☭11」12」─1─コディンカ(ホディンカ)広場の惨劇と日露戦争の敗北そしてでロシア革命。~No.32No.33No.34No.35No.36No.37 ⑩ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 江戸時代から、ロシアは日本にとって、侵略者であり、虐殺者であり、犯罪者である。
 昔の日本人は、ロシアを恐れ、ロシア人を信用しなかった。
 日本人が信用しなかったのは、清国・中国人や朝鮮人でも同様であった。
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 日本人にとってロシア人、中国人、朝鮮人は、敵であって、友・友人、親友、戦友ではなく、知人は悪い知人であって良い知人ではなかった。
 何時の時代でも、日本の近隣諸国は敵国であって、困った時に仲間になってくれる友好国はなく、味方として援軍を送って助けてくれる同盟国も存在しなかった。
 日本は、敵に囲まれた四面楚歌状態が続いていた。
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 昔の日本人は現代の日本人よりも優れていた。
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 現代の日本人は歴史力、地政学戦争論・戦略論がない為に、昔の日本人が主張し命を捨てても守ろうとした「満州は生命線・利益線」の真の意味が理解できない。
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 2021年2月号 WiLL「1917年:ロシア革命
 ニコライ二世の不吉な戴冠
 日露戦争の劣勢で高まる国民の不満。
 国民は皇帝を慕い、〝平和的請願〟に挑んだが・・・。
 渡辺惣樹
 |ロシア革命はなぜ成熟したのか──その答えを探るため、1884年まで遡(さかのぼ)る。この年、皇太子だったニコライ二世は後の皇后アレキサンドラと出会う。
 しかし二人の戴冠を祝う国民行事は、ロシアの未来を暗示する不吉なものとなった──。|
 皇后アレキサンドラへの反感
 1916年12月26日、サミュエル・ホーアは、ペトログラード(現サンクトペテルブルク)の英大使館からMI6(英国秘密情報部)本部(ロンドン)に報告書を打電した。ホーアは対独戦争において英仏両軍が進める西部戦線、ロシアの進める東部戦線での動きを連携させる任務を帯びて、ロシアの首都ペトログラードに赴任した工作員であった。ロシア政府の動きの監視に加え、世論工作も彼の任務だった。その内容とは、ロシア国民の『ドイツ憎し』の感情を煽り、対独戦争の士気を高める。ロシアを対独戦争から絶対に離脱させない。それがホーアの任務だった。
 1914年8月から始まった戦い(第一次世界大戦)は、すでに2年半が経過しようとしていた。しかし西部戦線では、両軍がそれぞれアリの巣のような塹壕(ざんごう)を築き、膠着状態が続いていた。塹壕戦は守備側を圧倒的に有利にした。攻撃する側は、どれほどの大攻勢をかけても突破口を得られないまま押し戻された。
 しかし東部戦線では、ドイツ軍はロシア軍との戦争いを優勢に進めていた。ロシアの対独単独講和の可能性も現実性を帯びていた。そうなれば東部戦線に張り付いていたドイツ軍は、西部戦線の補強にやってくる。西部戦線の膠着が一気に崩れ、パリもドイツ軍に攻略されることになるのであろう。
 1916年12月になると実際、ペトログラード市民の間で厭戦気分が広がっていた。ドイツ憎しの感情は高いままだったが、食糧不足が深刻だった。飢えが市民の反ドイツ感情を冷やしていた。ホーアはロマノフ王朝下の危ない首都の模様を、ロンドンに伝えた。

 『ロシア国民のほとんだがドイツとの講和を望んでいると考えたほうがよい。国民は飢えており、(東部戦線での)ロシア軍の損害は大きい。兵站は伸びきり、政府組織の混乱で国民の政府への不信は限界に達している。(中略)ロシアはこの冬を乗り切れないのではないか』

 ホーアは首都ペトログラードが、血の日曜日事件(1905年1月12日)以上の混乱することを恐れた。そうなれば内治は混乱し、ロシアは対独戦争から確実に脱落する。西部戦線の危うい戦力の均衡が崩れるのである。
