🔯59」─2─エリザベス1世。イギリス王国は、海賊行為と奴隷貿易で富を貯えた。イギリス海賊ドレーク。1558年。~No.215No.216 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 洋の東西で海賊が活躍していた。
 西洋では、バイキングとイギリス海賊。
 東洋では、倭寇
 海洋は海賊によって開拓され、時代は海賊によって切り開かれて行った。
 海賊行為は、人類が海外に発展する為には必要な犯罪であった。
 バイキング、イギリス海賊、倭寇は、人類の発展史においては「必要悪」であった。
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 中世ヨーロッパの貴族・領主・司祭は、自分が所有する女召使いが初婚の場合、花婿に先だって初夜に同衾する権利「初夜権」を持っていた。
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 1558年 エリザベスは、イングランド国王に25歳で即位した。
 イギリス女王エリザベス1世の誕生である。
 イングランド王国の財政は、3代の国王と女王による悪政によって破綻していた。
 イングランドでは家内産業的な羊毛産業が盛んで毛糸や毛織物を大陸に輸出していたが、大陸で商品が売れなくなるや在庫が余って値崩れを起こし、イングランド国民の生活に深刻な影響をもたらしていた。
 産業革命以前のイギリスは島国といっても、日本のような自給自足がでる自立した遠島国ではなく、大陸に全面依存して生きる近島国であった。
 不況下に喘ぐ国民に、富みへの希望をもたらしたのは、ナイトの称号を持つ奴隷商人のジョン・ホーキンスと海賊のフランシス・ドレイクであった。
 サー・ジョン・ホーキンス(1532年〜1595年11月12日)は、イングランドの海賊、私掠船船長、奴隷商人、海軍提督である。
 サー・フランシス・ドレーク(1543年頃〜1596年1月28日)は、ホーキンスの従兄弟でエリザベス朝のイングランドの航海者、海賊(私掠船船長)、海軍提督。
 ホーキンスの海賊船は、他国の商船を襲撃して、船員を殺し、生き残った者を奴隷として売りさばき、奪った銀や積み荷をイギリスに持ち帰っていた。
 ホーキンスは、奴隷貿易が儲かる事を知った。
 当時の、主要な国際交易品は香料と奴隷であった。
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 カトリック教徒であったメアリ女王は、スペイン王国から財政支援をうるべく、王太子であったフェリペ2世と政略結婚した。
 メアリ女王は、一時、異母妹でプロテスタンのエリザベスをロンドン塔に幽閉した。
 イギリスは、フランス王国に対抗する為に、ドイツ帝国及びスペイン王国とは同盟関係にあった。
 イギリス、フランス、ドイツ、オランダ、バチカンは、国益を守る為に、宗教や心情を越えて同盟と対立の外交を展開していた。
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 1560年 エリザベス1世は、莫大な富を得る為に、ジョン・ホーキンスが提案した奴隷貿易を許した。
 貧しい二流国であったイギリスは、奴隷貿易で得られる冨で国を豊かにしようと考えた。
 ジョン・ホーキンスは、奴隷貿易の資金として富裕商人のシンジケートを組織し投資を募った。
 イギリスの海洋支配の第一歩である。
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 ポルトガルは、アフリカで奴隷狩りをして中南米大陸やカリブ海の諸島に売却して大金を稼いでいた。
 1543年に火縄銃を日本に伝えたポルトガル人商人は、宣教師の日本布教活動に資金援助しながら、日本人を奴隷として売却して金儲けしていた。
 白人キリスト教徒にとって、非白人で非キリスト教徒とは人間ではなく、家畜かそれ以下の獣に過ぎなかった。
 当然、日本人も人権なき奴隷にできる動物であった。
 現実の政治や経済において道徳や倫理は存在しないし、軍事においては人権もない。
