アウシュヴィッツ後の反ユダヤ主義―ポーランドにおける虐殺事件を糾明する
- 作者:ヤン・トマシュ グロス
- 発売日: 2008/05/01
- メディア: 単行本
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
ジョージ・F・ケナン「ソビエト政府に対する借款供与は、当時の状況では明らかに不当なもので、両国政府間に、また、国内政治面で、後日、必ず激しい紛糾と非難の投げ合いを生むに決まっていた。武器貸与について言えば、1945年10月5日の協定に基づく2億4,400万ドルを上円る積み品を含む110億ドルに上る援助の大部分はドイツとの戦争終結後にロシアに到着し、我々の共通の戦いとは全く関係のない目的の為に主として使用されたのである。そればかりではない。ロシアはUNRRA(国連救済復興機関)援助によって、別に2億4,900万ドルの利益を受けた。また、我が国のドイツ占領地区からの賠償のかたちでさらに数百万ドルをロシアに譲渡した」(『回顧録』)
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ド・ゴールは、ドイツの侵略をうけ占領された経験から国家が自立する為には外国依存を極力避けるべきとして、食糧・エネルギー・国防を最優先政策として強行に推し進めた。
フランスは、農業振興によって食糧自給率を上げ農業大国となり、脱石油として原子力発電所を数多く建設して原発によるエネルギー大国となり、軍事産業を育成し核兵器や兵器を生産しその最先端技術を民間企業に広めて経済大国となった。
第一次世界大戦以降に減少し始めていた人口を、2000年頃にようやく歯止めをかけた。
2000年以降。人口減少による労働力不足を補う為に受け入れていた外国人移民が、賃銀の低下や治安の悪化の引き起こし、反移民派のフランス人低所得層による死傷者を出す暴動に発展していた。
移民問題は、ヨーロッパ各国で深刻な社会問題となっていた。
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イスラエルに移住したホロコーストの生き残りのユダヤ人は、ドイツと言うドイツを完全に嫌い、ドイツ製品を買わなかったし、バッハやベートーベンやモーツアルトなどのドイツ人作曲家の音楽を聴かなかったし、ゲーテやニーチェなどのドイツ人作家の本を読まなかった。
ユダヤ人のドイツ嫌いは、日本人嫌いの中国人や韓国・朝鮮人に比べて徹底している。
中国人や韓国・朝鮮人の意思は、ユダヤ人ほど純粋ではなく詭弁が多い。
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OSSのビル・ドノバン長官とスイスのOSS代表アレン・ダレスは、ソ連・共産主義勢力との冷戦に備えて、ドイツの科学者と技術者をソ連に連行される前にアメリカに入国させる事を決定した。
1946年から55年までに、オーバーキャスト作戦・ペーパークリップ作戦で750人以上がアメリカに渡り、中にはホロコーストに関係した科学者も含まれていたと言われている。
アメリカ流民委員会は、1948年から52年の間に40万人以上の中・東欧系難民を移住させた。
1950年頃には、元ナチスの協力者や新ナチス組織のメンバーと反共産主義の極右組織のメンバーも難民としてアメリカに移住した。
彼等は、反ユダヤ反共産主義の少数民族組織を結成して政治活動を行い、アメリカのユダヤ人団体と対立した。
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東欧各地にいたドイツ人住民千数百万人は、ドイツ本国に逃げる途中でソ連軍兵士や各国の住民の襲われ暴行・強姦・略奪の被害を受け、約200万人が殺害された。
2005年5月 ケーラー大統領「全ての犠牲者を追悼する。ドイツの犠牲者も含めて」
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チェコスロバキアは、ズデーデンなど国内に住むドイツ人約250万人をドイツやオーストリアへ追放した。
国外に追放されたドイツ系チェコスロバキア人の多くが、生まれ育った土地を追われ、財産多くを没収され、歩いてドイツやオーストリアに向かった。
その「死の行進」で、2万人以上が飢えや寒さで死亡した。
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フランスでは、ナチス・ドイツに協力し、ドイツ人軍人の娼婦となっていフランス人女性はリンチを受けて殺害された。
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ナチス・ドイツが無条件降伏して第二次世界大戦が終結するや、ドイツ人が多く住むドイツ東部はポーランドに併合・吸収された。