 ペトログラードに勤務するホーアらの英国外交関係者には、食糧危機だけでなく、もう一つに気になることがあった。ロシア国民のアレクサンドラ皇后に対する強い反感である。皇后の母は英国ビクトリア女王の次女アリスであり、父はドイツ貴族ルートヴィヒ四世(ヘッセン大公)だった。要するにロシア国民の『国母』の父は、敵国人だったのである。
 ロシア皇帝ニコライ二世は1915年以来、自ら陸軍指揮の先頭に立っていた。軍司令部のあるマヒリョウ(Mogilev:現ベラルーシ)に陣取ることが多くなった皇帝は、内治をアレクサンドラ皇后に委ねることが増えた。この頃のロシアにはドゥーマ(Duma)と呼ばれる議会があったが、皇帝はこの組織に実権を与えておらず、貴族や地主階層を中心とした王室の諮問機関のような存在だった。したがって、皇帝が首都を留守にすると、最高権力は皇后アレキサンドラに移ったのである。
 待ちきれなかった結婚
 ニコライ二世がアレキサンドラに初めて会ったのは、皇太子時代の1884年のことである。叔父がアレキサンドラの姉エリザベスを娶(めと)った宴の席であった。ニコライ16歳、アレキサンドラ12歳の時である。
 ニコライは彼女といつか結婚すると、かなり早い段階で決めていたようだ。しかし結婚には、宗教上の障害があった。彼女は敬虔なプロテスタントルター派)であり、ニコライと結婚すればロシア正教に宗旨替えしなくてはならなかった。それが理由で父親アレキサンドル三世も、彼女との結婚には否定的だった。ニコライは機が熟すまで、父とは対立しないと決めたようだ。
 父の了解を得るまでは、アレキサンドラに代わる恋の対象が必要であった。それがマチルダ・クシェンスカヤだった。ニコライがマチルダを初めて見たのは1890年のことである。彼女は王室バレエ学校(Imperial Ballet School)をこの年、卒業した。卒業記念公演で踊る彼女に、ニコライは心を奪われた。チャイコフスキーも惚れ込むほどだったから、魅力ある女性であったに違いない。ニコライはその後も、頻繁に彼女の舞台を観劇した。
 1892年3月、ニコライは初めて彼女の家を訪ねた。マチルダはその晩、夜更けまで二人で過ごしたが、求められたセックスを拒んだと書き残している。彼女がそれを許したのは、ニコライが数日後に再び訪れた時であったらしい。
 1894年4月、ニコライはようやくアレキサンドラにプロポーズした。マチルダとの関係は(少なくとも表面上は)うまく清算したらしい。彼女はその後、有力皇族の一人セルゲイ・ミハイロヴィチの愛人を経て、アレキサンドル二世の孫アンドレイ・ウラジーミロヴィチ(大公)の妻に収まった。
 ニコライの父アレクサンドル三世は、息子のアレキサンドラとの結婚に不安があったが、結婚後も帝王教育をじっくり施せば何とかなるだろうと考えたようだ。自身が若いだけに、『その時間は十分にある。2人の結婚に何らかの問題が生じても、その矯正はは容易にできる』と考えた。
 ところが皇帝はこの年の9月、腎炎を発症し、亡くなった(11月1日)。49歳の早すぎる死だった。ニコライはこうして、帝王教育を受ける間もなく帝位(ニコライ二世)に就くことになった。まだ26歳であった。
 ニコライ二世はアレキサンドラとの結婚を、喪(も)が明けるまで待てなかった。早くも11月26日には皇后に立てた。戴冠式は1896年5月26日と決め、ロシア皇室は世界の首脳に招待状を送った。日本は伏見宮貞愛親王天皇名代)の派遣を決めた。殿下が横浜を発ったのは同年3月8日のことである。
 コディンカ広場の惨劇
 戴冠式クレムリンにるウスペンスキー大聖堂(モスクワ)で挙行された。この4日後(30日)、皇帝はコディンカ広場(Khodynka Field)を市民に開放し、喜びを分かち合う宴を催した。
 市民には無料のパン、ソーセージ、ジンジャーブレッド、お菓子とナッツの詰め合わせに加え、記念のマグカップ(アルミ製)も用意された。即席に建てられたパブも20ヵ所が用意され、ビールは飲み放題で振る舞われることになっていた。前日から集まり始めた市民の数は50万人にも上った。ところが、警備の警官はわずか1,800人であったから、安全な誘導が困難だったことはウラジミール・マコフスキが描いた絵dr容易に想像がつく。
