🛲4」─1─米比戦争。フィリピン独立革命。フィリピン独立戦争。犠牲者20万~150万人。~No.16No.17No.18 * 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 フィリピン独立派は、植民地支配から独立する為に極秘に日本に軍事支援を求めた。
 日本陸軍と右翼は、武器弾薬を送ったが、輸送船は途中で沈没して独立支援は失敗した。
 アメリカ軍は、植民地支配を完成させる為に独立派を残虐な方法で虐殺した。
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 日本は、アジアの希望の星であった。
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 ロシアに勝利した日本は、白人植民地の有色人種に自由への夢を与えた。
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 豊臣秀吉は、フィリピンからスペインを追い出し、スペインの富を奪いその財宝で明国征伐を実現しようとした。
 スペイン国王フェリペ2世は、アジアの植民地を日本から守ろうとした。
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 マリオ・ピネダ「アメリカはフィリピンを徹底的に弾圧しました。アメリカの国旗に頭を下げない人々は皆グアム島に送られたんです。グアム島の人口の30%がフィリップ系である理由にはこうした歴史的背景があります」
 アメリカは、不逞フィリピン人をグアム島以外にハワイなどに強制移住させた。
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 命を賭けて、死を覚悟して、戦わない者には権利はなく、語る資格もない。
 権利や自由は、死体の山を築き、夥しい血を流して手に入れる事ができる。
 戦わない者には、自由と権利を放棄した者である。
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 ウィキペディア
 フィリピン共和国、通称フィリピンは、東南アジアに位置する共和制国家である。島国であり、フィリピン海を挟んで日本、ルソン海峡を挟んで台湾、スールー海を挟んでマレーシア、セレベス海を挟んでインドネシア南シナ海を挟んで中国およびベトナムと対する。フィリピンの東にはフィリピン海、西には南シナ海、南にはセレベス海が広がる。首都はマニラで、最大の都市はケソンである。国名のフィリピンは16世紀のスペイン皇太子フェリペからちなんでいる。    
  
 歴史
 詳細は「フィリピンの歴史」および「バシランの歴史」を参照

 スペイン植民地時代
 詳細は「フィリピン総督領」を参照
 西方からやってくるヨーロッパ列強に東南アジアが次々と植民地化される中、スペイン艦隊は太平洋を横断しメキシコから到来する。1521年、セブ島ポルトガル人の航海者マガリャンイス(マゼラン)が率いるスペイン艦隊が、ヨーロッパ人として初めてフィリピンに到達した。マガリャンイスはこのとき、マクタン島の首長ラプ・ラプに攻撃され戦死した。1494年スペインとポルトガルが結んだトルデシーリャス条約でブラジルを除く新大陸(インディアス)がスペイン領有とし、1529年のサラゴサ条約でフィリピン諸島をスペイン領有とした。スペインはフィリピンをアジア進出の拠点とした。やがてスペインなどの航海者が来航するようになり、1565年にはスペイン領ヌエバエスパーニャ副王領(メキシコ)を出航した征服者ミゲル・ロペス・デ・レガスピ(初代総督)がセブ島を領有したのを皮切りに19世紀末までスペインのフィリピン支配が始まり、徐々に植民地の範囲を広げ、1571年にはマニラ市を植民地首府とし、フィリピン諸島の大部分が征服され、スペインの領土となった。これ以降、約250年間、マニラとアカプルコ(メキシコ)をつなぐガレオン貿易が続いた。 1762年に、一時的にマニラがイギリス軍に占領されたが、1763年にパリ条約が結ばれ再びスペインの管轄下に戻った。18世紀になってスペインは南部への侵攻を開始したが、西南ミンダナオ島スールー諸島、南パラワン島では、スールー王国をはじめとするイスラム勢力の抵抗に遭い、最後まで征服できなかった。
 スペイン統治下で、メキシコやペルー、ボリビアから輸入した銀や、東南アジア各地や中国(清)の産物をラテンアメリカに運ぶ拠点としてガレオン貿易が盛んに行われた。フィリピンではマニラ・ガレオンと呼ばれるフィリピン製の大型帆船がたくさん建造され、メキシコのアカプルコとアジアを結んでいた。
 ヌエバエスパーニャ副王領の一部となった植民地時代に、布教を目的の一つとしていたスペイン人はローマ・カトリックの布教を進めた。スペイン人は支配下ラテンアメリカと同様にフィリピンでも輸出農産物を生産するプランテーションの開発により領民を労役に使う大地主たちが地位を確立し、民衆の多くはその労働者となった。
 支配者であるスペインに対する反抗は幾度となく繰り返されたが、いずれも規模の小さな局地的なものであり容易に鎮圧されてしまった。 独立運動が本格的になるのは、19世紀末、フィリピン独立の父とされるホセ・リサールの活躍によるところが大きい。リサールは、1896年12月30日に銃殺された。1898年、米西戦争勃発により、アメリカ合衆国エミリオ・アギナルドらの独立運動を利用するため支援(しかし、実際は後に判明するように、アメリカがスペインからフィリピンを奪って自国の植民地にすることが目的だった)した。
 1899年6月12日、初代大統領エミリオ・アギナルドの下、独立宣言がなされ、フィリピン第一共和国が成立した。フィリピン革命は、普通1896年8月から1899年1月までを指す。
 なお、征服者レガスピの1567年の書簡に、当時すでに日本人がミンドロ島ルソン島へ毎年交易に来ていたことが記されており、日比の交流はスペインが占領する以前からあったことがわかっている。