祖国ドイツから見捨てられたドイツ人民間人約150万人は、ソ連軍によってポーランド各地に作られた強制収容所に隔離され、女子供に関係なく残虐な仕打ちを受けて惨殺された。
ジョン・サック「私は、1945年に彼ら(ユダヤ人)が大勢のドイツ人を殺した事を知ってしまった。ナチス達ではない。ヒトラーの手下達でもない。ドイツの民間人である。ドイツの男性、ドイツの女性、子供達、赤ん坊達である。その人達の罪は、ただドイツ人である事だけであった。
いかにユダヤ人達の怒りが理解しうるものであったとしても、ドイツ人達はドレスデンにおいてより、あるいは広島における日本人よりも、真珠湾におけるアメリカ人よりも、英国本土の戦いにおけるイギリス人よりも、あるいはポーランドのポグロムでのユダヤ人自身よりも、多くの民間人を失ったのである。
私はそれを知り、そしてさらに知りたいと切望した。……私は聖書学者ではないが、土曜学校に通った。……そして私は、トーラ(ユダヤ教の聖典)が私達に正直な証人である事を命じていることを、つまり誰かが罪を犯した事を知りながらそれを報告しなかったら私達も罪を犯す事になる、と述べている事を知っている。……
私はヨーロッパで調査を進める一人のユダヤ人として、もしユダヤ人が何らかの道徳的権威を守ろうと思うならば、ユダヤ人の司令官達が何をしたかを報告する義務があると感じたのである」(『目には目を』)
1995年5月8日号 ニューズウィーク誌英語版「ユダヤ系アメリカ人であるジャーナリストのジョン・サックは彼の最近の著書『目には目を』の中で、新しく生まれた共産主義体制によって集められ、結果的にナチスへの復讐を行われたユダヤ系ポーランド人達について語り、激しい論争を巻き起こした。
サックによれば、彼ら(ユダヤ系ポーランド人)は自分達の囚人が彼ら(ドイツ人)が犯したとされる罪状を認めれば殴り、また認めないで殴ったと言う」
1995年5月17日号 ニューズウィーク日本版「戦後50年特集 語らざるドイツの悲劇 戦後ポーランドの共産主義政府は、ナチスに対する復讐を目的として、ユダヤ系国民を収容所に招集したというのだ。サックによると、彼らは収容者にナチスの『罪』を着せ、罪を認めれば罰として暴行を加え、認めなければ拷問に及んだ」
イアン・ブルマ「ドイツ人に対する暴力の最悪の事例が、民兵によって犯されたのは疑いない。彼らは強制収容所を運営し、収容者を拷問、無作為に殺し、人々を晒し台に掛けたが、時には何の理由もなくそうした。急いで編成された為、民兵は最も腐敗したポーランド人の──大抵は非常に若い犯罪者──の中から新兵の多くを採用した。
ラムズドルフ収容所司令官のチェロサ・ギンボルスキはまだ18歳だった。800人の子供を含む、6,000人以上が彼の指揮下で殺された」(『廃墟の零年 1945』)
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1945年7月26日 イギリスの総選挙の結果、保守党は193議席、労働党381議席。チャーチルは、ポツダムから帰国して内閣を総辞職した。アトリーは、新たな内閣を組閣した。アトリー首相は、選挙中は保守党のパレスチナ政策を批判してシオニストに理解を示していたが、組閣するや植民政策から親アラブ政策を採用した。
ユダヤ人問題は、中東の石油をめぐって、さらに複雑化した。
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日本軍は、上海ゲットーでユダヤ人難民をナチス・ドイツから守っていた。
8月18日 アメリカ軍は、上海に上陸し、日本軍の強制収容所である上海ゲットーを解放して、日本軍兵士(大半が朝鮮人)の監視下にあった約2万5,000人の東欧系ユダヤ人難民を救出した。
連合国は、上海ゲットーで約1,700人が犠牲になった事を知るや、ナチス・ドイツと同じホロコーストが日本軍によって行われたとして戦犯捜査を始めた。
調査団は、日本側官憲が敵性国民のユダヤ人を連行して残虐な拷問を行って殺害したと報告し、その証拠を集める為に駆けずり回った。
だが、日本軍によるホロコーストを証明する証拠は得られず、南京虐殺事件などで行った様な捏造やでっち上げも不可能であった。
ユダヤ人虐殺に関して、日本軍人で有罪判決を受けた者は皆無であった。
日本軍は、ナチス・ドイツの様なホロコーストは行わなかった。
本土無差別爆撃や原爆で、ユダヤ人が連合国に協力して非戦闘員の日本人を生きたまま焼き殺している事を知っていたが、ユダヤ人を放置していた。
戦争以前から上海に住んでいたユダヤ人は、中国人を信用して、昔の様な生活を送る為に残留する事を希望した。
解放されたユダヤ人難民の全員が、不潔で社会環境の劣悪な中国を嫌って、アメリカやパレスチナへの移住を希望した。出身地であるドイツやポーランドなどの祖国へ帰国えお希望する者は、極少数であった。