 案の定、『用意の食料や記念品はもうすぐなくなる』と誰かが口にすると、たちまちパニックが起きた。人々は我先にと配給所やパブに殺到した。警官はなす術(すべ)もなく立ちつくすんだ。広場に落ち着きが戻ると、踏みつけけられて息絶えた市民およそ2,000人が横たわっていた。
 ニコライ二世は、惨劇の報にもかかわらず予定の式典を続行した。その後も、主催責任者のセルゲイ・アレキサンドロヴィチ皇子の責任を問わず、栄転させた。現場への弔問(ちょうもん)もなかった。それが市民の不興(ふきょう)を買った。人々は『彼の御代の始まりに起きたこの事件は、後に祟(たた)りを起こすだろう』と噂した。
 一方で、ロシア外務省は戴冠式を利用して『皇室外交』に忙しかった。当時のロシアは、クリミア戦争(1853~56年)敗北以来、西方への進出を断念し、その目を東に向けていた。シベリア鉄道の敷設(ふせつ)を決め、満州あるいは朝鮮半島方面の利権を求めた。
 アレクセイ・ロバノフ外相が、清国使節李鴻章(りこうしょう)と対日攻守同盟(露清密約)を結んだのは、コディンカ広場の惨劇の4日後(6月3日)のことである。ロシアはこの密約で、清国との相互軍事協力、満州内鉄道敷設権(東支鉄道)、ロシア海軍の清国港湾使用権(日露戦になった場合の措置)を確保した。ロシアはこの頃から日本との戦いを覚悟していた。
 この前年、李鴻章は屈辱の下関条約日清戦争敗北)に署名していた(1895年4月17日)。下関では、暴漢(小山豊太郎)の放った銃弾で危うく命を落としかけた(3月24日:李鴻章狙撃事件)。条約では、遼東半島の日本への割譲を許すものの、ロシアが中心となって三国干渉で同地を清国に還付された。この干渉があることあらかじめ知っていたからこそ、李鴻章下関条約に署名したといわれている。
 いずれにせよ、彼にはロシアへの恩義があった。モスクワ訪問はその『御礼』の意味もあった。露清密約は典型的な秘密外交であり、ワシントン会議(1922年)で清国代表が暴露するまでは知られていなかった。李鴻章は、50万ルーブルの私的賄賂まで受けていた。
 朝鮮王朝は日清戦争で清国が敗れたため、頼る国を宗主国だった清国からロシアに切り替えた。1896年2月から皇帝の髙宗(こうそう)はロシア公使館に移り、そこで政務を執った(露館播遷{ろかんはせん})。
 日露戦争
 そうした状況のなかで、伏見宮貞愛親王に同伴した山縣有朋特命全権大使)は朝鮮半島での衝突を避けようと知恵を出した。満州朝鮮半島で勢力圏を相互に確認し合うというアイデアだった。それが山縣とロシア外相ロバノフとの間に結ばれた協定(山縣・ロバノフ協定)だった。
 ロシアは日本から返還された遼東半島先端の良港(旅順・大連)を租借(そしゃく)した(1898年3月:旅順・大連租借条約)。二枚舌外交で日本との宥和姿勢を見せたのは、旅順要塞化の時間稼ぎだったのだろう。
 1900年、北京の在外公館が清国軍に包囲される事件(義和団事件、北清事変ともいう)が起きた。事件解決後、清国の賠償を命じる北京議定書(1901年9月)が結ばれると、出兵した列強は軍を引き揚げたが、ロシアだけは兵を満州に残したため、同地はロシア領土の如(ごと)き様相となった。
 1903年、ニコライ二世は、エヴニィ・アレキセーエフ(海軍大将)を極東方面総督に指名した。アレキセーエフは朝鮮半島の支配までも可能であると考えるほどに、ロシアの覇権拡大に熱心な男だった。その彼にニコライ二世は外交交渉権を与えた。ロシア極東外交は『いけいけムード』一色となり日本への配慮は消えた。
 日露の緊張にさらなる油を注いだのは、怪しい実業家アレクサンドル・ベゾブラーゾフだった。彼は鴨緑江({おうりょくこう}満州と朝鮮国境)沿岸の材木伐採権を朝鮮から得ると(1898年)、同川沿いのインフラ整備をアレキセーエフとともに進めた。
 日本をしたくなかったセルゲイ・ウィッテ蔵相は、皇帝を説得し同事業を停止するよう説得した(1903年3月)。しかし、アレキセーエフとベゾブラーゾフの動きを見た日本は、対露戦争を避けられないと覚悟するのである(1903年4月21日:京都無鄰庵{むりんあん}会議)。
