- 作者:久元, 太田
- 発売日: 2016/12/22
- メディア: 単行本
関連ブログを6つを立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本人軍国主義者は、人道貢献としてロシア人を何度も何度も助けたが、ロシア人からは感謝の言葉はなかった。
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ロシア人共産主義者は、日本人(女性や子供)を虐殺して、日本領北方領土(4島)を暴力で強奪した。
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現代の日本人、特にリベラル派・革新派・エセ保守派そして一部の保守派、左翼・左派・ネットサヨクには、昔の日本人が行った人道貢献は理解できない。
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ロシア客船リャザン号座礁。
ソ連貨物船インディギルカ号座礁。
ロシア人避難学童やポーランド戦争孤児らの救助。
日本人は、人として、人が成さねばならない行為を行っていた。
日本人にとって「困っている人を助ける」「弱っている人に手を差しのべる」という行いは、天皇の大御心・御稜威であって自慢する事ではなかった。
謙虚で控え目な日本人は、人助けを自慢する事を「恥」、心の「穢れ」として嫌悪した。
日本皇室は、敵味方に関係なく、差別する事なく、区別する事なく、誰でも助ける事を望んでいた。
明治天皇も、大正天皇も、昭和天皇も、そして平成の天皇陛下も、全ての天皇が、「人を無償で助ける」事を望んでいた。
ユダヤ人も、ロシア人も、中国人も、朝鮮人も、モンゴル人も、満州人も、チベット人も、東南アジアの人々も、全ての人に日本人と同じように接して手を差し伸べた。
それが、日本の天皇である。
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ロシア人が日本人に行った行為は、逃げ惑う女や子供の日本人避難民の大虐殺のみであった。
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レーニンは、日本の正義と正当性を認めた。
「日本にとって、戦争の主要目的は達成された。進んだ進歩的なアジアが、遅れた反動的なヨーロッパに、取り返しのつかない打撃を加えた」
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日本陸軍は、ロシアの隣国フィンランドに武器弾薬を提供し、レーニンらに活動資金を与えていた。
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軍国主義国家日本は、清国・朝鮮と言った反日国家に包囲されながらも、一国でロシアの侵略から天皇と祖国と民族を守る為に孤独な戦いを続けていた。
ロシアは、凶暴な侵略者であった。
軍国日本には、戦争の道しか残されていなかった。
世界史は、白人と戦った事を「悪」と決めつけ、領土拡大を目的とした犯罪行為と教えている。
日本民族は、生まれた時から好戦的な極悪民族であると。
戦死した日本兵は祀られている靖国神社は、戦争を美化する犯罪的宗教施設でるから廃絶せよと脅迫されている。
如何なる国も団体・組織も、日本を弁護しない。
日本は、何時の時代でも国際的に孤独である。
その証拠が、靖国神社問題であり、北方領土問題である。
特に声高に日本に非難するのが、中国、韓国、北朝鮮、ロシアそしてアメリカである。
この5ヶ国は、日露戦争に深く関係している国々である。
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ロシア帝国と戦っていたオスマン・トルコやフィンランド、そしてロシア帝国の支配下にあったポーランドなどは、親日派として、日本の勝利を願い、日本の勝利の為に協力した。
日本と敵対していた大韓帝国(朝鮮)と清国(中国)は、日本が負ける事を願っていた。
白人の植民地で、白人の奴隷として地獄の様な仕打ちを受けていたアジア人やアフリカ人は、日本人がロシア帝国に勝つ事を望んだ。
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藤原正彦「日本がもはや存続するに値しない国になってしまったというのであれば、滅ぶよりほかにない」(『国家の品格』)
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チュッチェフ「知恵でロシアは分からない。
