🛲4」─3─山下奉文大将とマニラ攻防戦。日本軍による市民虐殺。フィリピンの昭和天皇処刑要求。 ~No.22No.23No.24No.25 * 

昭和の悲劇 山下奉文 (文春文庫)

昭和の悲劇 山下奉文 (文春文庫)

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本人軍国主義者は、フィリピンを日本の味方にするべく独立派フィリピン人に協力した。
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 1943年3月20日 日本軍は、フィリピンを占領するやアメリカ軍が破壊した鉄道や橋梁の復旧を急ぎ、1年3ヶ月の猛スピードで全長1,400キロにのぼる全鉄道を完全復旧させた。
 日本軍は、マニラに進駐しても宿営地を郊外の競馬場など市民生活に支障を来さないように配慮した。
 9月25日 マニラのフィリピン国会議事堂で開催された第一回国民会議で、パルガス行政長官はラウレル博士を独立後の初代大統領に推挙した。
 会議は、全会一致でラウレル博士を大統領にする事を採択した。
 10月14日 ラウレル初代大統領は、大統領就任の宣誓式を行って、新生フィリピンの独立を宣言した。
 新国歌が吹奏され、民族独立の象徴である国旗が掲揚された。
 キンチン・パレテス(新国旗原案作成委員長)「1898年カピラにおいてアギナルド将軍の革命政府が掲げた国旗を復活させる事は民衆の絶対的要望で有り、我々委員も異義なく、新国旗として採用した」
 日本軍は、軍政を撤廃し、統治権を新生フィリピンに移行した。 
 フィリピン国民1,800万人が悲願としていた独立が、ようやく達成された。
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 フィリピン戦。アメリカ軍は、日本軍を攻撃する為に都市と言わず山林奥地の集落に対して猛爆撃を加え、森林に動く人影が日本兵か現地人かを確かめる事なく銃弾や砲弾を撃ち込んだ。
 人種差別主義のアメリカ兵にとって、日本人であろうと、フィリピン人であろうと、ともに絶対神のに見捨てられた野蛮人でしかなかった。
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 1945年 第14方面軍司令官山下奉文は、持久戦の準備とフィリピン市民の被害を押さえる為に、マニラ市の無防備都市宣言を意見具申した。
 日本軍は、フィリピンへの被害を最小限に抑えるべく、フィリピン人住人の少ない山岳地帯に永久陣地を構えた。
 大本営と現地の第四航空軍は、フィリピン人の犠牲より戦争の勝利を優先してマニラ無防備都市宣言に反対し、マニラ防衛の為に貴重な兵力と弾薬を投入した。
 海軍は、急いで山岳地帯に防衛陣地を建設するより首都マニラで敵を迎え撃つ事を主張して反対した。
 陸軍部隊約28万人は、山下大将の命令に従って、長期持久戦に備えてマニラ周辺の山岳地帯に陣地を築き物資を移した。
 マニラ市内防衛として、海軍防衛隊約1万人と陸軍防衛隊約4,300人が残留したが、破壊力の高い榴弾砲など重火器の大半は山岳陣地に運ばれマニラ防衛隊には軽火器しかなかった。
 日本軍は、マニラ市民に対して戦場となる市内からの退避命令を出した。
 短期間で全市民の退避は不可能であった。
 退避が思ったほどに進まなかった原因には、多くのマニラ市民が日本軍が「無防備都市宣言」をして撤退し、多少の日本軍が残存していてもアメリカ軍は攻撃しないであろうという楽観的な思い込みがあった。
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 日本軍守備隊は、マニラ攻防戦を始めるに当たり一般市民への被害を避けるべく、サントトーマス大学に強制収容していたアメリカ人民間人約3,700人をアメリカ軍に引き渡した。
 日本軍は、武士道に則り、戦うのは兵士だけであって非戦闘員の民間人ではないと割り切り、敵国民間人を盾にして戦う事は卑怯と考えていた。