 1904年1月、日本は満州国をロシアの、朝鮮を日本の勢力圏と認め合うことで対立を回避する妥協案(満韓交換)を出した。当時、東京にいたアレキセーエフは『日本の態度は〝張ったり〟(ブラフ)である(=日本には戦う気はない)』と本国に打電した。対日強硬派のヴャチェスラフ・プレーヴェ内相は、『(万一、戦争になっても)日本に勝つのは簡単で、そのほうが(国民の愛国心の昂揚が期待できる)むしろ内治に有利になる』と対日戦争を歓迎するありさまだった。
 1904年2月8日夜、日本海軍の旅順口攻撃で日露の戦いの火ぶたが切られた(2月4日、御前会議により対露開戦決定)。日本は旅順港の完全封鎖には失敗したが、ロシア海軍の機動力を大きく削ぐことには成功した。要塞化の進んでいた旅順そのものの攻略に日本陸軍(第3軍:乃木希典将軍)は多大な犠牲を払うことになったが、年が明けた1905年1月5日開城(水師営の会見)となった。日本陸軍鴨緑江会戦(1904年4月30日~5月1日)の勝利を手始めに、有利に戦いを進め満州を北進した。
 ロシア国民は、日本との戦いが思っていたほど容易ではないことにすぐに気づいた。特に都市部の住民はそれに敏感であった。1904年7月28日
プレーヴェ内相が社会主義者によって爆殺される事件が起きた。各地で彼の死を喜ぶ市民の姿が見られたことからわかるように、ロシアは戦いの劣勢と内治混乱の二重苦に陥(おちい)った。
 ニコライ二世はプレーヴェ内相の後任に、穏健改革派ピョートル・ミルスキーを充てた。彼は、国民の声を代表される機関の設置を皇帝が認めない限り、内治の安定はないと意見した。当時はいかなる妥協案も拒否していたニコライ二世だったが、11月に入ると軟化し、ミルスキーに改革提案書作成を指示した。ミルスキーは、『改革の基本は立憲君主制への移行であり、とりわけ国民議会(ドゥーマ)の設置が重要である』と具申した。しかし、王権は神から与えられた聖なる権利と信じて疑わないニコライ二世には、とても受け入れられない提案だった。
 この頃の国民の多くは、コディンカ広場の惨劇や日露戦争の劣勢があったとはいえ、皇帝を慕(した)う意識を持っていた。モスクワ管区の秘密警察長官セルゲイ・ズバトフ(任期1901年~03年)が穏健な治安を心がけていたこともあって、国民のそうした意識の醸成(じょうせい)に一役買っていた。彼は親政府(皇帝)の立場をとるという条件付で労働組合の結成も許した。1903年8月、ズバトフはプレーヴェ内相によって解任されたが、彼の奨励で生まれた複数の組織が、政治改革を求める穏健勢力に育った。
 穏健な改革運動のはずが
 その一つが、ロシア正教会神父ゲオルグ・ガポンが指導する組織だった。ペトログラード周辺の工場労働者およそ3万人がメンバーであった。ガポンは、帝国の混乱の責任は皇帝周辺の『君側の奸』にると考えた。メンバーの知識人や実業家らと協議を重ね、『日露戦で次の敗北がある時期を捉えて、皇帝に内政改革を直訴する』という計画を練った。
 1904年12月末、ペトログラードのプチーロフ大型機械・列車製作所(Putilov Plant)で4人の工員が解雇された。勤務態度不良が原因の正当な解雇であったようだが、それとはもはや無関係に不穏な空気が広まった。年が明けた1905年1月第3週に同工場従業員1万2,500人がストライキが周辺の工場に広がった。その規模はたちまち380工場14万人にまで膨れ上がった。
 ガポン神父はこれを皇帝に直訴する好機と考えた。1月5日には旅順が陥落(水師営の会見)していたことも神父の脳裏にあった。1月21日朝、彼を先頭にした市民の行進が始まった。神父は訴状の内容をあらかじめ政府(内務省)に伝えていた。皇帝を称える言葉をちりばめながら、慇懃(いんぎん)な表現で労働環境の改善を求める穏やかな抗議だった。日露戦争の休戦を求める項目もあった。神父は、市民には、『一張羅(いっちょうら)の服を着て、ロシア正教の法具(キリスト画など)を持参せよ』と指導した。酒気帯びの参加は厳禁であった。
 行進に参加した市民は、この直訴がロシア革命の引き金になるなど、思いもしなかっただろう──。」