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 1562(〜63)年 第1回航海。ホーキンスは、3隻の船団でシエラレオネを経由し、カリブ海に向かった。
 当時の商船は、海賊船でもあった。
 船団は、アフリカ沿岸でポルトガルの奴隷船を襲撃して乗っ取り、カリブ海諸国で301人の奴隷を売買した。
 スペインは、ホーキンスが奴隷貿易禁止命令を無視して奴隷商売を行っている事に激怒して、2隻の船は拿捕して売上金や積み荷を没収した。
 ホーキンスは、残った船の奴隷をサントドミンゴで売り、ロンドンの投資家に払う利益を得た。
 スペインは、イギリスへの制裁として、全てのイギリス船に対し西インド諸島での貿易を禁じた。
 イギリスは、ポルトガルやオランダに倣って、アフリカで奴隷狩りをしてカリブ海中南米大陸に運んで売ったが、途中で死亡する奴隷が多かった為に効率が悪いと懲りた。
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 1564(〜65)年 第2回航海。
 ホーキンスは、労多く利益少ないアフリカでの奴隷狩りをせず、アフリカからカリブ海へ向かうポルトガル奴隷船を襲撃して乗っ取り、奴隷をカリブなどの奴隷市場で高値で売りさばき、空船に砂糖やタバコなど満載してイギリス本国に帰国する計画を立てた。
 無駄の少ない合理的な三角貿易の誕生である。
 アングロ・サクソンの優れているのは、徹底した合理主義にある。
 ホーキンスは、大金を持って帰国して、資金を提供してくれた投資からの利益をもたらした。
 ポルトガルは再三にわたってイギリスに抗議したが、エリザベス1世は国際信義より国益を優先して無視した。
 エリザベス1世は、合理的三角貿易は金になると判断し、ホーキンスに700トンの巨大船ジーザス・オブ・ルーベック号を提供した。
 1565年 ホーキンスは、4隻の船団で出港し、海賊行為を働きながら400人程の奴隷を獲得してスペイン領リオ・デ・ラ・ハチャに向かった。
 スペイン当局者は、税をかけてホーキンスの奴隷売買を妨害した。
 ホーキンスは、相手の防衛力は弱いとみるや、税の支払いを拒み「町を燃やすぞ」と脅して奴隷を売却した。
 その後。休息の為にフロリダのフランス人植民地に向かい、翌66年9月に帰国し投資家らに60%の利益をもたらした。
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 1566年 ドイツ皇帝兼スペイン国王カルロス5世は、スペインを息子のフェリペ2世に譲った。
 スペイン国王フェリペ2世は、イングランドを併呑する為にイギリス王国エリザベス1世に求婚した。
 エリザベス1世は、男系相続の慣習によって、イギリスがスペイン領となる恐れがあるとして拒絶した。
 欧州王家は、結婚と共に妻の実家の王家に影響力を持ち、場合によっては妻の血筋を利用して王子を後継者として送り込んで王国を乗っ取った。
 その意味では、欧州の王侯貴族は男系と女系の両系相続であった。
 後年。イギリスのビクトリア女王は、インド皇帝を兼任した。
 イギリス(イングランド)女王エリザベス1世は、1588年にカトリック教王国スペインの無敵艦隊を撃破し、敵国商船への海賊行為を公認して国家発展に必要な資本を蓄積した。
 エリザベス女王は、大の風呂嫌いで、一ヶ月に一度、入浴すればいい方であった。
 イギリスは、数多くの海賊船に勅許状を与えて保護する代わりに、莫大な手数料を得た。そして、帆船の性能向上の為に造船業の発展に力を入れた。高性能の帆船による大船団を所有する為に、大量の森林を伐採して、材木資源は枯渇した。
 イギリス王室財政は、海賊船の略奪で何とか維持されていた。
 イギリス海軍は、海賊を特殊部隊として利用していた。
 海賊は、イギリス国家と一体化していた。
 ヨーロッパの海洋史は、各国の海賊によって発展していた。
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 1567(〜69)年 第3回航海。ホーキンスは、ポルトガルの奴隷船マドレ・デ・デウス号を襲撃して、多くの奴隷と積荷を得た。
