✞33」─2─ドイツ軍占領下の諸国家は、無国籍ユダヤ人を逮捕して貨物列車に押し込め住宅地を通過させて東方へ輸送した。1943年7月〜No.172 @            

ホロコーストを知らなかったという嘘―ドイツ市民はどこまで知っていたのか

ホロコーストを知らなかったという嘘―ドイツ市民はどこまで知っていたのか

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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗   
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・  
 連合国は、ユダヤ人がもたらしたホロコースト情報をユダヤ人の陰険な陰謀であるとして黙殺した。
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 武器を持って戦わない者は、誰も同情しないし、誰も助けない。
 自分を守る為に戦わない者は、卑怯者として見捨てられた。
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 7月 イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は、国土を戦火から救うべく連合国と極秘に休戦交渉を行い、ベニート・ムッソリーニ首相を解任する事を約束した。
 7月16日 ユダヤ人虐殺は、ドイツ国内でも噂になり始めたが、大半のドイツ人はソ連などの謀略として信用しなかった。ヴルム監督、ヒトラーユダヤ人殺害を抗議する建白書を提出し、戦争以外での人権不可侵を強調した。
 7月19日 ローマ教皇が心配していた、連合国によるローマ空襲が始まった。
 ローマ市民で、500名が死亡し、多くの者が負傷した。
 バチカンと教会や修道院は、被害者にた食べ物や生活必需品を配り、絶対神に祈りを捧げて慰め勇気づけた。
 7月24日・25日 ハンブルク空襲。のべ2,630機の爆撃機は、約9,000トンの爆弾を投下し、約5万人の市民が犠牲となった。
 7月25日 ローマのファシスト最高評議会は、病気で指導力をなくしたムッソリーニを解任して、立憲君主制の復活と民主的議会の開設を決議した。
 バドリオ将軍が内閣を組閣し、ファシスト党を解散させたが、ナチス・ドイツとの同盟を尊重して戦争を継続させた。
 連合国は、ローマへ空爆を続けた。
 共産主義者は、反宗教無神論から反教会ビラを撒き、ファシスト党ムッソリーニを支持した罪を告発した。
 ピウス12世は、反キリストの共産主義の蔓延を恐れた。
 7月27日・28日 アメリカ空軍爆撃機730機によるによる、ハンブルグ大空襲。連合国軍は、ドイツの軍事施設や工業地帯は強力な防空網で守られていて、出撃する度に被害が増大する事に爆撃方針を変更した。ドイツ戦闘機や高射砲で守られた戦略拠点の爆撃を止め、軍需施設に労働力を供給している一般住宅や病院の完全破壊に目標を変えた。
 ルーズベルト空爆の威力を見せつけるものだ。できれば、日本に対しても同じ手を使いたい」
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 8月 ニューヨーク・タイムズユダヤ系)は、各国別のユダヤ人根絶リストを発表した。
 ニューヨーク・タイムズ・マガジン「チャーチルが傍受資料を受け取ってから数ヶ月も経たぬうちに、ルーズベルトアイゼンハワー、マーシャル、連合国の諜報機関、イギリス、アメリカ両国の全てのユダヤ人指導者とユダヤ共同体、それに新聞を読んだ人なら誰でも、膨大な数のヨーロッパ・ユダヤ人が殺された事を知っていた」
 中旬。パリ大司教ズアールは、ピウス12世に謁見し「ドイツ軍こそヨーロッパを共産主義から守り、教会を救う事の出来る唯一の支柱である。従って、ドイツ軍が東ヨーロッパにおいて勝利を収める様、あらゆる方策が講じられなければならない」と訴えた。
 第一回ケベック会議。ソ連は、戦後を見据えてヨーロッパへの足掛かりとしての対ポーランド政策と、地中海への勢力拡大の為の対バルカン政策を採用していた。
 スターリンは、バルカン半島共産主義陣営に取り込み地中海への道を確保する為に、チトーを支援した。
