトリック教会と密接な関係を構築し、即位の際には教皇によって聖別された。これらのことから、西ヨーロッパにおけるキリスト教の普及とキリスト教文化の発展に重要な役割を果たした。
フランク王国はメロヴィング朝とカロリング朝という2つの王朝によって統治された。その領土は、成立時より王族による分割相続が行われていたため、国内は恒常的に複数の地域(分王国)に分裂しており、統一されている期間はむしろ例外であった。ルートヴィヒ1世(敬虔王、ルイ1世とも)の死後の843年に結ばれたヴェルダン条約による分割が最後の分割となり、フランク王国は東・中・西の3王国に分割された。その後、西フランクはフランス王国、東フランクは神聖ローマ帝国の母体となり、中フランクはイタリア王国を形成した。
このようにフランク王国は政治的枠組み、宗教など多くの面において中世ヨーロッパ社会の原型を構築した。
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トゥール・ポワティエ間の戦い(フランス語: Bataille de Poitiers、アラビア語: معركة بلاط الشهداء)は、732年にフランス西部のトゥールとポワティエの間で、フランク王国とウマイヤ朝の間で起こった戦い。ツール・ポアティエの戦いと呼称することがある。その後も735-739年にかけてウマイヤ軍は侵攻したがカール・マルテルにより撃退された。
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場所 フランスのトゥール・ポワティエ間の戦い:732年10月10日
戦力 フランク王国・ランゴバルド王国:1万5,000~7万5,000人。
ウマイヤ朝:6万~40万人。
結果 フランク王国の勝利
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西洋は、マケドニアのアレキサンダー大王の時代から何度もオリエント・中東を侵略し征服し版図に組み込み、西洋の宗教・文化・哲学・思想・芸術・美術など多方面から影響を与えた。
オリエント・中東が西洋に対して復讐戦を仕掛けたのがイスラム教で、オリエント・中東からの宗教・文化・哲学・思想・芸術・美術など多方面の影響がルネサンスの引き金となった。
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ウィキペディア
モンゴルのポーランド侵攻は、「バトゥの西征」(モンゴルのヨーロッパ侵攻)のうち、1240年後半から1241年にかけての「トゥルスクの戦い」、「フミェルニクの戦い」、「レグニツァの戦い」、「モヒの戦い」などのシロンスク公ヘンリク2世率いるキリスト教騎士修道会とポーランド軍を壊滅させた諸戦闘の総称である。
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2020年10月22日号 週刊文春「文春図書館 私の読書日記
ヨーロッパの誕生と『語り得ぬもの』
鹿島茂
コロナ禍で、文明の後に訪れる大暗黒への予感なのか、にわかに注目されるようになった時代がある。ローマ帝国崩壊後の中世前紀である。ベルギー出身の歴史学の泰斗・アンリ・ピレンヌの主著『ヨーロッパ世界の誕生 マホメットとシャルルマーニュ』(増田四郎監修 中村宏・佐々木克巳訳講談社学術文庫 1,690円+税)は、ピーター・ブラウンの『古代末期の形成』に先駆けて、実は『暗黒ではなかった』古代末期に光を当てた古典的名著である。
すべては冒頭の一句に要約されている。
『ローマ帝国という、人間が作り上げたあの驚愕すべき建造物のあらゆる特徴の中で、最も顕著なまた最も本質的な特徴は、その地中海的性格であった』