 スペインは、海賊行為を止めないホーキンスの討伐を決断した。
 1568年 サン・フアン・デ・ウルア(現在のベラクルス)で。ホーキンス船団は、新しい副王を植民地に運んでいるスペイン海軍と遭遇して海戦となった。
 ホーキンスは、海戦に負け、2隻のみとなって敗走して帰国した。
 自分の船を持って参加していたフランシス・ドレークも、命からがら逃げ延びてイギリスに帰還した。
 イギリス人は、イギリスを排除して中南米貿易を独占し様とするスペインに対して敵愾心を抱き、スペイン打倒を誓った。
 1570年 ドレークは、若くて威勢の良い荒くれ者達を集めて新たな海賊集団を作り、西インド諸島のスペイン船や町を襲撃し、虐殺と略奪を行った。
 特に、ボリビアで採掘された銀をスペイン本国に輸送するスペイン船を、カリブ海待ち伏せして襲撃した。
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 1571年 レパントの海戦
 9月 国家元首・女王暗殺未遂事件。
 ホーキンスは、親スペイン派のカトリック教徒によるエリザベス1世暗殺計画を察知して一網打尽にした。
 イギリスは、国家元首であり国教会の最高主宰者の女王暗殺を見過ごす事はなかった。
 がだ。大国スペインの手前、事をあらたげる事に穏便に処理した。
 国家元首暗殺は、重罪であった。
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 1572年 キリスト教会内の宗教紛争は止む事なく、大虐殺が続いていた。
 宗教対立は、理性や良心に関係なく、絶対神を信仰するが故に歯止めが利かなかった。
 8月 サン・バルテルミの大虐殺。カトリック派は、宗教改革を支持するパリの新教徒ユグノ派8,000人以上を虐殺した。
 カトリーヌ・ドゥ・メディシス王妃「女には、血なんか珍しいものではありません。ええ、女というものは誰もが血塗れになりながら、人の妻となり、母とならなければならないのです」
 カトリーヌ・ドゥ・メディシスは、フィレンツェメディチ家の出身であった。
 財政難にあった王家は、民間の資産家から金銭支援を受ける為に娘を王妃として迎えていた。
 夫王が死亡した後は、民間人出身の王母が君臨した。そして、平民の商人が王国の財政を支配した。
 キリスト教同士の虐殺で、パリの街は阿鼻叫喚の地獄と化し、セーヌ河は死体の血で真っ赤に染まった。
 カトリーヌ王妃「今日はは残酷な事こそ慈悲にして、慈悲深き事は即ち残酷なり」 
 同じキリスト教を信仰する国民でありかながら、教派が違うというだの理由で、女子供に関係なく殺害された。
 中には、金銭目的で冤罪として殺害された者も多くいたとされている。
 フランス全土で、絶対神の御名によってユグノー派10万人以上が惨殺された。
 この時代は、女性が活躍した時代であった。
 そして、女性が夥しい血を流した時代でもあった。
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 1573年 ドレークら海賊達は、パナマからノンブレ・デ・ディオスに金銀を運ぶラバ隊を襲撃して大量の財宝を手に入れた。
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 1574年 アンジュー公アンリは、ポーランド国王に選ばれて領地に向かう途中で、兄のシャルル9世が早世した為に、帰国してフランス国王に即位した。アンリ3世である。
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 1577年 ドレークは、海賊船団を指揮して、マゼラン海峡を抜けて南米大陸太平洋沿岸を荒らし回って帰国するという遠大な強奪計画を立てた。
 エリザベス1世は、国家として海賊行為に表立って資金援助できなかったが、秘密裡に資金を提供した。
 宮廷の重臣達も、投資として、海賊行為で一山当てるべく密かに出資した。
 11月 ドレークは、排水量約300トンのガレオン船ペリカン号(後に改称してゴールデン・ハインド号)を旗艦とする5隻の船団でプリマス港を出港した。
