🎄65」─2─ヴァイツゼッカー大統領演説「荒れ野の40年」(1985年5月8日)。~No.223No.224No.225 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 ドイツは、ホロコーストをはじめとした犯罪行為はヒトラーとナチ党が行った事でありドイツ人は無罪であるが、ドイツ人の中から出た犯罪者集団である事を認めて謝罪した。
 ヒトラーとナチ党の犯罪集団が行った蛮行である以上、ドイツとしては反省しないし、賠償に応じる気はなかった。
 これが、ドイツの戦後処理である。
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 日本が戦後責任と戦後処理で手本とする所はなにもない。
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 アウシュビッツ収容所長リーベヘンシェル「今の(戦後の)若者にかっての戦争の責任はないが、戦争の真実を知り、二度と戦争を起こさない責任がある」
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 ナチス・ドイツの虐殺。
 600万人のユダヤ人。
 200万人のポーランド人。 
 200万人以上のロシア人。
 50万人のジプシー。ロマ。
 ドイツは、約6兆円の個人補償を払っても、国家賠償を支払っていない。
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 アメリカ軍兵士は、ソ連軍兵士同様に、欧州戦線でドイツ人女性を強姦したが、ソ連軍兵士と違う点は殺害せずカネやモノを与え多事である。
 報告された限りのアメリカ兵による強姦事件は数千件で、報告されない強姦事件を加えるとさらに多くなると言われているが、実数はやはり不明である。
 敗戦国の女性には、国際法で人権は認められているが、現実には人権は尊重されない。
 その現実は、古代から現代に至るまで、洋の東西を問わず常識である。
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 ドイツ連邦議会演説。ヴァイツゼッカー大統領演説「荒れ野の40年」
  
       Ⅰ
 議長!首相!来賓のみなさま!ご臨席の皆さん、そして国民の皆さん。
 多くの民族が本日、第二次大戦がヨーロッパの地では終結を迎えたあの日を思い浮かべております。
 その際、それぞれの民族は、自らの運命に応じて、それぞれに独自の感情をもっております。勝利か敗北か、不正と外国による支配からの解放か、あるいほまた新たな隷属への移行、(国土・民族の)分裂、新たな同盟関係、ないしは大がかりな権力の移動か−1945年5月8日はヨーロッパにおいて極めて重要な歴史的意義をになった日であります。
 我々ドイツ人はこの日を我々だけの間で記念いたしておりますが、これほどうしても必要な事であります。我々は(判断の)規準を自らの力で見出さねばなりません。自分で、あるいは他人の力を籍りて気持を慰めてみても、それ以上の役には立ちません。事を言いつくろったり、一面的になったりする事なく、能うかぎり真実を直視する力が我々には必要であり、現にその力が備わっております。
 我々にとっての5月8日とほ、何よりもまず人びとが嘗めた辛酸を心に刻む日であり、同時に我々の歴史の歩みに思いをこらす日でもあります。この日を記念するにさいして誠実であればあるほど、よりこだわりなくこの日のもたらしたもろもろの帰結に責任をとれるのであります。
 我々ドイツ人にとっての5月8日は、祝賀すべき日でほありません。この日を迎えたとき、もの心がついていた人びとは、きわめて個人的な、従ってきわめてさまざまな経験をした事を思い出されるでしょう。故郷へ帰った人もいれば、故郷を喪った人もいました。解放された人もいれば、捕囚の身になった人もいました。夜ごとの爆撃と不安が去り、生き延びた事をひたすら有り難く思った多くの人もいれば、自らの祖国が完膚ないまでに打ち破られた事に胸を痛めた人もいました。幻想が粉々になって胸塞がる想いのドイツ人もいれば、新たな出発の機会を与えられたのを喜んでいるドイツ人もいました。
 直ちに今後の方向を見きわめる事ほ困難であり、国中が確信を失っておりました。無条件の軍事的降伏であり、我々の運命は敵の手中に握られておりました。過ぎ去った時は、恐怖の時でした。ことに敵側の多くの人びとにとってはそうでありました。「こちら側がかつてやった事に対し、今度は向うが何倍もの仕返しをしてくるのではないか」(ドイツ人のだれもがそんな思いでありました)。