 イギリスは、戦後においても地中海の盟主たる地位を維持するべく、イタリアとバルカン両半島に足場を築こうとしていた。
 アメリアは、太平洋戦線での被害を少なくする為にソ連の対日戦参戦を希望していた。
 マーシャルとワシントンの軍首脳部は、ソ連の希望を叶えるべくイギリス側の要求を抑えて、イタリアからバルカンへの侵攻より北フランス上陸作戦を主張した。
 もし。バルカン半島に上陸すれば、中東欧におけるホロコーストに影響を与えた可能性があったと言われている。
 ルーズベルトは、チャーチルの地中海をアジア・インドへの兵站線とする事に賛同して、イタリア侵攻に同意した。
 マーシャルは、シチリア島及びイタリア本土侵攻に反対した。
 北アフリカアイゼンハワー将軍は、マーシャルを支持した。
 レーヒー「マーシャル将軍は、地中海についての取り決めに積極的に反対する姿勢をとった」
 ユダヤ人に対する虐殺問題に付いての議論は、意図的になされなかった。
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 ホプキンズが議長を努める対ソ議定書委員会の報告書「ソビエト・ロシアはこの戦争の決定的な要因であるがゆえに、同国にあらゆる援助を与え、同国の友誼を得る為あらゆる努力を行うべくである。同様に、ナチスの敗北の暁には、同国が間違いなくヨーロッパを支配するがゆえに、ロシアとの最も友好的な関係を発展させかつ維持する事はよりいっそう不可欠である」
 ポリス・ソコロフ「もし西側の供給がなければ、ソ連は大愛国戦争に勝つどころか、ドイツの侵略に抵抗する事もできなかったであろう。なぜならソ連は十分な量の武器と戦闘設備を生産できず、それに対し燃料も補給品も与える事ができなかったからである」
 ホプキンズは、戦争に必要な武器や戦略物資をソ連に送った。
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 9月 チャーチル「我々が生きてきた中で二度、父親世代の人生も含めると三度、彼等(ドイツ人)は侵略戦争を仕掛けている。彼等は最も極端なやり方で、兵士を奴隷と同質のものにする。つまり、自ら自由を踏みにじり、他者の中にあって自由が目立つ事を嫌悪する。プロシア軍国主義などその悪弊の最たるものであって、ナチと一緒に、根刮ぎ排除されるべきものである」
 9月8日 ピエトロ・バドリオ首相は、連合国に対して正式に降伏する休戦協定を結び、イタリアは降伏した。
 9月11日 ドイツ軍は、イタリアに侵攻してローマを占領した。
 バチカンは、ローマが共産主義化から解放された事を歓迎した。
 ナチス・ドイツのワイゼッカー駐バチカン大使やイタリア派遣軍のケッセルリンク総司令官らは、バチカンの意向を尊重し、占領下のユダヤ人には手を出さなかった。
 バドリオ政権は、連合国と秘密講和条約を結び、連合軍が占領する南部に移った。
 イタリアは、連合国軍とドイツ軍によって分割占領され、イタリア軍はその占領地で何れかの軍隊によって武装解除された。両軍は、イタリアをめぐって激しい攻防戦を展開した。
 9月12日 ヒトラーは、幽閉されているムッソリーニを救出した。
 9月中旬 SS長官ヒムラーは、ローマ在住のユダヤ人1万2,000人を逮捕して強制移送させるように指示を出した。237名は、身元確認をした後に釈放された。
 ローマのSS隊長カプラーは、ユダヤ人を狩り出し強制移送させる隊員が不足し、ローマ市民の協力が得られないと、ベルリンのアイヒマンに報告した。
 ヒトラーは、バチカンの占領と教皇の拉致を命じた。
 SSとドイツ警察のイタリア駐留司令官ウォルフは、バチカンに内密で知らせると共に、実行は不可能と報告した。年末に、ヒトラーは計画を断念した。
 9月23日 ムッソリーニは、ドイツ軍の支援を受けて北部イタリアにイタリア社会共和国(サロ政権)を樹立して枢軸陣営に留まった。
 9月27日 在外ポーランド政府内部で、連合国に訴えても成果が得られない為に、独自でユダヤ人難民を救済するべく地下組織ジェゴータを創設した。同組織は、約7,000人をナチス・ドイツから救出した。
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 10月 アイヒマンは、イタリアのユダヤ絶滅収容所に強制移送するべく、腹心のダンネッカーをローマに送り込んだ。