 1578年 ドレーク船団は、マゼラン海峡を越えてより太平洋に出たが嵐に遭い、マゼラン海峡の南側の海峡を大西洋側に押し戻された。
 この海峡は、「ドレーク海峡」つまり「海賊海峡」と命名された。
 さらに、ホーン岬を発見した。
 太平洋に進出し、チリやペルー沿岸のスペイン植民地や船を襲って、多大な財宝を奪った。
 1580年9月 ドレークは、唯一生き残ったゴールデン・ハインド号で、太平洋を横断してモルッカ諸島に、さらにインド洋から喜望峰を回って、イギリス・プリマス港に帰港した。
 フェルディナンド・マゼランは途中で死亡したが、ドレークは生きて世界一周を達成した。
 ドレークは、海賊行為を行い60万ポンドの財宝を手にし、その半額の30万ポンドをエリザベス1世に献上し、それ以外の出資者にも巨額の利益をもたらした。
 当時。イングランド王国の年収は20万ポンドで、多額の負債を抱えていた。
 エリザベス1世は、負債を返済し、残りの一部の4.2万ポンドをオスマン・トルコ帝国と交易しているレヴァント会社に投資した。
 後に。レヴァント会社の収益で、東インド会社が設立された。
 イギリス王家は勿論多くの資産家は、これ以降もドレークら海賊達に多額の投資を行い支援した。
 イギリス帝国の繁栄は、公認海賊達が略奪した金銀財宝によって始まった。
 大航海時代で活躍した冒険者達とは、勇気ある商人達ではなく、海賊や奴隷商人といった極悪非道な犯罪者達である。
 近代資本主義は、こうして生まれた。
 日本で言えば、対馬五島列島及び北九州を根城にした非公認の倭寇である。
 スペイン国王フェリペ2世は、エリザベス1世に対して、ドレ−クがスペイン船から強奪した積み荷や財宝の返還とドレイクの処罰を要求した。
 イングランド政府は、イギリスは小国で貧しかっただけにスペインの経済力や軍事力には敵わないとの理由で、大国のスペインを怒らせる事は得策ではないとの結論から、海賊ドレークの処刑を決めた。
 エリザベス1世は、費用の面からスペインとの戦争は避けたかったが、ドレークは海賊ではあるがイングランドに利益をもたらす有益な人材として処分を放置した。
 スペインの国力を弱める為に、ネーデルラント(オランダ・ベルギー)の反逆者を支援していた。
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 1581年4月 イギリスを訪問していたフランス使節は、エリザベス1世の意を酌んでドレークにナイト叙任の儀式を代行した。
 エリザベス1世は、スペインの友好国であるフランスがドレークを叙任したとして、ドレークのナイトの叙任を宣言しイギリス海軍中将に任命した。
 海賊王ドレークを英雄と崇めるイングランド人は、歓声を上げて新たな祖国の英雄の誕生を祝った。
 ドレークは、プリマスの市長に選ばれたが、スペインとの国交悪化から海賊に戻り、スペイン領やスペイン船への攻撃を指揮した。
 スペイン人は、ドレークに悪魔の化身であるドラゴンを指す「ドラコ」という呼び名を付けて恐れた。
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 ドレークは、イギリスでは国の英雄であったが、スペインでは極悪非道な犯罪者であった。
 イギリスは、ドレークを極悪非道な犯罪者である事を認めない。
 スペインは、ドレークを英雄とは認めない。
 イギリスもスペインも、相手の歴史を認めなかった。
 それが、世界の常識である。
 一つの国に統合されない限り、共通の歴史認識など有り得ない。
 二国間にせよ多国間にせよ共通の歴史認識が可能と信じる者には、真実の歴史など理解できないし、本当の歴史を語る資格はない。
 コロンブスは、スペインや西洋では英雄ではあるが、カリブ海中南米では侵略者である。
 ナポレオンは、フランスでは国の英雄ではあるが、スペインやロシアでは侵略者である。
 ワシントンは、アメリカでは建国の父であるが、イギリスでは反逆者である。
 伊藤博文は、日本では元勲で、欧米では尊敬に値する有能な政治家で、韓国・朝鮮では極悪人で、中国では侵略者である。
 韓国・朝鮮では、国家元首昭和天皇暗殺未遂の朝鮮人テロリストは国の英雄で、日本では反逆罪及び不敬罪の重罪で死刑に値する犯罪者である。
