🎪73」─1─イギリス王家の女系王位継承をめぐる殺し合い。女系国王ジェームズ6世及びジェームズ1世。~No.205No.206 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 現代日本人は、真面な歴史力がない為に、日本史はおろか世界史さえ理解できない。
 女性天皇女系天皇即位と女系宮家創設を賛成する日本人、その中でも特に高学歴出身知的エリートは分別なく下劣・愚劣である。
 現代日本人は、自慢するほど歴史が好きではなく、嫌いな歴史劇は切り捨て、自分が好む時代物語のみを読む。
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 ジェームズ6世(James VI)およびジェームズ1世(James I)、チャールズ・ジェームズ・ステュアート(Charles James Stuart, 1566年6月19日 - 1625年3月27日)は、スコットランドイングランドアイルランドの王。スコットランド王としてはジェームズ6世(在位:1567年7月29日 - 1625年3月27日)であり、イングランド王・アイルランド王としてはジェームズ1世(在位:1603年7月25日 - 1625年3月27日)である。非公式にはグレートブリテン王の称号も用いた。スコットランド女王メアリーと2番目の夫であるダーンリー卿ヘンリー・ステュアートの一人息子である。

 出生と血筋
 チャールズ・ジェームズは1566年6月19日、スコットランド女王メアリーの第1子としてエディンバラ城で生まれた。名付け親はイングランド女王エリザベス1世である。メアリー女王の最初の男子であり、誕生後間もなくロスシー公に叙され、正式にスコットランド王位継承者とされた。女系継承ではあるが、ジェームズの父親でメアリーの2番目の夫であるオールバニ公ヘンリー・ステュアート(ダーンリー卿)もまたステュアート家の一族であり、ジェームズ以降の家系もそれまでと区別なくステュアート家と呼ばれる。
 ダーンリー卿の家系はステュアート・オブ・ダーンリー家と呼ばれ、男系ではステュアート朝以前に後の王家と分かれており、ロバート2世の祖父である第5代王室執事長ジェームズ・ステュアートの弟の子孫であった。ダーンリー卿は生得の権利として有力な王位継承権を持っていたが、これは父方の曾祖母エリザベス・ハミルトン(Elizabeth Hamilton)がジェームズ2世の外孫であったことによる。
 ジェームズはまた有力なイングランド王位継承権者でもあったが、これは祖父ジェームズ5世がヘンリー8世の姉マーガレット・テューダーの息子であったことによる。さらに、マーガレット・テューダーはダーンリー卿の母方の祖母でもあった。

 イングランド王位継承以後
 1603年3月に入るとイングランド女王エリザベス1世が重体となり、イングランドの国王秘書長官ロバート・セシルは女王崩御に備え、スコットランド王ジェームズ6世に彼がイングランド王に即位する旨の布告の原案を送り届けて王位継承準備を整えた(エリザベスがジェームズ6世への王位継承を認めていたかどうかは不明)。3月24日にエリザベスは崩御し、ジェームズ6世が7月25日に戴冠し、同君連合でイングランドジェームズ1世となった。
 これがイングランドにおけるステュアート朝の幕開けとなり、以後イングランドスコットランドは、1707年に合同してグレートブリテン王国となるまで、共通の王と異なる政府・議会を持つ同君連合体制をとることとなる。イギリス史ではこれを王冠連合と呼ぶ。イングランドの宮廷生活に満足したジェームズ1世は、その後スコットランドには1度しか帰ることがなかった。

 1613年には、徳川家康イングランド国王ジェームズ1世からの親書と献上品を受け取り、朱印状による交易と平戸にイギリス商館の開設を許可した。
 1622年にはホワイトホール宮殿の拡張を実施し、イニゴ・ジョーンズの設計によるバンケティング・ハウスを完成させた。
 1625年3月27日にジェームズ1世はシーアボールズ宮殿で亡くなった。

 ジェームズ1世の家族
 子女
 デンマークノルウェー王フレゼリク2世の王女アンとの間に3男4女があるが、成人したのは3人であり、さらに子孫を残したのは2人である。
 ・ヘンリー・フレデリック(1594年 - 1612年) - 王太子のまま早世
 ・エリザベス(1596年 - 1662年) - プファルツ選帝侯フリードリヒ5世妃
 ・マーガレット(1598年 - 1600年)
 ・チャールズ(1600年 - 1649年) - イングランド王チャールズ1世
 ・ロバート(1602年)
 ・メアリー(1605年 - 1607年)
 ・ソフィア(1607年)