だが、ユダヤ人難民が移住を希望した国々は、戦前同様に受け入れを渋っていた。
中国の貧困層を中心に反ユダヤ運動が起き、国民党と中国共産党による内戦の激化に伴い、在中ユダヤ人の安全が脅かされ始めた。
ニューヨークのジョイント(アメリカ・ユダヤ人合同配分委員会)などの国際的なユダヤ人救済組織は、ユダヤ人難民に安住の地を与えるべく非協力的な国々を説得して廻った。 パレスチナは、ユダヤ人国家イスラエルの建国の為に戦闘要員としての若者と、将来の国防軍強化の為の子供を受け入れるが、それ以外の老人と病人は拒否した。
上海から大半のユダヤ人難民が渡航できるようになるまでに、数年の年月を要した。
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戦前の日本は、明治天皇から昭和天皇のまで天皇の「御稜威」や「大御心」から、数万人のユダヤ人難民を無償で温かく迎え、新天地が見つかるまで親身になって面倒をみ、安住の地に旅立つユダヤ人難民を励ましながら送り出した。
昭和天皇は、軍部に対して、ナチス・ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人難民の保護を希望した。
A級戦犯の東條英機や松岡洋右や板垣征四郎らは、昭和天皇の希望に従い、ナチス・ドイツの強力な外圧と反ユダヤの右翼や右派の突き上げに屈することなくユダヤ人難民を保護した。
戦前の日本は、現代日本人以上に、自分を犠牲にしてまでも親ユダヤであろうとした。
現皇室が存続する限り、日本は親ユダヤであり、反ユダヤではない。
反天皇は、口先で親ユダヤを叫んでも、心の芯は反ユダヤである。
現天皇家は、親ユダヤであり、反ユダヤではない。
皇道は、大家族主義の「八紘一宇」により、親ユダヤ主義であり、反ユダヤ主義ではない。
現代日本人は、古の人と人の「絆」を大事にする「心」を、古くさく国際化には無用であると踏みにじろうとしている。
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昭和天皇は、ヒトラー同様に虐殺を命じた戦争犯罪者として告発され、天皇の戦争犯罪は永遠に消えることなく時効は無いとされた。
100年先も、200年先も、さらに1000年先に至っても、未来永劫、消える事はないと。
天皇は、最終決定権者として、戦争責任から逃れる事は出来ないとされている。
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ローマ・カトリック教会の司教や司祭は、個人的に、ナチス・ドイツのホロコースト戦犯容疑者を匿い、中南米への逃亡を手助けした。
ローマ教皇やバチカンは、この件には無関係で罪はないとされている。
キリスト教会は、無罪であると。
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10月19日 ドイツ・福音主義教会は、宗教家としてナチス・ドイツのユダヤ人虐殺と侵略戦争に抵抗しなかった事に対してシュトゥットガルト罪責宣言を発表した。
ハンス・ロートフェルス(ユダヤ系ドイツ人歴史学者)「キリスト教会は、教会固有の領域で抵抗する事でによって、いかなる外的反乱がなしうるよりも堅固な核心を積極的抵抗勢力に提供した」
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ドイツを占領したアメリカ軍政局長L・グレイと経済問題長官ウィリアム・ドレイバーは、反共産主義戦略から強いドイツの再建に奔走し、ナチ党幹部や国防軍首脳を保護した。
アメリカ軍諜報部は、ホロコーストに参加した親衛隊やドイツ軍人を保護する為に、バチカンと協力して戦犯追及から中南米へ逃がした。
アメリカ産業界は、政府に対して、100億ドル以上の価値がある科学データや最先端技術をドイツから掠奪する事を要請した。
民間企業の専門家は、軍服を着て廃墟となったドイツから科学技術を戦利品として持ち去った。
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戦後でも、ポーランドなどの東欧各地で悲惨な事件が続発していた。
地獄の様なナチスの絶滅収容所で生き残った一部のユダヤ人は、信頼できる友人に預けた家族の財産を受け取る為に故郷に帰還した。
伝統的な反ユダヤ主義の根強いポーランドなどの東欧では、ヒトラーの軍隊を誘い込み、悲惨な戦火をもたらし、多くの同胞を虐殺した原因をつくったのはユダヤ人であると信じ込んでいた。
幼い頃から一緒に育った非ユダヤ人の友人は、奪った財産の返還を恐れて、ホロコーストから生還したユダヤ人を殺害した。
かって、ユダヤ人虐殺はキリスト教のヨーロッパ社会に存在していた。