 マニラ市内から、資産家や社会的地位のあるスペイン系、華僑系、混血系(メスチソ)の住民は戦火の及ばない地域に逃げたが、中流以下のフィリピン人を中心とした約70万人が市内に留まった。
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 アメリカ軍は、マニラ市内に白人がいない事を確認して無差別の砲撃と空爆を行った。
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 2月3日〜3月3日 マニラ攻防戦。
 マッカーサーは、マニラ攻撃に対して、人道的配慮で無差別空爆を禁止したが砲撃は許可した。
 アメリカ軍は、日本軍が守るマニラへの攻撃を開始し、日本軍とマニラ市民が逃げられないように市内全体を火の海にしてから砲撃と爆撃を繰り返した。
 アメリカ陸軍航空部隊は、マニラ市内外の全ての橋梁、鉄道、道路を破壊して人の移動を遮断した。
 逃げ遅れたマニラ市民数万人が、スペイン統治時代から歴史的建造物や文化的記念物が多く残っている旧城・イントラムロスに逃げ込んだ。
 イントラムロスには在比日本軍憲兵隊司令部が置かれていた為に、アメリカ軍は大量の砲弾を撃ち込んで徹底的に破壊した。
 アメリカ軍砲兵隊は、遠距離からマニラ市を砲撃し、日本軍兵士もフィリピン人避難民もまとめて殺傷して、市の大半を焼け野原にかえた。
 日本軍は、アメリカ軍ではなくフィリピン人ゲリラとマニラ攻防戦を戦った。
 日本兵は、フィリピン人ゲリラが軍服ではなく民間服で攻撃してきた為に、劣勢の激戦の中、ゲリラも民間人も区別できず、武器を持っているかどうか確認できず、目の前に現れたフィリピン人を射殺した。
 日本軍には、アメリカ軍ほどに豊富な弾薬はなく、貴重な弾を慎重に撃ち返していた。
 アメリカ軍は、日本軍占領下でレジスタンスをして抵抗活動しなかったマニラ市民を、日本軍の協力者若しくは同調者として敵と断定して猛爆撃を加えた。
 マニラ攻防戦の結果、マニラは死の街と化し、約10万人が犠牲となった。
 レスター・テニー(元アリゾナ大学教授)「日本人と区別が付かないから原住民は皆殺しにした」
 F・ショニール・ホセ「アメリカ軍と地方にいたが、マニラに戻ると、戦闘は終わっていた。市役所、教会、ホテル全てが焼け落ちて橋という橋は崩壊していた。死臭が街を包んでいた。アメリカ軍の砲撃で死んだ人も多かったが、日本軍が留まったからこれだけ多数の死者が出た」
 10万人の死者の責任は、マニラに陣地を敷いて防戦体制をとった日本軍にあるとされた。
 戦後。アメリカ軍は、日本軍の占領地で、激戦の最中、日本軍兵士が玉砕しながら行った残虐行為を調査し公表した。
 10万人の市民を虐殺し、数百人の婦女を強姦した。
 数百人の婦女子をベイビューホテルに監禁して彼女らを強姦し続けた。
 14人の日本人兵士に犯された少女もいた。
 大勢のフィリピン人が、教会に押し込められて、銃剣で刺し殺され、持ち物を奪われた。
 日本軍兵士は、虐殺を行った後、必ず、酒を飲んで宴会をひらいてドンチャン騒ぎをしていた。
 残虐・虐殺という戦争犯罪容疑で、多くの日本軍兵士がリンチ的縛り首で処刑された。
 3月 山下司令官は、日本軍に協力してくれたラウレル大統領とリカルテ将軍に日本への亡命を勧めた。
 ラウレル大統領は日本に亡命したが、リカルテ将軍(80)は拒否して7月に山岳地帯で死亡した。
 リカルテ「私はフィリピン人です。米比戦争で降伏していない唯一の将軍です。私は祖国に踏み留まって、最後の一人になるまで、アメリカと戦う覚悟です」
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 独立派フィリピン人は、祖国フィリピンの独立を守る為に、日本軍に協力しアメリカ軍と戦っていた。
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 日本軍の戦死者約1万2,000人、戦傷者5,565人。
 アメリカ軍戦死者約1,000人。
 マニラ市民(ゲリラも一部含む)約10万人。