 ファシスト中国は、国家と国民の統合の象徴である昭和天皇暗殺を仕掛けた朝鮮人テロリストとその母体組織を支援していた。
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 フランシス・ウォルシンガムは、エリザベス1世を国内外の敵が仕掛けてくる暗殺から守る為に、ヨーロッパ中を旅する行商人から大金を払って情報を仕入れ、有能な者を情報工作員に勧誘して情報網を張り巡らせた。
 ウォルシンガムは、スペインがイギリス侵攻の為に無敵艦隊アルマダ」の軍艦を建造中との情報をエリザベス1世に報告した。
 エリザベス1世ら宮廷は、その情報を信用せず、国土防衛の対抗処置を執らなかった。 ウォルシンガムは、外交重視の外務省に隠れて、ヨーロッパに潜伏する工作員達に密命を与えた。
 敵を欺くには、まず味方から。
 勝利の為ならば、騙し偽りなど卑怯・卑劣な手段が許された。
 勝利は、全てに優先された。
 工作員達は、船大工不足で困っているスペインに対して、戦争勝利の暁に褒美を貰う事を条件として船大工を送り込んだ。
 工作員と船大工達は、軍艦建造の課程で壊れやすい様に細工を施した為に、130隻中半数以上が手抜きの不良軍艦であった。
 1588年のアルマダ海戦で、イギリス軍艦に沈められたスペイン軍艦は3隻のみで、大半が暴雨風で沈没した。
 イギリスの勝利は、ウォルシンガムの情報と謀略による。 
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 フェリペ2世は、海賊ドレークを取り押さえないエリザベス1世に激怒したが、カトリック教徒の元スコットランド女王メアリがイングランドに幽閉されている為に軍事攻撃を控えた。
 大国スペインと新興国イングランドの関係は悪化した。
 フェリペ2世は、カトリックを裏切りポロテスタントに改宗してイギリス国教会を創ったイングランドに、神の鉄槌を下す「イングランド経営計画」の準備を始めた。
 130隻の大艦隊と3万人の軍隊をを派遣して、フランドル(オランダ)に駐屯している摂政パルマ公とその軍隊1万6,000人を乗船させ、エセックスの海岸に上陸し、イングランドカトリック教徒と合流してロンドンを軍事占領するという計画であった。
 イングランド王国は、スペイン王国に比べれば小国で、軍隊もスペイン軍に比べ物にならないほど弱小であった。
 さらに、スコットランドカトリックがスペインに味方する恐れもあった。
 フェリペ2世は勝つ自信があったが、エリザベス1世は勝てる自信がなかった。
 エリザベス1世は対抗する為に、奴隷商人のジョン・ホーキンスを海軍財務長官に、海賊のドレークを副司令官に任命して艦隊を委ねた。
 ホーキンスとドレークは、海賊稼業の経験を生かして、スペイン軍艦に負けない新たな軍艦を建造し、大砲の改良を行った。
 イギリスは、スペインの侵略から祖国を守るべく軍事強化を行った。
 イギリスにとっても、スペインにとっても。負けられない、正義の戦争であった。
 イギリスのカトリック教徒は、イギリス教会に反発しても、他国のスペインの占領されること嫌ってエリザベス1世の祖国防衛戦に参加した。
 イングランドもスコッランドも、信仰心よりも愛国心を選び団結した。
 1585年 イギリスとスペインは、宣戦布告なき戦争状態に突入した。
 1587年 ドレークは、艦隊を率いてカディス湾でスペイン艦隊を襲撃した。
 2月8日 エリザベス1世は、イングランド王位継承権を主張しエリザベス廃位の陰謀に加担した罪で、ロンドン塔に幽閉していたスコットランド女王メアリーを処刑した。
ローマ法王カトリック教系王侯貴族は、愛人の子であるエリザベス女王よりもメアリー女王こそがイングランドの正統な国王に相応しいと考えていた。
 その為に、カトリック教徒とイングランド国教会プロテスタントとの陰惨な殺し合いは続いた。
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 1588年 グレートブリテン島においてイングランド王国が優位を占めていたが、スペイン王国フランス王国などの大陸国に比べれば遙かに経済力も軍事力も劣っていた。