 大抵のドイツ人は自らの国の大義のために戦い、耐え忍んでいるものと信じておりました。ところが、一切が無駄であり無意味であったのみならず、犯罪的な指導者達の非人道的な目的の為であった、という事が明らかになったのであります。疲労困憊し、なすすべを知らず、新たな不安に駆られている、というのが大抵の人びとの気持でした。「親兄妹は見付かるだろうか」「これほどの廃墟のなかで新たに建設することに意味はあろうか」(と人びとは考えていたのであります)。
 振り返れば暗い奈落の過去であり、前には不確実な暗い未来だけでした 。
 しかし、日一日と過ぎて行くにつれ、5月8日が解放の日である事がはっきりしてまいりました。この事は今日われわれ全員が共通してロにしていい事であります 。国家社会主義の暴力支配という人間蔑視の体制からわれわれ全員が解放されたのであります。
 解放であったといっても、5月8日になってから多くの人びとの深刻な辛酸が始まり、その後も続いていった事ほ忘れようもありません。しかしながら、故郷を追われ、隷属に陥った原因は、戦いが終ったところにあるのでほありません(拍手)。
 戦いが始まったところに、戦いへと通じていったあの暴力支配が開始されたところにこそ、その原因はあるのです。
 1945年5月8日と(ヒトラーが政権についた)1933年2月30日とを切り離す事は許されないのであります。
 今日というこの日、我々が勝利の祝典に加わるべき理由ほまったくありません 。しかしながら、1945年5月8日がドイツ史の誤った流れの終点であり、ここによりよい未来への希望の芽が隠されていたとみなす理由ほ充分であります。
      Ⅱ
 5月8日は心に刻む為の日であります。心に刻むというのは、ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを信誠かつ純粋に思い浮かべる事であります。その為には、我々が真実を求める事が大いに必要とされます。
 我々は今日、戦いと暴力支配との中で斃れた全ての人びとを哀しみのうちに思い浮かべております。
 ことにドイツの強制収容所で命を奪われた600万のユダヤ人を思い浮かべます。
 戦いに苦しんだ全ての民族、なかんずくソ連ポーランドの無数の死者を思い浮かべます。
 ドイツ人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で捕われの最中に、あるいは故郷を追われる途中で命を失った同胞を哀しみのうちに思い浮かべます。
 虐殺されたジインティ・ロマ(ジプシー)、殺された同性愛の人びと、殺害された精神病患者、宗教もしくは政治上の信念のゆえに死なねばならなかった人びとを思い浮かべます。
 銃殺された人質を思い浮かべます。
 ドイツに占領された全ての国のレジスタンスの犠牲者に思いをはせます。
 ドイツ人としては、市民としての、軍人としての、そして信仰にもとづいてのドイツのレジスタンス、労働者や労働組合レジスタンス、共産主義者レジスタンスーこれらのレジスタンスの犠牲者を思い浮かべ、敬意を表します。
 積極的にレジスタンスに加わる事はなかったものの、良心をまげるよりはむしろ死を選んだ人びとを思い浮かべます。
 はかり知れないほどの死者の傍らに、人間の悲嘆の山並みがつづいております。
 死者への悲嘆、傷つき、障害を負った悲嘆、非人問的な強制的不妊手術による悲嘆、空襲の夜の悲嘆、故郷を追われ、暴行・掠奪され、強制労働につかされ、不正と拷問、飢えと貧罪に悩まされた悲嘆、描われ殺されはしないかという不安による悲嘆、迷いつつも信じ、働く目標であったものを全て失った事の悲嘆−こうした悲嘆の山並みです 。
 今日われわれほこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに思い浮かべているのであります。
 人びとが負わされた重荷のうち、最大の部分をになったのは多分、各民族の女性たちだったでしょう 。
 彼女たちの苦難、忍従、そして人知れぬ力を世界史は、余りにもあっさりと忘れてしまうものです(拍手)。
 彼女たちは不安に脅えながら働き、人間の生命を支え護ってきました 。戦場で斃れた父や息子、夫、兄弟、友人たちを悼んできました。
 この上なく暗い日々にあって、人間性の光が消えないよう守りつづけたのは彼女たちでした 。
 戦いが終るころから、確たる未来の見通しもないまま、先頭に立って石を一つ一つ積み上げていきだしたのは彼女たちでした。ベルリンはじめ全国の「瓦轢おんな」のことであります。
 生きのびた夫たちが帰還して来ると、彼女たちはまた往々にして後ろに引下がらねばなりませんでした。戦争のため多くの女性が独身のままであり、生涯孤独でした。