一般の物差しでロシアをはかる事はできない。
ロシアは独特の姿をしているのだ。
ロシアはただ信じる事ができるのみ」
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日本人には、中国人や朝鮮人同様にロシア人を理解できない。
ロシア人は、得体が知れない民族である。
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日本人は、ロシアそしてソ連・共産主義から天皇と祖国そして民族の伝統、文化、宗教を守る為に軍国主義化した。
その祖国防衛が、戦争犯罪とされた。
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ロシアは、日本人軍国主義者が行った善意を踏みにじり、恩義をなきものとして捨て去り、恩義を仇で返す。
軍国主義者日本人の善意は、ロシア人には通用しない。
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ロシアは、日本を戦争犯罪国家として弾劾し、対日戦勝利を盛大に祝賀し、日本に戦争責任を追求し、歴史の変更を断固許さない。
そこに、軍国主義者日本人の善意は完全に抹消されている。
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世界規模の日露戦争(イギリスの代理戦争)。
トルコは、親日派として、エルトゥールル号座礁遭難事件(明治23年)への感謝として、ダーダネルス海峡を封鎖してロシア帝国黒海艦隊の足を止めた。
トルコ帝国にとってロシア帝国は宿敵で、連戦連敗で勝つ事が出来ず涙を呑んでいただけに、日本が勝利する様に声援を送っていた。
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白人のキリスト教欧米列強の侵略を受けていた有色人種は、小国の天皇制度国家日本が勝利する事に期待していた。
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日本陸軍は、朝鮮国内の親日派勢力の拡大を見て、満州への兵站基地として朝鮮を積極的に活用する事を望んだ。
外務省は、改革派などを支援して失敗した経験から、如何様に努力したところで朝鮮の反日意識は根っからのもので変わる事はなく、日本に協力する事も望み薄である以上は、深入りすればするほど反日は強まり政情不安を起こすだけである警告した。
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大韓帝国は、日本に不利になるように局外中立を宣言した。
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1899年 中江兆民は、ロシアを断固撃ち、大陸に覇を唱えるべきだと訴えた。
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1903年 ニコライ2世「日露戦争は有り得ない。なぜなら、朕は戦争を欲しない。ゆえに開戦の心配はない。日本人が攻撃してきても、ロシアにとって反撃と言うより、それは軍事的な散歩である」
ニコライ2世は、戦争より平和を望んでいたわけではなく、シベリア鉄道が完成するまで戦争を延期したかっただけである。
世界の常識は、「弱小国は、世界的な大国に対して、敗北する事が分かっていながら戦争を仕掛けてくる事はない」である。
世界戦争史は、戦争の主導権を持つのは軍事大国で、軍事小国は屈辱に塗れながらそれに従うのみであるとしている。
つまり。世界最強の陸軍を持つロシア帝国が戦争を行わなければ、日本は戦争を恐れる事はないと言う事である。
開戦時の陸軍兵力
日本軍。常備軍約28万人。予備役約31万人。
ロシア軍。常備軍約113万人。予備役約350万人。
満州に於けるロシア軍。正規軍約10万人。警備兵約2万人。
伊藤博文は、ロシア帝国との戦争を避ける為に「満韓交換論」を提案した。
ロシア側は、満州は既にロシア帝国の支配下にあるとして、朝鮮半島分割案を逆提案した。もし、日本が譲歩すれば、一気に朝鮮半島全てを支配下に入れる積もりであった。
日本側は、ロシア帝国の真の目的が分かるだけに「朝鮮南北分割案」を拒否し、平和解決を断念して、ロシア帝国との戦争を決断した。
ロシア帝国は、満州の軍事力が日本に比べて劣勢にあった為に、シベリヤ鉄道が完成するまでは日本と戦争をする気はなかった。
仁川港のイギリスやアメリカの船舶は、港内に停泊していたロシア海軍の巡洋艦ワリヤーグ号(6,000トン級)に対して、港内で戦闘が始まる事を恐れて退去を申し込んだ。