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 ロシアは、ドイツやフランス同様に「黄禍論」を信奉する白人至上の差別主義者で、非白人非キリスト教日本民族を文明を持たない野蛮人と見下し、神の王国を創るために侵略し地上から消し去ろうとしていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた。
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 日露戦争は、日本にとって正義の戦争・合法的な正しい戦争で、母国防衛目的による積極的攻撃的自衛戦争であった。
 けっして、ロシア、中国、韓国・北朝鮮、その他の国々が厳しく非難する領土拡大目的による大陸侵略戦争戦争犯罪戦争ではなかった。
 日露戦争は、間違った戦争ではなかったし、避けられた戦争でもなかった。
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 スターリンは、日露戦争の復讐として、日ソ中立条約を破棄し、逃げ惑う日本人一般市民(主に女性や子供)を大量虐殺し、満州南樺太・千島列島を攻撃し、北方領土4島を不法占拠し、アメリカが承認した北海道東半分を強奪しようとした。
 北方領土4島は、アメリカがヤルタ会談ソ連に与えた。
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 ウィキペディア
 ニコライ2世(ロシア語: Николай II, ラテン文字転写: Nikolai II、ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ、ロシア語: Николай Александрович Романов, ラテン文字転写: Nikolai Aleksandrovich Romanov、1868年5月18日(ユリウス暦5月6日) - 1918年7月17日(ユリウス暦7月4日))は、ロマノフ朝第14代にして最後のロシア皇帝(在位1894年11月1日 - 1917年3月15日)。

 ホディンカの惨事の犠牲者
 戴冠式の数日後、モスクワ郊外のホディンカ(Ходынка)の平原に設けられた即位記念の記念祝賀会場(飲み物とパン、それに記念品が配布されると告知された)に来訪した50万に達する大群衆の中で順番待ちの混乱から将棋倒し事故が発生し、多数が圧死・負傷するという事件が起こった(ホディンカの惨事(英語版))。この事故は約1,400名の死者と1,300名を越す重傷者(その大半は重度障害者となった)を出したが、新皇帝と皇后は何ごともなかったかのように祝賀行事に出席するなど、事件への反応は国民からは「冷淡」「無関心」とも取れるもので、ロシア国民、特に貧困層の反感を買うこととなった。
 初めは父の政策を受け継いで蔵相セルゲイ・ヴィッテを重用した。ヴィッテは1892年に運輸大臣、翌年には蔵相に就任しており、1903年まで現職としてロシア経済の近代化に務めた。なかでも鉄道網の拡大には熱心で、シベリア鉄道における彼の功績は大きかった。
 ヨーロッパにおける友好政策
 ニコライ2世は、ヨーロッパにおいては友好政策をとり、1891年にフランスと結んだ協力関係を、1894年には露仏同盟として発展させるとともに、オーストリア=ハンガリー帝国フランツ・ヨーゼフ1世や従兄のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とも友好関係を保ち、万国平和会議の開催を自ら提唱して1899年の会議ではハーグ陸戦条約の締結に成功した。
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 皇帝や貴族達、政治家や軍人、資本家や大地主らと飢える人民との格差は拡がり、貧富の格差は食べ物の格差、健康の格差となって社会を蝕み、それがロシア革命を生み出し、地獄のような内戦へと暴走し、共産主義者による大虐殺を引き起こした。
 フランス革命も食糧不足が引き金となっていた。
 中国における王朝交代も食糧問題で起きていた。
 動物である人間は、食べ物で生きているのであって、宗教や哲学、思想ましてや主義主張・イデオロギーで生きているわけではない。