 産業らしい産業がない為に国力がなく国民からの税収は乏しく、勅許海賊からの収入が大きかった。
 イギリス海軍は、王室海軍と海賊船団で編制されていた。
 海賊になるには、出身階級も出身地も関係なく、教養がなく文字が読めず字が書けなくとも関係なく、酒を飲み馬鹿騒ぎができ、商船を襲い、人を斬り殺し、女を強姦し、積み荷を奪えれば誰でもなれた。
 王室海軍は、海賊船団との指揮命令系統を調整する為に、意味さえ通じれば良いとの実用重視で、文法や発音がおかしくても英語で統一した。
 海賊への指令は、文面ではなく口頭で行い、その証拠として命令書を手渡した。
 当然、海の上の掟は不文法であった。
 この徹底した実用本位の考えが、英語を航海の共通語とした。
 造船能力がなかった為に、優れた造船技術を持ったオランダと同盟関係を持ち、建造を依頼していた。
 オランダは、旧宗主国スペインとドイツ・神聖ローマに対抗する為にイギリスと手を組んだ。
 陸軍は、スコットランド王国アイルランド王国よりは強力な軍隊を持っていたが、大陸の諸王国に比べれば脆弱であった。
 当然、英語は国際外交の場では田舎者の野卑な言葉として馬鹿にされていた。
 イギリスとスペインは戦争に突入したが、国力差からイギリスには勝ち目がなかった。
 エリザベス1世は、実利優先の現実的思考から、宗教的タブーを無視してユダヤ人金融業者に特権を与えるの事を条件に支援を要請した。
 ユダヤ人金融業者は、反スペインとしてイギリスの条件を受け入れ多額の戦費を請け負い、金融ネットワークを使って「スペイン王室はすでに破産している」という嘘の情報をヨーロッパ中に流した。
 フェリペ2世は、イングランドを征服し、イギリスからプロテスタントを追放してカトリック教徒の王国を再建しようとした。
 スペインは、金融業者からの戦費調達ができなくなり、130隻の大艦隊建造計画が遅れ、武器弾薬などの軍事物資の調達も滞ってしまった。
 艦隊編成が1年半も遅れた為に、待機期間が長くなるや艦隊内の不和が広がり、指揮命令系統も統一を欠いていた。
 イギリス王室海軍は、勅許或いは非公認に関係なく海賊船団を集めて迎え撃つ体制を整え、スペイン艦隊に多くのスパイを送り込んで情報を収集した。
 スペインは文化的優越と大海軍国の驕りで油断し、金融と情報で劣勢に追い込まれていた。
 海賊ドレークは、イギリス艦隊副司令官に任命され、イングランド艦隊の実質的な指揮官となった。
 8月7日 イギリス艦隊は、アルマダ海戦でスペインの無敵艦隊130隻を撃滅した。
 9月 敗走したスペイン艦隊は、スペイン北部のサンタンデルに帰国した。
 帰還できた軍船は63隻で、軍隊は約1万人のみであった。
 エリザベス1世「神、風を与え賜いて、彼ら四散せり」
 勝利したとはいえ、イギリスは依然として小国であり、敵の大国であるスペインやフランスに囲まれていただけに慢心し傲慢になるゆとりはなかった。
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 後期倭寇。1523年〜1588年。
 1588年 豊臣秀吉は海賊禁止令を発し、倭寇を取り締まった。
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 1589年 アンリ3世は、カトリック教会とプロテスタントユグノー戦争を平和的に解決しようと腐心していた。
 カトリック教信者は、アンリ3世がカトリック教信者を弾圧した事を恨んでアンリ3世を暗殺した。
 アンリ3世が暗殺されて、ヴァロア朝滅亡した。
 ナヴァル王であったブルボン家のアンリ4世が、新たなフランス国王に即位し、プロテスタントからカトリックに改宗して、ユグノー戦争の終結に力を入れた。
 国家元首である国王暗殺テロは絶対に許されず、テロを行った者達への残虐な報復が実行された。
 ただし。ヴァロア朝が滅亡した為に報復は行われなかった。
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 国家元首を暗殺するテロは、如何なる国でも、如何なる理由があっても、絶対に認められない。