ワリヤーグ号のルードネフ艦長は、港の外に日本海軍の巡洋艦浅間(1万トン級)が待っている為に、出港して砲火を交えれば負ける事が分かっていたがやむなく出港した。
ワリヤーグ号は、浅間との戦闘で大敗し、夥しい死傷者を出して湾内に逃げ込み、捕獲を避ける為に自爆を決意した。
外国船は、ワリヤーグ号が港内で自爆すると航行に邪魔になるとして猛反対した。
ルードネフ艦長は、日本軍に引き上げられるという屈辱を覚悟して、艦底のピンを抜いて自沈した。
2月 日本は、ロシア帝国に対して宣戦布告して、世界を驚かせた。
4月 皇帝派ロシア人は、ウクライナのキシノウでユダヤ人47名を虐殺し90名を負傷させた。世界を震撼させた、キシノウ虐殺事件である。
ニューヨーク・ウオール街の重鎮である金融投資会社クーン・ローブ商社のジェイコブ・シフは、セオドア・ルーズベルト大統領にロシア帝国への強い態度を要請した。
アメリカの駐ロシア大使ロバート・マコーミックは、ワシントンの不快感をロシア政府に伝えるのみでそれ以上の行動をとらなかった。
ジェイコブ・シフは、アメリカの手ぬるい外交に激怒して、ニューヨークで5万人規模の反ロシア大会を開催し、政府に対し人道的な見地からの軍事介入を求めた。
セオドア・ルーズベルト大統領は、ユダヤ人には同情しても、ユダヤ人を助ける為にロシア帝国との関係を悪化させる気はなかった。
イギリスは、ドイツ帝国に対抗する為に、利害関係にあるフランスと英仏協商を結んだ。
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明治天皇は、恐露症の伊藤博文同様に、大国ロシア帝国との戦争を避ける為の外交努力を望んでいた。その為に、政府や軍部が決裁を仰ぐ開戦の詔勅を遅らせていた。
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日露戦争。ロシアは、日本への侵略を再開した。
朝鮮は、ロシアを新たな宗主国とし、敵国日本を滅ぼすべく、日本軍が負けるようにロシア軍に協力した。
日本軍は、ロシアの侵略から祖国日本を護る為に満州で戦争を始めたが、領土拡大が目的ではなかった為にロシア領への侵攻を行わなかった。
勝利の代償として得た南満州鉄道と付属地以外の占領地を清国に返還し、戦場として使った事への使用料を清国に払った。
日本は、ロシアの復讐戦に供えて清国と朝鮮との関係修復に全力をを尽くし、両国に親日派を増やす為に、民間交流を活発化させ、両国から多くの留学生を受け入れた。
親日派を増やす取り組みは、官民共に全て失敗し、日本の善意は届かず無駄な努力に終わった。
所詮、中国、朝鮮、ロシアの三ヶ国は根っからの反日派国家である。
1904年 ロシアは、朝鮮の協力を得て朝鮮半島に軍隊を進駐させ始めた。
2月10日 日本は、ロシア帝国に宣戦布告した。
旅順攻防戦。203高地の死闘。
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日本陸軍は、敵の敵は味方として、ロシア帝国の隣フィンランドに武器弾薬を提供した。
戦争後。明治天皇は、マンネルハイム将軍に勲章を授与した。
フィンランドは、ポーランド同様に日本陸軍と深い関係を持っていた。
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1905年1月 ペテルプルグで、血の日曜日事件が起きる。
日本軍部は、ロシア人共産主義者に活動資金を与え、共産主義革命を実現させようとしていた。
1月5日 水師営の会見。第三軍司令官・乃木希典大将は、旅順要塞司令官・アナトーリイ・ステッセリ中将と会見した。
明治天皇は、山縣有朋を通じ、乃木に対し、ステッセリが祖国の為に力を尽くした事を讃え、武人としての名誉を確保するよう要請していた。
3月1日 奉天会戦は、白人と非白人の世界規模の大会戦であった。
大山 巌「これは日露戦争の関ヶ原である」
3月9日 アレクセイ・クロパトキン総司令官は、児玉源太郎による陽動作戦に惑わされて全軍に撤退を命じた。
日本軍 、24万9,800人
ロシア軍、36万7,200人。
陸軍騎兵は、日本軍一連隊三個中隊800騎で、ロシア軍178個中隊2万6,700騎。
日本の主力は歩兵であって、騎兵ではなかった。
日本民族は、狩猟民族ではなく農耕民族として、馬の価値は輸送手段としか考えていなかった。
戦死傷者。日本軍、7万人。ロシア軍、9万人。
朝鮮は、日本にとっての不安要素であった。
日本軍は、奉天城を占領したが、追撃戦に出るだけの予備兵力も弾薬もなかった。
日本には、これ以上の継戦は不可能で、講和を切望していた。