 富裕層・金持ちは、豊かな食事を贅沢に食べ、飢えに苦しむ貧しい人民が何れだけいよと、餓死者がどれほど出ようが気にはしなかった。
 後年、富裕層が共産主義者によって人民の敵として虐殺され資産を没収されたのは、自業自得というしかなかった。
 前ロシア皇帝ニコライ二世とその家族は、女性も子供も、共産主義者によって容赦なく無惨に惨殺された。
 危機意識の強かった貴族、政治家、資本家、金持ち達は、国家を立て直し貧民を救済しようという祖国愛・愛国心はなく、個人主義で我が身大事として持てる資産を持ち、滅亡する母国ロシアを捨て安全な欧米の西側諸国へ亡命した。
 それが、非情な歴史の事実、我が身可愛さの人間の本質である。
 賢いネズミは沈没する船から逃げ出すが、愚かなイヌやネコは沈没する船から逃げ出さず命を落とす。
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 ニコライ二世は、優柔不断に、日本との戦争は避けられないと考えてはいたが決断はしていなかった。
 対し、日本はシベリア鉄道が完成する前の早い段階での戦争を決断していた。
 ロシアの対日強硬派は、国内の貧困と食糧不足などの諸問題を解決する為にも、日本と戦争をしロシアの勝利を国民に届けて不満・不安を解消し社会主義改革派や共産主義革命派を抑え込むべきだと、考えていた。
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 小国が不利を承知・負けて死ぬ事を覚悟して大国に正規の国家間戦争を仕掛ける正攻法は、宣戦布告前若しくは同時に、精鋭の小部隊で敵大部隊を奇襲攻撃する事である。
 それは、卑怯でもないし、犯罪でもないし、テロでも騙し討ちでもない。
 日露戦争まで、戦時国際法では小国に与えられた弱者の権利であった。
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 世界最大・世界最強の陸軍大国ロシアは、弱小国で文化度の低い日本に自国の強大な軍事力を見せ付ければ、他のアジア諸国のように戦わず降伏するという確信があった。
 世界各国の政府や軍事専門家も、戦史の常識から考えて「ロシア完勝・日本惨敗」と予想していた。
 つまり、日本には万に一つの勝利もないと。
 戦争をするかどうかの決定権は、絶対優位にあるロシアにあるとされ、絶対不利の日本は一か八かの常識なき無謀な博打的先制攻撃はしないだろうと。
 そして、戦争を停戦させるか継戦するかの決定権は、「大国・戦勝者にあって、小国・敗戦者にない」というのが世界常識である。
 小国・敗戦者が敗北を認め白旗を掲げ武器を置いて武装放棄し両手を挙げ抗戦意思のない事を示して投降しようと、大国・戦勝者がそれを認めなければ降伏した敵国の兵士や非戦闘員を殺す事は国際法上合法であった。
 何時の時代、何処の国・地域に於いても、小国・敗戦者の生殺与奪の権利は大国・戦勝者が握っている。
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 ロシアは、日本との戦争を勝利し極東アジアへの侵略を加速させるべく、シベリア鉄道を建設する為の資金をユダヤ系国際金融資本であるフランス・ロスチャイルドから得ていた。
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 アメリカの鉄道王ハリマンは、世界一周する鉄道網計画の為にウォール街の国際金融資本家から多額の融資を得ていた。
 ウォール街の国際金融資本家は、ロンドン・シティのユダヤ系国際金融資本とつながっていた。
 国際金融界を支配していたのは、イギリス・ロスチャイルドであった。
 グローバル思考のハリマンは、日露戦争でロシアが勝てば世界一周鉄道網計画をロシアに持ち込んだ。
 ハリマンにとって、世界一周鉄道網計画の相手国がロシアだろうと日本であろうがあるいは清国であろうと誰でも良かったのであるが、たまたま南部満州管轄権と東支鉄道=南満州鉄道の経営権を獲得したのが日本だから交渉しただけである。