 ケッセルリンク総司令官は、連合軍との戦闘の為に兵士を使用する事に反対した。
 ワイゼッカー大使は、イタリア人の感情を逆なでしない為に、バチカン直属の教会と修道院への侵害をしない様に要請した。
 モスクワ外相会議。スターリン「連合軍がドイツ攻略に成功したあかつきには、絶対に間違いなく、ソ連は日本攻略に加わるつもりだ」
 10月14日 ゾビブル強制収容所で、ユダヤ人の集団脱走事件が発生した。 国際赤十字は、アイヒマンが管理する収容所を査察して模範ゲットーと認定し、ユダヤ人の告発は虚偽であると判定した。
 ナチス・ドイツユダヤ人評議会は、ヒトラーとの秘密取引で絶滅計画に協力し、同胞を絶滅収容所に送っていた。
 10月16日 イタリア社会共和国は、ナチス・ドイツと軍事協定を結び、志願兵による義勇軍をドイツ軍に訓練させて正規軍に編入させた。
 イタリア王国は、連合国軍の支援を受け、イタリア社会共和国に対し宣戦布告した。
 これ以降、イタリア人は親ドイツ・ファシズム勢力と反ドイツ・民主主義勢力に別れて殺し合った。
 連合国は、国民同士で殺し合うイタリアを正式な同盟国とは見なさず、一段下の枢軸国と戦う共同参戦国との位置に置いた。
 イタリア王国は、イタリア人同士が殺し合う事でイタリア王家を守った。
 SS行動部隊は、ユダヤ人団体から提出されたリストをもとにして、ローマ市内でユダヤ人1,259人を無差別に逮捕した。
 強制連行されるユダヤ人が乗る軍用トラックは、バチカンのサン・ピエトロ広場を通過した。
 ドイツ大使ワイゼッカーは、ユダヤ人逮捕の停止を、教皇に伝えるよう国務長官マリョーネ枢機卿に要請した。
 イタリア各地でも、ユダヤ人の強制連行が行われていた。
 各地の教会や修道院は、多くのユダヤ人を保護して逃亡を手助けし、教皇庁教皇に断固たる抗議を要請した。
 ローマ最高司令官シュターヘン将軍は、司教から来た抗議文をヒムラーに送った。シュターヘンは、解任され、東部戦線に転属させた。
 ピウス12世は、早い時期にユダヤ人狩りが行われる事を知っていたが、中立を守って抗議する事なく沈黙を守っていた。
 教皇は、ユダヤ人の命よりも聖都ローマを戦火から守り、共産主義の蔓延を防ぐ事を優先して、沈黙を守った。
 それは、天皇が戦火から三種の神器を守ろうとした事とは意味合いが違う。民族宗教の最高位祀王・天皇と、普遍宗教の最高権威者・教皇との、立場と背負っている責任は雲泥の差があった。
 同時に、平和及び人道の罪で絞首刑に処せられた日本のA級戦犯と、平和に貢献した功績でノーベル賞を授与された連合国首脳とが、持つその責任の重さも雲泥の差があった。
 バチカンは、教皇にかわって、ベルリンにユダヤ人の逮捕と連行を中止する様に電報を打った。
 ワイゼッカー大使も、ベルリンの外務省に、イタリアでもナチス・ドイツの立場を危うくするとの電報を打った。
 10月18日 ナチスは、ローマで逮捕したユダヤ人1,000人以上をアウシュヴィッツに移送して殺害した。その内、生き残って生還できたのは15名のみであったという。
 東方に強制移送される事は、何を意味するかはもはや周知の事実であった。
 カトリック教会は、教皇の意志に従って、影響下にある宗教施設で4,000人以上を匿った。
 ジェノバ大司教アッシジ司教、イスタンブール教皇大使らは、さらに多くのユダヤ人難民を救済した。
 同月16日と17日 古プロイセン合同告白教会は、プレスラウで第12回総会を開催して、障害者に対する、安楽死作戦や、アーリア条項による異人種の大量虐殺に対する抗議を決議した。全国組織の告白教会は、ナチスの教会政策に屈服し、ユダヤ人絶滅政策を黙認した。
 第三決議。「国家は、犯罪者を殺す事、戦争において敵を殺すこと以外は、剣の行為を許されていない。……神の秩序は『抹殺』、『根絶』、『無価値な命』という概念を知らない。ある人間が犯罪者の家系に属するとか、年寄りだとか、精神病だとか、あるいは他の人種に属するとかいう理由だけで人間を抹殺する事は、神から官憲に与えられた剣の行為ではない。……そこには人種、民族、宗教の違いはない。なぜなら全ての命はただ神にのみ属するからである」