5月27日 日本海海戦。
バルチック艦隊の各艦は、不運にも海戦に敗れて降伏・投降する場合に備えて、戦時国際法規に従って白旗と戦闘相手国の日本海軍旗・旭日旗を用意した。
軍艦が降伏・投降する手順として、戦時国際法規では、砲門を向けず艦を停止させ、白旗を見える一番高い場所に艦尾に相手国の海軍旗を掲げる事になっている。
大抵の国の海軍艦艇は、国際的に認証されている日本海軍旗・旭日旗を持っていた。
唯一。旭日旗を否定しているのは韓国である。
軍隊は、敗北する事を想定して事前に用意をするものである。
こうした国際法や国際ルールを守らず、悪用していたのが中国であった。
バルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)司令長官ジノヴィー・ペトロヴィチ・ロジェストヴェンスキー中将は、負傷し捕虜となり、佐世保の海軍病院に入院した。
東郷平八郎大将は、入院中のロジェストヴェンスキー提督の見舞いに訪れ、軍人として礼節を尽くした。
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世界史を変えた3大海戦、古代ギリシャのサラミス海戦、スペイン無敵艦隊のアルマダ海戦、日本海海戦。
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秋山好古率いる日本騎兵旅団は、世界最強と恐れられたロシアのコサック騎兵を奉天会戦で破り、何千年と続いた騎兵戦の歴史に終止符をうった。
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6月1日 ロシア帝国の宮廷会議は、シベリア鉄道が完成して大兵力を投入できる様になった為に、戦争継続を決定した。
「ロシアはまだ一片の領土も占領されていない」
対して。日本軍には、ロシア軍の大攻勢をしのぐだけの軍事力は残されていなかった為に、戦争を続ければ日本は敗北し軍事占領され消滅する事は明らかであった。
ルーズベルトは、講和の仲介に当たって、日本に樺太の軍事占領を進め、ロシア帝国には日本軍が帝国領を侵略する可能性があると伝えた。
6月7日 ロシア帝国は、非白人の日本軍に神聖な帝国領を犯されるという不名誉を嫌って、講和交渉を受け入れた。
7月7日 日本軍は、アメリカの内意を受け、失われていた樺太に上陸して全島を軍事占領した。
ロシア軍の樺太守備隊約5,000人は、戦意なく、抵抗らしい抵抗もせず降伏した。
白人の領土内で白人兵士が攻めてきた非白人兵士に降伏した、歴史的一大事件であった。
ロシア帝国にとって、非白人によって帝国領を奪われた初めての経験で、白人至上主義のロシア人にとって屈辱的な日であった。
西洋キリスト教文明白人国家が、自国領を非白人非キリスト教弱小国家に武力で奪われたという、世界史上、他に例のない一大事件であった。
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皇室に所縁の深い日本赤十字は、捕虜として収容されたロシア兵の怪我や病気の治療と看護を献身的に行った。
従軍看護婦は、天皇の御稜威・大御心に従い、日本人兵士もロシア兵も分け隔てなく平等に接した。
日本軍は、皇室が行うロシア軍兵士捕虜への慈善活動を積極的に協力していた。
日本軍兵士は、収容所に収容された敵軍兵士捕虜を侮辱したり、虐待したりは、決してしなかった。
もし捕虜虐待すれば、天皇への不敬罪・反逆行為となり軍法会議で処罰された。
天皇は、負傷して降伏した敵軍兵士捕虜を収容して保護する事を臨んでいた。
恩を売る為に行ったのではなく、人として当然の行為として敵軍捕虜の面倒を見た。
日本人は、戦場でロシア人と殺し合ったが、戦闘以外でロシア人を虐殺した事はなかった。
むしろ、積極的にロシア人の負傷者や病人を助けていた。
日本軍は、大元帥・天皇の命令で動き、天皇の命令に逆らう事はなかった。
だが。天皇の思いも、日本軍の好意も、ロシア人には届かず報われる事なく踏みにじられた。
国際社会では、他人に善かれという善意は何の意味もなさなかった。
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9月 ポーツマス条約。反日的なセオドア・ルーズベルトは、日清戦争で得た賠償金で日本海軍を増強した事を教訓として、軍備強化を阻止すべく賠償金の受け取りを放棄する様に日本側に圧力をかけた。そして、領土の割譲も許すつもりはなかった。
中国と朝鮮は、ロシア帝国の軍事力を利用して軍国日本を滅ぼそうとしたが失敗した。
日比谷焼き討ち事件。
司馬遼太郎「この大会と暴動こそ、むこう40年の魔の季節への出発点ではなかったかと考えている」