 第一共和国アメリカ合衆国植民地時代
 詳細は「フィリピン独立革命」、「米比戦争」、「アメリカ合衆国陸軍省」、「島嶼局(英語版)」、および「島嶼政府」を参照
 米西戦争の最中に独立を果たしたのもつかの間、1898年のパリ条約によりフィリピンの統治権がスペインからアメリカに譲渡された。1899年1月21日にフィリピン共和国がフィリピン人によって建国された。5月18日にサンボアンガ共和国(英語版)がサンボアンゲーニョによって建国された。
 フィリピン共和国の建国を認めないアメリカによる植民地化にフィリピンは猛烈に抵抗したが、米比戦争で60万人のフィリピン人がアメリカ軍により無残に虐殺され、抵抗が鎮圧される。1901年にアギナルドが米軍に逮捕されて第一共和国は崩壊し、フィリピンは旧スペイン植民地のグアム、プエルトリコと共にアメリカの主権の下に置かれ、過酷な植民地支配を受けることとなった。1903年にサンボアンガ共和国も崩壊したが、モロの反乱は1913年まで続いた。フィリピン史では、1899年2月から190年7月までをフィリピン・アメリカ戦争期として位置づけている。
 その後フィリピン議会議員マニュエル・ケソンの尽力で、アメリカ合衆国議会は1916年ジョーンズ法で自治を認めフィリピン自治領が成立。1920年代にRCAが広域無線局を設置、ここを中継地点として香港経由で中国と交信した。1929年に世界恐慌が発生すると無課税でアメリカ本土に移入されていたフィリピンの砂糖がアメリカ本土の甜菜糖キューバ糖に打撃を与え、アメリカの資産家で破産するものが続出した。そのためフィリピン糖排撃の声が高まり、関税を課すことを目的にフィリピン独立が叫ばれるようになった。1934年アメリカ議会はフーバー大統領の反対を押し切り、タイディングス・マクダフィー法で10年後の完全独立を認め、フィリピン議会もこれを承諾、フィリピン自治領からフィリピン・コモンウェルスに移行したが、アメリカはフィリピンにアメリカへの依存貿易を続けさせるなどの利権を確保し続けた。

 国民
 民族
 州ごとの民族分布
 詳細は「フィリピンの人口統計」を参照
 人口が一億人を超えたフィリピンはマレー系を始めとする多民族国家である。タガログ族・ビサヤ族(セブアノ族・ヒリガイノン族・ワライ族)・イロカノ族)・ビコラノ族・カパンパンガ族・パンガシナン族・モロ族(マギンダナオ族・バジャウ族・ヤカン人)・タウスグ人・サマル人・en:Bangsamoro[要曖昧さ回避])・イヴァタン人(台湾原住民)・華人・サンボアンゲーニョ・メスティーソネグリト(アエタ族・アティ族・バタク族・ママンワ族)・ボントック族・イゴロッテ族(イフガオ族)・ティルライ族など。