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エマニュエル・レヴィナス「600万ユダヤ人─その内100万人は子供達だった─の受難と死を通して、私達の世紀全体の贖い得ない劫罰が開示された。それは他の人間に対する憎悪である。それは開示であり、黙示であった。……再びイスラエルは聖書に記されている通り、万人の証人となり、その〈受難〉によって、万人の死を資に、死の果てまで進むべく呼び寄せられたのである」
「聖性とは、総じて、他なる者には最優先権を譲らなければならないという確信のうちに存在するものです。それは開かれた扉の前で、『お先にどうぞ』という事から始まって、他者の為に、その身代わりとなって死ぬ事(それは極めて困難な事ですが、聖性はそれを要求しています)までを含みます。……選びは、特権から構成されているのではない。それは有責性によって構成されている。……他の全ての人々に対する道徳的義務が〈私〉には課せられている。道徳性についての根源的直観とは、おそらく私は他者の等格者ではないと気付く事である。私は、他者に対して責務を負っていると感じる事である。それゆえに、私自身に対しては、他の人々に対するよりもはるかに多くを要求する事になる」
「1933年から1945年にかけての歳月が、ユダヤ教徒にとってどんなものであったのかを思い出して頂きたいと思います。その時代に辛苦と死を経験した数百万人の人々の中にあって、ユダヤ人は完全に神に見捨てられるという例外的な経験を持ちました。ユダヤ人は事物よりもさらに劣った地位を、完全な受動性という経験を、〈受難〉の経験を味わいました。『イザヤ書』53章に書かれてある通りの事がその身に起きたのです。……ユダヤ人の苦しみは、徹底的に人種的な迫害という固有のかたちをとりました。人種的迫害とは、その意図そのものからして、あらゆる逃走を不可能にし、あらかじめあらゆる改宗の試みを封じ、全ての自己放棄を、その語の語源的な意味における背教を禁じ、おのれの究極的な自己同一性に召喚された存在者の無垢的そのものを痛撃するからです。イスラエルは、再び世界の宗教史の中心におのれの姿を見出したのです。」
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サルトル「反ユダヤ主義者は、ユダヤ人が知性的で勤勉である事を喜んで認める。自分の方が、劣っていると認めさえするであろう。これくらいの譲歩は、彼等にとっては少しも苦にならないからだ。そういった美質を、反ユダヤ主義者は括弧に入れる。その様な美質を身に備えた人間とは、もともと固有の価値に乏しい人間であると解釈するのだ。……反ユダヤ主義者は自惚れない。彼は自分の事を中位の人間、真ん中よりちょっと下くらいの人間、有り体に言えばかなりできの悪い方の人間だと思っている。反ユダヤ主義者が自分はユダヤ人より個人的に優れていると主張した例を私は知らない。しかし、彼はその事を全く恥じていないのである。彼は、その状態に満ち足りている。その状態を、彼は自分で選んだからである。……反ユダヤ主義者にとっては、知性はユダヤ的なものである。だから、彼等は知性を(それ以外にユダヤ人が所有しているさまざまな美質とともに)心静かに軽蔑する事が出来る。」
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内田樹「ユダヤ人は非ユダヤ人よりも世界の不幸について多くの責任を引き受けなければならない。神はそのためにユダヤ人を選ばれたからである。レヴィナスは『聖なる民』に過大な要求をつきつける。……自らを『神に選ばれた民』であると信じ、自ら『聖なるもの』であると思いなしている信仰者集団は世界中のどこにも存在する。けれども、『救い』における優先権を保証せず、むしろ他者に代わって『万人の死を死ぬ』ことを求める神を信じる集団は稀有である。『ユダヤ的知性』は彼らの神のこの苛烈で理不尽な要求と無関係である。」(『私家版・ユダヤ文化論』P.187・188)
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11月20日(〜46年10月1日) ニュルンベルク裁判。ナチス・ドイツによって行われた戦争犯罪を裁く国際軍事裁判。
戦後のドイツは、戦争犯罪行為をヒトラーと国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に押し付け、国家として謝罪も賠償もしなかった。
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11月27日 国民政府は、日本軍の侵略戦争に協力したドイツ人やオーストリア人そしてユダヤ人を中国から追放すると発表した。
ユダヤ人側は、ユダヤ資本の経済力を利用して国民政府と交渉し、ユダヤ人を差別しない事を確約させ、日本と関係のあった約1万3,000人の追放に同意した。