 暗殺テロを行った者及びその一味、支援した組織、援助した国に対する報復は当然の権利として求められている。
 特に敵対国が関係している時は、懲罰的にその国を宣戦布告なしで攻撃しても戦争犯罪とはされなかった。
 国家元首暗殺若しくは暗殺未遂に対する報復として、無実の罪の人間が幾千万人虐殺されても非人道の罪に問われる事はない。
 国家元首へのテロ攻撃に対する如何なる反撃も防御も、正当防衛として罪に問われる事がないのが世界常識である。
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 豊臣秀吉は、大唐国(明国)を制覇する為に朝鮮半島に出兵した。
 1592年4月(〜93年7月)文禄の役
 日本軍 15万8,700人。死者 約5万人(大半が病死・餓死で戦死はわずか)。
 明・朝鮮連合軍 24万7,400人。死亡者不明。
 (明軍 5万3,000人。朝鮮軍 17万2,000人。義兵軍 2万2,400人。)
 1597年1月(〜98年12月)慶長の役。 
 日本軍 14万1,500人。
 明・朝鮮連合軍 兵員数不明。死亡者不明。
 西洋は、日本の動員力と渡海能力から小さくとも一つの帝国と認めた。
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 1598年 アンリ4世は、ナントの勅令を発し、信仰の自由を認め、ユグノーに市民権を与えて、ユグノー戦争を終わらせた。
 フランスにおける、夥しい犠牲者を出した、キリスト教内での悲惨な宗教戦争終結した。
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 シェイクスピアの『ベニスの商人』とは、海洋国家ベニス(ヴェネツィア)に於ける、強欲な金貸しシャイロックではなく、海難や海賊を恐れず海洋交易を行う勇敢な貿易商アントニオの物語である。
 つまり「ベニスの商人」とは、危険を返りむず商いをする度胸のある商人の褒め言葉であった。
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 1600年頃 イギリス王国は、ヨーロッパの小国として植民地を持たないどころか、王族や有力貴族間の内紛を抱えていて統一はされても不安定であった。だが、人口は、1450年頃は350万人であったが1850年には1,600万人に膨れ上がり、国内に溢れた若者は他のヨーロッパ諸国の若者の様に財産と地位と名誉を得る事を憧れた。プライドだけ高いが金のない貧乏なイギリス人貴族は、巨万の富を得る為に武力で植民地を広げ、植民地で容赦のない搾取を暴力的に行った。
 1600年 海運国家オランダに対抗してアジア貿易に進出するべく、勅許を発して悪名高い東インド会社(EIC)の設立を認めた。西欧諸国は、勇敢なバイキングの子孫として、海外に軍隊を派遣して侵略戦争を行い、各地で殺戮と略奪の限りを尽くした。
 1602年 オランダは、インドネシア・アジア進出の為に東インド会社を設立した。 アジアのイギリス商船は海賊船として、オランダ、スペイン、ポルトガルなどの商船を襲撃して、積み荷を略奪し、占拠した船をイギリスの軍艦として艦隊を組んだ。
 アジアに於ける主要な取引は、アフリカ・中南米同様に奴隷であった。
 奴隷の中に、日本人も含まれていた。
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 1603年 女王エリザベス1世が未婚のまま没した為に、テューダー朝の血統が絶えて消滅した。
 仇敵であったスコットランド王ジェームズ6世が、イギリス国王ジェームズ1世として即位してステュアート朝が始まった。イングランドは、スコットランドと「同君連合」を結び、非イギリス人でもイギリス国王になれると定めた。
 大陸においっては、女王の即位はその王朝の滅亡した。
 そして、女系は、外国人にでも国王になれる道を保証した。
 それが、外国人にも王位継承権を与える開かれた王家である。
 後に、ドイツ人がイギリス国王に即位した。



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