 しかし破壊や、荒廃、あるいは残忍で非人間的な行為のせいで諸民族が内面的に崩れてしまわず、戦いが終ったあとしだいに自分を取り戻したのは、まずもって女性たちのお蔭なのであります。

 暴力支配が始まるにあたって、ユダヤ系の同胞に対するヒトラーの底知れぬ憎悪がありました。ヒトラーは公けの場でもこれを隠しだてした事はなく、全ドイツ民族をその憎悪の道具としたのです。
 ヒトラーは1945年4月30日の(自殺による)死の前日、いわゆる遺書の結びに「指導者と国民に対し、ことに人種法を厳密に遵守し、かつまた世界のあらゆる民族を毒する国際ユダヤ主義に対し仮借のない抵抗をするよう義務づける」と書いております。
 歴史の中で戦いと暴力とにまき込まれるという罪−これと無縁だった国が、ほとんどない事は事実であります。しかしながら、ユダヤ人を人種としてことごとく抹殺する、というのは歴史に前例を見ません。
 この犯罪に手を下したのは少数です。公けの目にはふれないようになっていたのであります。しかしながら、ユダヤ系の同国民たちは、冷淡に知らぬ顔をされたり、底意のある非寛容な態度をみせつけられたり、さらには公然と憎悪を投げつけられる、といった辛酸を嘗めねばならなかったのですが、これはどのドイツ人でも見開きすることができました。
 シナゴーグの放火、掠奪、ユダヤの星のマークの強制着用、法の保護の剥奪、人間の尊厳に対するとどまる事を知らない冒涜があったあとで、悪い事態を予想しないでいられた人はいたでありましょうか。
 目を閉じず、耳をふさがずにいた人びと、調べる気のある人たちなら、(ユダヤ人を強制的に)移送する列車に気づかないはずはありませんでした。人びとの想像力は、ユダヤ人絶滅の方法と規模には思い及ばなかったかもしれません。しかし現実には、犯罪そのものに加えて、余りにも多くの人たちが実際に起こっていた事を知らないでおこうと努めていたのであります。当時まだ幼く、ことの計画・実施に加わっていなかった私の世代も例外ではありません。
 良心を麻痺させ、それは自分の権限外だとし、目を背け、沈然するには多くの形がありました。
 戦いが終り、筆舌に尽しがたいホロコーストの全貌が明らかになったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人は余りにも多かったのであります。
 一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というような事はありません。罪といい無実といい、集団的でほなく個人的なものであります。
 人間の罪には、露見したものもあれば隠しおおせたものもあります。告白した罪もあれば否認し通した罪もあります。充分に自覚してあの時代を生きてきた方がた、その人たちは今日、一人びとり自分がどう関り合っていたかを静かに自問していただきたいのであります。
 今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することはできません。
 ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待する事は、感情をもった人間にできる事ではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。
 罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。
 心に刻み続ける事がなぜかくも重要であるかを理解する為、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。
 問題は過去を克服する事ではありません。さような事ができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかった事にするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。
 ユダヤ民族は今も心に刻み、これからも常に心に刻みつづけるでありましょう。我々は人間として心からの和解を求めております。
 まさしくこの為にこそ、心に刻むことなしに和解はありえない、という一事を理解せねばならぬのです。何百万人もの死を心に刻む事は世界のユダヤ人一人一人の内面の一部なのでありますが、これはあのような恐怖を人びとが忘れる事はできない、というだけの理由からではありません。心に刻むというのはユダヤの信仰の本質だからでもあるのです。
 忘れる事を欲するならば追放は長びく、救いの秘密は心に刻む事にこそ、これはよく引用されるユダヤ人の金言でありますが、神への信仰とは歴史における神の御業への信仰である、といおうとしているのでありましょう。