 フィリピン人
 詳細は「サンボアンゲーニョ」を参照
 現在ではフィリピン人とは、当たり前のことであるが、フィリピンに生まれ育った土着の人々の名称である。このような考え方は19世紀半ば以降に意識され始め現在に至っている。かつては、スペイン本国生まれのスペイン人と区別して、フィリピン諸島生まれのスペイン人を指して用いられた。彼らをフィリピーノあるいはクリオーリョ、そして、土着の人々をインディオといった。また、スペイン人や中国人の移住者の男性と現地の女性との間に生まれた子どもはメスティーソと呼ばれた。この背景には、インディオやメスティーノのなかの富裕層の子弟たちが、スペインの圧政に耐え兼ね、改革や自治を求めた様々な運動があったことが考えられる。

 タガログ族
 フィリピンの主要民族はタガログ族であり、ルソン島のリサール州、ラグナ州、タルラック州、ブラカン州、バターン州などに住む、タガログ語は他のフィリピン諸語と同じく、オーストロネシア語に属する。これを母語とする者は2,500万人以上と推計される。16世紀後半から約300年にわたるスペイン人の支配により、タガログ族の80%以上がカトリック教徒となっている。大半が木やニッパヤシでつくった小さな高床式の家屋に住み、水稲耕作を主とする農業を営んでいるが、主要な換金作物はサトウキビとココナッツである。19世紀から20世紀初頭にかけて起こった白人(スペイン人、アメリカ人)と日本人の植民地支配に対する革命運動で、最も重要な役割を演じた民族でもある。そのため、フィリピン国民の主要な英雄や、独立後の政府の指導者多く輩出している。ルソン島にはその他にもイロカノ族(人口約810万人)、ビコラノ族(人口約540万人。ビゴール語を話す)、カパンパンガ族(約人口30万人)、パンガシナン族(約人口110万人。但し、イロカノ族との混血が進んでいる)など、他にも多数の中小部族を抱えている。

 華人
 フィリピン華人の大部分は中国福建省南部(特に晋江)の出身である。明・清時代からの古い華人が多く、現地化や混血(メスティーソ)が進んでいる。元大統領コラソン・アキノも福建華人の子孫であり、フィリピン独立の英雄として知られるホセ・リサールも中国系移民の系譜を持つ。現在でも中国語(福建語)を話し、中国の習慣になれている者は100万人程度と推定される。苦力出身者がほとんどおらず、商業移民が中心となっている。中国系移民の総人口に占める割合は比較的小さいが、2010年6月にフォーブズが発表したフィリピンの富豪上位10位の7割を中国系移民及びその子孫の企業グループが占めているように、経済的成功者も多く、フィリピン社会への影響力は大きい。
 フィリピンの華人は、スペイン統治時代に幾度も排斥政策を取られたことから、存続のため、現地社会との融合度が高く、現地人との通婚が進んでおり、仏教を捨ててカトリック教会への改宗者も多い。また、フィリピンが反共を掲げた経緯から、同じく反共を掲げ、西側陣営に属した台湾(中華民国)との関係が深い。フィリピンの華人社会で使われる漢字は、台湾と同じ繁体字である。

 メスティーソ
 過去数百年で中国系(華人)やスペイン人(サンボアンゲーニョ)との混血が進み、混血率は高い。地域によって混血率は違い、スペイン統治時代に重要な軍港であった地域、特にサンボアンガでは、スペイン人との混血率が高い。混血者はラテンアメリカと同様にメスティーソと呼ばれる。外国へ出稼ぎに行く国民が10人に1人はいる出稼ぎ国家で、外国で働く労働者が多いため、その他の混血の人も多い。その中でも、日本人・アメリカ人とフィリピン人のハーフが多い。