 ヴェルテンベルグ領邦教会監督テオフィール・ヴルムは、12月20日に帝国官房長官ラマースに人種差別に基づくユダヤ民族抹殺に抗議する書簡を送った。さらに、ヒトラー総統、ゲッペルス宣伝相、ヒムラー親衛隊長官、ボルマン党官房長官ら政府高官やナチ党幹部に抗議書簡を出し続けた。その数は、戦時中の5年間で270通以上と言われている。
 「我々キリスト者が、こうしたユダヤ民族に対する抹殺政策を重大な、そしてドイツ国民にとって不吉な不正と感じている、と申し上げねばなりません。戦争に伴う必然的行為でもなく、裁判の判決による執行でもない殺人行為は、たとえ当局によって命じられるものであるとしても、神の戒めに違反します」
 世界中は、極一部のドイツ人キリスト教会関係者の勇気ある行動を完全無視した。
 戦前日本の大失態とされた、ポツダム宣言の「黙殺」どころの騒ぎではなかった。
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 戦後。1946年6月2日 イタリア国民は、王制の是非を問う国民投票で王党派ではなく共和制派を選んだ。翌47年12月22日に新憲法イタリア共和国憲法」を採択し、王制から共和制に移行した。
 1861年に成立したイタリア王国は86年の短命で消滅し、イタリア王家は国外に亡命した。
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 11月18日 ベルリン空爆
 11月22日 カイロ会談。
 テヘラン会議。
 スターリンは、ドイツ軍をソ連領から追い出した後、コーカサスやクリミアの地域に生活するタタール人などの少数民族の掃討命令を発した。侵略者ドイツ軍に抵抗するどころか協力したファシスト、反共産主義者という理由から、赤軍や秘密警察に追放を命じた。
 ソ連政府は、軍隊の忠誠心をつなぎ止め為に、兵士とその家族に食糧を与えるべく、世界最大の穀物地帯ウクライナを支配しようとした。党員でもなく、兵士でもない、戦う事を嫌う人民には関心はなく、彼等が餓死しようと凍死しようとも興味はなかった。
 個人崇拝の一党独裁体制下では、指導者スターリンの命令は絶対で、必ず実行された。
 理不尽な命令や指示に反対し拒否する者は、誰一人としていなかった。勇気を出して異を唱えた者は、秘密警察によって逮捕され処刑され、家族は反共産主義の裏切り者としてシベリアに追放され、死ぬまで奴隷的重労働を強要された。たとえ子供でも許されることなく、同罪とされ、刑は「平等」に実行された。
 スターリンは、アメリカやイギリスのユダヤ人財閥から戦争勝利の軍事資金や戦後復興資金を得る為に、クリミア半島ユダヤ人共和国を建設する事を密約した。世に言う、「ロゾフスキーの提案」である。
 日本の親ソ派共産主義者やプロレタリア活動家らは、この事実を知っていたが、見て見ぬ振りをして口を閉ざした。日本人共産主義者には、反民族主義的大弾圧と反革命派への大虐殺に対する幇助罪が成立する。
 ソ連軍は、アメリカからの軍需物資をイラン鉄道で輸送する際、沿線でイラン人から生活物資を強奪した為に、厳しい冬に襲われて数千人が凍死した。ソ連は、アメリカとイギリスに対して、イラン北部の石油利権の拡大を要求した。
 フルシチョフウクライナ人はあまりに数が多く、彼らを追放する先がなかったばっかりにこういう運命に陥る事を免れた。さもなければスターリンは、ウクライナ人も追放したであろう」
 スターリンは、バルカンを戦後に支配する為に、イタリア戦線の連合軍がソ連軍より先にバルカン半島に侵攻する事を恐れた。
 チャーチルは、ナチス・ドイツの柔らかい下腹部を寸断する為に、バルカン半島からオーストリアからポーランドそしてベルリンへの直接攻撃を主張した。その狙いは、共産主義を東欧から東に封じ込める事であった。
 その攻撃路には、多くのユダヤ人殲滅収容所が点在していた。
 ドイツ軍精鋭部隊はソ連戦線に投入されていて、ドイツ本国には予備軍しかいなかった。
 ルーズベルトは、個人的に、チトーと共同して東進しルーマニアを経てオデッサソ連軍と合流する案を考えていた。
 スターリンは、バルカン半島中央ヨーロッパからアメリカとイギリスを締め出す為に、ルーズベルトにフランスへの侵攻を強く要請した。ドイツ中枢を直接攻撃するには、正攻法としてフランスからの侵攻しかない。その際には、ドイツ軍の激しい抵抗が予想される為に、大西洋と地中海の二方向から上陸してドイツ軍を挟み撃ちにしてして殲滅するべきであると、提案した。