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 ミンダナオ島攻防戦で、日本軍部隊は撤退に際し「戦闘にたえざる者は適宜処置すべし」という師団長命令が下った。
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 フィリピン攻防戦の日本軍の戦死は22万人以上で、戦死者は靖国神社に祀られた。
 日本軍兵士は、敗走しながら強姦や略奪など非人道的犯罪を行ったと言われている。
 処刑された戦犯者は、死んで自分の罪を償ったとして靖国神社に祀られた。
 戦闘に巻き込まれたフィリピン人は、111万人で、当時の総人口の16人に1人が死亡した。
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 2015年2月27日 朝日新聞マニラ市街戦から70年
 自国傷つける歴史
 若者に伝えぬ日本
 国粋主義的危うさ
 70年前の2月、マニラで首都奪還をめざす米軍と抵抗する日本軍による激しい戦闘があり、フィリピン人10万人が死んだとされる。
 ……
 インタビュー F・シュニール・ホセ
 私は戦争末期の45年1月、米軍の医療班の軍属となり、敗走する山下(奉文)将軍の隊列を追撃してルソン島を北上した。地元のゲリラに参加する手もあったが、米軍に加わったほうが日本に行くチャンスがあると考えた。日本に行って、一人でも多くの日本人を銃で殺したいと思っていた。当時、私の周囲の若者の多くはそんな考えだった。
 ─だから落ち着かない気分だったのですね。なぜそこまで日本人を憎んだのですか。
 残虐だったから。いとこや友人の多くが戦争で死んだ。私も何度も日本兵に殴られた。理由? 理由なんてない。道を歩いていたら反対側にいる兵隊に『コラ』と呼びつけられてビンタだ。彼らが41年来た当初はコメの配給もあり、さほどひどくはなかった。日本語クラスの教師は若い海軍の将校で、英語も上手く優秀な人だった。そのうち食料に困るようになり、略奪が始まった。
 ……
 米軍と地方にいたが、マニラに戻ると、戦闘は終わっていた。市役所、教会、ホテル、すべてが焼け落ちて橋という橋は崩壊していた。死体がころがり、死臭が街を包んでいた。米軍の砲撃で死んだ人も多かったが、日本軍がとどまったからこれだけ多数の死者が出た。
 ─日本では知らない人が多い。
 教育のせいだ。若い世代に伝えることを避けている。日本人は歴史好きだ。映画や書物でも歴史物を好む。でも自国のイメージを傷つけるものについては話が違う。その点では非情に国粋主義的だ。
 だから首相が靖国神社に参拝するのだろう。国民向けの行為だと理解する。中国への返答かもしれない。だが私には受け入れられない。
 ─なぜですか。
 あの神社を訪れ、ミュージアム遊就館)を見た時、怒りが収まらなかった。なた方の名誉ある兵士は、我が国を蹂躙したのだ。私はフィリピン人として参拝を批判する。
 ……
 ─日本人は雰囲気に流れやすいとエッセーで危惧されています。
 日本人は不可解な存在だ。変化へ向けてムードが変わると、すべてを受け入れる。国民的雰囲気とでもいうか。しかも一夜にして変わることがある。常に理性に基づいて行動するわけではないことは41年の開戦で明らかだ。国粋主義的になれば危ない。第二次大戦の黒幕のような扇動者が出てきたら、簡単に説得されてしまうのではないか。平和を求める雰囲気が続くことを願う」
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 日本人戦没者約51万8,000人。フィリピン犠牲者約111万人。
 フィリピン人ゲリラは、アメリカ軍の猛攻で敗走し、食料と医薬品不足で栄養失調と疫病で苦しむ日本人兵士や日本人居留民を襲撃して苦しめていた。
 日本軍は、アメリカ軍から武器弾薬の供与を受けたフィリピン人ゲリラの組織的掃討と、ゲリラに協力していると思われる住民の粛清するように命じた。
 このゲリラ掃討と協力者とおぼしき住民粛清が戦争犯罪とされ、ゲリラ及び協力者の処刑に関わった日本人兵士達は見せしめのリンチ的縛り首で処刑された。