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ユダヤ人ヨセフ・トルンペルドールは、祖国ロシアへの忠誠の証しとして、ロシア軍兵士として旅順攻防戦に参加した。
旅順要塞都市陥落後は捕虜となり、ユダヤ人捕虜900人と共に大阪の捕虜収容所に収容されたが、初めてユダヤ人という理由だけで差別さず自由な生活を味わった。
昭憲皇太后と日本赤十字社は、日本兵やロシア兵に関係なく負傷した者は分け隔てなく公平に治療した。
日本は、世界で文明を持った近代国家として認められる為に、国際法を厳格に守っていた。
武士道精神のサムライは、死力を尽くして勇敢に戦い負傷して捕虜になった敵には敬意を表し、名誉を傷付けない様に細心の注意を払い、傷の手当てをし帰国させた。
サムライが最も嫌い軽蔑する捕虜とは、自分一人が生き残る為に捕虜になって情報を話す裏切り者である。
日本軍が「俘虜の恥」としたのは、死を覚悟して戦って捕虜になった勇者ではなく、生き残る為に味方を売った卑怯者の事である。
サムライは、命を惜しんだ卑怯、卑劣、未練を最も嫌った。
多神教の神道から、捕虜の信仰の自由を保障し、ユダヤ人にはユダヤ教を許した。
トルンペルドールは、明治天皇が統治する日本を見て、民族には祖国が必要である事に気付き、250人の同志と共にシオニズム(イスラエル建国運動)組織を収容所内で立ち上げた。
明治天皇は、トルンペルドール等の活動を耳にして感動し、片腕をなくした彼の為に義手を送った。
トルンペルドールは、捕虜に寛大な態度で接する明治天皇に敬愛の念を抱き、宗教や民族で差別や迫害を行わない日本民族に親愛の情を抱き、一度戦場に出れば天皇と祖国な為に戦死するまで戦い抜いた日本軍兵士に畏怖の念を抱いた。
ユダヤ人は、日本人を見習い、日本人兵士のように戦うべきだと説いた。
トルンペルドール「国の為に死ぬことはよいことだ」
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ロシア代表団は、ポーツマス条約が締結した事を、本国のロシア皇帝の前に、戦時国債を大量に購入してくれているドイツの国際的金融資本家のメンデルスゾーン(アシュケナージ系ユダヤ人)に電報を打ち借金融資を止めた。
各国のユダヤ系国際金融資本は、日本とロシア帝国の両方に軍事費を供与して利益を得ていた。
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日露戦争の被害。
日本軍、 戦死8万8,000人、負傷者15万3,000人。
ロシア軍、戦死4万3,000人、負傷者14万6,000人。
日本軍の方が、ロシア軍より被害が多く、全ての戦闘で苦戦を強いられていた。
日本人兵士の戦死者は、中国や韓国・北朝鮮と一部のキリスト教会が否定する靖国神社の祭神として祀られた。
日本人は、祖国日本をロシアの植民地もしはロシア領に併呑されない為に、一国のみで絶望的戦争を戦って勝利を勝ち取った。
軍国日本は、国家存亡の危機にあったがゆえに戦ったのである。
非キリスト教徒日本人は、犬の如く強大なキリスト教国家に尻尾を振って奴隷になる事も、キリスト教徒ロシア人になる事も拒否した。
だが。日本国内には、キリスト教国と戦う事に反対する非戦論者がいた。
サムライ日本人は、中国人とも、朝鮮人とも違うのである。
これは、生きるか死ぬかの自衛戦争であった。
戦争反対の平和主義者は、如何なる理由があろうとも、全ての戦争を否定している。
人を殺すならば、進んで、家族一家総出で奴隷になると。
当然。彼らは、日露戦争を否定し、日本軍の自衛行為を認めない。
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軍国日本は、祖国を守って戦死した兵士を靖国神社に祀った。
中国や韓国・北朝鮮は、祖国防衛の象徴である靖国神社を否定している。
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日本軍の勝利によって、ロシア帝国による日本侵略という、江戸後期以来の危機は取り除かれた。
アジア・アフリカ諸民族は、白人キリスト教徒の植民地支配から独立する勇気を得た。
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後年。極東国際軍事裁判所は、中国や朝鮮などアジア諸国の訴えを受けて、日露戦争を日本の大陸侵略の一つに加えようとした。
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白人のキリスト教徒であるロシア人は、宗教的白人至上主義者として、人種差別からアイヌ人を人と認めず虐待した。