 心に刻むというのは、歴史における神の御業を目のあたりに経験する事であります。これこそが救いの信仰の源であります。この経験こそ希望を生み、救いの信仰、断ち裂かれたものが再び一体となる事への信仰、和解への信仰を生みだすのであります。神の御業の経験を忘れる者ほ信仰を失います。もし我々の側が、かつて起こった事を心に刻む代りに忘れ去ろうとするような事があるなら、これほ単に非人道的だというにとどまりません。生き延びたユダヤ人たちの信仰を傷つけ、和解の芽を摘みとってしまう事になるでありましょう。
 われわれ自身の内面に、智と情の記念碑が必要であります。

 5月8日は、ドイツの歴史のみならず、ヨーロッパの歴史に深く刻み込まれております。
 ヨーロッパ人同士の内戦は終り、古いヨーロッパの世界は崩壊してしまっておりました。ミハエル・シュチュルマー教授の言を籍りれは「ヨーロッパは戦い尽した」のであります。エルベ河での米ソ両軍兵士の邂逅は、さし当ってヨーロッパの一つの時代が終った事のシンボルであります。
 これらが古くからの歴史に根ざしている事は確かであります。ヨーロッパの人間は世界中で大きな、それどころか決定的な影響力をもっていましたが、自らの大陸での互いの共存関係はしだいにぎすぎすしたものになってまいりました。ヨーロッパでほ100年以上にわたって民族主義が余りにも高まり、その衝突に苦しんできたのであります。第一次大戦が終ると一連の平和条約が締結されました。しかし、これにほ平和を樹立する力が欠けておりました。民族主義的な激情の炎が再び燃え上がり、社会の窮状と結びつく事となったのであります。
 災いへの道の堆進力はヒトラーでした。彼は大衆の狂気を生み出し、これを利用しました。脆弱なワイマール期の民主主義にはヒトラーを阻止するカがありませんでした。そしてまたヨーロッパの西側諸国も無力であり、その事によってこの宿命的な事態の推移に加担したのですが、チャーチルはこれを「悪意はないが無実とほいいかねる」と評しております。アメリカは第一次大戦のあと、また(孤立主義の立場をとって)内に引きこもり、30年代にはヨーロッパに対して影響力をもっておりませんでした。
 ヒトラーはヨーロッパ支配を望みました。しかも戦争によってであります。ヒトラーポーランドに戦争の手がかりを求め、これを発見いたしました。
 戦争の始まる数か月前の1939年5月23日、ヒトラーはドイツ軍の将官を前に次のように言明しております。
 血を流す事なくこれ以上の成果をあげる事はできぬ。……ダンツィヒが当面の目標なのでほない。
 我々の関心は、東方における生存圏の拡大であり食糧の確保である……
 つまりポーランドに手を出さない、などというのは問題外である。残るは最初の好機をとらえてポーランドに攻撃を加える決心をするだけの事である……
 このさい正義やら不正、条約がどうのなどというのは、一切どうでもいい事である。
 1939年8月23日、独ソ不可侵条約が締結されました。秘密の付属議定書には目前のポーランド分割についての規定がありました。
 この条約は、ヒトラーポーランド進攻を可能にする為に結ばれたのです。当時のソ連指導部はこの事を重々承知しておりました。独ソ条約がヒトラーポーランド進攻、そして第二次大戦を意味している事は、政治について考えている当時の人間ならだれもが知っている事でした。
 だからといって第二次大戦勃発についてのドイツの罪責が毫も軽減される事はありません。ソ連は、自らの利益の為に、他の民族の戦いを止むなしとしたのであります。しかしながら、大戦のイニシャチブをとったのはドイツであって、ソ連ではないのであります。
 暴力に訴えたのほヒトラーであります。第二次大戦の勃発はドイツという名前と切り離すわけにはまいりません。この戦いの間、多くの民族が国家社会主義の統治の下に苦しみ、汚辱にまみれてきたのであります。
 苦しめられ、隷属させられ、汚辱にまみれさせられる民族が最後に一つだけ残りました。ほかでもないドイツ民族であります。この戦いに勝利を収める力がないなら、ドイツ民族など亡びてしまうがいい――ヒトラーは繰り返しこう述べております。われわれ自身が自らの戦いの犠牲となる前に、まず他の諸民族がドイツを発火点とする戦いの犠牲となっていたのであります。
 この後、ドイツは戦勝国同士の申し合せどおりさまざまな地域に分割されました。この間にソ連は、戦時中ドイツが占領していた東ヨーロッパ、東南ヨーロッパのすべての国に進攻いたしておりました。ギリシャを例外として、これらの国はすべて社会主義国となりました。
 ヨーロッパは二つの相異った政治体制への分裂の道を辿りだしました。この分裂を固定したのが戦後の情勢である事は確かであります。しかしながらヒトラーが始めた戦いなしにほ、この分裂もなかったでしょう。戦禍に遭った諸民族がドイツの指導者たちの始めた戦いを心に刻むとき、まっ先に考えるのはその事に他なりません。