 少数民族
 山岳地帯のネグリト、ボントック、イフガオなどがいる。フィリピン各地の山岳地帯や南部のミンダナオ島スールー諸島パラワン島の住民は中北部の低地住民とは文化や生活様式を異にしてきた人々を少数民族という。これらの人々は全人口の10%前後であるといわれている。南部に住むムスリム(モロ族)と各地の山岳地帯に住む住民の二つに分けられる。アメリカは、少数民族を「非キリスト教徒部族民」と名付け、後進的な野蛮人と見なした(モロの反乱)。これらの少数民族からも国会議員や地方議員が出ているが、彼らは地域の「ボス」であることが多く、少数民族の利害や権利は政治に反映されなかった。差別の原因を宗教の違いにされたり、無知からくる偏見にさらされた。

 言語
 詳細は「フィリピンの言語」を参照
 国語はフィリピン語 (Filipino)、公用語はフィリピン語と英語であるが、母語として使われる言語は、合計172に及ぶ。これらのほとんどはアウストロネシア語族に分類されるが、アウストロネシア語族の言語間にも、ほとんど意志の疎通が図れないほどの違いがある。他に使われる言語には、スペイン植民地の歴史を反映してスペイン語(フィリピンのスペイン語)やチャバカノ語(スペイン語とそのクレオール言語)、中国語(北京語やビン南語)、イスラム教徒の間で使われるアラビア語がある。 なおスペイン語は、1986年まで公用語の位置にあった。
 フィリピン語 (Filipino) は、1987年に成立したフィリピン共和国憲法において、初めて国語を言い表すのに正式に採用された人工言語である。実質的にはマニラ首都圏を中心として話されている地方語のひとつである『タガログ語 (Tagalog) 』を基にして採用された言語である。そもそもフィリピン国内では、ルソン島ミンダナオ島セブ島を含む7,100以上の島々からなる地域において、タガログ語をはじめ、セブアノ語(セブ語、ビサヤ語)、ボホラノ語、ワライ語、ビコール語、ヒリガイノン語、イロカノ語、パンパンガ語の8大言語を含む100近い言語集団があると言われている。
 アメリカ合衆国の植民地であったこともあり、アメリカ英語がかなり普及しているが、ナショナリズムの高まりと共に政府はフィリピンが一体となって発展していくためには国内全域で通用するフィリピンの共通言語が必要であるとし、タガログ語を基本としたフィリピン語を作り普及に務めてきた。1934年のタイディングス・マクダフィ法を受けて、同年に開かれた憲法制定委員会で、公用語や国語の問題が話し合われ大論争となった。最終は、固有の一言語を基礎として国語の確立をすることで収まった。これを受けて、1937年、ケソン大統領がタガログ語を国語の基礎として選択するという宣言を行った。
 また、タガログ語と英語が合わさった「タグリッシュ」がある。

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 米比戦争は、アメリカ合衆国とフィリピンの間で1899年-1902年に起きた戦争である。

 米西戦争
 「フィリピン独立革命」および「米西戦争」も参照
 1896年以来、カティプナンのフィリピン人たちは、スペインからの独立(フィリピン独立革命)のために戦ってきた。1898年5月1日に米西戦争の戦闘のひとつ、マニラ湾海戦でスペイン軍が敗北した。アメリカはフィリピン独立運動の指導者エミリオ・アギナルドに勝利の暁に独立させると約束して背後からスペイン軍を襲わせた。しかし、スペイン降伏後アメリカは、フィリピン独立の約束を反故にして植民地にし、アギナルド率いる独立軍1万8千人の掃討を始めた。米上院に報告された数字では米軍は1902年までの4年間で20万人を殺害した。
 6月12日にカティプナンのフィリピン人たちは、エミリオ・アギナルドの下で独立を宣言した。9月15日、アギナルドは、マロロスでマロロス議会(英語版)を組織した。
 パリ条約
アメリカ合衆国はアギナルド将軍に協力したら独立させると約束し、マニラの戦い (1898年)(7月25日 - 8月13日)でフィリピンの独立を援助する名目でスペインを破ったにも関わらず、12月10日のパリ条約において、アメリカ合衆国は2,000万ドルでフィリピンを購入した。

 戦争への反対 
 マーク・トウェインアンドリュー・カーネギー、さらにはグロバー・クリーブランド元大統領に代表されるアメリ反帝国主義連盟は、マッキンリー政権によるフィリピンの併合に強く反対した。また、フィリピン人はアメリカ合衆国に加わりたいと考えていると思い込み、フィリピンの併合は民意を反映していないと反対するアメリカ人もいた。戦争に対する反対意見の主な理由は、単にスペインからアメリカ合衆国にフィリピンの支配国が移り変わっただけであり、米西戦争の目的に反しているというものであった。