非白人は、文明を持った正常なヒトとは認められていなかった。
ロシア人にとって、人間以下のアイヌ人が死のうが飢えようが気にもしなかった。
チェーホフ「日本人の退去と共に、もはや誰一人魚を捕る者はいず、稼ぎはなくなって、アイヌは飢えを経験するようになった」
樺太のエンチゥ(樺太アイヌ人)は、ロシア人の支配下で差別的政策で飢えに苦しめられ、人口は半分以下に激減していた。その為、ロシア人を憎み、日本人に期待した。
日本軍が樺太占領の為に上陸するや、エンチゥは日本軍の道先案内を志願した。
日本への復帰を希望したが、日本領になったのは樺太の南部だけで、北部はロシア領のままであった。
日本は、対ロシア戦略からエンチゥを味方に付けるべく、隔離政策をとらず、同化の為に積極的に保護し、天皇の臣民として教育した。
日本人移住者が増えるや、日本人との結婚によって混血化して民族性を失った。
ロシア領に戻った北樺太のエンチゥが、その後どうなったかは不明である。
朝鮮人が反日としてロシア軍に協力したのに対して、アイヌ人は日本に味方し勝利に貢献した。
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日本軍による捕虜収容は、国際法に則った非の打ち所の無い模範的なものであった。
アレクセイ・A・キリチェンコ「世界の歴史の中で軍事捕虜が、日本に於いてもロシアに於いても人間的に扱われた最後の戦争だった」(『知られざる日露の200年』)
軍事捕虜。日本人兵士捕虜約2,000人。ロシア人兵士捕虜7万4,000人以上。
日本各地に設けられた捕虜収容所に送られたロシア人兵士捕虜達は、日本の天皇・国家・庶民の関係がロシアの皇帝・国家・人民の関係とは全く違うことに衝撃を受け、ロシア人民の日本庶民の様な生活すべきだと考えた。
レーニンは、日本軍の捕虜となったロシア人元兵士を革命闘士に再教育すべく、日本に亡命していたロシア人革命家に収容所内で政治部を作るように指示した。
ロシア人革命家は、日本軍の監視を誤魔化す為に、日本天皇は人民解放の守護者であると持ち上げた。
日本軍は、国内のロシア人捕虜収容所内で共産主義革命家が生まれている事を黙認した。
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2018年10月6日 産経ニュース「【テレビ】ロシア国営テレビが松山でロケ 日露戦争時の捕虜との交流探る
坂本屋でお接待を体験するドモガロフさん(右)たち=松山市
ロシア国営テレビ「第一チャンネル」で放送されるドキュメンタリー番組「マツヤマの桜」の撮影が松山市周辺で行われており5日、主演のアレクサンドル・ドモガロフさんらが同市窪野町の旧遍路宿「坂本屋」で「お接待」の風景を撮影した。
「マツヤマの桜」は日露戦争時、同市にあった収容所で過ごしたロシア兵捕虜が、なぜ人間らしい温かな交流を結ぶことができたのかを探る番組。南海放送が制作し、ロシアで来月から3回シリーズで放送されるという。
ドモガロフさんは、南海放送の開局65年記念作品として、来年3月から全国公開する映画「ソローキンの見た桜」で主演のボイスマン大佐を務めている。ドキュメンタリー番組のため、1〜6日、劇作家のコンスタンチン・サモイレンコさんらと松山城やロシア兵墓地、鹿島などで撮影。この日は遍路装束で四国霊場第46番札所、浄瑠璃寺を同市の田中信也さんの案内で参拝し、坂本屋を訪ねた。
坂本屋では地元住民たちといろりを囲み、イノシシ鍋や釜で炊いたおむすびをほおばった。イノシシはロシアでは高級食材らしく、ドモガロフさんたちは「フクースナ(おいしい)」と笑顔。「日露戦争時、人口3万人の松山市で、6千人ものロシア兵捕虜が収容されていたと聞き、驚いた。家を訪れた旅人を無償でもてなす文化は世界中にあるが、戦時下、なぜ交流できたのかをロシアの人々に伝えたい」と話した。」
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日本海軍は、対米戦略の為に親ソ派となった。
戦勝の報酬として、南樺太を合法的に日本領とした。
明治末期から大正にかけて、艦艇の燃料は石炭から石油に変わった。
日本には石油がなかったが、北樺太には豊富な石油資源が発見された。
日本海軍は、軍艦を動かす為に北樺太油田開発の参加を熱望した。
日本は、1925年のソ連との交渉で、北樺太油田面積を半々とし、開発を45年間有効とする契約を結んだ。
ソ連は、1941年4月の日ソ中立条約交渉で石油利権の解消を求めたが、松岡外相は拒否して石油利権を守り通した。