国外追放されるユダヤ人の40%がアメリカ行きを希望し、残りはドイツ以外の地ヨーロッパかパレスチナを望んだ。
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12月22日 トルーマンは、毎年3万9,700人のユダヤ人難民の入国を認めると表明した。その目的は、大統領再選に必要な選挙資金と票を得る為であった。
アメリカ市民で人種差別主義者は、ホロコーストの事実を知りながらユダヤ人への迫害を止めなかった。
警察当局は、人種差別主義者らによるユダヤ人や黒人への刑事事件をもみ消した。
中国人は、儒教価値観による人種差罰主義者賭して、無国籍ユダヤ人難民と親日派外国人への暴動を起こした。
中国人暴徒は、ユダヤ人の住宅や商店を襲撃し、商品や家具を強奪して、建物に放火した。
ポスター「日本人とユダヤ人は、中国の敵だ!」
上海市政府と警察当局は、無国籍ユダヤ人難民を保護するべく警告を発したが、殺人事件を起こさない限り目をつぶった。
反ユダヤ暴動は、中国全土で起きた。
ユダヤ系国際資本は、日本を追い詰めるときに使った同様の反中国謀略を行わなかった。彼らは、中国がソ連同様に共産主義化しても貿易が可能と楽観していたからである。
上海のアメリカ総領事館は、アメリカ国籍ユダヤ人の保護を最優先とし、他国籍ユダヤ人や無国籍ユダヤ人を後回しにした。
アメリカ政府は、入国しても自活できるユダヤ人には入国ビザを発給したが、生活保護を必要とする貧しいユダヤ人の入国を拒否した。
入国条件として、能力が絶対条件とされた。
キリスト教会は、政府から見放された貧しく能力のないユダヤ人難民を救い、アメリカに入国できる様に保証人となった。
アメリカ軍は、自国民の安全を優先してアメリカ国籍を持たない者を保護しなかった。
イギリスは、アラブ側の同意が得られないとして、パレスチナへの移住を制限した。
アラブ側は、これ以上のユダヤ人難民を入植させると戦争になると泣きついていた。
国際的人権擁護団体は、ホロコーストで生き残ったヨーロッパのユダヤ人難民で手一杯で、ヨーロッパを逃げ出したアジアのユダヤ人難民どころではなかった。
パレスチナのユダヤ人組織は、ユダヤ人国家建設戦争の勝利に必要な戦士を必要として、建国戦争に参加できない病弱な同胞や年寄りの受け入れを拒否した。
ジョイント(アメリカ・ユダヤ人合同配分委員会)は、上海のユダヤ人組織と協力して無国籍ユダヤ人の移住先を探したが、受け入れを表明する国は見つからなかった。
46年7月中頃までに出国できたのは、300人程度に過ぎなかった。
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1948年12月9日 国連は、二度と大量虐殺を繰り返さない為に「ジェノサイド条約(集団殺害の防止をよび処罰に関する条約)」を採択した。
常任理事国であった中華民国は、署名した。
中国共産党政権は、翌年に中華人民共和国樹立を宣言しても同条約を承認せず、国内で反革命派や少数派を大量虐殺していた。
毛沢東「79万人を殺し、200万人を刑務所に入れた」
国連は、中国共産党政府今も続けているジェノサイド条約違反の非人道的犯罪行為から目を反らし裁く事をせず、東京裁判とサンフランシスコ講和条約で終了している軍国日本の過去の犯罪を追求している。、、
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1949年 コスタリカのフィゲレスは、反対派のクーデターを恐れて自ら指揮した軍隊を解散させ、反対派を封じ込める為に警察官を増やして国民の監視を強化した。
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1964年2月末 西ドイツ司法省、オデッサ・ファイルを匿名の告発者から送られ、ナチ戦犯の追及に活用開始。
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1975年 ベトナム戦争。南ベトナム軍兵士は、逃げるのに邪魔になるとして武器弾薬を全て捨てて丸腰となって敗走した。
愛国心や祖国愛のない南ベトナム兵士は、戦意がなく、誰かが敵前逃亡として陣地から逃げ出すと、国家を守る為に一人踏みとどまって戦って死ぬ事は馬鹿な事であるとして、先を争って逃げ出した。
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1989年 アメリカ軍は、パナマを侵攻して、実力者ノリエガ将軍を拉致した。
アメリカは、パナマの武力報復を恐れてパナマ国軍を解体した。
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- 作者:小野 善一郎
- メディア: 単行本