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 如何なる戦争も戦費で行われる。
 軍隊や軍艦の数は、支出できる軍事費で決まっていた。
 それが、「百発一中の大砲百門」論である。
 兵士の命は、金を生む消耗品に過ぎなかった。
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 アメリカ・キリスト教会もソ連共産主義勢力も、裏ではユダヤ系国際金融資本とつながっていた。
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 ドイツ国防軍は、ロシア帝国を崩壊させる為にレーニン等に資金と武器を与えてロシア革命を支援した。
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 ウォール街の国際金融資本家達は、ロシア帝国ロマノフ王朝の膨大な財宝とカスピ海バクー油田を手に入れるべく、トロッキーユダヤ人革命家達に資金と武器を与えてロシアに送り出した。
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 日本にとって最も恐ろしい敵、油断できない敵、手強い敵は、排他的不寛容なキリスト教会と反宗教無神論共産主義マルクス主義)であった。
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 敵日反日の朝鮮は、日本に対する祖国防衛として、まず清国(中国)を日本との戦争(日清戦争)にけしかけるが清国が敗北するや、次ぎにロシアを引き込んで日本との戦争(日露戦争)を引き起こそうとしていた。
 つまり、朝鮮は平和主義を貫く為に自ら日本とは戦争せず大陸国に泣きついて庇護を受け、大陸国に日本を攻撃させていた。
 朝鮮にとって日本の敵対勢力は全て味方であった。
 日本にとって朝鮮とは、古代から、信用できる友・友人ではなく、頼れる親友でもなく、命を預けられる戦友ではなく、正しく知って貰える知人でもなく、悪意を持って陰謀をめぐらす知人であり、安心して隙を見せると背後から襲ってくる、忍び足で寝首を掻きにくる油断できない恐ろしい敵であった。
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 朝鮮の局外中立とは、日本に対しては利敵・敵意・悪意の中立であり、清国・ロシアに対しては友好・好意の中立であった。
 それ故に、朝鮮の反日派勢力は日本軍の軍事情報を極秘に清国やロシアに流していた。
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 日本は、朝鮮の策謀で清国とロシアの戦争に引きずり込まれた。
 日露戦争時。日本は第三国がロシアに味方しない為に日英同盟を締結した。
 ロシアに味方する第三国とは、フランスとドイツ、そして清国と朝鮮であった。
 日本にとってロシアは、江戸時代後期からの侵略してくる恐れのある軍事帝国であった。
 つまり、日露戦争は避けられない戦争であり、朝鮮と中国はロシアに味方する危険な敵国であった。
 軍国日本は、敵国に包囲された四面楚歌の状況下で、薄氷(はくひょう)を履(ふ)むように日本を外敵から防衛していた。
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 ロシア帝国の崩壊は、貧富の格差よりも人民が食糧不足で飢え始めたからである。
 西洋の厳しい階級社会で生きてきてきた貧しい人民にとって、天地がひっくり返らない限り変える事ができない階級には関心がなく、最大の関心事はパンであった。
 人民の祈りは、命の糧・今日の食事を与えてくれた父なる神・主への感謝であった。
 反宗教無神論共産主義者は、人民の祈りを共産党への忠誠心に替えた。
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 共産主義者は、暴力的人民革命を起こす為に食糧不足を利用し、人民統制に飢えと餓死を道具として使った。
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