ローマ帝国はゲルマン民族の侵入で崩壊したが、これで一気に無知蒙昧な『暗黒の中世』が訪れたわけではなかった。これがピレンヌが主張する第一のテーゼである。部分的な殺戮や混乱はあったものの全体的にみると旧帝国領がゲルマン各民族の王国に分割されただけで、『ローマ帝国Romaniaは全く無瑕(むきず・むか)のまま存続した』のである。原因は、どのゲルマン民族もローマ市民より圧倒的な少数(最大に見積もっても旧帝国領人口の5%)であったうえ、それぞれがバラバラで、征服民に押し付けるべき文明、すなわち言語、文字体系、法体系、宗教(キリスト教アリウス派信仰はあったがこれも弱いものだった)、官僚組織、商業的流通機構、財政・金融システムなどを持たない『蛮族』であったため、あっというまにローマ文化の中に呑み込めれてしまったからである。『ゲルマン民族は帝国を滅ぼそうとも搾取しようともしなかった。蔑視するどころか、かれらは帝国を讃美したのであった』『ローマ世界Romaniaの土壌が、蛮族の生命力を吸い取ってしまったのである』
では、なにゆえローマ世界は無瑕でありえたのか?ここで世界の心臓部(キリスト教など文化的中心、および貨幣流通などの経済的中心)は地中海にあったから、ローマ世界という船はゲルマン民族に旧帝国領の北半分を侵されても運航を続けられたのである。『古典的古代世界の根本を形作っていた地中海的統一が、あらゆる面にわたって明確に維持されていたということである』
だが、632年にマホメットが没し、その2年後からイスラム帝国の猛烈な拡大が始まり、とくにイベリア半島がイスラム圏に入って西地中海が『回教徒の湖』となるとローマ世界は東方世界(ビザンツ)から切り離されて孤立する。
『ゲルマン民族の侵入がそのまま残しておいた地中海的統一を、イスラムが破砕し去った。(中略)古代の伝統はの終焉であり、中世の開幕であった』
では、何をもってこう断言できるのか?まずローマ世界の『紙』だったパピルスが消え、香辛料も消え、ワインも絹も消えた。しかし、それ以上に深刻だったのは金が消えたことである。おれによってガリアではソリドゥス金貨が消えてデナリウス銀貨だけになり、国際的な職業商人の支配する大市(フォワール)が消え、近傍(きんぼう)の農民と小売商人だけの市場(マルシェ)が生まれる。『商業が衰頽(すいたい)してしまい、その結果、土地が嘗(かつ)てないほど経済生活の本質的な基礎になった』。シャルルマーニュのカロリング朝ではメロヴィング朝の国庫財源だったソリドゥス金貨が流通機構ともども消えうせたため、国王は直轄地の収入以外には経常財源を持たない王となったのである。自給自足経済が広まり、教会や修道院は寄進地を拡大し、ローマ教会の影響力が強大となり、かくして封建制と教会の中世ヨーロッパが生まれたのである。
ホイジンガの『中世の秋』と対をなすような不朽の名著である。
いまから50年近く前のこと。登場してきたばかりの構造主義・ポスト主義の著作を読もうと四苦八苦していたが、いまになると、そのわからなさの原因だけはよくわかる。フーコーにしろラカンにしろデリダにしろドゥルーズにしろ、その著作が理解困難だったのは、彼らが一様に己のうちなる『語り得ぬもの』を語るには、語るという行為そのものに語る以外にないと考えていたからなのである。この意味で彼らの著作はすべて哲学であると同時に文学であり、なおかつ自伝なのだ。これではフランス語をかじり始めたばかりの日本人学生にわかるわけはない。たぶん翻訳者もわからなかったのだろう。
ドミニク・チェン『未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために』(新潮社 1,800円+税)は自伝というかたちでしか語り得ないものがあると悟ったところから出発して、すべての人に向かって開かれるべきコモンズ(共有知)をどのように構築したらいいかを探ろうとした『哲学であると同時に文学』であるような本である。
著者は台湾出身の多言語使用者(ポリグロット)の父と日本人の母との間に生まれ、東京のリセ(フランス人学校)からパリのリセに転じ、ファミコンでゲーム世界に惑溺(わくでき)するかたわらコンピュータ言語を習得して『環世界』を拡大していったが、10代はじめに『吃音』というバグを発症する。ところが、この吃音の対処法を考える過程を意識に反転させるうちに一つの『思想』を獲得する。『この後で吃音が生じるだろうという気配が察知されると、その予感の塊が到来する前にもっと口に出しやすい言葉が意識のなかで検索され、準備される。(中略)吃音という、制御不可能な「他者」との対話の結果、選ばれた言葉が発話されるのだとすれば、それを積極的に受け容れた方が良いのではないか、というマインドセットがいつからか生まれてように思う』