軍国日本は、1944年に、ソ連に太平洋戦争終結交渉の仲介を依頼する為に、北樺太油田利権をソ連に移譲した。
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1907年1月1日 クロウ覚書「最強の陸軍力と最強の海軍力が一つの国家の中で統合すれば、世界がこの悪夢を克服する為に結束するのは必然である」
ドイツ帝国は、国家戦略として、経済発展によって陸軍大国となり、イギリスを凌ぐ工業力で1897から大規模建艦計画で海軍大国への道を歩み始めた。
西洋列強は、ドイツ帝国の陸海における軍事力強化によって、平和を維持してきた勢力均衡が崩壊する事を警戒した。
イギリスは、ドイツ海軍に対抗する為に、技術の革新を加速させて1906年に今ある戦艦を全て旧式とする最新式のドレッドノート型戦艦を進水させていた。
イギリスやフランスとドイツ帝国は、お互いが敵同士であるにもかかわらず、相手を粉砕する軍事力を付ける為に貿易や投資を活発に行っていた。
民間の経済活動や交流活動が活発化すれば、対立は解消され、戦争が起きないというのは幻想である。
イギリスとドイツ帝国は、軍事バランスを維持する為に、政治と経済は別物と考え相互の交易と投資を続けた。
6月10日 日本は、戦時国債の償還にあてるべく日仏協約を締結し、3億フランの借款を得た。その見返りとして、仏印の独立派指導者である潘佩珠を追放した。
日本政府は、フランスとの関係を維持する為に独立派ベトナム人の活動を弾圧した。
右翼と軍部は、フランスにばれない様に匿いながら逃がした。
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1910年6月4日 国産海底ケーブル敷設船「小笠原丸」は、長崎市池島沖で座礁したロシア客船リャザン号を救助した。
ロシア人達を助けた小笠原丸は、1945年に日本領南樺太から日本人避難民を北海道に輸送途中で撃沈され。
漂流した女子供は、ロシア人水兵によって虐殺された。
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ロスロップ・スタッダード「すでに400年の間、連続的勝利によって、白人は本能的に自己の膨張は無限に継続するものと信ずるに至った。1904年の日露戦争以前には、自己の膨張が停止するというような思想は白人1,000人中の1人も考え及ばなかった」
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国連及び国際司法機関は、「全ての歴史的事情を調べ尽くした上で」、戦時国際法に照らして、軍国主義国家日本の全ての国防計画は大陸侵略の戦争犯罪であったと裁定した。
国際世論は、天皇制度国家日本を、未来永劫、時効無き戦争犯罪国家との烙印をおした。
そこには、日本の一切の弁明を許さない厳しい批判があり、日本の如何なる説明も受け付けないという非情さがある。
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現代日本は、国際世論の告発を真摯に受け止め、戦前までの全ての防衛戦略は誤りであった事を認め、国際社会に向かって土下座する様に謝罪している。
戦争犯罪を認めて反省し謝罪する事が、国際化の証しとされた。
日本の反戦平和主義者は、非暴力無抵抗主義を絶対価値観として、侵略者には抵抗せず、武器を置いてその命令に服従すべきであると子供達に教えている。
彼等は、国家権力を完全否定する無政府論者として、公的な国益よりも私的な個人益を最優先すべきであると子供達に教育している。
左翼・左派のマルクス主義者は、反天皇であり、国歌「君が代」と国旗「日の丸」に反対している。
「銃を持って戦争をして人を殺すよりも、平和の為に人を殺さず生き延びるべきであると」
現代日本人は、歴史が好きな市民であるだけに、知らない事は何もない。
全ての事を十分に理解した上で、発言し、行動している。
現代日本人は、歴史上のあらゆる事を、多くの歴史書を読んで知っている。
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日本は、集団的自衛権から、諸国連合軍の一員としてシベリヤ出兵した。
千島列島と樺太は、ロシアがアジアに侵略してくる前から日本との関係があった地域であった。
日本人は、シベリア出兵でロシア人と戦って殺し、幾つかの殺害や強姦を行っただろうが、ロシア人難民を襲撃して大虐殺はしていない。
ロシア人兵士捕虜を虐待した事はない。
拷問して殺害した事もない。
非栄養な食事を与えて奴隷的重労働を課して過労死させた事もない。