 フィリピン第一共和国の建国
 アメリカ合衆国は、フィリピン側にとって同盟者ではなく支配者になったと見られたため、フィリピン兵とアメリカ兵の関係は極度に緊迫したものであった。 1899年1月1日にアギナルドが初代大統領に就任した。 1899年1月21日、フィリピン第一共和国が建国される。
 植民地化を開始したアメリカ軍では、1898年から1902年の間にフィリピンで戦闘を指揮した将軍30人のうち26人は、インディアン戦争においてジェノサイドに手を染めた者であった。反乱を鎮圧するために行われた虐殺や虐待が報じられるようになると、戦争への賛成意見は減少した。

 犠牲者数
 フィリピン側の民間人の犠牲者数は20万人から150万人といわれる。

 結果とその後
 当初アメリカにより保証されていたフィリピンの独立も、1946年のマニラ条約(英語版)で漸く果たされることとなる。フィリピン人は一般的に親米であるが、こうした経緯から、反米感情もまたある。

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 フィリピン独立革命は、19世紀末から20世紀初めにかけてフィリピンで起こった、スペインの植民地支配からの独立革命である。単に「フィリピン革命」(英語名称)とも、年代にちなんで「(フィリピン)1898年革命」とも称される(ただし後述の通り前段として「1896年革命」も存在するので1898年革命という場合、狭義の独立革命を意味することになる)。

 概要
 16世紀後半以降、スペインの植民地支配のもとに置かれていたフィリピンでは、19世紀後半に植民地統治の改革を目指すプロパガンダ運動が展開され、これが急進化して1896年の独立革命と発展した。しかしこの第一の革命はいったん敗北し、1898年、米西戦争に乗じて第二の革命が起こった。1898年革命はフィリピン人による独自の議会開設と憲法制定を実現したが、スペインとの講和条約によりフィリピン領有権を獲得したアメリカ合衆国は独立を否定、米比戦争が開始された。フィリピン人たちはゲリラ戦でねばり強く抵抗したが結局のところ敗北し、アメリカによる植民地支配が開始された。1916年、マニュエル・ケソンの尽力によりフィリピンの自治を認めるジョーンズ法が成立し、さらに1934年になって10年後のフィリピン独立を認めるフィリピン独立法が成立、フィリピン独立への道が開かれた。しかし1942年の日本軍侵攻によって中断。このため真の独立は第二次世界大戦後の1946年まで持ち越されることになる。なお、アメリカ政府の側は以上の一連の動向を、革命ではなく「フィリピン反乱」と称している。

 経緯
 フィリピン独立革命は「1896年革命の時期」「1898年革命の時期」「米比戦争の時期」に3大別される。

 前史
 プロパガンダ運動の3人の指導者 / 左からリサール、デル・ピラール、ポンセ
スペインにより植民地として支配されていたフィリピンでは、1834年のマニラ開港以降の社会変容によりフィリピン人の新興有産層が急速に台頭した。留学などを通じて高等教育を受け学識を身につけた彼らは、支配者たるスペイン人と被支配者である自分たちフィリピン人の間に存在する地位の不平等を認識するようになった。
 このような新興ナショナリズムの流れの中で、最初にスペイン支配への異議申し立てを行ったのはフィリピン人神父たちである。彼らはスペイン人修道会士が頂点に立つフィリピンのカトリック教会において、フィリピン人であるがゆえに教区主任司祭への昇進を阻まれている状況に不満を持ち、差別を撤廃すべくゴンザレス・ブルゴス・サモラの3神父を指導者に教会改革運動を起こした。しかしスペインの植民地政庁は、1872年1月20日軍港カビテで労働者による暴動が起こると、その黒幕であったという濡れぎぬを先述の3神父に着せ、同年2月17日3人全員を処刑して教会改革運動を圧殺した。これを、3人の神父の名前からゴンブルサ事件という。
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フィリピン独立の祖 アギナルド将軍の苦闘

フィリピン独立の祖 アギナルド将軍の苦闘