 自らの国土が分割され、ドイツの領土が大きく失われた事をみるとき、我々が考えるのもその事であります。5月8日にあたって東ベルリンのマイスナー枢機卿は「罪がもたらす絶望的な結果は常に分裂である」と説いておられます。

 破壊も恣意的でしたが、人びとに分かたれた重荷も恣意的でした。罪なくして迫害された者の一方に、まんまと逃げおおせた罪人がおりました。住み慣れた環境の中で新しい生活を築く幸運に恵まれた人たちもいれば、父祖の地を追われた人たちもいました。
 後にドイツ連邦共和国となった地域に住む我々は、自由という貴重なチャンスを与えられました。(しかし東側には)何百万もの同胞が今日に至るまで自由の恩恵に浴する事ができないでいます。
 物質面での復興という課題と並んで、精神の面での最初の課題は、様々な運命の恣意に耐えるのを学ぶ事でありました。ここにおいて、他の人びとの重荷に目を開き、常に相ともにこの重荷を担い、忘れ去る事をしないという、人間としての力が試されていたのであります。またその課題の中から、平和への能力、そして内外との心からの和解への心構えが育っていかねばならなかったのであります。これこそ他人から求められていただけでなく、われわれ自身が衷心から望んでいた事でもあったのです。
 かつて敵側だった人びとが和睦しようという気になるには、どれほど自分に打ち克たねばならなかったか――このことを忘れて5月8日を思い浮かべる事は我々には許されません。ワルシャワのゲットーで、そしてチェコのリジィツェ村で虐殺された犠牲者たち――我々は本当にその親族の気持になれるものでありましょうか。
 ロッテルダムやロンドンの市民にとっても、ついこの間まで頭上から爆弾の雨を降らしていたドイツの再建を助けるなどというのは、どんなに困難な事だったでありましょう。その為には、ドイツ人が二度と再び暴力で敗北に修正を加える事はない、という確信がしだいに深まっていく必要がありました。
 ドイツの側では故郷を追われた人びとが一番の辛苦を味わいました。5月8日をはるかに過ぎても、激しい悲嘆と甚だしい不正とにさらされていたのであります。もともとの土地にいられた我々には、彼らの苛酷な運命を理解するだけの想像力と感受性が欠けている事が稀ではありませんでした。
 しかし救援の手を差しのべる動きもただちに活発となりました。故郷を捨てたり追われた何百万人という人びとを受け入れたのであります。歳月が経つにつれ彼らは新しい土地に定着していきました。
 彼らの子どもたち、孫たちは、いろいろな形で父祖の地の文化とそこへの郷土愛とに結びついております。それはそれで結構です。彼らの人生にとって貴重な宝物だからであります。
 しかし彼ら自身は新しい故郷を見出し、同じ年配の土地の仲間たちと共に成長し、とけ合い、土地の言葉をしゃべり、その習慣を身につけております。彼らの若い生命こそ内面の平和の能力の証しなのであります。彼らの祖父母、父母たちはかつては追われる身でした。しかし彼ら若い人びと自身は今や土地の人間なのです。
 故郷を追われた人びとは、早々とそして模範的な形で武力不行使を表明いたしました。力のなかった初期の頃のその場かぎりの言葉ではなく、今日にも通じる表白であります。武力不行使とは、活力を取り戻した後になってもドイツがこれを守り続けて行く、という信頼を各方面に育てていく事を意味しております。
 この間に自分たちの故郷は他の人びとの故郷となってしまいました。東方の多く古い墓地では、今日すでにドイツ人の墓よりポーランド人の墓の方が多くなっております。
 何百万ものドイツ人が西への移動を強いられたあと、何百万のポーランド人が、そして何百万のロシア人が移動してまいりました。いずれも意向を尋ねられる事がなく、不正に堪えてきた人びとでした。無抵抗に政治につき従わざるをえない人びと、不正に対しどんな補償をし、それぞれに正当ないい分をかみ合わせてみたところで、彼らの身の上に加えられた事についての埋合せをしてあげるわけにいかない人びとなのであります。
 5月8日の後の運命に押し流され、以来何十年とその地に住みついている人びと、この人びとに政治に煩らわされる事のない持続的な将来の安全を確保する事−これこそ武力不行使の今日の意味であります。法律上の主張で争うよりも、理解し合わねばならぬという誡めを優先させる事であります。
 これがヨーロッパの平和的秩序の為に我々がなしうる本当の、人間としての貢献に他なりません。
 1945年に始まるヨーロッパの新スタートは、自由と自決の考えに勝利と敗北の双方をもたらす事となりました。自らの力が優越していてこそ平和が可能であり確保されていると全ての国が考え、平和とほ次の戦いの準備期間であった!こうした時期がヨーロッパ史の上で長く続いたのでありますが、我々はこれに終止符をうつ好機を拡大していかなくてはなりません。