ロシア人女性を強姦して殺害した事もない。
しなかった事を上げれば、日本の方がロシアよりも数多くある。
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1918年 日本軍部は、シベリアのポーランド人難民孤児とユダヤ人難民を救出した。
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1919年 日本軍は撤退するにあたって、赤軍に虐殺される恐れのある白系ロシア人やロシア正教会関係者など約8,000人を難民と認めて受け入れた。
新ユダヤ派の軍部は、ロシア人から迫害を受けていたユダヤ人難民も数多く日本へ避難させた。
軍国日本は、ロシア人やユダヤ人など約1万人近くを戦争難民として受け入れた。
天皇の御稜威・大御心は、助けを求めて逃げてきた戦争難民を排除する事なく無制限に受け入れた。
だが、軍国主義者の人道貢献は、国際的評価を受けなかったし、ロシア人から感謝される事がなかった。
夏 日本人軍国主義者は、シベリアのロシア人児童約800人を無償の上に命の危険を承知で救出した。
日本軍は、赤軍と戦ったが武器を持たないロシア人を殺してはいなかった。
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1920年3月から5月にかけて ニコライエフスク住民虐殺事件(尼港事件)。赤軍パルチザン部隊約4,300人(ロシア人3,000人、朝鮮人1,000人、中国人300人)は、反革命派ロシア人住民約8,000人と日本人民間人735人を虐殺した。
ユダヤ系国際的報道機関は、日本軍は領土拡大の為に戦っていると激しく非難した。
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ロシア人、中国人、朝鮮人は、日本人の敵であった。
ドイツ人も、ヒトラーも、ナチス・ドイツも、親中国であり、反日であった。
ロシア人とヒトラーは、軍国日本と戦うファシスト中国に武器弾薬や軍資金を供給し、中国軍が日本軍に勝つ為に軍人や正規兵を提供していた。
アメリカも、ルーズベルトも、親中国であり、反日であった。
世界は、反日ばかりで、親日は存在しない。
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1937年8月13日 ファシスト中国軍の奇襲攻撃で第二次上海事変が勃発した。
ソ連のスパイである南京上海防衛隊司令官張治中は、スターリンの命令で戦争を始めた。
ドイツ軍とドイツ軍需産業は、親中国派のヒトラーの許可を受けてファシスト中国を軍事支援していた。
ナチス・ドイツの保守派は、反日派より激しい侮日派あるいは敵日派であった。
8月21日 中ソ不可侵条約調印。ソ連は、ファシスト中国の武器購入代金として2億5,000万ドルを融通した。
ソ連軍は、約300人の軍事顧問団と数千人の正規兵を人民義勇軍として派遣した。
ソ連軍は、ファシスト中国軍に味方して抗日戦に参戦した。
日本軍が戦ったのは、ナチス・ドイツとソ連の軍事支援を受けたファシスト中国軍であった。
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1939年12月12日 ソ連貨物船インディギルカ号座礁事故。
猿払(さるふつ)村の漁民や村人と稚内の警察や漁業協同組合の救助隊は、海が荒れる猛吹雪の中でロシア人乗客1,500人の内400人程を救出した。
軍国主義者らは、救助した全員を小樽に移送し暖房のある施設に収容して治療を行い、流れ着いたロシア人の遺体を丁重に扱い懇ろに弔って荼毘にふして遺骨をソ連側に渡した。
だが。ソ連は、自国民を助けた軍国日本と軍国主義者に対して感謝の言葉はなかった。
ロシア人とは、日本人を下等な動物として見下していた。
日本人の配慮や善意や思い遣りは、ロシア人に通じなかった。
日本人とロシア人は、分かり合う事は不可能である。
日本人はロシア人と仲良くなりたいと思っても、ロシア人は日本人と友人に成る事を拒絶している。
それが、北方領土問題である。
福沢諭吉『通俗国権論』「余の主義とするところは、戦いを主張して戦いを好まず、戦いを好まずして戦いを忘れざるのみ」
「我日本の外国交際法は、最後に訴うるところを戦争と定め、戦えば頑固剛情にして容易に兵を解かず、幾月も幾年も持続して双方艱難に堪えうるの度を競うの一法あるのみ」
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第二次世界大戦と日独伊三国同盟―海軍とコミンテルンの視点から
- 作者:平間 洋一
- メディア: 単行本