 マーシャルらアメリカ軍は、イタリア戦線を縮小してその主力を南フランス侵攻計画(アンビル作戦)に転用し、北フランスの海峡横断侵攻計画(オーバーロード作戦)の側面支援とする事を提案した。
 イギリス軍は、戦後戦略を見据えて、バルカンへの東方作戦に固執した。
 マーシャルは、スターリンの提案に近い計画を採用して、チャーチルとは対立した。
 ルーズベルトは、ソ連の対日参戦を引き出す為に、スターリン゠マーシャル案を支持し、チャーチルの東地中海侵攻案の破棄を決定した。
 連合軍は、主力部隊を分割する事は攻撃力の低下につながるとして、アンビル作戦を無期延期とした。
 南フランスのビシー政権への攻撃は二次的なものとさ、ユダヤ人の東方輸送は中断される事なく続けられるという事であるた。
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 スターリン「ドイツを占領した暁、二度と再びドイツが我がロシアを攻撃できないように、5万人のドイツ軍将校を射殺する事を要求する」
 チャーチル「そんな集団処刑は、我がイギリス議会も国民も許さないでしょう」
 ルーズベルト「妥協案として、5万人じゃなくて4万9,000人を射殺してはどうか?」
 チャーチルはなおも難色を示したが、ルーズベルトスターリンはドイツ軍将校の集団処刑案を共有した。
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 12月 イランの民族主義者モサッデクは、外国との石油交渉を禁止する法案を議会に提出した。
 モサッデクは、反共産主義者としてソ連を憎んでいた。
 後年、日本は彼に接近した為にイギリスから激しい抗議を受けたが、独自の安全保障から無視した。
 12月2日 バーリ空襲とジョン・ハーベイ号事件。ドイツ空軍Ju88爆撃機105機は、アドリア海に面したイタリア南部のバーリ港を空襲した。
 バーリ港内に停泊中のアメリカ貨物船ジョン・ハーベイ号は、極秘任務としてマスタード・ガス爆弾約2,000発を運搬していた。
 爆撃を受け被弾し、大量のマスタードガスが漏れ出して、付近一帯にガスが蔓延し、入院していたアメリカ軍兵士638人の内83人が死亡した。
 一般市民の犠牲者は不明である。
 アメリカ軍は、極秘でヨーロッパ戦線に持ち込んだ事を隠蔽する為に、マスタードガスによる死亡者リストを「敵の攻撃による火災が原因」とするよう命令した。
 アメリカは、毒ガスを極秘で研究し製造していた。
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 H・カレール・ダンコース「1943年10月から44年6月にかけてクリミアのタタール人やチェチェン、イングーシュ、カルムイク、カラチェイ、バイカルなどの諸民族が中央アジアやシベリアへ流された。全体で7つの民族がこうして故郷から引き離され、その数は最低でも100万人に達したのである。……1946年6月26日にも『イズヴェスチア』に政令が発表され、チェチェン人、イングーシュ人、タタール人を裏切りの罪で死刑にする事と、チェチェン=イングーシュ自治共和国を廃止するとともにクリミアを自治共和国から州に格下げする事の二つが同時に公表された」(『ソ連邦の歴史』)
 ユーリイ・ボーレフ「1940年代半ば、スターリンチェチェン人、イングーシ人らを強制移住を行った。膨大な数の人々が移住の途中で死亡した。特に、若い女性がたくさん死んだ。これらの人々は、家畜を運搬する貨車で運ばれた。駅に停車中も警備隊は、彼らを貨車の外に出さなかった。貨車にはトイレがなかったので、山岳民である女性達は尿毒症にかかって死んだ。彼女たちは、男達の前で小用をたすことができなかったのである。……戦争末期、カルムイク人、バルカン人、チェチェン人が追われ、餓えと寒さと郷愁からシベリアやカザフスタンの地で死に絶えた時、スターリンはダゲスタンの諸民族を追放する命令を下した」(『スターリンという神話』)



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記・紀にみる日本の神々と祭祀の心

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