 ヨーロッパの諸民族ほ自らの故郷を愛しております。ドイツ人とて同様であります。自らの故郷を忘れうる民族が平和に愛情を寄せるなどという事を信じるわけにまいりましょうか。
 いや、平和への愛とは、故郷を忘れず、まさにその為にこそ、いつも互いに平和で暮せるよう全力を挙げる決意をしている事であります。追われたものが故郷に寄せる愛情は、復讐主義ではないのであります。

 (四〇年前に終ったヨーロッパ)最後の戦いは、人びとの心の中に今だかつて例をみない平和への憧れを呼びさましました。教会の手による和解の為の努力は大きな反響を呼びました。若い人びとの手による相互理解の為の仕事にも多くの実例があります。アウシュヴィッツイスラエルでの「行動・購いの証し」の活動もその一つであります。ニーダーライン地方クレーヴェの町のある教区には最近、ポーランドのいくつかの教区から和陸と連帯の証しとしてのパンが届けられました。クレーヴェの教区はこのパンの一つをイギリスの一教師に送りました。この教師がそれまでの沈黙を破り、自分は戦時中に空軍の一員としてクレーヴェの教会と民間住宅とを爆撃したとの手紙を寄せ、和睦の証しを求めていたからなのです。
 この人のように、相手が手を差し出すのを待つのではなく、自分の方から相手に手を差しだす事は、計り知れないほど平和に貢献するものであります。

 大戦の結果、かつての敵は人間的にも政治的にも互いに近づく事になりました。すでに1946年、アメリカのバーンズ国務長官は、シュトゥットガルトでの記念すべき演説でヨーロッパの相互理解を呼びかけ、ドイツ民族が自由で平和を愛好する未来に向けて歩んで行く事に助力を惜しまないように求めたのでした。
 戦いの傷を癒そうと、当時数え切れぬほどのアメリカ国民が、敗れた我々ドイツ人に私財を投じて援助を送ってくれました。
 フランスのジャン・モネ、ロベール・シューマンら、ドイツ側ではコンラート・アデナウアーらの先見の明のお蔭で、仏独間の長年の敵意は今や永遠に過去のものとなっております。
 建設の意欲とエネルギーとは新しい流れとなって国中をおおいました。(人びとを分かつ)古くからの溝の幾つかは埋め立てられ、宗教間の対立、社会間緊張は緩和されるに至りました。相携えて事に当ったのです。
 (すべてを無から始めねばならない、という意味での)「零時」ではありませんでしたが、ことを新しく始める好機でした。能う限りこれを利用いたしました。隷属に代えて民主的な自由を定着させてきたのであります。
 戦後4年たった1949年の本日5月8日、議会評議会は基本法を承認いたしました 。議会評議会の民主主義者たちは、党派の壁を越え、我々の憲法の第一条(第二項)に戦いと暴力支配に対する回答を記しております。
 ドイツ国民は、それゆえに、世界における各人間共同社会・平和および正義の基礎として、不可侵の、かつ、譲渡しえない人権を認とめる5月8日が持つこの意味についても今日心に刻む必要があります 。
 ドイツ連邦共和国は世界の尊敬を集める国となっております 。世界の高度工業国の一つであります。この経済力で世界の飢えと貧困と闘い、諸民族の間の社会的(不平等の)調整に寄与する責任を担っている事を承知しております。
 40年来、我々は平和かつ自由に生きておりますが、北大西洋同盟、ヨーロッパ共同体加盟の自由な諸民族の一員としての我々の政策を通じて、自らも平和と自由の為に大きな寄与をしてまいりました。
 ドイツの地において今ほど市民の自由の諸権利が守られていた事はありません 。他のどんな社会と比較しても引けを取らぬ、充実した社会福祉の網の日が人びとの生活の基盤を確固たるものとしております。
 戦いが終った頃、多くのドイツ人が自らのパスポートを隠したり、他国のパスポートと交換しようといたしましたが、今日われわれの国籍を持つ事は、高い評価を受ける権利であります。
 傲慢、独善的である理由は毫もありません。しかしながらもし我々が、現在の行動と我々に課せられている未解決の課題へのガイドラインとして自らの歴史の記憶を役立てるなら、この40年間の歩みを心に刻んで感謝する事は許されるでありましょう。
 −第三帝国において精神病患者が殺害された事を心に刻むなら、精神を病んでいる市民に暖かい目を注ぐ事は我々自身の課題であると理解する事でありましょう。
 −人種、宗教、政治上の理由から迫害され、目前の死に脅えていた人びとに対し、しばしば他の国の国境が閉ざされていた事を心に刻むなら、今日不当に迫害され、我々に保護を求める人びとに対し門戸を閉ざす事はないでありましょう(拍手)。