もう一つの思想形成のきっかけは、パリのリセで落第勧告を受け、両親のいるロスに移ってフランス人リセの優秀な哲学教師から正反合の弁証法をたたき込まれたことである。
『正反合を学ぶ際にフランスの教師が教えるのは、あらゆる課題に対して論を構築できる方法論であって、内容は定まっているわけではない』。『構造に十分な強度があれば、たとい意見が異なっていてもコミュニケーションの回路が開ける』 。
この弁証法を完全マスターし、教師から満点の20点をもらえたことから日仏のアイデンティティの揺らぎに苦しむことがなくなった。
大学はUCLAのデザイン/メディアアート学科に進み。東京のリセ在学中に美術授業でコラージュとフロッタージュのおもしろさに目覚めるとともにデジタル画像処理を独修し、『言葉でしか記述できない事象もまた、世界に満ち溢れているということ』に気づいたからである。そこから在学中にクリエイティブ・コモンズの運動に参加し、その日本支部の設立へと至るが、さらなる転機は娘が生まれたことによってもたらされた。
『彼女の身体がはじめて自律的に作動したその時、自分の中からあらゆる言葉が喪われた。同時に、とても奇妙なことだったが、いつおとずれる自分の死が完全に予祝されたように感じられた。(中略)求めてきたのは、娘が生まれた瞬間に体験した、あの不思議な時空を表すための言葉だ。(中略)この奇妙な感覚に名前を与えずして、自分の思考を進めることはできない気がする』
このように、環世界のチェンジで生まれる『奇妙な感覚』を言葉に変えるという孤独な作業をサイバー空間を通じて他者とともに行っていくこと、これが著者が自らに課した課題である。言葉を介して他者を自己のうちに取り込んでいく未完の自伝というフィードバック形式でしか達成され得ないまったく新しい試みといっていい。」
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ゲルマン各民族は、ローマ帝国を侵略して征服し、ヨーロッパ世界を築き、欧州連合(EU)の礎を整えた。
えたのか。
何故、日本と中華(中国や朝鮮)は運命共同体としての東アジア連合を築けず、蔑視と差別、反目と敵意で対立し、歩み寄れず、相携え補完共生できなかったのか。
それは、日本民族と中華民族は同種同族・同種同文ではなかったし、日本と中華は一衣帯水の関係でも唇と歯の関係でもなかく、はっきりとした異種・異質だったからである。
つまり、日本民族と中華民族(漢族と朝鮮族)は別系とのアジア人で、情を交わすほどの混じりが薄かった。
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東アジア共同体が誕生する好機は一度あった。
幕末期に勝海舟などが目指した、西洋列強の侵略に対抗する為に日本・清国(中国)・朝鮮の3カ国による攻守軍事同盟であった。
だが、中国はアジアの支配者として君臨する為に、西洋と軍事同盟関係を築き暴力で日本を滅ぼそうとした。それが、日清戦争である。
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明治中頃、ハワイ国王は、アメリカの侵略から太平洋の平和と独立を守るべく日本にアジア太平洋運命共同体構想を提案し、ハワイ王国を守る為にハワイ王家と日本皇室の姻戚を求めた。
日本は、ロシアの侵略から日本国を守る為に、アメリカと敵対関係は好ましくないとしてハワイ国王の提案を断り、ハワイ王国を見捨てた。
東郷平八郎は、ハワイのアメリカ人移住者が、アメリカの軍事力を背景としてハワイ王国を滅ぼしてアメリカ領とし、民衆の利益優先でハワイ王家を消滅させ、民衆の大義実現の選挙で共和制にする、という民衆革命を目撃し、日本天皇制度・日本国・日本民族の危機と捉えアメリカを日本海軍の主敵と定めた。
日米戦争は、この時から避けられない運命となった。
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