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 マニラ軍事法廷は、他の軍事法廷同様に、近代法の原則を完全無視して「事後法」で日本軍人被告を裁いた。
 戦後。日本軍による無差別な攻撃で多くのマニラ市民が虐殺されたと言われている。
 山下奉文は、マニラ市民を含むフィリピン国民10万人を無謀な戦闘で虐殺した罪で有罪判決を受けた。
 マニラ・アメリ軍事法廷は、「指揮者責任論」という事後法に基づいた「判決ありき」の復讐裁判であり、無罪を証明する如何なる証拠も却下された。
 弁護団は、近代法に於いて許されない事後法による不当裁判であるとして、アメリカ連邦最高裁判所に再審を提訴した。
 アメリカ連邦最高裁は、戦時に於いては戦争遂行が優先され、勝利の為には大抵の事は超法規的に実行され、戦時下における軍法会議は国内法の適応外である以上は再審は却下するとの判断を下した
 マーフィー判事「今日、戦場で敗北した敵軍の指揮官である山下と本間の生命が、法の正当な手続きを無視して奪われる。……法の正当な手続きを無視した法律的リンチが、今後引き続いてぞくぞく発生するかも知れない」
 戦犯・山下奉文本間雅晴の有罪案決は、法を無視して確定した。
 キリスト教本間雅晴は、捕虜虐待の戦犯として銃殺刑に処せられた。
 山下泰文は、軍人の名誉として銃殺を希望したが却下され、囚人服のままで馬泥棒の様にバギオの山中でリンチ的縛り首で処刑された。
 山下奉文本間雅晴は、靖国神社に祀られた。
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 本間雅晴被告を裁いた5名の裁判官は、バターン半島で降伏したアメリカ軍将校で「個人的利害関係及び個人的偏見を有し」ており、完全なる個人的復讐で死刑判決を下した。
 弁護団は、マニラ軍事法廷判決は不当であるとして、合衆国最高裁に再審を提訴した。
 同最高裁は、請願の審理を拒否した。
 一部のフィリピン人は、バターン死の行進が冤罪である事を知るだけに、本間雅晴被告の無罪を信じていただけに残念がった。
 マーフィー最高裁判事「犯罪のより明瞭な証拠も、日本部隊の残虐行為も、裁判進行の不当な迅速さ或は明瞭に反憲法的規定を含む指令の発布の口実にならない。今日、戦場で敗北した敵軍の指揮者である山下や本間の命が、法の正当な手続きを無視して奪われる。それに抗議するものはない。しかし、ここに打ち立てられた先例は明日他の者に振り向けられるのである。法の正当な手続きを無視した法律的リンチが、今後引き続いて続々と発生するかもしれない」
 アメリカは、近代法が禁じている事後法で日本人戦争犯罪人を裁き、そしてリンチ的縛り首で処刑した。
 アマリカの裁判は、先例至上主義である。
 国際社会においては「勝てば官軍」が常識で、負けた者にはい一切人権を認めてはいなかった。
 軍国日本は、紛れもなく「戦争に負けた」のである。
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 1968年 フィリピン共産党のが結成。
 毛沢東主義を信奉する過激派は、新人民軍を組織して破壊活動を展開した。
 中国共産党は、フィリピンを共産主義化する為に過激派新人民軍を軍事支援した。
 ミンダナオ島では、イスラム教徒の反政府武装組織が分離独立の為に武装闘争を行っていた。
 貧富の格差が激しく、貧しい国民はスラム街に住みその日その日を生きるのがやっとであった。
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 フィリピンは、イスラム過激派や毛沢東主義者らの反政府武装組織と麻薬組織など犯罪者集団によって政情が不安定であった。
 90%以上のキリスト教徒に対し、少数派のイスラム教独立派はイスラム国を樹立する為にテロを繰り返していた。
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 1990年5月 日本の駐米大使藤崎一郎は、バターン死の行進について謝罪した。