 −独裁下において自由な精神が迫害された事を熟慮するなら、いかなる思想、いかなる批判であれ、そして、たとえそれが和江我自身に厳しい矢を放つものであったとしても、その思想、批判の自由を擁護するでありましょう。
 −中東情勢についての判断を下すさいには、ドイツ人がユダヤ人同胞にもたらした運命がイスラエルの建国の引き金となった事、そのさいの諸条件が今日なおこの地域の人びとの重荷となり、人びとを危険に曝しているのだ、という事を考えていただきたい。
 −東側の隣人たちの戦時中の艱難を思うとき、これらの諸国との対立解消、緊張緩和、平和な隣人関係がドイツ外交政策の中心課題であり続ける事の理解が深まるでありましょう。双方が互いに心に刻み合い、互いに尊敬し合う事が求められているのであり、人間としても、文化の面でも、そしてまたつまるところ歴史的にも、そうであってしかるべき理由があるのであります 。
 ソ連共産党ゴルバチョフ書記長は、ソ連指導部には大戦終結40年目にあたって反ドイツ感情をかきたてるつもりはないと言明いたしました。ソ連は諸民族の間の友情を支持する、というのであります。
 東西間の理解、そしてまた全ヨーロッパにおける人権尊重に対するソ連の貢献について問いかけている時であればこそ、モスクワからのこうした兆しを見のがしてはなりますまい 。我々はソ連邦諸民族との友情を望んでおるのであります。

 戦いが終って40年、ドイツ民族はいまなお分断されたままであります。
 今年2月、ドレスデンの聖十字架教会での(大空襲40周年)記念礼拝のさい、ヘンペル主教は次のように語っております。
 厳しい国境に遮られたドイツ人の二つの国の成立−これは心に重く、血の滲む思いがいたします。多くの国境があること自体、心に重く、血の滲む思いがするのであります 。武器は心に重くのしかかっています。
 先頃アメリカ合衆国ボルティモア市で「ドイツのユダヤ人」と題する展覧会の開会式が行なわれ、二つのドイツそれぞれの大使が招待されました。招待側のジョンズ・ホプキンス大学学長ほ二人の大使に同時に挨拶し、全てのドイツ人が同一の歴史の地盤の上に立っている事を指摘されました。共通の過去が全てのドイツ人を一つの絆で結びつけていて、これは喜びとも問題ともなりうる、しかしいつも変らぬ希望の源である、というのであります。
 我々ドイツ人は一つの民族であり、一つのネイションであります。同じ歴史を生きて来たのでありますから、互いに一体感をもっております。
 1945年5月8日も民族の共通の運命として体験したのであり、これが我々を一つに結びつけております。我々は平和への意志という点で一体感を持っております。二つの国になっているドイツの地から、平和、そして全ての国との善隣関係を拡げていかねばなりません。他の人びともドイツの地を平和への脅威とするような事があってはなりません。
 ドイツ民族も含めた全ての民族に対する正義と人権の上に立つ平和、ドイツに住む我々は、共にこれを希求しております。
 壁に囲まれたヨーロッパが、国境越しに心からの和解をもたらす事はできません。国境が互いを分け隔てるものでなくなっているような大陸でなくてはなりません。第二次大戦の結末ほまさにその事を我々に告げているのであります。5月8日が、全てのドイツ人を結びつける史上最後の日付のままである事はない、と確信いたしております。

 大戦から40年たった今、過去についてかくも活発な論議が行われているのはなぜか−この何か月かの問にこう自問したり、我々に尋ねたりした若い人たちがおりました。25周年、30周年の時より活発なのは何故か、というのであります。これはいかなる内面の必然性によるのでありましょうか。
 こうした問いに答える事は容易ではありません。外側からの影響があった事も疑いのないところではありますが、もっばらそこだけに理由を求めてはなりますまい。
 人間の一生、民族の運命にあって、40年という歳月は大きな役割を果しております 。
 ここで改めて旧約聖書を開く事をお許しねがいたい。信仰の如何にかかわりなく、あらゆる人間に深い洞察を与えてくれるのが旧約聖書であり、ここでは40年という年月が繰り返し本質的な役割を演じております。
 イスラエルの民は、約束の地に入って新しい歴史の段階を迎えるまでの40年間、荒れ野に留まっていなくてはなりませんでした(申命記民数記)。
 当時責任ある立場にいた父たちの世代が完全に交替するまでに40年が必要だったのです。
 しかし、他のところ(土師記)には、かつて身に受けた助け、救いほ往々にして40年の問しか心に刻んでおけなかった、と記されております。心に刻んで置く事がなくなったとき、太平は終りを告げたのです。