 ハノーヴァー朝につながる娘
長女エリザベスは、1613年にプファルツ選帝侯フリードリヒ5世と結婚した。陽気で美しく慈悲の心を持っていた彼女は、イングランドでも非常に人気が高かった。嫁ぎ先のプファルツでも領民たちから「慈愛の王妃」と呼ばれ慕われるほどであった。しかし、ボヘミア・ファルツ戦争(ベーメン・プファルツ戦争)で夫が皇帝フェルディナント2世に敗れると、全てを失ってオランダへの亡命を余儀なくされた。のち、1661年にイングランドへ帰り、翌1662年ロンドンで死去した。  
 夫との間には13人の子を儲けたが、うち五女ゾフィーハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストに嫁いだ。ゾフィー以外の兄姉及びその子孫はゾフィ―よりも早世またはカトリック教徒となったため、ゾフィ―が唯一の王位継承者となった。しかし、ゾフィーステュアート朝の末裔アン女王に先立って逝去したため、長男がジョージ1世(ハノーヴァー朝の祖)として即位した。今日の英国王位継承権を保持する人物は、全員がゾフィーの子孫である。
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 メアリー・ステュアート(Mary Stuart, 1542年12月8日 - 1587年2月8日(グレゴリオ暦2月18日))は、スコットランド女王(メアリー1世、在位:1542年12月14日 - 1567年7月24日)。スコットランド王ジェームズ5世とフランス貴族ギーズ公家出身の王妃メアリー・オブ・ギーズの長女。ヘンリー・スチュワート ダーンリー(1545-1567)は、2度目の夫。
 メアリーは王家ステュアートの綴りを Stewart から Stuart に替えたが、これは自身のフランス好みからであったという。同時代のイングランド女王エリザベス1世と比較されることも多く、また数多くの芸術作品の題材となっている。
 親しみを込め、しばしば「クイーン・オブ・スコッツ」と呼ばれる。
 メアリー自身は廃位ののち国を追われ、エリザベス1世の命によりイングランドで刑死したが、その子ジェームズはスコットランド王として即位し、またエリザベス1世の死後は、イングランド王位をあわせ継いだ。以後スコットランドイングランドは同君連合を形づくり、18世紀のグレートブリテン王国誕生の端緒となった。終生未婚で、子孫を残さなかったエリザベス1世に対し、メアリーの血は連綿として続き、以後のイングランドスコットランド王、グレートブリテン王、連合王国の王は、すべてメアリーの直系子孫である。

 生涯
 誕生と即位
 1542年12月8日、リンリスゴー城でジェームズ5世の第3子として生まれた。12月14日にジェームズ5世が30歳で急死すると、長男と次男が早世していたため、わずか生後6日で王位を継承した。摂政には、ジェームズ2世の曾孫の第2代アラン伯ジェームズ・ハミルトンが就任した。それからイングランド国王ヘンリー8世の要求により、メアリーは当時王太子だったエドワード6世と婚約させられた。1547年、イングランドの政権を握ったサマセット公エドワード・シーモアの攻撃を受け、迎撃に出たアラン伯が敗れる事態になった。1548年、王母メアリーの提案でメアリーはフランスのアンリ2世の元に逃れ、以後フランス宮廷で育てられた。

 ダーンリー卿ヘンリーとの再婚
 ダーンリー卿ヘンリーは、メアリー女王と同じくイングランド王ヘンリー7世の王女マーガレットの孫であり、テューダー家の血を引いている。加えて、カトリック教徒であった点も、メアリーにとっては都合が良かった。
 しかし、この結婚にもマリ伯やエリザベス1世が強硬に反対した。特にエリザベス1世は、イングランドの有力な王位継承権を持つダーンリー卿との結婚によって、メアリーの王位継承権が強化されることを恐れた。そこでダーンリーにすぐさまイングランドに戻るよう命令し、従わないと反逆罪と見なすとして、ダーンリー卿の母マーガレット・ダグラス(マーガレット・テューダーの娘でジェームズ5世の異父妹、エリザベス1世の従姉)をロンドン塔に幽閉したが、ダーンリー卿は従わなかった。しかし、エリザベス1世と首相のウィリアム・セシルは、性格的に弱いダーンリー卿をスコットランドに送り込むことにより、スコットランドの国力低下を計ろうとしたという説もある。

 イングランドへの亡命、陰謀と処刑
 1568年5月、ロッホ・リーヴン城を脱走したメアリーは6千人の兵を集めて軍を起こすが、マリ伯の軍に敗れ、イングランドエリザベス1世の元に逃れた。メアリーはイングランド各地を転々としたが、軟禁状態とは思えないほど自由に近い、引退した老婦人のような静かな生活を送ることを許された。
 しかし、たびたびイングランド王位継承権者であることを主張し、またエリザベス廃位の陰謀に関係した。1570年にはリドルフィ事件(ロベルト・ディ・リドルフィがたくらんだ事件)、1586年のバビントン事件(カトリックのアンソニー・バビントンがエリザベスの暗殺を狙った事件)などである。バビントン事件の裁判ではメアリーが関与した証拠が提示され、有罪・死刑を言い渡された。
 エリザベス1世は死刑執行書への署名を渋る様子を見せたが、結局1587年2月8日、フォザリンゲイ城のグレートホールでメアリーは処刑された。この事態を受けて、スペイン王フェリペ2世無敵艦隊イングランドへ派遣し、アルマダの海戦(1588年)に繋がった。
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