 「元戦争捕虜には、多大な損害と苦痛を与えた事を心からお詫びする」
 2010年9月 岡田克也外相は、元捕虜と面会して公式に謝罪した。
 日本政府は、日本軍の犯罪行為を全て調査した結果として、公式に罪を認めて謝罪した。
 日本の反戦平和市民団体は、戦犯を靖国神社で祀る事に猛反対している。
 左翼・左派のマルクス主義者とキリスト教徒は、軍国主義の復活につながるとして靖国神社の廃止を求めている。
 レスター・テニー『戦場の兵役』
 読売新聞。ミカエル・ノーマンほか著『バターン死の行進』に対する書評(2011年6月27日)「1942年1月に本間雅晴中将の率いる第十四軍は、マッカーサーの米軍をバターン半島へ追い込み、4月に降伏した7万6,000人の敵兵を炎天下100キロも歩かせて相当数を死なせたのだ。……ほとんど厳しい軍事訓練を受けなかった米軍部隊や指揮官、マッカーサーの無能ぶりに厳しくメスを入れる一方、行軍の途中無断で休んだといっては小銃で米兵を殴りつけ頭蓋骨を打ち砕く日本兵の姿を克明に描いた本である」
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 2000年10月25日 フィリピン・マバラカットで、神風特攻隊の慰霊祭が行われた。
 ジョジョ・P・マリグ「この式典は、日本とフィリピンの関係を知る良い機会です。私自身、カミカゼについて多くの書物を読みましたが、やはりその尊い命を国家に捧げた関大尉は〝英雄〟だと思います。またカミカゼ・アタックを考案した大西大将も尊敬すべき〝武士〟です」
 ダニエル・ディゾン(フィリピン・カミカゼ記念協会会長)「私は、ヨーロッパ・アメリカ・中国・フィリピンの歴史を様々な角度から検証してみました。その結果、なぜ日本が立ち上がり、戦争に打って出たのかがよく分かったのです。そして日本が、欧米列強の植民地支配に甘んじていたアジアを叱責した理由も理解できたのです。
 当時、白人は有色人種を見下していました。これに対して日本は、世界のあらゆる人種が平等であるべきとして戦争に突入していったのです。神風特別攻撃隊は。そうした白人の横暴に対する力による最後の〝抵抗〟だったといえましょう」
 カミカゼに対する慰霊祭は、バンバン村などでも行われた。
 日米の激戦でフィリピン人約180万人が犠牲となり、その中には日本軍による虐殺事件が含まれているといわれている。 
 日本軍は、必ずしもフィリピン解放の為に戦ったわけではなかった。
 日本人兵士の中には、フィリピン人を見下し、差別し、暴行や強姦や略奪した者もいた。
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 フェルナンド・サントス「このような英雄的資質の武勇伝を日本の若者は知るべきです。私からメッセージは、もっとカミカゼ特別攻撃隊に関する本を読むべきだという事です。日独伊枢軸国やアメリカ同盟国の英雄として認められている人でも、神風特別攻撃隊の勇気、決断、武勇に等しい人はいません。……神風特別攻撃隊の場合は離陸した時点で死んで行く事を知っているのです。事実、彼等は祖国の為に自分を殺します。比類のない存在ですから尊敬されるべきであり、記憶されるべきなのです。日本国民は、受け継いだ今の日本人の本質と粘り強さの象徴として彼等に感謝すべきです」
 ダニエル・ディソン「神風特別攻撃隊は白人の横暴に対する力による最後の抵抗だった」 マバラカットカミカゼ記念碑碑文「カミカゼは、世界史上比較しうるもののない全く大胆不敵なものであった。歴史的調査が明らかにした所によれば、カミカゼを支えた信条とは、世界の全ての民族に対する機会の均等と相互尊重の原理に基づく共存共栄によって明示される世界の調和と親睦が、自らの死によって実現される事を心底から願って自らの身を捧げたカミカゼ志願者達の想いである」




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