 ですから、40年というのは常に大きな区切り目を意味しております。暗い時代が終り、新しく明るい未来への見通しが開けるのか、あるいは忘れることの危険、その結果に対する警告であるのかは別として、40年の歳月は人間の意識に重大な影響を及ぼしておるのであります。こうした両面について熟慮することは無意味なことではありません。
 我々のもとでは新しい世代が政治の責任をとれるだけに成長してまいりました。若い人たちにかつて起った事の責任はありません。しかし、(その後の)歴史のなかでそうした出来事から生じてきた事に対しては責任があります。
 我々年長者は若者に対し、夢を実現する義務は負っておりません。我々の義務は卒直さであります。心に刻みつづけるという事がきわめて重要なのはなぜか、この事を若い人びとが理解できるよう手助けせねばならないのです。ユートピア的な救済論に逃避したり、道徳的に傲慢不遜になったりする事なく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめる事ができるよう、若い人びとの助力をしたいと考えるのであります。
 人間は何をしかねないのか−これを我々は自らの歴史から学びます。でありますから、我々は今や別種の、よりよい人間になったなどと思い上がってはなりません。
 道徳に究極の完成はありえません!如何なる人間にとっても、また、如何なる土地においてもそうであります。我々は人間として学んでまいりました。これからも人間として危険に曝され続けるでありましょう。しかし、我々にはこうした危険を繰り返し乗り越えていくだけの力がそなわっております。
 ヒトラーはいつも、偏見と敵意と憎悪とを搔き立て続ける事に腐心しておりました。
 若い人たちにお願いしたい。
 他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられる事のないようにしていただきたい。
 ロシア人やアメリカ人、
 ユダヤ人やトルコ人
 オールタナティヴを唱える人びとや保守主義者、
 黒人や白人
 これらの人たちに対する敵意や憎悪に駆り立てられる事のないようにしていただきたい。
 若い人たちは、互いに敵対するのではなく、互いに手をとり合って生きていく事を学んでいただきたい。
 民主的に選ばれたわれわれ政治家にもこの事を肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい。そして範を示してほしい。
 自由を尊重しよう。
 平和の為に尽力しよう。
 公正を拠り所にしよう。
 正義については内面の規範に従おう。
 今日5月8日にさいし、能うかぎり真実を直視しょうではありませんか。
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 ヒトラーナチス・ドイツは、ユダヤ人を殺害する為にホロコーストを行った。
 昭和天皇A級戦犯達は、無償でユダヤ人難民をホロコーストから助けた。
 アメリカやイギリスの宗教的人種差別主義者は、ホロコーストの告発を無視し、ユダヤ人難民を死の淵から救出する事に猛反対した。
 チャーチルは、パレスチナユダヤ人難民を上陸させる事には不服であった。
 ルーズベルトは、アメリカ系ユダヤ人の要請に従って、ユダヤ財閥の縁者や学才がある賢者でない一般のヨーロッパ系ユダヤ人を見捨てた。
 スターリンは、ユダヤ系金融資本から支援を得ていたが、ユダヤ人難民を兵士として戦場に送り出し、あえて助けようとはしなかった。
 A級戦犯達は、ユダヤ人難民を助けたがゆえに、リンチ的縛り首で処刑され、その霊魂を靖国神社に祀って慰霊する事も許されない。
 日本人は、昭和天皇A級戦犯達がユダヤ人難民をホロコーストから救った事を知っている。
 一部の日本人は、その事実を知った上で、昭和天皇を批判し、A級戦犯達を靖国神社に祀る事に猛反対している。
 中国や韓国・北朝鮮などのアジア諸国も、その歴史的事実を知りながら靖国神社を激しく非難している。
 世界中で、昭和天皇A級戦犯達は弁護される事なく非難され、人格を含む全ての面で批判されている。
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 昭和天皇A級戦犯達は、人種差別に反対する親ユダヤ派として、ヒトラーの反ユダヤ人政策には反対であったが、国家と民族を守る為の高度な国家戦略としてナチス・ドイツと同盟を結んだ。
 それが、日本の軍国主義である。
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 昭和天皇A級戦犯達を非難する者は、反ユダヤ主義者である。
 当然、靖国神社を否定する者も人種差別主義者として反ユダヤ派である。


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